第36話 心の箍

 レンガ地区の住人が使う井戸は家々がひしめき合うように並ぶ地区内ではなく少し離れた森の中にある。

 街壁の内側では一番大きな森で、城の裏側まで続いている昼になってもほの暗い場所だ。

 ライカはなぜか小さい組の子供達と意気投合して謎のごっこ遊び(言語も思考も大人には分からない類のもの)をしているサッズをそのままに、セヌと彼女の母親の仕事を手伝って、その井戸に汲み置き用の水を汲みに来ていた。

 天秤棒の両端に水桶を担いで往復する仕事は基本的に女子供の仕事だが、セヌのような小さな子供にも彼女の母親のような体の不自由な人間にも辛い仕事ではある。

 実際、セヌは水桶を1個だけ担いで往復しているし、彼女の母も休憩しながら他の人より大分時間を掛けて運んでいた。

 ライカはそれを知ってからは、本読みのついでに水汲みを手伝うようになったのである。

 あまりやってしまうとセヌが怒るので、お茶のお礼にという理由で一往復だけの約束だが、やらないよりはマシだろうとライカはその条件で受けていた。

 普通は水汲みは早朝の仕事なので、この時間は、特にここの井戸の周りには人気がない。

 森へ行く途中、ちらちらとノウスン率いる少年達のグループらしき姿は見掛けていたが、これまでも時折あったことだし、以前のごたごた以来、彼等から何かを仕掛けて来ることはほとんどなくなっていたので、ライカとしてはあまり気にしなかった。

 だが、


「おい」


 井戸に先にノウスンがいたことにライカは少し驚いた。


「ノウスン、珍しいね」


 ライカのその呼び掛けを無視すると、彼はライカの前に立ち塞がる。


「てめぇ、あいつを俺達の場所に入れやがったな」

「あいつってもしかしてサックのこと?」


 突然の言いがかりに、ライカは首を傾げながら答えた。


「名前なんてどうでも良いんだよ。あの薄気味悪い奴のこった」


 ノウスンの言い方に、ライカはムッと眉を潜める。

 いきなり喧嘩腰で現れたノウスンの相変わらずの排他的な姿は元より、サッズに対しての言い掛かりはさすがに腹が立ったのだ。


「そういう言い方はないんじゃないか?ノウスンはサックのことはほとんど何も知らないだろ?何でそういう風に決め付けるようなことを言うのさ?」

「分かってるさ!あの野郎は普通じゃねぇってな。あいつは絶対おかしいだろ?街のやつらは貴族だ聖王家だ精霊だってお綺麗な見掛けで歓迎してるようだけどな、俺は騙されないぞ。あんな作り物のような、出来すぎたお綺麗さはおかしいんだよ。人間は必ずどっかに醜さがあるもんだ。あんなふうに完璧に整った人間がいるもんか!」


 そのライカ以上にノウスンは憤りをぶつけて来る。

 その一方で、その姿はいつものように傍若無人な風でありながら、どこかいつもの余裕が感じられなかった。

 暗く眇められた目の奥に、自分の言動に煽られて閃く、粘るような揺らめきがある。


「それってサックの見た目が良すぎるからおかしいって言ってるの?どう考えてもそっちの方がおかしい考えだと思うんだけど」


 対するライカは、今まで感じたことのない体の感覚を覚えていた。

 胸の奥に燃えるような熱が生まれて全身に巡る。

 その熱が、恐らく怒りであることをライカはなんとなく理解していた。

 それはライカ自身の意思とは別の所で生まれ、その体を支配していくようである。


「うっせぇよ!口先でごまかそうとしたって無駄だからな!俺は見たんだ!あいつはおかしい、人間じゃねぇ!どっか暗い闇から這い出した化け物だ!あんな人間がいる訳がねぇんだよ!」


 ひたすらな罵倒に、ぎゅっ、と、ライカは口元を噛み締めた。

 体の熱は益々温度を上げ、目の奥がジンジンと痛む程に脈打つ。


「彼は俺の家族だ!そんな風に悪し様に言われる何を彼がしたって言うんだ?君が仲間を守るために他人を警戒するのはわかるけど、誰一人傷付けもしない、何をした訳でもない相手をそんな風に罵るのは間違ってると思わないのか!」


 吼えるような、ライカのその声がノウスンの言葉を打ち消した。

 一瞬、ノウスンは今までの勢いを忘れたかのようにふらりと後ろへと下がり掛けて、頭を振って踏み止まる。


「へぇ、そんな顔も出来るんだ?そんなに頭にくるのは化け物を化け物と見抜かれたからなんだろう?」

「……ノウスン」


 すぅっと、ライカの言葉から温度が消えた。

 その表情がまるで塗り替えられたかのように抜け落ち、その琥珀の目の色のみが光を帯びて輝く。

 うっすらと暗いはずの森の中で、ノウスンは急に陽の光が差したような黄金の輝きを見た気がした。


「ライカ!」


 大声で名を呼ぶ誰かの声が、その緊迫した場の空気を蹴散らす。

 二人が思わず振り向くと、そこには当の話題の主、サックと便宜上呼ばれているサッズが走り込んで来ていた。

 青銀の髪がその顔の周りを光のごとく覆い、濃紺の目が闇をも惹き込む。

 その圧倒的な姿は、その場の全てを支配する力があった。


「ちっ」


 ノウスンは舌打ちをすると身を翻し、雰囲気の変わったその場に背を向ける。


「俺は言いたいことは言ったからな」


 肩を竦めてみせると、振り返ることもせずにそれだけ言い捨てて立ち去った。

 ライカは急激に消えた熱の残りを溜息で体の外に追い出すと、サッズを見て目を丸くする。


「どうしたの?」


 彼の額に滅多に浮かぶはずのない汗を見たのだ。


「いや、……なんか、お前が怒ってたみたいだったから」


 焦ったのだと言うその顔に、ライカの緊張がやっと全て解けた。

 意識の深い部分の接触による安心感も同時に押し寄せて来る。


「ああ、喧嘩するところだったからね」

「へえ、やっと男らしくなってきたじゃないか」

「俺はずっと男らしいよ」

「はん、お前まともに勝負なんかしたことないくせに」

「誰にでも喧嘩を売るような喧嘩好きじゃないからね」

「戦うことは大事だぞ」

「それ以前に大事にすることが多いんだよ」


 ライカは気を取り直すと井戸から水を汲み始めた。

 それを横目に、サッズは森を透かし見ると呟く。


「ここには小さい獲物しかいないな」


 ぼそっとした言葉だが、その意思は明白だ。


「いや、だから今は狩りをしちゃいけないんだって」

「ここは人間の家の中だろ?」

「街の中でも今は狩りは禁止」

「食い物がないと腹が減るだろ!」

「後で食堂に行くからもう少し我慢して。さっき子供達に混じってお菓子も貰ってただろ?」

「あれは嗜好品だろ?食い物じゃない」

「文句を言う程お腹が空くよ」

「むう」


 その会話の内に水汲みを終えたライカは天秤棒に水桶を通し、肩に担ぎ上げる。

 二人の間には手伝うとか手伝ってもらうという意識がないので、そのまま何の疑問もなく、ライカは一人水を運んだ。


「植物は禁止されてないからキノコでも探してみたら?」

「そうか!この姿なら地面に近い物も簡単に見付かるか。小さいのも色々便利な事があるんだな」


 と、人間の姿の思わぬ利点に気付いたサッズをそのまま残し、ライカは気持ちの分軽くなった足取りでセヌの家へと戻る。


(さっきは、まるで頭の中を火で炙られているみたいだった)


 心からの怒りというものを初めて味わったライカだったが、その余韻が残って頭が少しぼんやりとした。


「竜族が怒ると、こんな気分がずっと膨らみ続けるんだってセルヌイが言ってたっけ。みんなが感情を封印するはずだよな」


 竜王達が恐れる歯止めの無い怒りという物の、ほんの一端を垣間見た思いで、ライカは苦く呟く。

 サッズを罵られた時は、まるで言葉で斬り付けられているような痛みがあった。


「感情って自分でどうにか出来るものじゃないんだな」


 同時に同じような苦い思いを息と共に吐き出した者がいる。

 木にもたれて、精神的な疲れから来る脱力感からなんとか回復しようとしているサッズである。


「ごめんな、ライカ」


 ライカには、人間が本来危惧する必要などない危険がその身に潜んでいる。

 それは、サッズに原因があったのだ。

 どう悔いてみても過ぎた過ちはもはや取り返すことなど出来はしない。

 夜明け前の蒼穹の色の瞳が伏せられ、飾り気のない、しかし継ぎ目もない銅の指輪を嵌めた手が、ぎゅっと強く握り込まれていた。

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