第134話 奥方様
通路は狭く、思いの外距離があった。
サッズの見た所によると、あの地下の水路の壁の向こうの空間からごく近い場所とのことなので、もしかすると距離感を狂わせるためにわざと通路を長くしてあるのかもしれない。
「ま、入れや」
男がそう言ったのは、狭い通路の閉塞感にサッズがイライラの限界を迎えようとしていたその寸前だった。
ハラハラと、その様子を窺っていたライカは心底ホッとする。
なにしろこんな狭い空間で暴れられたら、目も当てられない結果が待っているだけなのは明白だからだ。
石の扉がゴトンと音を立てて横にズレると、そこには贅沢に灯りを使った小さな部屋があった。
質素なテーブルと造り付けの家具があり、壁に穴を開けてしつらえた炉が見える。
これはライカの住む街でも、中央地区では良く見掛ける暖炉ではあるが、火が空気を食べて燃えていることを知っているライカとしては、こんな地下の空間で火を燃やせば空気が無くなるのではないか?と不安になった。
だが、サッズによると別方向からちゃんと空気は流れ込んでいて、暖炉の火はそれを食っているとのことである。
そこら辺は流石にちゃんと考えられているらしい。
小さめの火の上には鉄の棒が何本か渡してあり、その上に大鍋が乗っていた。
「そこに座れ」
男はテーブルの横にいくつか置いてある簡単な椅子を二人に勧めると、自分もその向かいに座る。
「で、なんで下水路に入り込んだ?普段あそこに入るのは禁止されているはずだろ」
感情の篭らない、定まった言葉を慣れたように口にして、男は自分だけ茶で喉を潤した。
「さっきも言いましたが、避難するための道があると聞いたからです」
男は困ったように眉を寄せると、二人を見る。
「そんな道なんぞないぞ」
「え?でも入り口を通してくれた人がそう言って、通行料を取りました」
「んあ?なんだと?そんな商売が許可されるはずは無いんだがなぁ」
男は額をトントンと軽く叩くと、ライカ達に向かって言った。
「まぁなんだ、最初から説明してみろや」
そう言われて、別に隠す理由も無かったライカは、この王都にやってきてからのことを大筋で説明する。
男はますます顔をしかめると、溜息を吐いた。
「地上がそういうことだから、俺は外が嫌なんだよな。全く、世知辛い世の中だよ」
何かを一人で納得すると、男は再びライカとサッズに向き直り、問う。
「ってことはお前達他所から来たのか。他所もんがここに入り込むのはマズいんだぜ?全く面倒だな。お前達、なんか身分を保証するようなもんを持ってないか?」
男の口調にはどこか期待をしていない雰囲気があった。
それもそのはず、一般の民が自分の身分を保証するという意識を持つはずもないのだ。
そもそも彼らには保証されるような身分など存在しないし、身分という考え方があるのかすら怪しい。
だが、その男の予測は良いほうに裏切られた。
最初、身分という言葉に戸惑ったライカだったが、やがてふと思い出したように襟元から何かを引っ張り出して見せる。
「えっと、身元の保証って意味ですよね?それだったら領主様がこれをくれたのですが、これで大丈夫ですか?」
ライカの取り出したのは出掛けに領主から渡された領主札だった。
「ほう、下命鑑札か。なんだ、お前達は領主様の命令で王都まで来たのか?それなら最初からそう言えばいいものを」
「いえ、別にそういう訳じゃないんですが。ああ、一応頼まれごとはありましたけど」
「どうもお前達のとこの主人は下僕を甘やかしすぎなんじゃないか?」
呆れたようにそう言って、鑑札を確認した男の顔が突如として引き締まる。
「おい、こりゃあ、あのお方の、竜の騎士様の印じゃないか」
「うちの街の領主様です」
竜の騎士様という言い方に少し戸惑いを覚えたものの、ライカはそれに頷いた。
男の驚きが何処に起因するものかライカにはよくわからなかったが、とりあえず事実は事実である。
「俺は直接見たことがあるんだぜ。まるで語り部の語る物語の中の一つの場面のようだったなあ。あの方が大きな竜の背に乗って、単騎で味方の救援にと、空に舞い上がったんだ。ああ、俺は夢を見てるのかな?と頭の片隅で思ってたものさ」
男の目は眇められ、今ではない遠い昔を垣間見ているようだった。
ライカは、領主のラケルドがこの国で英雄と呼ばれているらしいということは知っていたが、こういう風に彼に対する信仰に似た想いを間近に見ると不思議な感じがした。
そこで語られる彼と、どこか気さくで温かいあの領主様とが上手く一致しないのである。
あの祭りの夜、ラケルド自身が歌われる自分の
「そうか、あの方か。ということは一応報告をしておくか」
男はぶつぶつと呟くと、その場に皮紙を一枚持ち出し何やらしたためて、吸い取りでインクを落ち着かせるとそれが乾くのを待ち、部屋の奥へと持って行った。
説明も何もなくライカとサッズは置いてきぼりになってしまう。
おかげでその間に二人は、手持ち無沙汰のあまりなんとなく始めた足のぶつけあいが、段々と白熱していき、喧嘩に発展する一歩手前で、なけなしの良識を発揮したサッズが兄の威厳を持ってしてそれを終結させたという、ちょっとした事件を起こしていた。
「あー、ゴホン」
どこかわざとらしい咳をして、男が二人の注目を集める。
「急遽こちらへ奥方様がお見えになることとなった。二人共失礼の無いように」
「奥方様というのはどなたですか?」
ライカが問うと、男は困ったように眉を寄せた。
「ご婦人に御立場を問うのは失礼なことなんだぞ?奥方様は奥方様。俺の雇い主でもあらせられる。まぁなんだ、ご婦人なのにご立派な方だ」
今度はライカが困ったように眉を寄せる番だった。
そんな風に言われても、何が失礼にあたるのかライカには判断がつかない。
今もどうやら失礼と言われるような問いをしてしまったようであるし、そういう失礼をその奥方様とやらにしてしまったらどうしたらいいのだろう?そう思ったのだ。
「まぁ奥方様はお優しい方だ。俺のような人間に俺にしか出来無い仕事があると、直接おっしゃってくださったようなお方だからな。そう畏まる必要は無いが、女性に対してやっちゃいけないようなことはやっちゃいかん。大体はわかるだろう?」
わかるだろうと言われても、ライカにははっきり「はい」と答える自信がない。
立場や環境によって常識が変わるのは当たり前の話で、ライカはここにいる彼やその奥方様の立場や環境を知らなかった。
この前提条件で対応出来るとは到底思えないのが正直な気持ちである。
「おっと、客に茶も出してないのを見られたらご不快に思われるかもしれないな。なにしろお優しいお方だし」
男は呟くと、慌てて鍋の湯を金属の変わった形のポットに注いだ。
ほんの僅かに茶葉の香りが漂い、出がらしの茶葉に湯を投じた物がそこにあるのであろうことを、香りに敏感な二人に教える。
その通り、二人の前に置かれた茶はほとんど湯と言っていい程の物だったが、出がらしだろうとなんだろうと温かい飲み物には違いなく、ライカはありがたく口にした。
ライカがちらりと見ると、サッズはいかにも不味そうにカップに口を付けている。
とりあえず未だサッズが警戒していないということは、なにやら奥方様という人物がやって来るという状況の変化の後も、男から悪意を感じたりはしていないということなのだろうと、ライカは判断した。
ライカ自身も、この男に悪い感じは受けない。
色々言葉や気配りが足りないのは確かだが、その本質に悪意は感じられないのだ。
『ここはあの城の真下だな』
サッズが突然そう心声で告げて、ライカは口にした茶を吹き出しそうになった。
『どうしてそういうことを突然言うんだよ。……ん?ってことは今から来るのはお城の人?』
『そうなんじゃないか?』
そう言いながら、サッズはなんとなくソワソワとした雰囲気がある。
『どうしたの?』
『俺の存在を感じ取ってイライラしてるようだ』
誰が?と聞き掛けて、ライカは、サッズがどうも王家の竜であるフィゼと上手く行かなかったらしいことを思い出した。
『ああ……』
『なんでそこで俺が責められるんだ?一方的に怒り出したのはあっちだ』
ライカの心声に形にならずに素のままで乗った非難するような意識に対して、サッズは猛反論を開始する。
曰く、女の気持ちはわかりにくいとか、偉ぶるのはいいが、僅かな寛容さも大事だとか、要するに振られた言い訳だ。
『ふ~ん』
それをライカは軽く流す。
『そんなに俺に虐められたいのか?』
『そういう短絡的な所が女性にウケないんじゃないか?』
『お前だって、彼女とかいないだろうが!俺と何が違うと言うんだ?』
『だって、俺には女の子の友達はいるからね。なんとなくだけど女の子の気持ちが理解出来るようになってきたと思うんだ』
ぴくりと、サッズの頬が引き攣った。
「お前達、寛ぐのは良いが、騒ぐな」
無言の取っ組み合いという、不毛な争いを始めた二人を見て、男はそれを引き剥がすと(サッズも驚くような凄い力だった)、厳しく叱りつけた。
「はい、すみませんでした」
「……ふん」
サッズは自分の腕を掴んだ男にむかついたらしく、やたら攻撃的な意識を向けている。
ライカはそれを宥めながら引き摺るように席に戻ると、せっかく温かかったのにすっかり冷え切ってしまった茶を啜った。
と、カランカランという突然の鈴の音と共に、そわそわしていた男が慌ただしく立ち上がる。
石の扉とは逆の方向の扉に向かってまろぶように走り、その上窓を開けて何かの指文字のような形を示して外の相手とやりとりすると、やがて扉が開かれた。
ふっ、と、ライカはなぜか仰け反るような圧力を感じて戸惑う。
隣のサッズも訝しむように扉を見詰めていた。
やがて、扉に向かって恭しく頭を下げる男の、薄くなった頭髪の向こうに、女性の姿が見えた。
初老の、そう背が高い訳でも、そして低い訳でもなく、太っても痩せてもいない。
すっと伸びた背筋が実際の背丈よりも彼女の身長を高く思わせたが、下げていた頭を許しを得て再び上げた男と比べれば、明らかに低かった。
男もそう背が高い訳ではないので、一般的に見て、その体は決して大柄では無いはずである。
だが、まるで相手が巨人ででもあるかのような、実際に強く押されているようにも感じられる圧力が、その女性からは押し寄せて来ていた。
『威』という言葉がある。
他者を圧し、ひれ伏させる人のまとう雰囲気のことだ。
彼女には確かにその『威』があった。
「こんにちは、初めまして。私の名はリエスンというの、よろしくね」
そんな空気を纏いながら、しかし、その口から最初に紡がれた言葉は、隣の男が慌てるぐらいに気さくな、そして柔らかいものだったのである。
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