第59話 旅程・四日目

 足場が悪い。

 前日は下りが続いていたが、この日はまた上りに変わった。

 しかも岩山の隙間を縫うような道なので、幅が狭く隊列は長く伸びていて、全体の状況が全く分からなくなっている。

 そんな途上、ケーンと、特徴のある動物の鳴き声が聞こえ、ライカは思わず上を振り仰いだ。


「鹿か」


 上に続く岩山の山肌に体格の良い鹿が立っている。

 かなり肩高も高く、狼よりも更に一回りは大きいだろう。

 なによりもその頭上の角が、広げた両の手のような形に大きく広がり、草食の生き物ながらどこか威厳すら感じられる姿だった。

 彼等の住む街の近くの森にも鹿はいるが、それはごく小さい種類で、肩高は山豚とさほど変わらず角もささやかなものでしかない。

 すでにあの街の付近とは棲んでいる動物の種類もかなり変わって来ているようだった。


「狙ってるぞ」


 サッズの示す先には竜がいた。

 竜といっても今の時代の地上種族の竜で、その中でも最も数が多いと言われる草原竜、早駆け竜とも呼ばれるものの一種だ。

 その竜は鹿の斜め上、岩の僅かな窪みからその鹿を狙って体をグッと撓めている。


「いくらなんでも成体の雄を狙う?しかもあの竜は群れる種類なのに一体しかいないみたいだよ」

「若い雄だ。恐らく挑戦の旅の途中だな」


 二人の視線の先でその若い竜は跳躍し、鹿へと飛び掛った。

 直前にふいっと上げられた鹿の目がその姿を捉え、その瞬間をまるで待っていたかのように、その鹿は見事としか言いようのない飛び出しで宙に身を躍らせると、途中のでっぱりで姿勢を変え、一瞬でその竜との位置を入れ替えてしまう。

 つまり、鹿が上の位置に、竜が下の位置になったのだ。

 翼を持たない竜である草原竜はその名の通り本来は平地で生活する種族だ。

 なのでこのような岩山の急な斜面において上を取られれば、そここそが自分のホームグラウンドである鹿に敵うはずもない。

 案の定、牡鹿は軽々と急な山肌の僅かな足場を使ってさっさと上へと駆け抜け、頂上で振り向く程の余裕を見せると去っていった。


「あー」

「あーあ」


 ライカとサッズの二人が僅かにその若い竜に同情を寄せていると、彼等が見上げている物に気付いた仲間が、同じように顔を向け、にこやかに笑ってみせる。


「ほう、珍しいな、竜か。旅の途中で竜に会うのは吉事なんだぞ。今回の旅は順調にいきそうだ」


 ありがたいとまじない印を切った相手に、ライカは改めて聞いた。


「竜を見ると吉事って?」

「昔からそう言われてるのさ、竜を見ると良い縁が寄って来るってな」

「へぇ」


『人間の考え出すことはわけがわからないものが多いな』


 サッズがこっそりとボヤキ、さすがにこれにはライカも同意した。


「そうそう、今日は久しぶりに人間の住んでいる集落に入るぞ。これでまともな飯が食える!」

「意外と近くにあるんですね」

「集落と言ってもせいぜい数十人規模の放牧をやってる連中なんだ。国に恭順してない少数部族なんだが、一応取引には応じるからここで水と食料を買い込むのさ」

「あ、うちの街の近くにも山の民がいるけどそういう人達ですね」

「そうそう、野蛮な連中だけど、まぁ言葉は通じるからな」


 そう説明した言葉の中に相手を嘲るような感情を感じて、ライカは眉を寄せる。

 取引をするような関係なのにそういう態度になるのは理解が出来ないのだ。

 かといって、何も知らない立場であるライカとしては何かを言う事も出来ず、その違和感は実際の遭遇まで抱えたままとなってしまった。


 固い岩肌が両側に迫るように周囲を覆い、どうしようもない圧迫感が続く。

 剥き出しの岩に反射した熱がジワジワと降り注ぎ、まだ春先なのにうだるような暑さを提供していた。


「喉が渇いたね」

「今日の分の水はあんま残ってないな」


 サッズがふと意識を澄まし、道の先を見る。


「湧き水がある」

「あ、ほんとだ。水の匂いがするね」


 やがて曲がりくねった道の先で、何人かが岩肌の傍に寄って何かをしているのが見えた。

 先にサッズとライカが察知したように、そこには岩の割れ目から滲み出た湧き水があり、高い所から溢れたそれが岩肌を伝って流れ落ちていて、前の方の隊商の人間がそれを飲んだり、袋に詰めたりしていたのである。

 隊商全体の足もほとんど止まっていて、なし崩しにそこで一時休憩をしているようだった。


 他の全員が使い終わるのを待って、二人はその水を口にする。


「美味しい。それに冷たいね」

「あ、これは助かる。エールが溶け込んでる」

「鉱泉だからかな?鉱物にはかなり豊富にエールが入ってるらしいもんね。良かった。やっぱりサッズは今の時期は沢山栄養を摂ったほうがいいんだろ」

「あいつらみたいに石を齧るのは御免だけどな」

「サッズはみんなと違って地竜じゃなくて飛竜なんだからそこは仕方ないけどさ、いざとなったらそれも考えておいていいんじゃないか?」

「無理、いくらなんでもゲテモノすぎる」

「いや、サッズが言うとなんか凄い説得力がない」


 思わず笑いだしたライカに、サッズは手に汲み取った水をその頭からピシャリと掛けた。


「ちょ、小さい子供もやらないような嫌がらせを」

「少し汗ばんでるようだし、冷やしてやった方が気持ちがいいだろうと思っただけだぞ」


 揉めている二人を見やって、先ほど道々話しかけて来ていた仲間の若者、エスコが呆れたように呼び掛ける。


「お前達、なりはそろそろ一人前なのにまだまだ子供だな。遊んでないで水袋に水を詰めておけよ。この先で水が買えると言ったって相手次第だし、どんな時でも最悪に備えて蓄えられる場所では蓄えておいたほうがいいからな」

「あ、はい」


 ライカは慌てて自分の腰に括ってある水袋を取り出し、その水を詰めた。


「せっかくの良い水だし、多めに取って置こうよ」


 ライカの言葉にサッズも頷く。


「ん、ああ、そうだな。と言ってもこんな水袋にはそんなに入らないが」

「この湧き水自体も湧き出してる量は沢山じゃないから、この隊商全体分を溜めるには相当時間が掛かりそうだし、やっぱりその集落で水が補給が出来ないと辛いだろうね」


 とりあえず二人は詰めれるだけ水を詰めると、既に進み出していた隊の後方へと合流する。

 ガラガラガラと岩壁に響く馬車の車輪の音がまるで雷鳴のようで、段々と全員の耳がおかしくなって来ていた。

 そうして耳がおかしくなって来ると、なぜか他の全部の感覚までがそれに引き摺られて周りの様子を掴みにくくなる。

 そしてそんな時間が長く続くと精神的に参ってくるもので、この日の隊商は進みが悪かった。


(本当に今日中にそこに着くのかな?)


 昼の休憩もほとんど取らず、間食用の干し煎餅が回ってきて、それを齧りながら進む。

 全員の疲労が目に見えて現れ出し、空が夕暮れに赤紫に染まる頃、ようやく彼等の斜め前方、右手の大岩の向こうにお椀を伏せたような、人の手によるとわかる物が見えた。

 その周囲には数人の人間が立ち、じいっと進む隊商を見ている。


「はぁ~、やっと到着だな」


 エスコ青年が全員の心境を代弁するかのごとく搾り出すようにそう言った。


 斜面には延々と草地が続き、その地表が燃えるような色に染まり、その果てでは空との境を無くして、落ちる太陽の中に一つに融けているかのように見える。


(なんて綺麗なんだろう)


 ライカが初めて目にするその景色は、まるでちっぽけな人間にどこまでも続く世界の広さを見せ付けているようであった。

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