第4話 食堂の少女

 ―…カーン、カーン…


 堅く金属的な音が微かな木霊を引き連れながら八回響き渡った。

 もうすぐ夕刻が訪れる合図の八点鐘だ。

 薬草などが天井から吊るしてあり、独特の臭いの籠ったハーブ屋で、薬を調合する時の処方等の事で話し込んでいたライカは、鐘の音にはっとした。


「あ、約束の時間だ。ごめんなさい、また今度寄りますね」

「おお、いいって事よ、そうだこの春草のハチミツ漬けを持って行くといい」

「え?いえ、それは申し訳ないですよ」

「いやいや、いい処方を教えてもらったし、それで只で帰したとあっちゃ却って商いに障るのさ」


 押し付けられた小さな素焼きの壷を、それじゃあと頭を下げて受け取ると、ライカは覚えた道を約束の店に向かって小走りに駆けた。


 たどり着いた約束の店からは、先刻通りかかった時よりも更に煙や食べ物らしき匂いが強く漂っていた。人の気配も多いようである。

 ライカは、戸口の上から吊るされた粗い布をただ押し開けるだけの扉を潜り、中に足を運んだ。

 ふわりと、外気よりも軽く熱い空気が押し寄せる。

 店内には市場の通りとはまた違った喧騒が溢れていた。

 ライカが首を巡らせて祖父を探すと、探し人は真ん中の席に陣取って陽気に女の子に話しかけている。

 店は規則性なく大勢の人でごった返しているのにその姿は驚くほど目立っていた。


「うむ、やはり健康的で美人な女の子はこの世の宝じゃわい」

「うふふ、ありがとうございます。あ、ほら、あれって噂のお孫さんじゃないですか?」


 ライカの祖父と話し込んでいた女の子が入口を指し示し、祖父が自分に気付いたのを見て、ライカはにっこり笑って手を振ってみせた。


「遅くなってごめんなさい」


 丸テーブルを中心に、差し向かいに置いてある椅子に腰掛ける孫に、祖父はニッと笑ってみせる。


「どうじゃ、初めての市場は面白かったか?」

「うん。街ってものすごくたくさんの人が生活してるんだね、市場なんか人がぎゅうぎゅう押し合ってて、今日だけじゃ何がどうなってるのか全然わからなかったよ」


 頬を紅潮させて語る孫に、ライカの祖父はますます目を細めてみせる。

 人が見れば思わず笑ってしまうぐらいに、孫に甘い老人そのものの顔をしていた。


「市場でポックスっていう食べ物を貰ったり、ほら、この春草のハチミツ漬けを貰ったよ。ポックスはもう食べちゃったけど、ジィジィはこれ食べる?」

 テーブルの上に素焼きの小さな壷を置いてみせるライカに、祖父は首を振った。


「そんな甘いもん食ったら酒がまずくなるわい、お前がもらったんじゃからお前が食え」

「お酒?そっか、うーん、俺も甘いものそんなに沢山食べられないし、この量を食べ切るのにどのくらいかかるかちょっと不安なんだよね」

「いらっしゃいませ。何のお話ですか?」


 先ほど祖父と話をしていた女の子が他を回ってまた彼らのテーブルへとやって来た。そしてライカに改めてにこやかに挨拶をしてみせる。


「あ、こんにちは。そうだ、甘い物はお好きですか?」


 突然、初めて会うはずの相手にそんな事を言うライカを、祖父が呆れたように見たが、少女の方は全く気にする風もなかった。


「そうですね、甘い物を見ると胸がときめく程度には好きですよ」


 にこやかにそう言う少女の受け答えには、客商売ならではの上手な距離感が窺える。

 親しすぎず、突き放し過ぎない優しい距離だ。


「良かったらこれを貰っていただけませんか?俺も人から貰ったものなんですけど、とても悪くなる前に食べ切れないと思うんです」

「まぁ、あら」


 少女は小さな素焼きの壷を受け取って中身を見ると嬉しそうに目を輝かせた。その様子はお愛想という感じではない。


「ほんとうにいいんですか?」

「ええ、ご迷惑でなければですけど」

「すごく嬉しいです。ありがとう」


 うぉほん!と彼らの傍らから咳払いが起こる。


「微笑ましいいちゃいちゃをやっとる所をすまんがな、こやつに何か食わせてやらんとな」

「まあ、ごめんなさい」


 少女は顔を少し赤くして仕事の顔に戻った。

 ライカはちょっとだけ首を傾げたが、嬉しそうににこにことしたままである。


「可愛いミリアムちゃんや、食事と飲み物を頼むよ、これで二人分じゃ」


 言って、ライカの祖父は銅貨を十枚テーブルに置いた。


「はい、ええっと、それなら今日は豆とヤマドリのスープか玉ねぎスープの山取れ半熟卵入が出来るけど、どうします?」

「わしは豆のスープでええよ、坊やはどうする?」

「え?うん、俺も同じでお願いします」

「飲み物はお酒ですか?」

「うむ、麦酒を頼もうかな」

「あー、麦酒は足が出るかも」


 少女はちょっと困ったように眉を寄せた。


「むぅ、そうか。良さそうなのは何があるかの」

「ええっとですね、一年もののスグリ酒か芋酒なら大丈夫ですよ」

「おお、じゃ芋酒でいいわい、どうせ後で本格的に飲みに行くからのぅ」

「まぁ、こんな可愛いお孫さんが出来たのにまだ遊び歩くつもりなのね」

「いやいや、ミリアムちゃんがわしといちゃいちゃしてくれれば考えなおしてもいいぞ」

「ふふ、お仕事があるから駄目ね。残念でした」

「うおう、また振られてしもうた」


 返事に対してヨヨヨと泣き崩れるふりをしてみせるライカの祖父を笑って放置すると、少女、ミリアムはライカの方を向いた。


「坊やはスグリ酒でいい?」

「ええっと、すいません、坊やはやめてください。ライカといいます」


 この日はやたら子供扱いされ続けたので、自分では密かにそこまで子供ではないと思っているライカには、自分とそう違うようには見えない相手にまで子供相手のように言われるのが辛かった。


「分かったわ、私はミリアム。このお店が私の家なのよ。よろしくね、ライカ」


 小気味よく応えてくれたミリアムを、ライカはふと、小鹿みたいだなと思った。

 艶やかな赤い髪をお団子にして優しげな枯葉色の瞳で笑う彼女は、一見大人びて見えるが、話した印象は可愛らしく軽快なイメージだ。


「ありがとう。俺の方こそよろしくお願いします」

「ところで飲み物はスグリ酒で良かった?」

「あ、いえ、俺、お酒はなんか薬みたいで好きじゃないんです。だから食事の時にはちょっと」


 病気で熱を出すと、白の竜王であるセルヌイが口に大振りのスプーンで突っ込んで飲ませてくれた、薬草を漬け込んだ酒の辛さと、喉を焼く熱さを思い出し、ライカは身震いした。


「ぬう、男子たるもの酒ぐらいたしなめ」

「いい心がけだわ。あなたのおじいちゃんなんかもう、お酒に飲まれているようなものだもの、薬と思うぐらいが丁度いいのよ」


 ミリアムとライカの祖父の二人が真逆の事を口にして顔を見合わせる。


「またもや苛められた」


 祖父が再びテーブルに突っ伏すのを笑って見やりながら、ライカは続けて尋ねた。


「お茶とかありますか?」

「あ~うん、あ、そうだ。今の時期に丁度いいお茶があるわ。それを出してあげるわね」

「ありがとうございます」

「あはは、そう丁寧にされるとくすぐったいから普通にしてくれていいわよ」

「あ、はい」


 うなずいた彼に笑って。


「すごい行儀がいいわよね。やっぱりどう考えてもロウスさんと血が繋がってるはずがないわ」

「なんじゃと!この上もなく血の繋がりを感じるじゃろうが!」


 二人の会話には長年の付き合いの気安さがあり、門の所の警備の兵といい、ライカは祖父がこの街にかなり頻繁に訪れていたであろう事を感じた。


「ミリアム!料理上がったよ!」

「はあい!」


 呼び声に、彼女は元気のいい返事をして、二人にまたね、という声と共に手を振ると店の奥へと消えていく。


「すごいな、ミリアムは。大人じゃないのに働いているんだ」


 ライカは彼女の年齢の細かい所は判断出来なかったのだが、彼女がまだ大人として成熟していない事はなんとなく分かった。

 仕事をして自らの糧を得るのは大人がする事だと聞いていたライカは、若いのに当たり前のように働いている彼女にすっかり感心していたのである。


「そうじゃな。じゃが、戦時中は親を亡くした年端の行かぬ子供なんかは普通に働いていたもんじゃ。今は王令で十二歳以下を働かせちゃならんという事になったが、それでも技能がいる仕事への弟子入りとか親の仕事を手伝うような事は例外的に認められているからの。ミリアムは家が店をしているんで手伝いとして働いている訳じゃ。わしが知っているだけでもあの子はほんの小さい時分からここで働いていたよ」

「そうなんだ」


 ふと、考える様子を見せたライカは、祖父を見て言った。


「俺も働くんだよね?」

「馬鹿を言うな、お前一人くらいわしが養ってやるわい」


 即座の否定にライカは驚きに目を瞬かせた。


「でも俺はもう十四だし」

「十二歳以下を働かせるなというのは、十三から働かねばならんという事ではないわ。小さい子供を無理やり働かせるのを防止するために十二歳以下を働かせるなと謳っておるだけの話よ。普通の家庭の子供は十六ぐらいまでは親に養ってもらうもんじゃ、普通の家庭でなくとも、孤児を育てておる養育院ですらそうなんじゃからの」


 祖父のがんとした態度にライカは困惑した。とりあえず話題を変えてみる。


「養育院って?」

「戦が終わった後に国や貴族が作った施設じゃよ。今も言うた通り長い戦で孤児が大勢出たんでの、その子供達を養育する施設が必要だったという訳じゃ。まぁ貴族の大半はろくでもないが、まともなもんも偶にはおるという事じゃな」


 ふーん、とうなずくライカをじっと見て、祖父は言葉を継いだ。


「ところで、落ち着くまでと思うて聞かずにおったんじゃが、お前を育ててくれたのは誰じゃったんじゃ?」


 ライカの祖父ロウスは、真剣な表情で切り出す。


「五つの時にアイリ殿が亡くなったのならその後誰ぞに育ててもらったんじゃろうし、普通の家庭で育ったにしてはお前は行儀が良すぎる。てっきり今言った養育院で育ったと思っておったがどうも違うようじゃし」


 だが、ライカは困ったような顔をして首を振った。


「ごめん、それは言えない約束なんだ。ただとても良くしてもらったし、立派な方達だったのは間違いないよ」

「ふむ」


 ロウスは彼を見つめて、何か考える風にしていたが、すぐに表情を改めた。


「まぁお前がそう言うならいいわい、本当はわしもちゃんとお礼を言いたい所じゃが、事情があるなら仕方ないしの」

「うん、ごめん」

「なに、お前が帰ってきてくれた事だけで十分じゃ、多くを望み過ぎれば多くを失うもんじゃからな」


 二人のテーブルに、ミリアムがお盆を片手に近付いてきた。


「先に飲み物をどうぞ」


 テーブルの上に大きめの木杯と小さなカップ、布の掛かったポットが置かれる。

 彼女はポットを持つとカップにお茶を入れた。


「あ、いい香り。ハーブティー?」

「そう、この季節限定のお楽しみの花茶よ。貰ったものを早速使わせてもらったの」

 いたずらっぽく片目を瞑ってみせる彼女に促されて、ライカがカップの中を見ると、薄く紅く色付いたお茶の中に春草の花が浮いていた。

「へぇ、素敵だね。こういうのを直ぐに思いつくミリアムは凄いな」

「えへへ、仕事の事で褒められるとすごく嬉しいわ。ありがとう。じゃあ、お料理出来たら持って来るからまたね」


 口にしたそのお茶は、優しい花の香りと微かなハチミツの甘さで口の中を満たし、ぬくもりを残しながら喉を滑り落ちていく。


「そっか、仕事か」


 その優しい温かさを味わいながら、ライカは祖父の耳に届かぬ程の小さな声でそう独り呟いていたのだった。

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