第126話 約束
フォムと呼ばれていた少女の頃、彼女はいわゆるお転婆な少女だった。
村の子供たちのリーダー的存在であり、大人にとってはとんでもないことをしでかす主犯と目されていた。
森の奥に冒険しに行って日中には戻れずに一夜を森の中で過ごしたり、大人が近づくなと言っていた滝の下で潜りっこをやったりと、親の肝を何度も冷やしたものだ。
「私ね、サッズ」
花である証の片結いにした髪を解きながら、エッダは目前の、青年と呼ぶにはまだ早い、幼さが勝っている綺麗な顔立ちの少年に笑いかけた。
「小さい頃、色々な綺麗な物を見て、心に決めたことがあるの」
またライカの頬を突付いて寝顔をしかめさせていたサッズは、目だけを彼女に向ける。
「生涯、出来るだけ沢山の綺麗な物を見たいって」
「綺麗な物?」
「うん、森で一晩を過ごした朝に見た朝日や、滝壺を潜って頭を出した時に見たまあるい虹、そういうのを見て、ああ、ここはなんて綺麗な世界なんだろうって子供心に思ったから、そういう気持ちをずっと味わいたかった」
サッズは首を傾げた。
彼はそのような自然現象をわざわざ特別な目で見たことがない。
ここにライカが起きていればまた違っただろうが、残念なことに、サッズはエッダの話に共感を覚える相手としては色々と不足していた。
「ふ~ん」
その、サッズの気のない返事に、エッダは少し頬を膨らませる。
「いいんだ、わかってる。男の人って大概そういう反応なんだから。それでね、こっちに来てから色んな綺麗な物を見ることが出来たんだよ。精緻な細工物や豪奢な模様織り、宝石を使った装身具や珍しい綺麗な花とか。でも、なぜだか心が動かないの。ううん、綺麗だなとは思ったけど、子供の時に感じた、震えが走るような感動は無かった」
花の実の油を使って手入れをされている艶やかな髪を、硬い、動物の甲羅から作った櫛で梳かして、波打って膨らむその髪を手早く纏め上げ、挿し込みの髪留めで、捻った状態で留めた。
「感動、か」
「そう」
立ち上がり、部屋の隅にある両開きの木製の扉を引き開けて、幾つかの品物を選び出すと、一つを自分で羽織り、もう一つを寝ているライカの上に掛け、最後の一つをサッズに手渡す。
それを受け取ったサッズが、広げて見てみると、袖のある上掛けのような物だった。
裾が長いそれは、背の高いサッズには丁度良い上着になる。
「まだ夜は冷えるから。着るといいよ」
ランプの仄かな灯りでは照らされている部分しかわからないが、美しい色合いをしたそれは、本来女物であるにも関わらず、サッズが纏って違和感がなかった。
むしろ、彼のどこか高貴に見える部分が引き立って、まるで物語の中で語られる非の打ち所の無い王子のようにすら見える。
それを見たエッダは、思わずといった風にクスクスと笑った。
「なんだ?」
サッズは不快気に眉を顰めると彼女を睨む。
「いや、ごめん。その服って、私には豪華過ぎて似合わないんだけど、サッズは似合い過ぎて、なんだか変だなって思ってさ」
「変なのか?」
「だって、その服を作った人は女性に似合うようにと思ったんだろうに、男の子に似合ってしまったとか知ったらびっくりするだろう?」
「ふ~ん、俺はどうも服という物の用途がよくわからないからな、その感じ方は更に理解し難い。ライカは、服とは貧弱な人間の体を守るためと、他人にそいつがどんな相手かを知らしめるための役割が大きいんじゃないかと言ってたが」
「へぇ、面白い考え方だな。この子も竜なの?」
「違う、人間だ」
「ふふ、そうか。人間にしちゃあちょっと変わった考え方だと思うよ」
「人間世界にまだ慣れてないんだ」
「そうなんだ。起きたら色々聞いてみたいよ」
「ところで、さっきは昔の話はしないとか言ってなかったか?随分饒舌になったみたいだが」
カチャンと金属の触れ合う音を立てて、また何かを取り出して来たエッダを、何か落ち着かない心地で見たサッズは、先程感じた疑問をぶつけた。
「ん、花にはね、今しかない。過去も未来も無いんだ。それが私たちのお約束。だから、ちょっとだけ夢を見せて貰ったから花から人に戻ってみたって所かな?と言っても見掛けと気分だけの話だけど」
いたずらっぽく笑って見せて、彼女は銀で出来た杯をサッズに手渡すと、細長い容器に入った液体をそこに注ぐ。
「花?人間には肉体を変化させるのは無理なんだろう?元から人間に見えるぞ。で、これはなんだ?」
「そうだね、ありがとう。それとこれはお酒だ」
「どうもお前の言っていることはさっぱりわからん。そもそもなんで酒を持って来たんだ?」
エッダはサッズの口を細い指で抑えると、にいっと笑ってみせた。
「お前じゃなくて、エッダ。そうね、花じゃないんならフォムって名乗るべきなんだろうけど、やっぱりそこまでの勇気は私にはないや」
「本当にさっぱりわからん」
「あはは、ほら、このお酒良い香りだろ?ちょっと飲んでみて」
「あー?」
酒って人間を酔っ払いとかいう状態に仕上げる物だろう?こいつが酔っ払い嫌いなんだよな。まぁ俺は人間じゃないが。などと、ぶつぶつ言いながら、サッズはその酒の香りを嗅ぐ。
ふわりと鼻孔に触れるその香りは、今まで嗅いだことのない深く柔らかい物で、サッズは思わずその酒に口を付けた。
エッダはその様子を優しく見守りつつ尋ねる。
「美味しい?なんだか凄く時間を掛けて造られたお酒なんだって。これの元になった木の実は私の村の近くにも生るけど、酸っぱくて食べられないんだよ。それなのにお酒になったら凄く美味しくなってて驚いた」
「へぇ」
口にして気に入ったのか、サッズは杯を一気に干した。
大気に溶けたその香りが彼らの周囲に漂う。
誰も見ていなかったが、眠るライカの顔が突付かれた時のようにしかめられた。
「私ね、こっちに来て綺麗な物を一杯見たのに昔みたいに感動しなくなったのは、きっと大人になってしまったからだと思ってた。あの頃の自分は今と違ったからあんなに純粋に感動出来たんだって。でも、そうじゃなかった。……そうじゃなかったことがとても嬉しい」
サッズの杯を満たし、自分の杯に口を付け、エッダの言葉が独り言のようにそっと落とされる。
「凄く、嬉しかった」
揺らぐ灯りの中で、彼女の頬にそれを反射する一筋の流れが生じる。
閉じるのを止めたサッズの感覚に、言葉にならない揺らぐ光のような感情が届き、それはまるで反響するようにサッズの中を駆け抜けた。
「あんな物、いつだって見せてやれるさ」
それはたぶん本当ではない。
サッズはやがてここを去るだろうし、エッダはそれを追うことはないからだ。
「あのさ、サッズってどんな竜なの?見てみたいな。さっきも言ったけど、人間でそんなに綺麗なんだもの、竜の姿も凄く綺麗なんだろうね」
無邪気に、子供のような素直さでエッダは望んだ。
叶えられない夢をあたかも現実になるかのように語ることが出来るのは人の人たる所以だ。
だが、サッズは人ではない。
サッズは少し考えた末に約束をした。
「俺が大人になったら一緒に旅をしないか?色々な物を見れるし、もちろん俺だって竜の姿を見せられる場所もあるだろう。そうしたら、もっと感動出来るんじゃないか?」
「え?」
エッダは驚いて目前の少年を見た。
サッズのそのまなざしには、一片の偽りも見当たらない。
「ふふ、それって何年先の話なんだ?」
エッダは、わざとおどけてそう聞いた。
「もうすぐのはずだ。そうだな、おそらくもう二十周期……じゃなかった、二十年もすれば絶対に大人になってるはずだ」
「そう、二十年、か」
微笑みが深くなり、エッダの両の目は一瞬閉じられた。
サッズは柔らかく温かい意識が彼女から溢れるのを感じ、自身も笑みを浮かべる。
「あ、そうだ」
サッズは自分の髪を数本抜くと、それを驚くエッダの指に巻きつけた。
巻かれた髪はやがて硬化し、まるで水晶細工で造られた指輪のように変化する。
「綺麗」
灯りにかざされたそれの柔らかい輝きに、エッダは慄くように呟いて、その手を胸に抱いた。
「それを持っていればどこにいてもすぐにわかるから、迎えに来る」
それはサッズの初めての約束。
なぜ彼女達が『花』と呼ばれるか、知らないままに夢見た未来だった。
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