第33話 昼もなく夜もなく
本来の日数はもはや不明だが、おやすみとおはようの挨拶を三回程繰り返した頃にそれは起こった。
いつものように凪いだ後の吹き返しの強風が家を外側から殴りつけるように通り過ぎた時、外から異様な音が響いたのだ。
バキキ!ピシッ!というような、何かが裂ける音と何かが割れるような音が風の音に混ざって響く。
「ジィジィ、これって」
「うむ、どこかの家がやられたか。もしかすると窓を開けたのかもしれん」
「どうしよう?」
「どうも出来ん、最初に言ったじゃろう。外で何が起こってもこの嵐の間は気にしてはならんと」
「うん」
それでも気になるのか、ライカはそわそわと立ち上がると壁際を彷徨った。
しかしどこもがっちりと半切りの丸太で固定されていて、容易に覗けるような隙間はない。
風の音は人の叫び声のように聞こえる事も多いが、耳を澄ませると、遠くで女性の悲鳴のようなものが聞こえた気がして、ライカの不安を煽る。
もしかすると自分の思い込みによる空耳かもしれないと、ライカ自身も思いはしたが、落ち着かない気持ちに変わりがなかった。
「一番近い家はお隣のリエラさんの所だよね?」
「そうじゃな、あそこの旦那は確か表門通りの食い物屋じゃったな。なかなかの腕っ節自慢じゃ、わしらに心配されるような男じゃあるまい」
「俺、こないだリエラさんに子供に作ったお菓子が余ったからって、おすそ分け貰ったんだよね」
「お前はあそこだけじゃなくあっちこっちに顔を出しとるじゃないか。大分前には街外れの物乞いのじいさんに、お前によろしくとか言われて驚いたわい」
「あのおじいさん物知りなんだよ」
「お前は少し人見知りしなさすぎじゃと思うがな」
ライカは再び声を聞いた気がしてぴくりと身を震わせた。
「やっぱり気になるよ、あそこのマウ坊まだ小さいし」
「じゃからお前が気にしても何も出来んと言うに」
ライカは耳を澄ませると、一つうなずく。
「今、凪に入ったみたいだからちょっと見てみるよ」
「こりゃ、ライカ!」
言うと、ライカは閉じてあった二階への扉を棒で開けて階段を下ろし、素早く駆け上がった。
「大丈夫、外へ出たりしないから」
「待たんか、坊や!」
ライカは上へ上がるとそのまま縄梯子を巻き上げて蓋を閉め、窓へと向かう。
下への降り口を閉じたのは、万が一風が入り込んだ時に下まで被害を出さない為だ。
しかし、窓は既に横木が固くはめ込まれていて、ライカの知識ではその外し方が分からない。
それに確かに不用意に窓を大きく開けたりすれば家の中のものが吸い出されるか、一気に風がなだれ込むかして外と中からの衝撃で、さんざん言われたようにこの家でも持たないかもしれなかった。
「ええっと」
ふと思いついて、ライカは天上を見上げた。
そこには二重に重なり、普通には開かない天窓がある。
祖父もそこにはあえて支えを置いたりしなかったようだ。
ライカは下板を軽く持ち上げてスライドさせ、更にその上の天板を引っ張って開ける。
ライカの推測通り、今は凪の状態で、ほとんど風が無い。今なら危険なく外を窺えるはずだ。
ライカはそっと床を蹴ると軽く飛び上がる。
そのまま足で空気を押すようにして体を浮かせると、窓の外に顔を出した。
まさか祖父もライカが飛べる(浮ける)とは知らないから、ベッドに乗ってもライカの背より幾分高い位置にある天窓から外に出るとは考えもしていないだろう。
窓から覗いた外は凄まじい有様だった。
どこから飛んで来たのか分からない木っ端や、一抱えもあるような石までが嵐の前までにはなかったはずの場所にいくつも転がっている。
しかもあったはずの物がいくつか視界から消えているようだ。
しかし、それらを仔細に検分するより先に、ライカはお隣の家の方へと視線を向けた。
隣と言っても千歩は離れた場所にあるので詳しくは見えないが、確かに壁の一部が壊れているように見える。
「リエラさん達は……」
ぐるりと見回した時、
「こおら!坊主!何をしておる!」
地面の方から野太い声が飛んできた。
「あ、警備隊の」
「駄目だろうが、嵐の真っ最中に外に出ちゃ!親に習わんかったんか!」
「ごめんなさい」
謝って、改めてライカは下を見て、少し驚いた。
それはかなり奇妙な姿だったからだ。
全身に金物と思われるごつい殻のようなものを纏い、手には盾を持っている。
いや、それを盾と呼んで良いのだろうか?
なにしろそれは前面がやたらと飛び出し、側面が後ろに流れていて、上から見るといびつな三角の形をしていた。
その下部には何か長い槍のように突き出した部分があり、恐らく地面に刺して使うのだと思われる。
盾の内側にはその湾曲した部分に取っ手が付いていて、彼はそれを両手でがっしりと握っていた。
「お、おまえさんロウス爺さん所の子だな、確かリンカ?とか」
「ライカです、前に隙間用の水草を持っていった事があります」
「そうだったな、そういえば」
「あの、隣の家が風で壊れたみたいなんですが、様子を見てきてもらえませんでしょうか?」
「ああ、分かっとる。部下が見つけて今人手を集めて来た所なんだよ」
「そうなんですか、安心しました。家の人は大丈夫でしょうか?」
「旦那がちょいと怪我をしたようだが、大した事はなかったようだよ。それよりそろそろ風が回ってくるぞ、頭を引っ込めなさい!」
彼は盾の先端についた赤い布を指してそう言った。
その布はちらちらと東向きに持ち上がっては落ち、また持ち上がってを繰り返している。
「警備隊のみなさんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは言わんが、この盾と鎧があるからな、そうそうは飛ばされんよ」
「鎧なんですか?それ」
ライカの問いに警備隊の男はにやりと笑った。
「実は重しだ」
言ってガハハと景気良く笑い声を上げる。
隣の家の付近に、彼と同じ鎧と盾の鈍い色がいくつか見えた。よく見るとどうやら壁を応急処置で直しているようだった。
どう考えても動き辛そうだが、慣れているのだろう、彼らの動きには淀みがない。
あははとライカも彼に応えて笑い、そしてはっと気付いたように彼に声を掛けた。
「ちょっとだけ待っててもらえますか?」
「ん?」
ライカはすっと室内に降りると、天窓からの僅かな明かりで薄暗い中、部屋の物入れから何かを取り出した。
それはぐるぐると丈夫な芋の葉で巻かれている。
それを手に再び床を蹴った。
「これ、バクサーの一枝亭で作っている甘く煮た芋を乾燥させた物なんです。良かったらみなさんでどうぞ」
「おお、差し入れか、ありがたい!何しろ詰所には僅かな干し肉と煮豆しかありゃせんのでな」
「それは酷いですね。嵐が終わったらうちの店に来てください」
「ほほう宣伝か?やりおるな小僧」
「あはは、本当にご苦労さまです。お隣を助けてくれてありがとうございます」
「何を言うか、警備隊が街の人間を助けるのは仕事なんだから当たり前だ。礼には及ばんよ」
風の音が響きだし、吹き戻しの予兆が露になって来ていた。
「早く中へ戻れ!」
「はい、それじゃまた」
「おう、坊主ありがとな!」
声だけを聞いて、ライカは頭を引っ込めると、急いで天板を嵌め込んで、下の板を元の位置に戻した。
そうして落ち着くと、下からの祖父の心配気な声が耳に入る。
「ライカ?大丈夫か?誰と話しておるのじゃ?」
「あ、ごめん、今降りるね」
ライカは慌てて引き上げていた縄階段を下ろして下に降りた。
「このばかものめ!」
そして大目玉を食らう事となった。
「ええか、人間は世界の中でちっぽけな存在じゃ、絶対にそれは忘れちゃいかんのだ」
「う、ん、ごめんなさい」
「それでどうじゃった?外を見てみたんじゃろ?」
「あ、うん、警備隊の人達がとっくに駆けつけて来ていたよ。びっくりした」
「そうじゃろうな。わしは国とか役人とか、散々裏切られたり裏切ったりしてとうの昔に見限った人間じゃが、そんなわしでもここの領主とその部下はかなりまともな連中とは思うとるからな」
ロウスは、少し遠い目をした。
「そうじゃ、時間もたっぷりある事だし、少し昔話をしようかの」
「昔話?」
「うむ、この街にいると忘れてしまいがちになるが、いかに自分を特別だと思っている連中が他人を苦しめるか、知っておいた方がええ。人間はみんな本当はちっぽけなものなんじゃ。だがそれを忘れた輩は自らが災害になろうとする。まぁ難しそうな言い方はしたが、要するにお前の両親の話じゃよ」
祖父は寂しげにそう言うと、遠くを見て笑って見せた。
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