第116話 聖別の乙女

 学者だというレオニダスという男は、にこにことしたまま店の者が運んで来た酒の杯を手に取ると、それをライカに見せる。

 そこには赤っぽい酒が入っていた。


「例えばここに酒があるが、これを私が飲むとこの杯の中から酒は無くなる。その酒はどうなったと思う?」

「え?」


 ライカは目をパチパチと瞬かせると答える。


「それは当然、えっと、レオニダスさん、の口の中でしょう?」

「そうだね、だが、それが酒と呼べるのはどこまでだと思う?私の口の中までか、喉までか、腹の中か、もしかすると小便として出て来る物も酒と呼べるのか?」

「えっ、うーん、わかりません」


 ライカは正直に言った。


「そしてまた違った疑問もある。この一杯の酒は元は樽に詰められている。では樽一杯の酒はこの杯何杯分なのだろう?」

「あ、それはわかりませんけど、わかると便利そうですね」

「ははは、それが立場での見方という物だよ。さては君は酒を出す店で働いたことがあるだろう」


 レオニダスは笑って指摘する。


「はい、そうです。そんなこともわかるんですか」

「酒を扱ったことがない人ではまず出てこない感想だからね」


 彼の言葉にライカはちょっと首を傾げた。


「それじゃあ俺ももう見方が歪んでいるってことではないですか?」

「そうだね。だけど誰だって生きて得る経験によって物の見方が変わるのは仕方のないことだ。それにその弊害なら簡単に解決出来る。既知、無知、それぞれの感覚を持つ者の差異を知ること、それもまた学問なのだ。しかし、身分の問題は難しい。人は誰もがその中で生まれ育つ。影響を受けないということがまずないのだ。ときに、君は身分が無い場所で育ったのかな?」


 彼の言葉にライカは頷いた。


「はい、十四の年まで人里離れた所で暮らしていました」

「なるほど、それでなんだな。うん、それに君には知性が感じられる。勉強をしたことがあるのかな?」

「え、はい、本は沢山読みました。育った所に色々な書物があったので」

「すばらしい!」


 突然、男が叫んで立ち上がったので、ライカは驚いて身を引いてしまう。


「どうかな?私の所で学問を学んでは」

「えっ?」

「本を読むということは、すなわち知識を欲するということだよ。それを楽しむすべを知っている者は、既に学問に至る道の途上にある」

「はあ」


 男の、レオニダスのあまりの興奮具合に、それを聞かされるライカの方は戸惑うばかりだった。

 ライカとしては学問という物には興味があるが、だからといってこの見知らぬ男の所で働くつもりになるはずもない。

 治療所で働きながら学んでいるライカにとって、家族以外から学ぶとはつまり働くことであるという意識がある。

 そもそも王都に長居するつもりが無いのだから仕方のない話ではあった。


「くそ隠者殿、弟子探しか?残念ながらこの坊やは貴族ではないぞ」


 そこへ女性との勝負が終わったのか、鎧の金属音を響かせてミアルが戻って来た。

 彼女はどうも音を立てるのも立てないのも自在で、その場面で使い分けている節がある。


「お戻りか、孤高の騎士殿。相変わらず女性におモテになるな」

「お前の嫌味は高尚すぎて腹が立たんのが欠点だな」

「お褒めにいただき光栄至極。それに騎士殿、私は弟子を取るのに身分で分け隔てしたことなどありませんよ。塾のことをおっしゃっているのなら、あれは単に仕事に過ぎません。個人的な徒弟はまた別の話でしょう」


 不在の間に同席していた男に対して驚くでもなく親しげな口を利いてみせた。

 ということは元より知り合いなのだろう。

 レオニダスのほうもミアルが戻るまでと言ったはずの自分の言葉を忘れたようにどっしりと居座っている。

 しかし、ライカはライカで別のことに頭が行ってしまっていた。


「あの、もしかして先程挑まれていたのは求愛のダンスだったのですか?」


 巨大なテーブルの上では先程の女性が機嫌よく数枚の銀貨を握って、ミアルの背に手を振っている。

 どうやら酒以外にも金銭をせしめたらしい。

 勝負とやらは周囲の予想通りリズと呼ばれた彼女の勝利だったようだ。

 ライカのとんでもない発言に、それまで涼しい顔をして酒を煽っていたミアルがむせた。


「お前、私が女だとういうことを既に知っているだろうになぜそう思ったのだ?答えによっては本気で斬るぞ」

「これはまた素晴らしく斬新な発想だね。なかなかに興味深い」


 二人の言葉に、自分がうっかりとんでもないことを言ってしまったのだと気づいて、ライカは赤くなった。


(そう言えば、竜だって同性に求愛したりしないよな)


 ライカは先程ミアルと競った女性の感情に僅かに求愛に近い意識があるのを感じて、とっさにそれを言葉にしてしまったのだ。

 しかし、それは確かに考えなしの言動だった。


「そんな訳ないですよね。ごめんなさい」


 ミアルはライカの謝罪に歯を剥き出して凶悪な笑顔を見せたが、反対側に座るレオニダスは真面目な顔で一人頷く。


「いやいや、その推測は案外と的を外れてはいないのではないかな?先程の彼女を含め、多くの市井の民はこのお姿を見れば大概は男と思ってしまう。兵士に女はいない。それが当たり前のことだからね。先ほども言ったが、こういう歪んだ意識を通してしまうと、なかなか真実に辿り着けなくなってしまうのだよ」

「ああ、なるほど」


 ライカはレオニダスの説明に、自分が先ほどミアルをダンス勝負に誘った女性から感じ取った意識が決して間違いではなかったと理解した。

 ミアルが自身でそう言ったように、王国には女の兵士は彼女しかいないのだろう。

 そして、今までの様子からミアルは自分が女性であると公言していない。

 それならば周囲の人間が彼女を男として見てしまうのは在り得る話なのだ。

 それがこの学者の男、レオニダスの言っていた、歪んだ見方という物なのだろう。

 兵士が男であるのが当たり前という思い込みがあるから、ミアルが本来醸し出している女性らしさを他の人間は見過ごしてしまうのである。


「どうだね、歪みのある視点、歪みの無い視点の差がいかに大きいかわかっただろう?そういう訳で君を我が学びの家へと誘っているのだよ」

「いえ、せっかくですが……」

「よせよせ、そいつはかの英雄殿の子飼いだぞ。世の少年達の憧れを目の前にしている訳だ。それよりずっと陰鬱な隠者殿のほうが年若い少年に人気があると自信があるのなら止めはせんがな」


 ライカの断りを途中から攫って、ミアルはレオニダスをそう煽った。 


「ぬう」


 レオニダスは唸ったが、ただやり込められるのでは気持ちが治まらなかったのか、彼はミアルに反論した。


「我々学問を志す者にとっての英雄と言えば先王妃殿です。あのお方に比べれば戦の英雄など、ただ何かを破壊するだけの存在に過ぎませんね。学問は生み出すための物、戦などとは相容れないのですよ」

「はっ、お前らが誰を尊敬しているかなどが関係あるか。子供に人気があるかどうかの話だろうが」


 ミアルの返事はそっけない。

 レオニダスはむっつりとして酒をあおった。


「先王妃様……ですか?」


 なんとなく落ち着かない雰囲気になった場を和ませようとして、ライカはレオニダスに話を向ける。


「うむ、現在この王都で学問が盛んなのは先王妃様のおかげなのだよ。聖なるお告げの王妃様のね」

「はっ、庶民に夢を見せた罪深いお方でもあるがな」

「おやおや、そのおっしゃりようはいささかお気の毒ではありませんか?」


 レオニダスの言葉にミアルはやや意固地に吐き捨てるように応えた。


「庶民は麗しい表舞台だけを見ていればいいからな。実に気楽なものさ」


 彼女の態度に、しかしレオニダスは腹を立てる訳でも無く癇癪を起こした子供でも見るかのようにどこか冷めた視線を向けている。

 ライカの感応の力はごく未熟な物だが、そこから感じた限りでは、ミアルは怒っている訳ではなく少し悲しそうにすら感じられた。

 人生経験が圧倒的に足りないライカとしては、今の気まずい状態がどうしてなのか判断しようも無い。


「ああ、すっかり置いてきぼりにしてしまったね。話が逸れて悪かった。先王妃様が特別なのは、あの方が初めての完全な庶民出の王妃様だからだ。しかも精霊のお告げ付きのね」

「精霊の……お告げ、ですか」


 ライカは不思議そうに繰り返した。

 ライカの常識では精霊に自意識などない。

 そんなものがお告げなどするのだろうか?という疑問が当然あるのだ。


「不思議な話だろう?そうだな、話は先王様の時代にまでさかのぼる。今からそう、三十年以上は前の話だ。先王様は生来病弱なたちでね、ほとんどがベッドの上での生活だったそうだよ。時は大戦おおいくさの世。そんな時代に今日亡くなるか明日亡くなるかという王を戴いて、国は不安に満ちていた。そんなある時、王がいきなりおふれを出されたのだ。『夢にて精霊のお告げを聞いた。精霊に祝福されし乙女を王の妃とせよと』とね」


 レオニダスは語り手としてはなかなかに上手かった。

 どうやら大勢の前で語るのに慣れているようでもある。


「それが精霊のお告げですか」


 ライカはすっかり物語を聞くような心持ちで感心して聞いた。

 しかしレオニダスは「いや」と続ける。


「それだけじゃなかった。それに続いた言葉こそが私たちにとって肝心だったのだ」


「そりゃあお前達にとってはそうだろうさ」


 横合いからミアルがぼそりと呟いた。

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