第60話 エールってなんだろう?
その夜の野営地は取引相手の集落近くの草地になった。
その少数部族の集落に垣間見える家は、驚くべき事に布らしき物で出来ていて、その表面には鮮やかな図柄が織り込んである。
ライカはそれらが気にはなったが、日が落ちて行くごとに物の形はともかく色彩の判別が厳しくなる。仕事が終わった後にそれをゆっくり調べる事は無理だろうと思われた。
仕方なくライカはこの日はそれを見に行く事を諦め、物惜しげに遠くから眺めるだけに留める。
「おい、あんまり奴等の集落には近付くなよ。連中の女にでも話しかけてみろ、これだぜ」
ゾイバックがそんなライカの背後から声を掛けて来た。
振り向いたライカは彼が首を掻き切る仕草をするのを見ることとなる。
その意味する所は明白だ。
「排他的な人達なんですか?」
ゾイバックはライカの質問を肯定して頷く。
「もう、病気だぜ、あいつらはよ」
「それでよく取引なんか出来ますね」
「商売人って奴等はな、相手が物さえ持ってて意思の疎通が出来るんなら怪物とだって取引をする連中さ。それにあの集落のやつらだって、外からしか手に入らない物を欲しいことだってあるだろうさ。贅沢とか知っちまえば人間ってのは引き返せないもんだからな」
「贅沢ですか?」
「そうさ、例えば身を飾る装身具とか、強力な武器とか、美味い食い物とか。存在を知っちまうと中々諦めるのは難しい。まして楽に手に入れる方法があるとすれば尚更な」
贅沢、と、もう一度呟いてライカは野営地と集落の建物の距離を目で測った。
遠からず近からず、そこに言葉にならない互いの意思が浮かんで見える。
「おう、それと今日は肉が出るぞ、連中から早速買い込んだらしいんでな。乳臭いのを我慢すれば酒もある。久々に人間らしい食事が出来るってもんだぜ」
ゾイバックは相変わらずの豪快さで笑いながら去って行き、彼をどうやら嫌っているらしく近寄って来たと見てすぐさま離れたサッズがその反対側から姿を現した。
「ふん、なんて臭い奴だ!」
竜族にとって臭いというのは最低の罵り言葉であるから、その嫌いっぷりが良くわかる。
「体を拭うことも満足に出来ないんだから、臭いのはみんなだよ、仕方ないさ」
それでもライカはなんとか取り持つようにゾイバックの弁護を試みてみた。
「俺は臭くないぞ、お前だってそんなに臭わない。他の連中も臭い事は臭いがあいつは特別臭い!」
「あの干し肝のせいじゃないかな?いつも噛んでるし。俺達は時々香り草を口に含んでるけど、あの人にとってはそれと同じようなものなんだと思う」
「あと酒だな。あいつ本隊の連中にどうやってだか酒をわけてもらってしょっちゅう飲んでるようだから」
「ゾイバックさんああ見えて人付き合いが良いから色んな人と仲が良いんだよ。俺達もちょっと見習うべきなのかもね」
そんなライカの言葉に、
「冗談じゃない」
サッズは反発するように言い捨てると、すぐさま表情を切り替えて集落側の草原を示す。
「まああいつの話はもういいさ。それよりもここは面白いな」
「面白い?」
サッズはその秀麗な顔にふわりと笑みを浮かべてみせた。
「今日途中の岩壁から沸いてた水にエールが多いって言ってただろ?」
「ああ、うん」
「この草原一面にエールが光ってる」
「へぇ、エールって光るんだ」
ライカの応えにサッズは虚を突かれたような顔で振り向いた。
「え?お前、……ん、ああそうか」
「何?」
サッズがなにやら勝手に納得したらしいのをライカは問い質す。
「いや、お前は意識を切り替えないと見えないんだったなと思って」
「何の話?」
「ええっと、視界がほら、俺達とは違うじゃないか、お前」
説明下手なサッズの言葉を、ライカは自分の脳内で解釈して理解した。
「ああ、第二の視界か。それなら切り替えたって見えない物もあるけどね。ん、ってことはエールが光って見えるのは第二の視界ってことか。確かセルヌイが幽玄界とかなんとか言ってたね。輪に触れる時に見える世界だ」
「呼び名は知らんがもやもやチカチカしてるやつ」
サッズの説明にライカは呆れる。
「セヌんとこの子供達でももっとマシな説明をすると思うよ」
「仕方ないだろ、俺は理解させたりしたりするのは苦手だ」
なぜか顎を上げて偉そうに言うサッズにライカは首を振る。
「いやいや、そこは威張る所じゃないからね」
「おい!ガキ共!飯の準備をしねぇか!」
彼等がのんびりと周りを眺めている内に休憩も終わり野営の準備が始まったのか、怒鳴り声が二人の話を打ち切ったのだった。
― ◇ ◇ ◇ ―
すっかり辺りも暗くなり、二人が薄い敷布の上に横になった頃も、見張り番でもないのに起きている男達がまだ残って騒いでいた。
酒という物は嗜好品というより人の精神状態に強く作用するおかしな薬なんじゃないかとライカはつくづく思うのだが、彼等は大声で節のおかしな歌らしきものを歌い、グルグルとひたすら回っている。
もしかすると踊っているつもりなのかもしれない。
「草地は固い地面のようにゴツゴツしてないのが助かるな」
「俺を下敷きにしても良いぞ?」
「元の姿に戻ったらお願いするよ」
横たわる場所程度では体に何の問題も起こらないサッズは、ライカがいつも朝辛そうにしている様子にそれを引け目に思ったのか、ここの所急速に覚えたらしい気遣いを見せた。
本来なら感動的な話だが、しかしライカは即効却下する。
人間体のサッズなどベッド代わりになりようがないのだ。
同じような体格の相手の上に乗っかって寝ても寝辛いだけでほとんど意味がない。
竜の時だからこそ、ライカもその背に寝転がったりしていたのだから。
「そうだ、さっきの話」
ライカは好意を退けられてムッと顰められたサッズの顔を眺めていて、ふと思い出して口に出した。
「さっき?」
「ここの草原にエールが多いって話」
「ああ、珍しいよな。目に見える程植物にエールが含まれてるのって。水に入ってたことといい、この山の中に何か特別な鉱泉があるのかもしれないな」
「エールってさ、みんなの話では聞いたことあるし、みんなにとって摂取しないと困る物っていうのは知ってるんだけど、それってさ、結局は何なの?」
「何って、そりゃあ」
言い掛けて、サッズは困惑したように口を噤んだ。
「う~ん、言語では説明出来ないな、あえていえばうちの一族の特性に似てるかも」
「うちの特性?『混沌』?」
「そそ、それ。言ってみればなんでもあり、みたいな?」
「毎度のざっくりした説明ありがとう」
「まて、その呆れたような言い方は止めろ!本当なんだぞ?エールってのは世界の根源のようなもんで世界そのものとは違うもんなんだ、な?言葉じゃわからんだろ?」
「タルカスが昔を再現した別の世界を創れたのはそのせい?」
ライカの突然の話題の方向転換にサッズは抗議の行方を失って「へ?」と実に子供っぽい表情になる。
ライカは笑った。
「う~ん、実はさ、ずっと気になってたんだよね。あそこってどうなってるのかなって。セルヌイがさ、実は位置的にはこっちとあっちは同じ場所にあるんだって言ってたから」
「ああ、位相は同じだぞ、うん。時間軸?ええっと、なんてったかな、存在の点滅が反転してるとか」
「思い出した。そうだ、確かタルカスが言ってたんだ。現実に存在する物は全て連続した時間の点滅によって出来ているとかなんとか、点滅を止めた物が本当に死んだというか消滅した物なんだよね。だから竜の視点からすると死体も生きてるんだとかなんとか」
「そうだぞ、というか死体だって存在してるんだから物体として生きてるだろ?」
ライカは遠い目をして理解を放棄した。
「考えると混乱してくるからそこは考えないとして、存在しているものには必ず隙間があるからその隙間に存在軸を合わせたのがあの世界なんだよね」
「俺の受け継いだ記憶にある情報では、なんかこの世界を一度写して体内に入れてから、前代の記憶を転写して軸をずらして吐き出したんだと。そういう記憶は受け取ったけどさ、とうてい俺には理解出来ない世界だぞ。さすがにタルカス。原初から生きてるだけあるよな」
「その世界を形として存在させる時にエールを使ったんだよね?」
「使ったというかエールが無いと命が存在出来ないからな。エールがないと単なる死んだ、世界だったナニカになっちまう」
「で、エールって何?」
「戻った!」
ガバッ!とばかりにサッズは立ち上がる。
「話が戻った!俺の頭がどうかしてるのか?お前がどうかしてるのか?」
「ちょっとサッズ騒いだら皆の迷惑に……、」
ふと、ライカが焚き火の方を見ると、男達はまだまだ元気に騒いでいた。
「ならないみたいだけど、うん、だからさ。今までの話を踏まえた上でエールって何なのかな?って。だって竜の本来の主食って素のエールなんだよね?でも今の時代になって剥き出しのエールは存在しなくなった」
「そうだ、俺自身の記憶にはないが、引き継いだ記憶の中の前代ではエールが大気の中で輝いていたし、いわゆるエールのみが意思を持ったみたいな存在も在ったぞ。人間が精霊って呼んでるのはおそらくあれだな」
「大気が輝いてたんだ」
「そうだ、だからあの時代の天上種族は呼吸をするだけでエールを取り込んでいたんだと。肉体の維持に狩りは必要だったんだが、命を支えるのはエールの力だったとか。なんなら俺の持ってる記憶を見てみるか?」
「それは駄目」
ライカはきっぱりとそれを止める。
「セルヌイが竜の記憶に触ってはいけないって強く言ってたんだ。人間の意識では受け止められないからって」
ライカの言葉にサッズは驚いた顔をした。
「そうなんだ」
「だって、実際、俺は常に一つの視点からしか世界を見れないだろ?物質なら物質、幽玄なら幽玄、それに竜族にはもう一つ別に視界があるっていう話だし」
「位相軸のことか?」
「そう。なんか世界の界層位置が常に見えてるとかなんとか」
まあその界層っていうのがもう既によくわからないんだけどね、と、ライカは心声で後半をぼやいた。
「え?見えねぇの?見えないと
「うん、だから俺は
「え?」
「いや、だからさ、サッズ、うん、今更驚いてることに俺が驚くよ、本当に」
「ええっ!」
叫びのような若い竜の声は、谷間を渡る風の鋭い響きのように夜空に放たれ、それが何か分からないながらも、人や生き物達の不安だけを煽って消えていった。
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