第14話 彼の名は
『さすが、わたし』
わたしは内履きが必要な施設に入ることも想定し、底をきれいに拭いたスニーカーを持ってきていたのだ。常に事前準備を怠らない。
ほんとは部外者が校舎の中に入る時は職員室に行って許可でも取った方がいいんだろうけど、「高瀬君に一目会いにきました」なんて言う訳にもいかないから、そのまま体育館横のジムに向かう。
図書館近辺は人が結構いたけど、体育館には男子バドミントン部員のダブルス2ペアが静寂の中、試合形式の練習してるだけ。スマッシュを決めた子が「ショウっ!」って気合いの声を出して、びっくりする。バドミントンって、結構熱いスポーツなのかな。
光の差す体育館とは対照的に、ジムはひんやりと薄暗い感じ。静寂さは同じ。
ぱっと中を見渡すと、筋トレマシンでボートを漕ぐような運動をしてる男子とバーベルを持ってスクワットのようなゆっくりしたトレーニングをしてる男子の2人だけ。
「ちわー!」
2人から同時に元気な声で挨拶され、「こんちわっ!」と、慌てて挨拶仕返す。見ず知らずの人にも挨拶するのがスポーツ選手の礼儀なのかな。
薄暗さに眼が慣れるような感じで奥に進む。マシンの所にはあの子はいないみたい。でも、静かだ。時折さっきの男子2人が「ふんっ!」と力を込める低い声が聞こえるだけ。マシンやバーベルの扱いに相当慣れてるのかな。ガシャン、ていう音ひとつ立てずにシュン、シュン、ていうスムースな音が微かに聞こえる。あ、この感じは、わたしの愛車のチェーンの滑らかさとちょっと似てるな。
視線の先の隅の方に、寝そべってこっちを見ている男子がいる。暗くてよく見えないけれど一瞬眼が合ったような気がして、どきっとする。でもよくよく見てみると、眼が合った相手は、ストレッチ用のマットのスペースの壁面のガラスに映りこんだ像だと気が付いた。そうっと、視線を下に下ろす。あの子だ。
さて、ここから先はどう対応しようか。ごく事務的に考えてもなかなか結論が出ない。そうこうしている内に5秒、10秒と時間が過ぎて気まずい雰囲気がさらに静寂感を増していく。
「よう」
え?『よう』?えらい砕けた挨拶だな、初対面の筈のわたしに向かって。
「あの、高瀬くん、ですか?」
「うん、そうだけど。お前は?」
また。『お前』?もし、多田くんが生きてて高校生になってたとしても、初対面の、しかも女子に向かって『お前』とは言わないんじゃないかな。いや、そもそも、多田くんは男子だろうが女子だろうが初対面だろうがなんだろうが、人に向かって『お前』とは言わないような気がするな。なんだろ、あの本屋で会った時に感じた多田くんぽい雰囲気は。
「おい、名前は?」
今度は『おい』か。まあいいけど。
「森野です」
「森野、下の名前は?」
「シズル」
「漢字は?」
「カタカナで、シズル」
「ほー。粋だな」
寝そべって、多分ストレッチなのだろう。見たことの無いやり方で足の腿の辺りを伸ばしてたけど、ゆっくりと立ち上がる。あ、やっぱり、背高い。
「俺の下の名前、訊かないの?」
「何てゆうの?」
「コタロー」
「え?コタロー?コウタロウ?」
「コタロー」
「漢字は?」
「カタカナだよ」
「え!?」
「んなわけないだろ、小さいに太郎でコタロー。コタロウじゃない、コタローな。因みに、兄貴は太郎。まあ、弟だから小太郎、ってどうかと思うけどな」
「双子?」
「ちゃうちゃう、四つ違い」
確かに顔には多田くんの‘面影’っぽいのはあるけど。でも、やっぱり、人格そのものが似ても似つかないよなあ。それよりも、わたしにとって残念なのは・・・
「そっか、漢字なんだね」
「あ?名前が?何で?」
「いやー、一瞬、カタカナ名前の仲間かと思って」
「何?カタカナの名前、嫌なのか?俺はカタカナで‘シズル’って名前つける奴って、すげえセンスいいと思うけどな」
おばあちゃんを‘奴’って・・・でもなんかこの子が言うと嫌な感じしないな。
「ところで、シズル。何か飲みに行くか」
「え?」
「何だ、ナンパみたいで嫌か?」
「いや、そうじゃなくって、なんで高瀬くんの名前知ってるか、とか、そもそもわたしが何者か、とか訊かないのかなって思って」
「何者って、お前は‘シズル’だろ。まあ、冷たいもんでも飲みながらゆっくり尋問するから。それから、コタローって呼べよ。漢字で呼ばなくていいぞ。カタカナで呼べ」
「ふっ」
「なんだよ。なんかおかしいか?」
「だって、漢字とカタカナどっちで呼んだかなんで区別つかないでしょ」
「何言ってんだよ、ちゃんとつくよ。野球場で‘一郎!’なんて応援する奴いないだろ?」
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