第64話 摩擦
「手が止まってるぞ!休みが入って弛んだじゃないかお前ら!」
早朝の、やや肌寒く薄暗い世界に、その静謐さを揺るがすような怒声が響く。
聞く方はすっかり慣れたもので、それを全く気にせずに自分の仕事を進めていた。
休息の一日は終わり、また黙々と目的地への歩みを続ける行程に戻るのである。
「うほっ、荒れてやがるぜ」
隊商長の赤ら顔を横目に黙々と荷を組み上げ、食事として配られた、やたらバサバサとした口触りの固まりを口にしながら、ゾイバックは器用に茶も飲んでいる。
さすがに年長の男達は手際が良く、たちまちの内に支度を整え、食事をある程度楽しむ余裕もあった。
「荒れてるんですか?」
そう言ったライカの問いに、横合いから答えが返る。
「ああ、俺の見る所、どうやら取引が上手く行かなかったんだろうな。こういう少数部族ってのは排他的で余所の人間を見下しがちだ。やつらとやる交渉はいっつも揉めちまうのさ」
それは、ゾイバックより更にこの仕事が長いらしいカッリオという男だ。
彼はライカに向かって面白そうにそう告げた。
「商人ってのは取引が全てだ。自分の価値の全てがそれで評価されちまうのさ。だから上手くない取引をするとイライラする。イライラした商人は自分より立場が下の隊商の責任者に当たる。そうすっとあの野郎はそのイライラを俺達にぶつけるって訳だ。どうだ、世の中は上手いこと出来てるだろ?」
ククッと笑う口ぶりはどこか陰湿さを秘めていて、ライカは眉を寄せた。
カッリオとしては、理不尽に怒鳴られる自分自身の不快感を相手を嘲笑う事で解消しているのかもしれない。
この場合、少なくともカッリオは自分より弱者であると考えているであろう年下の同僚達に当たらないだけ、マシな人間であると思うべきなのだろう。
「そういう風に悪いほうに気持ちをわかち合うこともあるんですね」
人間の有り方の本質を知りたいという欲求を強く持っているライカは、得た知識を口に出してつい確認してしまったが、そんな受け答えはどこか他人を置き去りにしたものだ。
自らが決して正しい言動をしていないとわかっている者にとって、傍観者ほど気持ちを苛立たせる相手はいないのである。
実際、ライカはその、言葉で互いに殴り合うようなどこか理不尽な空気を、少し馴染まない物に感じてしまってもいたのだ。
だから、そのライカの超然とした物言いに対して、カッリオの口元に獰猛な笑みが浮かんだのは仕方の無い所だったろう。
だが、だからと言ってそこで直接暴力を振るう程彼も短絡ではなかった。
いや、ある意味老練であったというべきだろうか。
「自分には関係無いって顔してっけど、人間なんて半分泥の中に足を突っ込んで生きてるようなもんだ。お綺麗な振りしてる奴は自分の足元を見てないだけなのさ。さてさて、のんびり飯食ってる場合じゃねぇや、もう出発のようだぞ」
せめてもの意趣返しというような相手への蔑みを感じさせる物言いは、しかし、だからこそ肝心のライカの中を上滑りしてしまい、正面から受け取られることは無かった。
なにしろライカはまだまだ人間世界に疎いがゆえに複雑な感情である妬みや僻みといったものをよくわかってはいなかったのだ。
ライカがカッリオの言葉から受け取ったのは、もうすぐ出発という忠告だけであり、それはライカに周りを見回すという行動を促した。
出立直前の空気は音で察する事が出来るものだ。
馬車に繋がれる馬の不安気ないななきが宥められ、そして大人しくなる頃には、人の声も潜められたものだけになりひっそりと物音が聞こえなくなる。
確かに、今の周囲には静かに動き出す合図を待つ雰囲気があった。
ベテランであるカッリオの見立ては正しく、出立はすぐに始まりそうになっているとライカも悟る。
「本当だ。ありがとうございます、カッリオさん」
ライカは慌ててパサパサの固まりの残りを支給された水で流し込むと、荷を背負い準備を整えた。
ライカが視線を向けると、サッズの方は適当に纏めた荷物を片手で担いで、やる気なさそうにゆらゆらさせている。
その状態で荷物が崩れ無いのが傍目から見て不思議なぐらいだ。
実際、本来なら纏まりが無くバラけている状態なのだが、サッズが自分の力を使い、圧力をそこに集めて崩壊を防いでいるのである。
もはやずるいという段階ではなく、呆れるしかない有様だった。
しかし、言ってどうなるものではないことを知っているライカは、特に害のない部分には目を瞑る。
「サッズ、行くよ。ご飯食べた?」
「あんなのひと呑みで終わったぞ。足しになるようなもんでもなかったが」
「じゃ、行こうか」
「おう」
皮肉を軽く受け流され、少年達を苛立った顔で眺めていたカッリオだったが、同僚のゾイバックや、同郷の青年であるマウノの呼び掛けに、それ以上何かを言う訳でもなく本隊の後ろへと続いた。
「あのガキ共、イライラしねぇか?」
馬車の騒音にも慣れた男達は、歩きながらある程度の会話も交わす。
「ああん?まぁ場違いじゃあるわな。どっちかってえと馬車に乗るほうだよな、お貴族の若様と侍従って感じか」
カッリオの不機嫌な言葉に、ゾイバックはそう相槌を打った。
相槌を打って伏せ気味になったその顔は、何かを期待しているかのようにニヤついている。
「俺等のような下種とは話をしたら口が腐るとでも思ってるんじゃねぇか?お高くとまりやがって」
カッリオは苦々しく吐き捨てるようにそう言った。
「なに?絞めたいのか?やるんなら条件次第で加勢しても良いぜ」
楽しそうなゾイバックの言葉にカッリオはチッと舌を鳴らす。
「殴ってどうなるんだ?いい大人がひょろいガキ殴ったって酒場の笑い話になるだけじゃねぇか。あのスカした顔を一度地べたに擦り付けてやりたいだけだ」
カッリオの不満に、ゾイバックは肩を竦めて答えた。
「なら簡単だろ?あいつ等はこの仕事に慣れてねぇ。仕事に関してはこっちの手の内のようなもんだ、やりようはいくらでもあるわな」
イシシと笑ったその顔に、難しい顔をしたカッリオは頷いてみせた。
暫く平地が続いたもののやがてまた下りの勾配が始まり、とうとう時折まばらに見えていた木立もすっかり姿を消し、灰色の岩場に幾ばくかの緑の草や潅木が垣間見えるようになって来ていた。
その下りがひとまずは緩やかになる場所で隊列は留まり、この日最初の休憩となる。
荷担ぎの組は荷を降ろすと、他に何をしようも無いのでなるべく具合の良い岩に寝そべったり、腰掛けて適当に手持ちの食べ物をつまんだりと、思い思いの形で短い休憩を過ごそうとしていた。
この手の休憩は主に人間のためというより馬のためであり、だから使用人達に何かが振舞われるということはないので、彼等としても単なる重荷を一時的に下ろせる時間でしかないが、それでも休憩は気が抜ける時間ではある。
「おい!サックというガキはどいつだ!?」
そんな少し緩んだ雰囲気の中へ、突如として男が飛び込んで来た。
男はこのグループ内では見ない顔だったが、橋を渡った時の荷造りの時にそういえば顔を見たかな?というぐらいの認識はこの場の一同に持たせることは出来ていた相手ではある。
つまり商家側の人間だと思われた。
サッズは半瞬、自分の仮名に反応が遅れ、その分をライカが補った。
「なんでしょうか?」
「キサマか!?」
ズカズカと近付いた男はいきなりライカの腕を掴んで引く。
岩の上にいたライカは、当然のようにバランスを失って前のめりになったが、そこを後ろから伸びた手が支えた。
「俺だ」
冷厳、と言って良いような声が一見ほっそりとした少年から放たれたことに、相手の男はややひるんだようだったが、すぐに気を取り直し、立ち上がりもしないで自分を見下ろすサッズを睨みつける。
「キサマか!ちょっと来い!」
サッズの支えのおかげで危なげなく地面に下りたライカは、サッズを振り返り、ぴくりとも動かない様子を見て取ると困ったような顔で譲歩を促した。
「とりあえず行ってみないとわからないだろ?」
「頭のおかしい奴に付き合ってられるか」
「いや、あれきっと雇い主の誰かだと思うよ。とにかく怒るのは話を聞いてからにしようよ」
ライカに宥めすかされてようやっと岩から下りたサッズへ、計ったように罵声が飛ぶ。
「さっさと来んか!まともに動くことも出来ないグズが!」
サッズの目付きが段々冷え冷えとしていくのを見ながら、ライカは自身も相手の言い様にカチンと来てしまい、場を収めるどころではなかった。
かといって雇い主と理由も分からないままに喧嘩をする訳にもいかないので、グッと抑えてとにかくサッズを落ち着かせる。
周りの人間は良い娯楽が飛び込んで来たとばかりに興味津々に様子を眺めるばかりで何の役にも立ちそうになかった。
なんとか男のいる場所まで近付くと、彼はサッズの背負子の前で腕を組んで待っている。
「キサマ、これはなんだ!」
彼はその背負子を指差すと、血管が浮き上がる程の形相で怒りを叩き付けた。
ライカとサッズが相手の求めている答えに思い至らずに戸惑っていると、相手は更に畳み込む。
「なんで荷が散らばっているんだ!」
「あ~」
その指摘で、ライカはほぼ正確に相手の意図に気付き、少しだけ上昇していたむかつきを霧散させた。
その相手の示す先、サッズの荷は纏まりなくあちこちに散らばっていたのである。
「荷物だが?」
一方のサッズは相手の激昂を他所に、相変わらず抑揚のない声で相手に応えた。
相手にはあまりにも傲慢な態度に見えるだろうが、実の所、ライカからしてみれば速攻キレることもなく相手の言葉に応じてやるというそのがまんぶりに感心する思いがある。
ともすれば成長する余地のない独善の固まりのように見えるサッズだが、彼も人間世界でそれなりに成長をしているのだ。
だが、当然ながらそんな感慨は相手には無い。
なので早々にキレて手を出してしまった。
「キサマ!」
体重を乗せた本気の拳がサッズを襲ったが、サッズの方は軽々とそれを避ける。
避けるべきかどうかはさておき、それは見事と言うしかない体捌きだった。
男は受け止める者のない勢いに引き摺られ、泳いだ体を持て余してふらり、と、数歩たたらを踏むこととなる。
彼が転ばなかったことを良かったと言うべきだろうかとライカはちょっとだけ考え、結局はいらない評価を口にすれば更に事態が悪化すると思い無言を貫いた。
(これは困ったな)
しかしながら、この事態がサッズに任せておいて解決するはずもないことは明白だった。
ライカはややのんびりと、この場合どう言い訳するべきかと考えたのである。
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