第127話 寄り道

 少女は想う。

 何が悪かったのだろう?

 あの日、あの夜から、彼女はずっと同じ問いを自分の中で繰り返していた。

 まるであの瞬間に彼女の時間は凍りついてしまったかのように、他のことが何も考えられない。


 彼女の出身は北寄りにある小さな漁村で、山奥の大きな湖で魚を獲って生活するだけの、ありふれた貧しい村だった。

 村人は皆顔見知りで、遡ればどこかで嫁入りやら婿入りやらをしている親戚同士のような間柄。

 だから、彼女は王都に出て来るまで、他人を疑うということを知らなかった。


 それが罪だったのだろうか?

 いや、そんな温かい小さな世界を、身勝手な理由で飛び出したことがそもそもの罪だったのかもしれない。


 だからきっと罰を受けた。


 涙も枯れた渇いた目で、色の褪せた世界を映す。

 今日もその態度を怒られて、裏で水場の泥揚げ仕事を言いつかった彼女だったが、そんなキツイ仕事を繰り返す痛みも、彼女にとっては、僅かな世界の彩りであり、何もしないよりは歓迎した。

 恐ろしいのは、自分を物のように値踏みする視線。

 まるで言葉の通じない化物の世界に迷い込んだように、そのひとときは彼女を苛んだ。


(誰も聞いてくれないのなら、言葉なんて必要ないのに)


 口を利かない彼女に苛立つ人達に打たれることは怖くないのだ。

 痛みは、怖くない。


 ガリッと、石を擦った感触が伝わり、泥掬いが彼女の手から抜け出すと、バランスを崩した彼女は水場に倒れ込んだ。

 結構な派手な音を立てて全身を打った彼女だったが、その音に驚いて誰かがやって来ることはない。

 この界隈は夜に働き昼に休む者達ばかりで、朝も早いこの時間はシンと静まり返っているのだ。


(おばけの世界なんだ)


 冬の夜なべに祖母が語った、言葉の無いオバケの国の物語を思い出す。


(ここはきっとおばけの世界。きっとあの夜、私はおばけに食べられたんだ)


 ふいにカサリという草を踏む音が聞こえ、彼女はびくりと飛び上がった。

 自分の想像が現実になったような恐怖がその胸を締め付ける。


「あの、大丈夫ですか?」


 聞こえた『声』に、彼女は別の意味で驚いた。


「何か転んだような音がしたけど、声は聞こえないし、様子がわからなかったから来てみたのだけど」


 ぼうっと、彼女はその少年を見詰めた。

 そう、それは少年だった。


(有り得ない)


 彼女の職場には場仕切りと護衛士の男はいるが、皆屈強な大人の男ばかりでこんな彼女より若いであろう少年はいない。

 どこをどう考えても、そんな少年がここにいる理屈がわからない。

 大体、この少年はどこから来たのだ?いくら昼は人が居ないと言っても、店の起き番の見張りは交代で出入りを見張ってるし、そもそもこの少年がいるのは彼女の後ろだ。

 その場所の先には塀しかない。

 ここいらの塀はみんな大人の男二人分よりも高いし、その上は尖っていて手掛かりになるような場所は無く、到底人が上ってこれるような造りではなかった。

 もちろんここの塀も同じだ。


「あの?」


 だが、その少年は幻ではなく、今も困ったように彼女を見て呼び掛けている。


「あ、はい」


 なぜか騙されて売られてからずっと出なかった声がすんなりと出たことに、彼女は自分でも驚いた。

 トクトクと胸が激しく鼓動を刻み、体が激しく震える。


「怪我は無かったですか?今転んだのでしょう?びしょ濡れで酷いですよ」


 改めて彼女は自分の姿を見て赤面した。

 全身が水に濡れて、薄い作業用の古着が体に張り付いて、細身というより痩せぎすなその体型を露わにしている。


「け、怪我は無い、です!」


 まるで今まで痺れていた全身に血が巡るように、じわりとした痛みが押し寄せた。


「あの、やっぱり痛みます?」


 心配気に自分を覗き込む相手に驚いて飛び退く。

 目が熱いのはもしかすると涙かもしれない。

 そう思うと、彼女は怖かった。


(時が動き出したら、私はもう逃げられない)


 理屈では無い恐怖が心を覆い、その原因である少年を恨めしげに見詰める。

 改めて見れば見るほど、その少年はこの場所に似つかわしく無かった。

 明るい夜明け色の髪と瞳、にこにこと邪気の無い表情。


「良かったら薬使いませんか?うちの街の偉い先生が作って持たせてくれた薬なんです。俺も前に歩き過ぎて、足の裏の皮が全部剥がれてしまった時に使ったけど、良く効きますよ」

「いい、怪我、してないから」

(怖い、怖い、優しくしないで、ここが現実だと教えないで)


 彼女の心が悲鳴を上げる。


「そうですか?あ、そうだ、これ食べませんか?お店がどこも開いて無かったんですけど、屋台のおじさんが特別に作ってくれて」


 少年が差し出したのは、水辺碧という葉に包まれた焼き団子だった。

 この水辺碧の根が春先に甘くなるので、麦粉と混ぜて焼いて食べる簡素なお菓子だ。

 おそらくこれは本来は売り物ではなく、店主が自分の摘み食い用に用意していた物なのだろう。

 彼女はほとんど考えることもなく、おそらく食事を抜かれて空腹だったことも手伝って、あっさりとそれを口に運んだ。


「美味しい」

「良かった。それ、あげます。俺はもう一個食べたし、そんなに空腹でも無かったんです。食べ物屋さんを見るとついどんな味が知りたくなっちゃって」


 そう言って、少年はそれを彼女に押し付けると、「じゃあ」と言ってひょいと塀に向かって飛んだ。

 まるで羽根のように軽々と舞い上がると、少年は尖って危険な塀に軽く触れて体を捻り、方向を変えて向こう側に見えなくなる。

 彼女は呆気に取られてそれを見送り、手の中の焼き団子が幻ではないことを確かめると、ふいに体から力が抜けて座り込んだ。


「なんだい!びしょ濡れじゃないか。本当に馬鹿だね、この娘は」


 どのくらい呆けてたのか、突然聞き覚えのある声に怒鳴られて、彼女は飛び上がった。


「姉さん」


 その女性は、彼女がこの店に放り込まれた時に下付きとなった相手で、プシケという女性だ。

 この界隈では新入りは既に実績のある花の下で働きながら仕事を覚える。

 一対一の徒弟制度に近い関係で、そして、実は世話役の姉さんは監視役も兼ねているのだ。

 彼女からしてみれば、自分を騙した相手の仲間としか思えない相手だ。到底慕ったり出来る訳が無かった。


「あら?それどうしたの?」


 目敏く手に持った食べ物を見付かって、彼女は嘘を吐く気力も失くした諦めた口調で淡々と答えた。


「知らない男の子に貰った」

「へぇ、『つて』が出来たのかい?良かったね」


 意外なことに、歓迎するような言い方をする相手に、彼女は戸惑い、振り向いてその顔を見る。

 そこにあったのは裏の窺えない温かい表情だった。


「それに口も利けるようになったじゃないか。まったく冷や冷やしたよ」

「どうして?」


 何を言われているのか理解出来ずに、彼女はプシケに問い返す。


「だって、もしここで使い物にならないと思われたら、格落ちさせられるだろ?うちの下と言ったらもう、花が病気でも治療士を呼びもしない『休み宿』だよ。あんなとこに落ちたら恐ろしい腐り病なんかに罹っておしまいさ。今だって安全な訳じゃないけど、ここ以下となるとここに出入ることをハネられた碌でもない男が行くような所だからね、知れてるよ」


 ぶるりと体を震わせてプシケは魔除けの呪いをした。


「あたしの世話した妹にそんな目に遭って欲しくないからね。それに、あんたにとって今が一番肝心な時なんだよ」

「肝心な時?」


 『仕事』を思い出して、彼女は声を暗くする。

 あの視線を平気になって笑いながら『仕事』の出来る商品にならなければいけないということなのだろうか?

 彼女はそう思うと、途端にまた気力が萎えていくのを感じる。


「そうさ、あんたぐらいの年頃の子は嫁取りの狙い目なんだ」

「嫁取り?」


 意外な言葉に驚いて、彼女はプシケを見た。


「地方の、丁度いい年頃の女の子が居ない村とかの、そこそこ裕福な男にとって、王都の庭のきちんとした店の花は良い条件なんだよ」


 プシケは言い聞かせるように説明する。


「こういう店は女の子にある程度ちゃんとした教育をする。それに連れて出る時に病気の確認の為の期間を設ける決まりがあるから危険もほとんど無いし、たっぷり子供を産みそうな若い娘なら尚良い。それにそんな男達にとって一番有難いのは、ここの娘ならもはや根なしだから、親族との交渉の手間も無いことだね。そんな感じでね、上手くやればチャンスはあるんだよ」

「でも、仲介人に払ったお金や支度金の分をお店に払わないと駄目なんでしょう?」

「そりゃあそうさ。だから見習いを狙うんだよ。一人前になったら花開きの為に着飾る衣装や化粧の代金が上乗せされるし部屋代も取られる。普通の稼ぎじゃどんどん借金が増えていくばかりってのがここの仕組みさ」


 だけど、と彼女は思った。

 それは取引きされる『物』と何が違うのだろう?


「早く良い男を見つけるんだよ、暗いほうばっかり見ていたらなんでも全てが悪くなっちゃうからね。自分で明るいほうに進んで行く努力をしなきゃ、浮き上がれないよ」


 ふと、彼女は目前の女性の強さに胸を打たれた。

 今まで、もう一年を数える程この人に付いていたというのに、彼女は初めてプシケと向き合った気がする。


 何が悪かったのだろう?と、そう考えることはずっと後ろを向き続けることだった。

 目前の現実を認めない。

 それもそれで一つの選択かもしれなかったが。

 だが、そうしたら、沢山のことに気づかないまま全ては終わってしまうだけなのだ。


(こんな塀を軽々と飛び越える人だっているんだもの)


 何もかもを諦めるのは、まだ早いのかもしれない。

 そう思えた。


「それで、相手の子はどんな子なの?良い男?カワイイタイプ?」

「え?」

「とぼけてもダメダメ、それ、どうやってくれたの?やっぱり紐とかで縛って投げ入れてくれたの?塀越しに恋を語ったんでしょ?もう、若いって良いなぁ」

「違うんです。ほんと、違うんですよ」

「やっぱり近頃流行りと言えば恋しい男と手に手を取っての逃避行よ!素敵ね」

「ちょっと、姉さん、そんなこと言って誰かに聞かれたらどうするんですか?折檻されるのは私ですよ。お願いだから正気に戻ってください」


 その日、『王都の庭』の片隅で小さな出会いがあった。

 それは歴史を綴る者の決して触れることのない、いや、触れることの出来無い、小さな出来事ではある。

 だがそれこそが人の営みの一欠片、今と未来を形作る、欠けること無い流れの一部ではあったのだ。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


「お前、ちょっとここに座れ」

「何、サッズどうしたの?」

「目が覚めたら姿が見えないってのはどういうことだ?お前三夜も眠っていて気づいたのは昨夜遅く。さんざん心配して疲れ果てた俺が、やっと安心して寝たっていうのに、起きたら姿が見えない。ど・う・い・う・こ・と・だ?」

「ちょっと精神的な圧迫を加えないで、落ち着いて。だってほら、ずっと寝てたから眠りが浅くてさ、早々起きちゃったけど起こすのもなんだろ?せっかくだからあちこち見て来たんだよ」

「ふーん」

「ちょっと、痛い、痛いって!」

「煩い騒ぐな、エッダが起きるだろうが」

「騒いでるのサッズだろ?だから痛いって!俺の頬が伸びたらサッズのせいだからね!」

「伸ばしてやる」


 その時、二人の傍らで、扉がパタリと開いた。


「坊や達?くすぐり続ける拷問っていうのがあるって知ってるか?」


 ヒヤリとした固い意識が、サッズとライカの知覚にゆっくりと押し付けられる。


「あ、エッダさんおはようございます」


 健気なライカの挨拶に、にこりとエッダは微笑んだ。


「ちょっと違うかな。……おやすみなさい。だ」


 そこにあるのは、まるで獲物を吟味する山猫のような目付きである。

 二人は同時にコクコクと頷くと、声を合わせて言った。


「おやすみなさい」

「おやすみなさい、良い夢を」

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