第3話 真夏の月

その1


 7月の最後の夜。金曜日。「BARたかい」本番の日は、この夏最高の気温を記録した。僕たちの住む鷹井市の今日の最高気温は、38℃。全国版のニュースでも、今日、全国一の気温だったと伝えられた。その代わり、というか、雲一つない快晴で、月末で細っているだろうが、月の光の下でのBARは夏の夜の風情を醸し出してくれるに違いない。

 BARの開店は17:30。ちょうど近場の会社のサラリーマン・サラリーウーマンたちが、一番乗りできそうな時間だ。その後、バンドの演奏開始は19:30から。

 一番手(前座ともいう)は、僕ら4LIVE。二番手は枯井戸。トリはAcid Voiceだ。

 僕らは、開店したばかりで、一番乗りの客がこぞってテーブルに着き始める様子を見ていた。もし満席となったら、全部で300人だそうだ。僕は、どんなに多くてもせいぜい50人入ればいいんじゃないか、と思っていたが、予想に反してぞろぞろと客がテーブルに着く。

 オーダーは隣のデパート‘大都’の6階レストラン街の飲食店の店員たちが担当する。

 お酒は大都の入り口に設置されたカウンターで作り、簡単な肴はイベント広場に隣接している「チェリッシュ」や、本業でバーをやっている「カペラ」などが対応する。今日は「カペラ」は、BARたかいであぶれた客を受け入れてくれるだろう。

 それ以外の食事に近い感じのオーダーは、大都6階のレストラン街にそのまま流され、ボーイがキャビンに食事を乗せてエレベーターで運んでくる、といった流れだ。

 出だしからの注文に、スタッフがフル稼働で対応している。ただ、雰囲気は静かだ。スピーカーからは聴いたことの無いジャズナンバーやブルースが自然に耳に入る程度の音量で流されている。

 僕はどうせ、ビヤガーデンのノリで来る客が大勢いて、BARの雰囲気など出る訳はないのじゃ、と思っていたが、非常に静かな大人の雰囲気がその場に醸成されている。

 多くても4~5人のグループでの来店だ。一番多いのは2~3人のグループ。皆、クールビズのシャツに、ビジネスバックを提げ、ハイボールやロックを注文し、静かに話し込んでいる。カップルもいる。男性はロックを、女性はカクテルを注文し、特におしゃべりをするわけでもなく、時々お互いに視線をやっては微笑し、後は流れて来るジャズに耳を傾けている、といった若い二人もいた。

 リタイアした後かなり年数が経つような年配の男性1人客も何人か目に入った。

「灰皿を・・・」とボーイに頼んで、タバコを燻らせながら、ドイツの瓶ビールをグラスに注いでもらっている。

「ありがとう・・・」と老人特有のしゃがれた声だが、ずしりと重みのある声質で声を掛けられ、それに微笑で応えるボーイ。

 僕は、一瞬、ここが鷹井市であることを忘れそうになった。今、こうして目にしている人種は都会にしかいないものと思っていたが、それは完全に僕の思い込みだったようだ。

 裏を返せば、ビヤガーデンや居酒屋ももちろん‘大人’の素敵な世界なのだろうけれども、そうではなくて、「BAR」に憧れを持つ人たちがそれなりにおり、加えてバンドが演奏する、ということへの期待を持っている人たちが結構いるのかもしれない、と僕は勝手に想像する。

 だとすると、この間、マスターが言っていたように、

‘酔っ払いだと思って舐めたらだめだぞ!’的な諫言が現実味を帯び、否が応にも緊張が高まる。中3の時のライブハウスデビューとは異質の緊張だ。


その2


 開店から1時間で客席はかなり埋まった。どう見ても200人はいる。しかも、軽く1杯だけ飲んで雰囲気だけ味わって帰って行く客も結構いたから、回転率を考えると、もう400人近く来店しているのではないか。

 開店時間の17:30にはまだ真昼のような太陽だったが、18:30を回り、大都とこのイベントスペースのアーケードとは反対側にある、神社へ向かう真っ直ぐな道が、光の道になるような感じで、オレンジ色の夕陽の光が脇を通り過ぎる。そして、その光の道からおこぼれをいただくように、BARたかいにもオレンジの光がきらきらと流れ込んでくる。この夕陽の光は神社の鳥居とお社の屋根のぎりぎりの位置にあり、まさに今、日が沈まんとしているところだった。

 因みに、僕たちはちょっと大人っぽいステージ衣装を着ている。

 僕は父親から借りた、クールビズ用のシャツとパンツを身に着け、高校の入学式の時に一度だけ履いた革靴を引っ張り出してきた。結局は借り物だが、なんだか、身が引き締まるような感じはする。大人っぽい、というよりは、サラリーマンぽい恰好、ということだろうが、まあ、客もそうなのだから、いいだろう。加藤も武藤も似たようないでたちで、やはり父親から借りたと言っていた。

 咲も大人っぽい服装だが、男三人とはまったく違う。やはり別格だ。

 上は襟元に簡単なフリルのついた白いブラウス。フリルは‘子供っぽさ’と‘可愛い大人’とのぎりぎりの絶妙なセンス。下は光沢のない黒の細身のスラックス。そして、これが凄いところだが、履いているのはオフィシャルなシューズではなく、靴紐を通していない、洗いざらしの真っ白なデッキシューズだ。これは、咲にしかできない、いや、咲の容姿でしか許されない着こなしだ、と、勝手に思った。

「ブラウスはピアノの発表会で着たやつ。スラックスは従妹に借りた。デッキはいつも履いてるやつ」

 特に自分がどう見えているかということも考えずに無造作にこういうファッションができるということは、咲が音楽につけ何につけ、‘センス’を持ち合わせていることの証拠だろう。


その3


 出番が刻々と近づく中、緊張しながらもお互いの服装のことなんかを軽くしゃべり合っていると、

「あれ、室田じゃない?」

という声が向こうの方で聞こえた。

 僕は何気なく、大都の入り口の方を見ると、Tシャツにジーンズ、という恰好の3人の男子がこっちの方に歩いて来る。

 そういえば、よく見ると3人とも高校の同じクラスにいたような気がする。名前は三人ともうろ覚えで、よく分からない。

「室田、どうしたの、その恰好?」

 名前が思い出せないが、三人の中で顔は一番よく覚えている男子が話しかけて来た。あんまり話す気にもならなかったが、一応、受け答えはしようと思った。

「いや・・・バンドの衣装なんだ」

 三人とも、おお?、という表情で僕の答えに反応してくれる。おそらくは好意的な反応なのだろう、とは思う。

「室田って、バンドやってたんだ?かっけー」

「なになに、このBARで演奏するの?スゲー」

 しかし、最初は僕に関心を示していたその三人だが、咲の存在にはっと気が付くと、明らかに挙動がおかしくなった。

 三人一様に咲の容姿に目を奪われるとともに、「あ、ども・・・」と、大人の前で小学生がしどろもどろになるような分かりやすい反応を示す。そして、僕との名残を惜しむというよりは、咲との接点を少しでも長引かせたい、というのが見え見えの分かりやすい反応を見せる。

「ちょっと、聴いて行こうかな・・・・」

 顔だけは一番よく覚えている男子が遠慮がちに言う。助け船を出そうかな、とも思ったけれども、何だか本当に聴かれるのが恥ずかしいような気もしたので、

「いいけど、アルコールしか出ないよ」

と、少し冷たい感じで応えてしまった。

 ‘そっか、残念・・・’と、本当に三人とも残念そうに呟く。余程、咲と一緒にいたかったと見える。

「じゃ、室田、またね」

と三人とも手を振って駅の方に向かって歩きだす。僕も、おお、とかなんとか言って、三人に手を振った。

 加藤が不思議そうな顔をして僕に言う。

「室田、友達いるじゃない」

 でも、僕は、さらりと答える。

「いや、今日初めて口きいたんだけど・・・」

 咲が珍しく口をはさんだ。

「でも、聴いて行こうかな、って言ったじゃない。室田に関心はあるんだよ」

 咲がそう言うのを聞いて、男三人は顔を見合わせて苦笑いした。

「あれは、違うよ」

 加藤が言う。うん、違う、と武藤も頷く。

 咲は、え、何が違うの?と本当に何も分からずに訊きかえしてくる。

「あれは、聴きたいんじゃなくて、見たい、って意味だよ」

 僕がそう言うと、咲はまだ何も分からずに更に訊きかえす。

「え、バンドを見たい、ってこと?室田がそんな格好してるから?」

 それを聞いて、男三人とも笑い出した。

「咲はさ、」

 加藤がゆっくりと言う。

「自分が美人だって自覚はないの?あいつら、咲をもっと見ていたかったんだよ」

 咲の顔から笑いが消えた。

「美人・・・?」

 咲は一旦消した笑いを、今度は笑いとはとても呼べないような、冷たく、沈んだほほ笑みもどきの表情で女の子にしては低い声を、さらにいつもより低く、しかも、ややかすれた声にして話した。

「わたしは、美人、じゃない。わたしの本質を知ったら、みんな、ひいてく」

 僕たちは言葉を発することができなかった。

「もし、わたしが本当に美人なら、小学校の時からこんな気持ちでいる訳ない・・・」

 僕は咄嗟に何か言わなくては、と、必死に考えた。考えて、考えて、幾つか言葉は浮かんだ。だが、それを言う勇気がない。

「僕は!」

 突然、武藤が、普段は決して出さないような、甲高い声を出した。僕と加藤はびくっ、としたが、咲は静かな表情のままで武藤の言葉の続きを待っていた。

「咲も、咲の曲も好きだ!」

 ああ、その通りだ、と、僕は武藤の言葉に心の中で激しく頷いた。加藤が武藤に続いた。

「僕も、咲と咲の曲が好きだ。咲の本質は、咲の作った曲に全部出てる」

 さあ、今度は僕の番だ。武藤も加藤も、なんて男らしい奴らなんだ、と本気で僕は尊敬する。僕も、ここで咲を救ってやらなければ、男じゃない。僕は、心の中でずっと感じていたことを寸分違わず、さらけ出すことにした。

「咲は、とても可愛い。きれいだ。咲の曲もとてもきれいだ。美しい。咲の曲に詩をつけている間中、僕は、今まで生きて来た中で一番充実していた。今日は、その咲の曲を観客の前に披露できることが楽しみで仕方なかった」

 咲はみんなの言葉を聞き終わって、何も言わず、少し俯いたままでいた。恥ずかしくて俯いているのか。咲の心を少しは救えたのか。それとも、僕たちの言葉を信じてくれてはいないのか。ふっと、背後に気配を感じ、振り向くと、セッティングを促すために来ていたマスターが今まで見たことのないような柔らかな表情で咲と僕らを見ていた。

「お前ら・・・・」

 マスターはどの場面から見ていたのだろう。けれども、言葉が途切れた後のその間から、マスターは全部分かっているのだろう、と感じた。マスターは、優しい、静かな声で、僕らに出番の合図を告げた。

「ココロ軽く、いけよ」


その4


 セッティングの間、お客さんたちは、おっ、若いな、なんて言葉を言いながら僕らの様子を見ていた。基本はBARに来ることが目的のお客さんたちだから、バンドとして僕らを値踏みする、という感じの視線はなかった。淡々とセッティングを終え、普段だったら震えるはずの手元が不思議なまでに落ち着いている。足が若干浮いたような感覚はあるものの、適度な緊張感、というのはきっとこういうものなのだろうと、とても冷静でいる自分を不思議に感じる。でも、ちょっと深く考えると、理由はすぐに分かった。自分自身がうろたえていて咲を守れるか、という気持ちだ。もちろん、バンドである以上、聴いてくれる人たちのために、というのが本当なのだろうけれども。でも。今夜、4LIVEの男3人は、咲のために演奏する。

「こんばんは」

 僕は、お客さんに、本当にごく普通の挨拶をした。そして、昨日まで考えていたMCの原稿を頭の中からすべて破棄して、ココロのままの言葉をお客さんと咲に向けることにした。

「僕らは4LIVEと言います。高校生です。今日は、3曲、演奏します。3曲ともベースの彼女が作曲しました」

 後方のテーブルの若手社員と思しき男性客たちが、ほおっ、と軽いどよめきを上げる。言うまでもなく、咲の容姿を見てのどよめきだ。

「自分たちで言うのも何ですが、3曲とも、とても美しい曲です。どうか最後まで聴いていってください。1曲目は「土曜の午後から」という曲です」

 挨拶が終わると、客席から軽い拍手が起こる。僕は加藤と咲の方に少し視線をやってから、武藤の方に目で合図を出した。

 スタッ!

 武藤が二本のスティックで同時にスネアを叩いたのを合図に、4人が音を奏で始める。「土曜の午後から」は4LIVEのテーマ曲のようなイメージで僕は詩を書いた。

 加藤のリフが今までにない美しい音で流れて来る。アップテンポのリズムにぴったりと乗り、まるでヴァイオリンのように滑らかで、明るく、どこか切ない、咲の作ったリフ。加藤は丁寧に心を込めてそのリフを奏でる。


      夏草匂う土曜の午後からは

      見知らぬ僕らの歌が始まる


      乾いた風と潤ったメロディーが

      あなたと僕らの心に伝わる


     (ダラララララ!)

      ギターの弦の音が

     (ダラララララ!)

      スネアの皮の振動が

     (ダラララララ!)

      歌い手の声帯が

     (ダララララ!)

      ベースが重なる


      こんな日々を僕らの体が

      こんな日々を僕らの願い事が

      こんな日々を僕らの心が

こんな日々を僕らの歌声が

      毎日彩ってく



 僕は気が付くと目を閉じて歌っていた。加藤のギターソロの間に、客席を見てみようという余裕が生まれる。

 ぐるっ、と見ると、本当にお客さんは色々な容姿、様々な表情をしている。軽くリズムを取りながらステージを見ている女性。テーブルの仲間と談笑しながらステージの咲の方に視線を遣っている男性。グラスを額の辺りまで持ち上げて曲に聴き入っている男女。

 正直、BARで、このアップテンポの、ポップな、けれども甘酸っぱく美しい曲を聴くと思っていたお客さんはそんなにはいないだろう。

 ボーカルのパートが始まるまで更に客席を眺めると、最前列の右端のテーブルに1人で座っている老紳士の姿が目に入った。半袖のワイシャツにロープタイを締めた白髪の男性。肘をついて、手で目を覆っている。酔って気分が悪いのだろうか、と見ていたが、その内に手でごしごしと目の辺りをこすり始めた。最初は汗を拭っているのかとも思ったが、よく見ると泣いて、涙を拭っているのだと分かった。軽くしゃくりあげているように見える。なぜ、泣くのか。

 なんとはなしに咲の方を見ると、咲もその老紳士のことが気になるようで、じっと右端のテーブルを見ている。

 加藤のリフのパートが再び始まった。加藤は客席を見る代わりにギターの弦を凝視し、より滑らかにより美しい音色を出そうと集中していた。気合いが入ってるな、と、今度は武藤の方を見る。武藤は、中空の方を見ながらドラムを叩いている。空に何かあるのか。それとも、演奏に入り込んで無心になっているのか。後で訊いてみようと思う。


          (ダラララララ!ダラララララ!ダラララララ!)

           喜びが始まる

          (ダラララララ!ダラララララ!ダラララララ)

           土曜の午後から

          (ダラララララ!ダラララララ!ダラララララ)

           今から始まる

          (ダラララララ!ダラララララ!ダラララララ!)

           僕らの歌が


 ‘ダラララララ!’という、加藤と咲のコーラスが、本当に恰好いい。僕もそれに負けないように、気持ちをこめて、切なく、歌う。

 本当に、気持ちいい。もわっとしたエアコンの室外機の温度が混じった真夏の夜の空気が、このイベント広場の敷地に流れ込んだ瞬間、2℃くらい下がり、涼風が巻き起こるような空想にとらわれる。加藤は、こんなにギターが上手かったのか?軽い嫉妬すら覚えるような美しいリフの音色が流れて来る。この涼風はきっと、このリフの音色で温度が下げられたのだ、と夢想する。

 1曲目が終わり、客席からは思わぬ量の拍手が起こった。指笛を吹いてくれている人もいる。ちょっと、BARという雰囲気ではないけれども。

「ありがとうございます。2曲目は「真夏の月」という曲です」

 ごく簡単なMCですぐに演奏を始めた。

 この曲は少しだけテンポを下げてはあるが、それでもサビの部分には早口言葉のような感じで詩を詰め込んだので、間違えないようにしないといけない。それと、加藤のギターソロは結構難しいメロディーラインだが、決まると泣くお客さんも出るのではないかというくらい美しいものだ。


      隠されても、満たされずとも、それでも月は輝いている


 というサビの言葉の詰め込みの部分をなんとか僕は歌いきる。

 加藤のソロも、決まった。思わず僕は自分達自身の演奏に目頭が熱くなる。ちょっと、おかしいだろうか。後で皆にも訊いてみようと思う。


 たった、2曲で汗びっしょりになった。マスターのアドバイス通り、前髪はべったりと額に張り付いたままで放ってある。次が最後の曲と思うと、名残惜しい。人前で自分達をさらけ出して表現するということがこんなに気持ちいいとは思わなかった。自分達は目立つことが嫌だったはずなのに。

「最後の曲です。皆さんのような大人のお客さんに聴いていただけて、本当に嬉しいです。「レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ」です。結構ノリのいい曲なので、どうぞ、楽しんでください」

 レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ、は特に意味の無い造語だ。どこの国の言葉でもない。咲の作ったサビの美しいメロディーに合わせようとして、雰囲気で出て来た出まかせの言葉だ。でも、それが咲のメロディーに乗せて歌うと、無限の意味を持つように僕は感じる。

 僕が、ピックを持った右手を高く上げると、背後の武藤が、スネアを二本のスティックで鋭く叩く。

 同時に加藤のギター、咲のベース、僕のギターが第一音を吐きだし、加藤のリフが僕たちの気持ちを否が応にも高揚させる。知らず知らずのうちに、昨日まで演奏していたテンポよりも速く、みんな弾いている。

 この曲は、武藤のバスドラの「ドッ、ドッ、ドッ、ドッ」というリズムが最後まで貫かれる。スネアの音にも常にバスドラが重なる。そして、武藤のバスドラに合わせ、咲のベースが、「ドゥドゥドゥドゥドゥドゥ」とリズムを最後まで貫く。そこに、咲が作った、複雑ではあるが、限りなく明るい、おひさまの下を歩くようなリフが、加藤の手によって刻まれ、要所要所で気合いを入れるように武藤のスネアがスバシッ!、と乾燥した振動を鼓膜、というよりは脳天にぶつける。僕は、皆の演奏に気分よく、掛け声をかけるようにギターの音を置き、かぶせる。加藤の急激な上達に引っ張られ、まるで自分までがギターが上手くなったような錯覚で、自分を完全に騙し、お前は上手い!と思い込ませながら、普段は弾けないようなフレーズもつい、織り交ぜる。おそらくは、BARで演奏するような曲ではないのだろうけれども、咲の作ったそれぞれの楽器のメロディーの美しさと、マスターの、観客の心に入り込むような思いやり溢れるアレンジのお蔭で、観客が快く聴いてくれると信じつつ、弾き続ける。あまりの気持ちよさに歌を忘れそうになるかと思ったが、自然と口をついて最初のフレーズが出た。


     笑いたくて笑うでもない

     (マケナイデクレ、マケナイデクレ)

     泣きたくて泣くでもない

     (ナカナイデクレ、ナカナイデクレ)

     ビビりたくてビビるでもない

     (マケナイデクレ、マケナイデクレ)


     この自分のいる場所にまで月光が届くまで!


     レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!

     レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!


     投げやりたくて投げるでもない

     (ニゲナイデクレ、ニゲナイデクレ)

     帰りたくて帰るでもない

     (キエナイデクレ、キエナイデクレ)

     落ち込みたくて落ちるでもない

     (マケナイデクレ、マケナイデクレ)


     今日一日の出来事を胸に刻み込むまで!


     レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!

     レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!


 曲の途中、加藤と僕のギターは手を休め、武藤と咲のリズム隊だけの演奏に切り替わる。

 武藤は咲ばりの正確なリズムでバスドラを打撃し続け、咲はリズムはそのままに、メロディーラインだけ少しソロっぽい感じでベースを弾く。ギターの音が無いのに、疾走感が増す。

 見ると、観客が、このリズムに合わせて手拍子をしている。以前の僕なら、こんなの観客のお世辞・お愛想だ、とひねくれただろうが、今、僕は無性に嬉しい。

 咲の曲がこの人たちに認められたんだ、と、否が応にも気合いが入る。

 加藤にもその気合いが漲ったようだ。武藤のスバシッというスネアを合図に、加藤は鋭く、ワンフレーズだけ、ギターをかき鳴らし、またすぐ手を休める。そして、武藤のスネアを合図に、その動作を繰り返す。ギターの有音と無音の隙間の緊張感。そして、その背後には正確無比だが、血の通ったドラムとベース。僕も参加したくてうずうずしてくる。次の武藤のスネアを合図に加藤がかき鳴らしたそのすぐ後に、リフをやや大人しく変調させたフレーズを僕は割り込ませる。3人を邪魔しないように、でも、僕もここにいるぞ、とはっきりと主張するために。

 酔っているのだろうか。後方のテーブルでは若いお客さん達が、立ち上がって手を振っている。軽く踊っている人までいる。まるで野外ステージのロックイベントみたいだ、と、妙に感激する。

 そろそろ、この曲も終わりに近い。武藤が渾身の力でハイハットとスネアをかぶせて叩くのを合図に、加藤も体を揺らしながらリフを弾き始める。咲のベースがさらにタイトなリズムをはじき出す。僕は最後のフレーズを歌い始める。


      走りたくて走るでもない

      (ヤメナイデクレ、ヤメナイデクレ)

      弾きたくて弾くのでもない

      (ヤメナイデクレ、ヤメナイデクレ)

      歌いたくて歌うでもない

      (マケナイデクレ、マケナイデクレ)


      腹の底から湧き上がるこの不思議なココロで!


      レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!

      レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!

      レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!

      レ・トゥ・トゥ・ダ・ダ!



 ギター、ボーカル、ベース、ドラム、それぞれが、自分の一番気持ちのいい音を奏でながら、曲を終えた。


 拍手と、指笛の中、僕たちは全員でお辞儀をして、マイクスタンドの前から離れた。


「やるな、4LIVE」

 セッティングに向かう‘枯井戸’のボーカル、加賀谷さんに声をかけられた。そして、僕のべったりと額に張り付いた前髪を右手でくしゃくしゃとしながら、

「やりすぎだ」

 と笑いかけてきた。

「これじゃ‘前座’じゃなくて、‘先発’・‘中継ぎ’・‘抑え’みたいな感じになっちゃったじゃないか」

 本当にそう言ってくれているのなら、とても光栄だし、嬉しい。僕は加賀谷さんに向かって「頑張ってください」と、笑顔で声をかけた。

「もちろん」と言って、加賀谷さんも笑顔でマイクスタンドの前に立った。


その5


 僕たちは、枯井戸とAcid Voiceの演奏を会場の袖の方で観た。

 僕たちの演奏の途中くらいから、BARのお客さん以外にもイベント広場の周りに人が集まって来ていて、演奏を聴いていた。お酒を注文しなくても、この鷹井市と商店街を盛り上げるのが目的のイベントだから、タダ見も無論、OK。通りすがりのサラリーマンの人はもちろん、大学生っぽい人たちや、高校生もいるようだ。みんな、夏の夜の思い出になるだろうと、立ち寄ったのだろうか。よく見ると、塾帰りの中学生風の子らも「なんだろう?」という感じで、自転車にまたがったまま、ちらちらと見ている。

 枯井戸の演奏は驚いたことに、3曲ともバラードだった。しかも、その内の1曲は、‘キャッシュ’のそれも初期の作品ではなく、つい最近ヒットした曲だった。どんな演奏になるのだろう、と僕は興味深く凝視した。

 凄かった。カバーによって、原曲の力を却って思い知らされた、という感じだ。何の思い入れもなく適当にyou-tubeから引っ張って、まるで自分達の曲のようにカバーしていた自分が恥ずかしくなる。数々のバンドたちに申し訳ないと謝りたくなるような気分だった。

 おそらく、キャッシュは加賀谷さんの青春そのものなのだ。リスペクト、なんていう流行りの言葉ではなく、キャッシュの浮き沈みは、これまでの加賀谷さんの人生の浮き沈みとも符合していたのではないだろうか。残りのオリジナル2曲は、サラリーマンの人たちはグラスを片手に、目を閉じて、しみじみと聴き入っていた。加賀谷さん自身が働いている大人であり、ストレートに観客たちの心と枯井戸の心が繋がっていく、静かな一体感にイベント広場全体が包まれた。

 そして。Acid Voiceを観て、僕は泣きそうになった。Acid Voiceは4曲。神谷さんたちは、渋い曲を聴かせるのかな、と思っていたけれども、見事に予想を裏切り、涼やかなロックナンバーばかりだった。僕たちほどアップテンポな曲はなかったが、僕たち10代の演奏が古びたものに思えるような、みずみずしく、走り抜けるような爽やかさに満ち溢れた演奏だった。MCも、言葉少なではあるが、若者を希望に奮い立たせるような、カッコよさと誠実さを併せ持ったものだった。特に、神谷さんのギターを聴いて、どうやったらこんなことができるんだろう、と目を見張った。様々な奏法を柔軟に組み合わせ、とても一人で弾いている音とは思えない幅の広がりがあった。それでいて、ギターを完璧に弾きながら、ボーカルも澄み切った声で歌い上げる。ベース、ドラムも完璧で、バンドの演奏自体が、軽やかさと、底知れない深みを同時に感じさせるものだった。以前マスターの言った、

「人生経験、てやつが滲み出るんだろうな」

という言葉が、現実のものだと、はっきり知った。もし僕が音楽業界の人間なら、今すぐにAcid Voiceを口説いてデビューさせる。


その6


 3つのバンドの演奏が終わった後も、1時間くらいはまだBARの営業時間がある。

 みんな、お疲れさん、とマスターが3バンドをねぎらう。

 客席が少し空いてきたからテーブルに座って軽食でもどうだ、と声を掛けられた。

「・・・ちょっと、お願いがあるんだけど」

 咲がそこにいる3バンド+マスターの前で、恐る恐る、という感じで言った。

 ん、何?という感じでマスターは軽く問いをかける。咲はゆっくりと話し始める。

「あの、一番前の右端にいたおじいさんと、ちょっと話がしてみたいんだけど・・・

 一人じゃ心細いから、一緒に来てくれないかな・・・」

 皆、一斉にそのテーブルを見る。僕たちの演奏の時に、泣いているように見えたあの老紳士はまだ一人で静かにグラスを傾けていた。

「話して、どうするんだ」

 マスターはちょっと、怖い感じのトーンで咲に訊く。

「え・・・ただ、少し話してみたいだけ・・・・」

「なんで泣いてたんですか、って訊くのか?」

 マスターも気が付いていたのだ。咲は俯いて黙ってしまう。

 マスターは視線をその老紳士の方にもう一度向ける。

「お前ら、あの人の話を真剣に聞けるか?」

 マスターは4LIVEの4人を見て、静かに、真面目な顔で訊く。

 思わず、僕が、うん、と頷いてしまった。

「誠実に、聞けるか?」

 今度は、咲と僕が頷く。

「辛い話でも・・・怖がらずに聞けるか?」

 どういう意味だろう?でも、どの人も辛いことはそれなりにあるはずだ。どんな内容のことでも、聞ける、いや、聞きたい、と思った。加藤と武藤はどうやら老紳士が泣いていたことに気付いていなかったようだが、マスターと咲と僕の遣り取りで、事情は呑み込めたようだ。僕らは4人全員でうん、と頷いた。

「分かった。4人で行っておいで」

 ‘行っておいで’なんていう子供を諭すような言い回しがマスターの口から出たことが驚きだったが、それだけあの老紳士のことも、僕たちのことも心配しているのだろう。

 僕たちは4人揃って老紳士のテーブルへ向かった。

「こんばんは・・・」

 咲が老紳士に声をかける。

 老紳士は、ふっ、と顔を上げ、途端に笑顔になる。

「ああ、あなたたちは・・・」

 そして、本当に恐縮なことではあるけれども、老紳士は、わざわざ立ち上がって、自分の方から僕たちに挨拶してくれた。

「私は、小谷、と言います。さっき、あなたたちの演奏を聴いて、感激してしまいました」

 僕たちも慌てて自己紹介を始める。

 室田です、加藤です、武藤です、白木です、と1人1人名前を言い、お辞儀する。

 小谷さんに勧められるままにテーブルに腰かける。

「どうです、飲み物でも?さっき、ステージで高校生とおっしゃっておられたけれども、ソフトドリンクならいいでしょう?」

 小谷さんが呼ぶ前に、急ぎ足でボーイが近づいてきて、僕に話しかけた。

「ポピーのマスターから、バンドの皆さんの注文を聞くように言われましたので、ソフトドリンクのメニューから何か選んでください。お客様も何か追加でいかがですか?失礼でなければお聞きするようにと伺ってますので」

「いや、私はまだ自分の分があるので、結構です。皆さん、どうぞ」

 僕たちは、ボーイから軽食も勧められたが、喉ばかりが乾いていたので、男3人はジンジャーエールを、咲はオレンジジュースを頼んだ。

「私は、出善市で妻と二人暮らしでしてね。勤めていた会社を10年前にリタイアしてからは、こうして悠悠自適の生活ですよ」

 小谷さんは、低い、渋みのある声で、柔らかく自分のことを話してくれた。

「昔から音楽が好きだったのでね。ソウルミュージックとかブルースなんかが。若い頃、会社の出張でアメリカに行った時、アポロシアターに行きましたよ。無名の若い黒人デュオのステージでしたが、本当に魂が揺さぶられました」

 僕たちは、小谷さんの話を、ただ、軽く頷きながら、じっと聞いていた。

「妻が大都の‘友の会’に入っているので、会報誌で今日のイベントを知りましてね。お酒も入るので車でなく電車で来ました。年を取ると終電なんかに乗る元気もないので、鷹井駅の前のビジネスホテルに泊まって、明日、出善に帰ります」

 それから、小谷さんの実家は鷹井市だが、勤めていたのは商社の東京本社で、お盆や正月で鷹井市に帰省した時は必ず「カペラ」と「チェリッシュ」に行っていたこと、定年に併せて鷹井市の実家を引き払い、出善市に引っ越したこと、現役の時に出張で行った国は30か国ぐらいだということを話してくださった。

 僕たちの方は、それぞれの通っている高校、バンドの練習の様子、学校の勉強は大変ではないか、とかいうことを訊かれたりこちらから話したりした。

 かなり打ち解けてきたところで、咲が控え目に切り出した。

「あの、お聞きしたいことがあるんですが・・・」

 なんだろう、という顔を小谷さんは一瞬したが、ええ、どうぞ、とすぐに笑顔になった。

「すごく失礼かも知れないんですが、さっき、わたしたちの演奏の時に、泣いておられたように見えたんですが・・・」

 小谷さんは、僅かに顔を上げ、咲の目を見つめる。咲はその視線をできるだけ逸らさないように問いかけを続けた。

「わたしたちの曲は、泣いたりするような曲じゃなかったと思います・・・それに、わたしたちの演奏の技術も、感動で涙する、というにはまだまだ未熟なものです・・・

 もし、失礼でなければ、泣いておられた理由を教えていただけないでしょうか・・・」

 小谷さんは途中から目を閉じて咲の問いを聞いていた。咲の問いが終わってからもしばらく目を閉じたままでいたが、ゆっくりと目を開けて、答えを話し始めた。

「・・・おっしゃる通り、わたしは泣いていました。あなたたちの演奏を聴いて。そして、あなたたちの演奏する姿を見て。

 一言で言うと・・・・あなたたちが、妬ましかった・・・ということですね」

 僕たちは、どきっとした。


その7


 僕たちが表情を硬くするのを見て、すぐに、小谷さんは笑って僕たちの緊張を解いた。

「つまり、あなたたちの若さが羨ましい、ということですよ。

 正直、今日は、枯れたブルースでも聞かせてもらえるのかな、という期待でやって来たんですよ。そういう意味で言うと、すべてのバンドにいい意味で期待を裏切られた格好ではあります。最後の大人のバンドですら、本当に若さを思い起こさせるような清々しい演奏でした。

 けれども、特にあなた方の演奏する音・姿は私にはショックでした。残酷すぎる、と言ってもいいでしょう。

 これが、心のこもっていない演奏だったら、ふん、若さだけだ、と鼻で笑って気にも留めなかったでしょう。でも、あなたたち4人の演奏は、技術は確かにまだこれからの部分はあるかもしれないが、意思がはっきりと感じられた。「何のために」という意思が。そして、本当に丁寧に一音一音が心に響いて来ました。

 それと、曲はあなたが作ったんですね?」

 聞かれて咲は頷く。

「本当に、どれも美しい曲だ。すべてのメロディーに意味がある。しかも、ただ、楽しい、というだけで書いた曲でないということが分かる。生みの苦しみがある、ということが、私には分かる。それが、どのような苦しみかまでは分かりませんが・・・・」

 咲は、じっと小谷さんの顔の方を見ている。少し、咲の目が涙で潤んでいる。だから、小谷さんの目ではなく、口元の辺りを見ているようだ。

「詩もあなたが書いたのですか?」

「いえ・・・室田くんが書きました」

 いきなり‘くん’付けで呼ばれて、僕はちょっとだけ恥ずかしい。

「そうですか・・・あなたも、あの詩を書くとき、辛い思いをしたでしょう?」

 小谷さんが、本当にそういう辛さを読み取ったのかどうか、半信半疑だったので、僕は率直に聞いてみた。

「確かに、前向きな内容ばかりではないですが、そんなにネガティブなことを歌ったつもりもありません。どうして、辛い、と感じられたんですか?」

「歌も、演奏も、みずみずしく、搾りたてのフレッシュジュースのようでした。甘酸っぱく、本当に、自分の青春すらこのまま取り戻せるんじゃないかと思うくらいでした。

 でも・・・私のような年になると、その中に微妙に混じっている‘苦味’も十分に味わえるんですよ・・・」

 やや抽象的な話に、僕が納得しかねている様子を見て、小谷さんはもう少し話を続けてくれた。

「おそらく、あなたたち4人全員に何か、人には言えないようなことがある、と、私は直感できるんですよ。これは、老人の特殊能力と言ってもいいでしょう。

 あまりにも眩い、青春そのものをあなたたちの姿で見せつけられて、ああ、素晴らしい、自分も思い出せた、と一瞬は天にも昇るような感動を覚えました。

 でも、その中に混じる‘苦味’が強烈なアクセントになって、次の瞬間には残酷な現実に引き戻されたんです。

 ‘私は、二度と戻ることができないものを、今、見せられている’、と」

 段々と、小谷さんの言葉の本当の意味が分かってくる。

「あなたたちは誰にも表現できないような‘青春’を曲と歌と演奏で見事に表現し切りました。でも、同時に、信じがたいことですが、人生を80年ほど生きた人間しか出せない、‘苦味’までその中に混ぜてしまっているんです・・・

 高校生でそれを出せるということは、並大抵ではない経験をたった十数年の人生で味わってきたということです。人間として、敬意を払います。

 それは、日常を生きるにあたっては、とても辛いことのはずです。ただ、表現者としては、おいそれと誰もが真似できない、あなたがた自身の最大の強みであることは、間違いない」

 僕たちは、しーん、と静まり返った中に座っていた。BARにまだ残っているお客さんたちの喧騒が遠い向こうのことのような不思議な感覚になる。

 けれども、小谷さんの、本当の話は、まだ、これからだった。

「言わないでおこうと思ったが、やっぱり、言わずにはいられない」

 小谷さんの声のトーンが上がった。

「あなたたちの辛い経験というのは、‘いじめ’でしょう?」

 僕たち4人全員、凍り付いた。

「1曲目・・・‘僕らの願い事が’という詩がメロディーに乗った時、確信したんで

す。違いますか?」

 小谷さんがさっきまでとは別の人ではないのか、というような、現実感に乏しい遣り取りが始まったように感じた。でも、誰かが、頷くか、声で返事するかしないと、僕たちはいつもまでも体が硬直したままでいなくてはならないような気がした。僕は、消え入るような声で、答えた。

「・・・おっしゃる通りです・・・」

 小谷さんは、すみません、と言って、話を続けた。

「私には女の子の孫がいました。一人息子の娘です。私は東京本社勤務で単身赴任。息子も別の商社勤務で海外への長期単身赴任が常で、鷹井市の家は妻と嫁と孫娘の三人暮らしでした。孫は、すぐそこの鷹井第一小学校に通っていました」

 偶然だが、鷹井第一小学校は、咲の通っていた小学校だ。

「孫娘が5年生の夏の夜、あの子は、自殺しました」

 体が、思うように動かない。瞬きすらできない。瞬きは反射のはずなのに。

「・・・嫁のスカーフを輪っかに結んで、自分の部屋のドアノブに引っかけて・・・・そこに首をかけていたんです・・・」

 咲が真っ白な顔をしている。

「嫁が見つけた時は、まだ息がありました・・・・

 嫁が孫を抱きかかえて狂ったように名前を呼んでいるのを妻が聞きつけて・・・救急車を呼んだのですが、病院に着く前に息を引き取りました・・・・

 その時、私も息子も、海外にいて、孫の最後には立ち会うことすらできませんでした。私らが帰国するのを待つため、葬儀を4日も先に延ばしました・・・

 孫の勉強机に、鉛筆で書いた丁寧な字で、自分で死を選ぶことを両親と私達祖父母に詫びる内容のメモが置いてありました。孫は、決して人の悪口を言ったりすることはない子でした。そのメモにも、誰が、ということは一言も書いてありません。ただ、友達との間にずっと辛いことがあった、ということまで書かないと、生きた証さえないような気がするので、何があったかだけは書かせてください、とありました。

 その内容を見て、私は、背筋が凍った。人前では言えないような内容です。もし、孫のメモの内容が全て事実だとしたら、小学校5年生の、しかも女の子たちが、こんなに残酷になり切れるのか、というものでした。同時に、私達は、孫の両親、祖父母として、一体何をしていたんだろう、と途方に暮れてしまいました。

 嫁は可哀想だった。重度のうつ病になってしまいました。いじめを追求する、なんてことを孫のクラスや学校全体で一応やったようですが、もはや、それどころでは無かった。

 息子と嫁は離婚しました。嫁の実家のご両親が、嫁を引き取りに来ました。私と妻と息子の三人は、実家のご両親に罵倒されました。でも、嫁は、私と妻には、すみません、すみません、と言って泣いていた。ただ、息子には一言も何も言わないまま、実家に帰っていきました。

 だから、私は、孫が命を絶った家にはとても暮らせず、出善に移ったんです・・・

 息子は今も海外の出張先を転々としています。わざと治安の悪い国への駐在を志願しているらしい・・・

 孫は死にました。

 でも、孫と似たような境遇であろうあなたたちは生きている。

 美しい曲を書き、心を震わせる歌を聴かせてくれた。

 それが、あなたたちの現実だ。あなたたちがただ中にいる青春だ。

 でも、そのあなたたち自身が、青春の脆さをつきつける。老成した‘苦味’で、現実をつきつける。

 孫の青春は二度と戻らない。

 私も、妻も、息子も、嫁も、二度と戻れない・・・・」

 小谷さんは、「土曜の午後から」の時とは違い、涙は流していなかった。顔面は蒼白だが、見ようによっては、冷酷、と言っていいくらいに冷静な表情に見える。

 僕は、まだ、動けない。動けないのだが、なぜか、咲がどうなっているか、気になって気になって仕方がなかった。首の筋肉をありったけの力で無理な方向に捻じ曲げるようにして、斜め後ろにいるはずの咲の方に向ける。

 咲の顔面はさっきよりも真っ白だった。でも、表情は変わらない。眼も開けたままだ。声も出していない。

 ただ。

 その開いた両目から、軒先に突き出た雪が日に照らされて溶けだす融水のように、とめどなく涙が溢れ、頬を伝って細い顎の辺りからぽとぽととイベント広場の床に落ち続けている。咲の足下は涙で水たまりのようなシミができている。

 小谷さんは、咲の様子に気づき、はっ、とした表情になって、突然、ガタッと荒々しく立ち上がり、ほとんど小走りで咲の席に近付いた。そして、どうしようか、と一瞬躊躇した後、咲の肩をさすり始めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と、ちょっと信じられないくらいに取り乱した様子で、小谷さんは何度も何度も咲に頭を下げ、謝っては肩をさすり、さすってはまた謝った。

 まるで、70代の小谷さんが子供で、声も出さずに涙を流す咲が大人のような錯覚に陥る。

「ごめんなさい!」

 小谷さんは、どうしたらいいか分からない、という感じで、最後にまた謝った。

 その時になってようやく、咲は声を上げて泣き始めた。


その8


 機材も片付けられ、お客さんも皆帰り、イベント広場は静けさを取り戻している。

「送ろうか」

 マスターが僕たちに声を掛けてくれた。僕たちは咲の様子を窺う。咲のしたいようにさせてやろうと、ただそれだけだ。

「少し、歩きたい・・・・」

「そうか・・・・分かった」

 マスターは僕たちに顔を向けた。

「お前ら、咲を家まで送ってやってくれ」

 うん、と男3人は頷く。


 僕ら4人はぶらぶらと歩き始めた。22:30を過ぎたところだ。咲の家まではゆっくり歩いても、20分かからずに着けるはずだ。みんな心配なので、男3人は遠回りになるけれど、3人とも揃って咲の家までくっついて行くことにした。

 情けないが、咲にかける言葉は男3人の誰も思い付かなかった。マスターでさえ思い付かないのだから、仕方ない、と諦めるしかない。せめて、咲と一緒にいてやろうと思った。

 マスターには、小谷さんの話の内容を予測していたのか、訊いてみた。予測はしてなかったが、何だか胸騒ぎはした、とマスターは言った。マスターは、10数年前、鷹井第一小学校の女子生徒が自殺した、というニュースをはっきり覚えていた。それは夏休みの出来事、7月31日、つまり、10数年前の今日だった、と。おそらく、夏休みの、新学期までにはまだ時間のある内に、地獄のように辛い学校での日々を何とか解決する方法を必死に考えていたのだろう。それが死を選ぶという結論だったことに、とても切なくなったと言っていた。マスターの長男の健一さんは別の小学校だが同学年だったので、とてもショックで、その女の子が可哀想で仕方なかった、と語ってくれた。

「多分・・・」

 マスターはぽつりぽつりと語った。

「多分、小谷さんは、BARたかいが目当てだった訳じゃないと思う。

 自分の実家のあった場所を見に来たんじゃないかな。それが、どんな気持ちからなのかは分からない。見に来たことで余計に後悔の気持ちが起こったのは間違いないと思う。

 もちろん、音楽が好きなのは本当だろう。でも、あくまでも、ついでだったんじゃないかな」


 僕は話題をふらないといけないと思い、武藤に、「土曜の午後から」の演奏中、宙を見上げて何が目に入っていたのか訊いてみた。武藤は、ゆっくりと夜空を指さした。

「あれだよ」

 他の3人は武藤の差す指の先へ向けて顔をぐっと上げる。

 夜空には、欠けた細い月があった。

 ほとんど線のように細くはなっているが、薄く黄色がかった、けれども光の強いカーブの月があった。

「イベント広場のガラス屋根の上に、ちょうど見えた」

 大都と立体駐車場に挟まれたイベントスペースから、ビルの隙間を縫って、かなりの絶妙なタイミングで月がそこの位置にあった、ということだ。

「でも、すごい余裕だね」

 月を見る余裕があった、ということに感歎し、加藤が武藤に少し笑みを浮かべた顔で言った。

「今日の演奏、良かったよね」

 僕は武藤の余裕からも感じられたように、率直な感想を呟いた。

「うん、良かった」

 加藤も同意する。

「叩いてて、こんなに気持ちよかったのは、初めてだよ」

 武藤は軽くスティックを振る真似をする。

 咲は・・・

「咲は、どうだった?」

 僕は、思い切って、咲に訊いてみた。

「わたし、嬉しかった」

 思わぬ咲の答えに、僕だけでなく、男3人、ちょっと驚いて、咲の方を見た。そもそも、咲が言葉を返してくれなくても仕方ないかな、というつもりで声をかけたので。

「バンドやってて、良かった、って思った。4LIVEって、ちょっといいな、って。

 ありがとう・・・」

 咲の表情は・・・やや複雑だが、ほほ笑んでいる。なんだか、普段のクールな感じとはちょっと違う笑顔。涙で頬を濡らした後だからだろうか?

「大丈夫?」

 加藤が咲にもう一声掛ける。もちろん、小谷さんとのやり取りについての心配からだ。

 咲は笑顔のまま、頷く。

「うん、大丈夫。平気だよ・・・」

 それから、珍しく、咲は両手をぐっと上へ挙げて背伸びをした。歩きながら背伸びをする咲を横から見ると、より一層背が高く見える。咲の家は比較的街中にある。大都からポピーの方向へアーケードを真っ直ぐ抜け、その先もずっと真っ直ぐの道だ。背伸びした咲は、アーケード商店街のシャッターの締まった店の前を歩く。シャッターの蛇腹を目盛りに見立てて計ってみると、相当な高さに達している。咲は背が高いだけでなく、手足も長く、細い。

「室田」

「ん?」

 咲が唐突に僕に声をかけた。

「4LIVEって、何て意味なの?室田がバンド名つけたんだよね?」

 咲の問いに、僕は少し気恥ずかしかったが、一応正直に回答することにした。

「4はfour、4人の生命っていう意味ももちろんあるけど・・・

 ブラックミュージックのアーティストが’you’を’u’と表記したりするのと同じように、’4’も’for’の当て字のつもりもあったんだ。

 文法としては正しくないけど、for live・・・‘生きるために’、っていうつもりもあった・・・・」

「for live・・・生きるために・・・か」

 加藤が噛みしめるように呟く。

「わたしたち、生きてるんだよね」

 咲が真っ直ぐな姿勢で前を向いたまま、歩きながら男3人に問うた。

「うん、生きてる」

 僕はそう答えた。僕らが‘生きてる’という時、そこには無限の意味があるように、今日、感じた。小谷さんの話を聞いて。

 小谷さんが言ったように、おそらく僕たちは小谷さんのお孫さんと、ほぼ同じ境遇にあったと考えられる。僕たちは、今、こうして生きている。お孫さんとの、その違いが何なのかは、誰にも分からないし、思い付いた考えがあったとしても、決して口にしてはいけないと感じる。

「僕たちってさ」

 武藤がしんみりした声で聞く。

「友達だよね」

 以前、武藤は、同じ問いを口にした。その時、僕は皆に代わって、「分からない」と言ってしまった。僕は、今なら別の答えができるとは思うけれど、自分が言っていいのかどうか、判断できなかった。それを感じてかどうか、加藤が武藤の問いに答えてくれた。

「友達でもあるけど・・・4LIVE、っていう括りでいいんじゃない?」

「そっか」

 武藤は、本当にあっさりと納得してしまったようだ。

 真夏の月は、熱い空気の層の上に輝いているけれども、なんて涼しそうなんだろう、と、羨ましく感じる。


 咲を家の前まで送ると、咲のお母さんが心配して玄関先まで出て来た。咲のお母さんはしきりに僕たちにいつもありがとう、と挨拶してくれた。僕たちは咲のお母さんには、失礼します、と頭を下げ、咲にはじゃあ、またね、と手を振った。咲も、うん、またね、と、僕ら3人に手を振った。

 男3人の家路は、あとは散り散りに帰るだけなのだが、武藤が名残惜しそうに言った。

「もうちょっと、歩かない?」

 僕らは、月末の細い月の下を、もう少しだけ歩くことにした。


 それから。家に帰ってから、BARたかいの会場で会ったクラスメート3人の名前を、連絡表で確認しておいた。



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