第133話 地下の水路を行く
「くせぇ!」
「考えも無しに飛び込むから」
地下のあまり空気の動かない空間に排泄物等が流された水路があるのだ、その臭気たるや想像を絶するようなものだった。
ライカですらあまりの匂いに袖で鼻を覆った程だ。
ましてや匂いに敏感な竜族のサッズには耐え難い環境だろう。
だがこれまでの生活で、人間の集落は臭いという事を学習したサッズは、自分の周囲に臭気を濾過する膜のような物を張る事を覚えたので、なんとかそれで凌いでるようだった。
それでもかなり辛そうではある。
少年から示された脱出路は、最初の段階から行き詰まりを見せた。
何しろ地下で明かりも無い。真の暗闇だ。
その上匂いが酷いため、居るだけで気力も削られる。
更に言えば、サッズには複雑に入り組んでいるこの地下の、出口までのルートが全くわからないとのことだった。
「むしろ野垂れ死んでくれればいいなとか思ってたぞあのガキ」
「あ~、王都は怖い所だね。でも脱出路の話は本当だったんだろ?」
「ああ、じゃなきゃお前を止めてた」
相手の意識を感じ取れるサッズは、相手が完全な悪意を持って嘘を言ったかどうかが判断できる。
だからこそこの場所を信じて降りた訳だが、思いっきり困難な先行きを見せ付けられてしまった。
ライカは自分の立っている付近を見回してみたが、全く何も見えない。
そこで目を瞑り、第二の視覚である非物質を見る方法を試してみた。
水とそこに流れる何か。
大気の僅かな流れ。
それらと周囲を囲む壁の重苦しい沈黙が見えた。
「こっちのほうが見えるけど、集中しなきゃいけないから今度は動けなくなっちゃうな。仕方ない。サッズ、任せた」
「仕方ないな、任せろ」
どこか嬉しそうに受け合って、サッズはライカを小脇に抱えると飛び立った。
「ちょ、なんで飛ぶの?」
「ちまちま歩いてられるか、面倒だ。臭いし」
「なるほどね、理由はわかった」
ゴウという風の鳴る音が耳を打つ。
風などない空間でそんな音がするということはかなりの速度で飛んでいるということである。
(そんなに嫌なんだな。俺も嫌だけど)
悪臭に辟易としながら、ライカはそんな風に思い、ふと、あることに気づいた。
「サッズ、一定間隔で光が漏れてる場所があるよ。外に繋がってる?」
ライカの示す先には、正に文字通り、暗闇に差し込む一条の光があった。
それは法則を感じさせる一定間隔で点在し、僅かに気持ちを慰めてくれる。
「ん?おかしいぞ」
サッズはしかし、別の感想を抱いたようだった。
「おかしい?」
「あの隙間、構造的に光が入って来るようになってないように見える。外までの経路が曲がりくねってるんだ」
「じゃあなんで光が入って来るんだろう?」
「さあ?俺にわかる訳がないだろ」
「うん、頼りにしてなかったから気にしないで」
あっさりとそう言った途端に勢い良く投げ出された感覚が生じ、文字通りライカは宙に舞った。
咄嗟に重さを消したものの、投げ出された勢いもあって急激に壁が迫る。
ライカはくるりと体を回転させると、壁を軽く蹴り、体を捻って、僅かに重さを戻す。
トンと、軽い音と共に、ライカは無事に地上に降り立った。
「バカサッズ!いきなり投げ出すな!」
「お前の口が悪い。全面的に俺に頼ってる状況で頼りにしないとか言うからだ!」
ライカは肩を竦めると、それ以上サッズには構わずに、丁度いいとばかりに気になっていた光の方へと進んだ。
焦ったサッズがふよふよとそれを追う。
その、光が漏れている隙間は狭く、覗こうにも良く見通せなかった。
それでもじっと覗き込むと、ちらりと、何かが光っているようにも見える。
「ん?」
ふと、サッズが警戒の意思の篭った声を上げた。
「どうしたの?」
「人がいる。この空間から一枚壁を隔てた場所だ。今、意識が動いた。お前を認識したようだぞ」
「どうやって?っと、そうか」
ライカはその光の漏れた隙間を顧みた。
この光はおそらく『見る』ための仕掛けなのだろうと気づいたのだ。
人は光が無いと物を識別することが出来無い。
つまりそこに何があるかを見るために光をあえてそこに落としているのだ。
「そっか、ならとりあえず」
ライカは光の中に身を置いて手を振ってみた。
「どう?」
サッズに確認する。
「あ~、なんか驚いてるっぽいぞ、俺もそっちに降りる」
サッズは通路になっているらしい石畳に降りると、水の流れからなるべく遠い壁沿いに身を置いた。
言うまでもなく、なるだけ匂いの元から遠ざかっているのだ。
「その人がいる場所ってどっち?」
「位置的にはあっちかな?」
サッズが指す方向には壁があった。
「そこの壁?」
「いや、もっと先。道筋はよくわからんが、向こうだ」
ライカは溜息を吐いた。
サッズは恐らくこの空間の全体の構造は認識している。
そして人がいたりする位置関係もわかっているだろう。
しかし、それなのに道順はさっぱりわからないらしい。
ライカにはそれだけの情報があって、道順がわからないということが最も理解出来無いことだった。
「サッズ」
「なんだ?」
「それで頼りにしてもらおうというのは無理なんじゃないか?」
「なんだと!頼りにするかどうかはお前の気持ち一つだろ?俺は関係ないじゃないか」
「俺はそういうサッズの考え方がよくわからなくなる時があるよ」
じりじりとお互いの間合いが詰まり、サッズが今正に飛び掛らんとした時に、ライカはさっと間合いを外すと、一目散に奥へと駆け出した。
「待て!この薄情者!」
「やだ」
ドタバタと走り回った二人は、光に導かれるように奥へ奥へと進み、やがて行き止まりに突き当たった。
「ふ、もう逃げられないぞ」
わきわきと指を動かしながらサッズが居丈高に宣言し、ライカは汗の滲む額をそのままに自分の顔を両側から手で覆い隠す。
「坊主達どうした?」
その時タイミングよくというか、その騒ぎからして当然というか、何処からか声が掛かる。
この場所がサッズの言った空間に一番近い場所なので、なんらかの反応があると踏んでいたライカは、それでもやや驚いて、演技ではない反応で飛び退いた。
「どなたですか?」
相手の居場所がわからないままにライカは問う。
「わっしは管理人だ。時々こうやって迷い込む人がいるからな。ちょっと待っとけ」
言葉と共に、ライカが背にしていた突き当りの壁がゆっくりと動き出した。
遅々とした動きだが、そんな重い物が誰も手を触れていないようなのに動いていることに驚き、ライカはそれを興味深く眺める。
「ほら、入れ」
二人がその言葉に従って開いた中へ入り込むと、今度はまた壁が閉じ始めた。
入り込んだ空間は真っ暗だった。サッズから地上に落とされてからは差し込んでいた薄明かりを頼りに目で『見て』進んでいたライカだったが、また目を閉じて第二の目で周囲の様子を確認する。
その空間は狭く、二人の他に誰もいなかった。
しかも出入り口も見当たらず、ライカは一瞬閉じ込められたのかと焦りを感じる。
しかしすぐに、壁の、今度はごく一部、人が通れる程度の範囲が、横にスライドして出口が現れた。
「灯りをもってくから待ってろ」
前と同じ男の声がくぐもって聞こえ、その出来た出口から微かな光が見え始めた。
ランプ特有の丸く放射する光が、暗闇に金色の円を描く。
「どっから入り込んだんだ?ことと次第によっちゃ、王様の兵隊さんに罰を食らうぞ」
ランプと共に現れた男は、小柄だががっちりとした筋肉質の男で、ゴツゴツとした厳しい顔にランプの光が当たり、まるで乱雑に掘られた彫像のように見えた。
しかし、確かに血の通った人間である証に、その眇められた目に戸惑ったような表情が浮かんでいる。
「すみません、避難するための道があるって聞いて来たんですが」
「おいおい、戦でも始まったのか?俺は聞いてないぞ」
ライカの言い分に顔を顰めて、更に彫像のような陰影を濃くしながら、男は呟く。
「いえ、戦なんかじゃないんです」
それをライカは慌てて否定した。
戦などと誤解が広まったらとんでもないことになるかもしれないと、さんざん戦で苦しんだ母や祖父の話を聞いて来たライカは焦りを感じたのだ。
だが、男は別に本気でそう言った訳では無いようで、呆れたように少し笑う。
「そりゃあ、戦だったらお前ら二人だけが逃げるなんてこたあ無いよな。まぁ話は聞くからこっちゃこい」
男は自分が出て来た場所をランプで照らすと、二人に手招きをしてそちらへとまた戻った。
ライカとサッズは慌ててその後を追う。
「やっと少し息が吐けるようになった」
とりあえずサッズにとってはそれが一番大事なことだったようではあった。
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