第32話 神の吼える夜
ライカと一緒に屋内に入ると、祖父はすぐさま家の壁に削った丸太のようなものを斜めに交差させるようにして嵌め込んでいく。
「それは?」
「うむ、ここいらは嵐が酷い地方じゃからな壁を中からも支える支柱を作ってあるんじゃ。普段はじゃまなだけじゃからの、椅子とテーブルになっておる」
「あ、それ居間のテーブルと椅子を解体したやつなんだね」
「そうそう、面白いじゃろ?」
ライカは、壁の柱と柱の間に大きめのつっかえ棒のように丸太の加工したものが組まれていく様子を、祖父の手際に関心しながら眺めていた。
「ライカ、今日は上には上がるな。下でジィジィと一緒に寝るんじゃ」
「うん」
祖父は壁の準備が終わったのか、今度はベッドから敷き布を剥ぐと、上がりになっている炉の前の板張りの床に直接それを敷き、そこに座った。
「ライカおいで」
呼ばれて、ライカは履いていた靴を脱ぐと祖父の隣に座る。
「お前は神の抱擁は初めてじゃろう、心構えを説明しておくからちゃんと聞いておくんじゃぞ」
「うん」
ライカは神妙に返事をした。
実際外からは何かが軋むようなギチギチという酷く不安を煽る音が響いている。
街の人々や領主や警備隊の人達に漏れ聞いた話が本当なら、こんな音はほんの始まり前の序章に過ぎないに違いなかった。
「ええか、外からどんな音がしても気にするんじゃないぞ。時折、屋根の一部が飛ぶんじゃないか?だの、イケスの魚が逃げ出していないか?だのが心配になって外へ出て、二度と無事な姿を見せなかった者が出るんじゃ。そもそもそういう事は事前に心配する事であって始まってから心配するのはただの愚か者に過ぎん。ましてや心配するだけならまだしも外へ出るのは狂気が取り憑いた者としか思えんわ。愚かさによる蛮勇は決して勇気ではない。それは大事な物を結局は失ってしまうんじゃよ。心して覚えておくんじゃぞ?それと、嵐は一旦収まったと思うてもぶり返しが来るもんじゃ。神の休息は短いし、その再開は唐突で激しい。本当に納まるまでは決して外に出てはならんぞ」
祖父の説明は具体的ではっきりしている。
ライカはうなずいて「はい」と答えた。
「じゃあ茶でも沸かすかの」
祖父がそう言った時、ふっ、と周囲の気配が変わる。
いきなり外で煩く響いていた音が全て消えたのだ。
「ぬ、来るぞ」
咄嗟に祖父はライカの背にその骨ばった手を回し、ギュっと抱きしめた。
世界が圧縮されていくような、どこかに吸い出されているかのような大気の流れをライカは感じ、思わずそちらに意識を向ける。
(大気が力を溜めている?)
次の瞬間、ドオオオオオン!という、音とも振動ともつかない物が突き上げるように家を、そしてその中の人間をも揺らした。
「うあ!」
ライカは思わず声を上げるものの、その声も自分の耳にすら聞こえない。
まるで大地そのものが巨人にでも揺すられているような音と振動が、風それ自体が生きて呼吸しているがごとく断続的に襲ってくる。
中の自分達はともかくそれを守っている家の方は目に見えてガクガクと揺れていた。
壁に掛けてあった小さな壁飾りが、その轟音の中の無音の世界で音もなく床に落ちていく。
ただの木を組んだだけの家が果たしてこの衝撃に耐えられるのだろうか?誰もが思うだろう不安がライカの頭に浮かぶ。
決して祖父を疑った訳ではない。
それはむしろ当然の反応だった。
この状況で不安にになるなという方が無理なのだ。
ライカの祖父は愚かと評したが、嵐の合間に家の様子を確かめに外に出る者がいても、これなら仕方ないと思える激しさだ。
時間の感覚が遠く消え去って行くのを感じながら、その荒れ狂う大気の振動の只中で、しかしライカは恐怖よりも体の内から湧き上がる別の衝動に耐えるのに必死だった。
(外に出て、嵐に向かい合ってみたい)
それは思考というよりも欲求そのもので、その
体の中で荒れる血の熱さを、祖父が自分を安心させるように抱く手を感じる事で押さえ込む。
まっとうに思考するならば、ただの人間であるライカに、嵐に立ち向かって耐える力があるはずがない。
しかし、その衝動は理性で割り切れるようなものではないのだ。
その欲求は竜族の本能に近い。
ライカの中に潜む竜の血が、より強力な力に抗う喜びを求めて震えているのだ。
祖父は、そのライカの震えを怯えと取ったらしく、片方の手で頭を撫でてくれた。
すぅっと体の強張りが解けていくのを感じて、ライカは微笑む。
心から心配してくれている相手がいるという事が、無意識の領域までを支える力になる。
それは不思議で幸福な安心感だ。
「お、少し収まってきたみたいじゃな」
祖父の声が耳に届く。
空気を振り回すように鳴り響かせていたあの暴力的な風が少し緩んだのだ。
「じゃがまだ安心するんじゃないぞ。こういう風のうねりが数日不規則に続くんじゃ。油断して外に出ると危険じゃからの」
「うん。ありがとうジィジィ」
自分を支えてくれた節くれだった手を握って礼を言い、ライカは一旦離れて炉の火を起した。
「やっとお茶を淹れられるね」
そう言ってにこりと笑う。
「ほうほう、案外と肝が据わっとるの。男の子はそうでないとな」
ホッホッと声を出して笑うと祖父は積んである道具入れから何かを取り出して来る。
「それはなに?」
「炭じゃ、神の抱擁の間はこれを使うんじゃよ。薪なんぞはかさばって家の中に必要な量を確保出来んからの」
「え?でも炭って燃えカスだよね、火がつかないんじゃない?」
「ほほう、ライカは炭を知らんのか。そうじゃな戦争中はのんびり炭を焼く人間もおらんかったしなぁ」
ライカの祖父、ロウスは、手に持った黒い塊をライカに示した。
それは完全な木目を残したまま真っ黒に炭化している。
炉の中にそれを入れると、しばらくして赤く輝きだした。同時に熱がふわりと広がる。
「すごいね」
「うむ、わしがお前を待つ間住んでいた小屋は元々は炭焼きの小屋なんじゃよ。これは煙も匂いもほとんどないし、すぐに火がつくし熱が高くなる。まぁ優れものの燃料じゃな」
「そんなに凄い燃料ならなんでいつもこれを使わないの?」
「そりゃ作るのにえらい手間と時間が掛かるからじゃよ。ここらじゃわしぐらいしかつくっちょりゃせんしな。普段使うにはおっつかんのさ」
「そうなんだ」
炉の中にはいつもの炎の代わりに、黒い炭のまるで自ら光っているかのような赤い輝きで満ちていた。
その輝きに目を奪われながら、ライカは天台に湯沸し用の鍋より二回り程小さいポットを乗せる。
水を節約しなければいけないので大なべで湯を沸かし続ける訳にはいかない。その時その時で必要な分を沸かすのだ。
ガツン!と激しい音がいきなり響き、ライカが何事かとぎょっとして振り向くと、そこは壁だった。
続けてガンガンガンとまるで何か大きな動物が体当たりでもしているかのような音が響いた。
「これも風?」
「ああ、神の抱擁は気まぐれで激しい、いきなり色々な方向から突き上げるような突風が来るんじゃ」
再びドオオンという衝撃が来る。
カタタ、と炉とポットが小さな音を立てた。
「これじゃ気の休まる暇がないね」
「大丈夫じゃ、慣れれば一番酷い音の中でも平気で寝れるようになる」
「ジィジィ凄いや」
「なに、お前もすぐに慣れるさ。さて、茶は何があったかの?」
「野生茶が三袋と花茶がそれより小さい袋で一袋とちょっとだね。少し混ぜて淹れようか?」
「花茶なんぞのふわふわしたもんはわしはいらん。野良茶でいいわい」
野良茶というのはどうやら野生茶の事らしいと察して、ライカは面白がった。
「野良茶って言うんだ?」
「いわゆる俗語というやつじゃな、こっちの方がわしらには馴染み深いんじゃぞ」
「そうなんだ」
やがてガタガタという激しい音が静まり、騒音に慣れた耳に痛い程の静寂が訪れた。
「点鐘がないと時間がよく分らないけどもう夜のはずだよね」
「時間なんぞ気にする必要もないじゃろ、眠たくなれば寝て、起きたい時に起きればええ、さ、湯が沸いたようじゃぞ」
「そうだね、じゃ野良茶を淹れるね」
「うむうむ、間違ってもハチミツ漬けなんぞ放り込むんじゃないぞ」
「あはは」
野生茶は少し苦味がありあまり香りは立たないが、それでも暖かい飲み物は人の気持ちをほっとさせる。
二人はまずは穏やかに、嵐の最初の一夜を過ごしたのだった。
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