第2話 「かげろう」

その1


 期末試験も終わり、後は夏休みまでこれといったこともない。相変わらず帰宅部なので、結局やることといったら、詩を書き、ギターとボーカルの練習をするだけだ。勉強も一応はしている。将来職に就くことや様々な社会生活を漠然と頭に描いてはいる。

 図書館司書、というのが職業として成り立つのかどうか、よく分からない。なんとなく、本を割とよく読むから、というだけで思いついたものであり、それ以外の特別な理由はない。

 詩を書くから「詩人」でもいいのかどうか。おそらく、「詩人」は、その人の状態・属性を指すのであって、職業ではないような気がする。

 同じように、作家やそもそもロックバンドだって、職業と言えるのかどうか分からない。

 だが、中3の時、ポピーでの出演をドタキャンした大学生バンドに向かって、「仕事を何だと思ってるんだ!」と叱りつけたマスターの言葉を思い出し、ということはやはりロックバンドも職業なのだろうかと考えてみる。

 ここまで思考を進めると、段々と寂しくなってくる。自分は高校生としては、どうなのだろうか、と。高校生ならばこの程度のことはもっとしっかりと考え、将来のために様々な取り組みや活動も行っているはずだ。焦りを感じ、ネットで何か役に立ちそうな記事が無いか読んでみる。あてずっぽうなので、特にこれといったことが見つかるわけでもない。

 おとなしく、自分がこれまでに書き溜めた「詩」っぽいもののノートを見返してみる。

 長くても数行程度の、ごく短い文章が並ぶ。気恥ずかしさを隠すためにあえて短い文章にしたものもいくつもある。

 こんなのがあった。

‘いつもひそかに生きてる。

 毎日控え目に生きてる。

 肝心かなめの言葉すら

 言えないくらいにひそかに‘

 これを書いた時、一体その日、何があったのか、どういう気持ちで書いたのかはもう思い出せない。今、改めて読んでみると、この言葉だけがノートから浮き上がって中空を飛んでいるようなイメージを受ける。自室にいるのが耐えられなくなってくる。理由もなく涙が滲んでくる。

 僕はMP3に落として貰った咲のPC音源を入れたウォークマンを、シャツの胸ポケットに突っ込んだ。リュックにノートとペンケースを入れて、自室から玄関に向かった。


その2


 自転車で近くを流れる川の土手の下までたどり着いた。土手の上に続くコンクリートの階段に足を踏み込み、自転車の車輪をその縁石の上に載せる。ぐっと力を入れて、自転車に乗ったまま登り切ろうと試みたが、ととっ、とペダルから足を外し、やはり無理か、と自転車から降りて手で押し上げて行った。

 土手の上にふっと登りきると、眼下には夏草が風に吹かれてさわさわと音を立てていた。その音の涼しさとは反対に、日の光が照度ではなく熱度を持って肌に直に感じられる。

 土手の上は細く舗装されたサイクリングロード兼ランニングコースとなっており、上流へも下流へもその地点からはずっと景色が遠くまで続いている。僕はここ数年はこの眺めを見た時から、「夏だ」と感じるのが恒例となっている。

 夏草の上に体育座りをして詩を書こうと思って来たが、この暑さではじっとしている方が却って体温が上がるような気がする。サドルにまたがり、ウォークマンで咲の曲を聴きながら下流に向かって自転車をこぎ始めた。

 みんなで決めた三曲を何度も何度もリピートする。

 僕がゆっくりと自転車をこぐ脇から、ロードレーサーが猛スピードで追い越して行った。

 ただ、さすがに炎天下をジョギングしている人はいない。

 ノートに書かれた自分の言葉を反芻していると、様々な思いが脳裏に、心に浮かんでくる。

 落ち込み。怒り。恥。自嘲。

 何か少しでもプラスの要素がないものかと思い起こそうとするが、どこからも出てこない。自分の感情を整理しないと詩は書けないぞ、とマスターは言った。

 それは、よく分かる。‘おめでたい’と自分が思っていたあのバンドは、若い人間の気持ちを代弁した歌を歌っている気になっているが、単に混沌とした自分の鬱憤を晴らそうとしているだけだと僕は感じた。だから、心に響かない。

 自分がノートに書き溜めたこの言葉は、一体自分の何なのか。他人にぶちまけて、それだけでいいのだろうか。

 30分ほどこぎ続けて、あと数kmで海、という所まで来た。だが、土手の舗装コースはここまでで、後は歩道の無い幹線道路を車を気にしながら走らないと海には出られない。

 僕はそこでUターンして上流へと戻り始める。

 その瞬間に、僕のノートの言葉の断片と、咲の曲がシンクロした。

 自分の自力から出ていた言葉が、脱力して咲のメロディーに合わせるように微妙に姿を変える。自分の発した言葉一語一語へのこだわりが一瞬に溶け去り、前後左右、倒置、言い換え、あらゆる手法で言葉の方から咲の曲に歩み寄って行くような、不思議な感覚。脳にかかっていた薄い膜がぺりぺりと剥がされていくような気がする。いや、気がするのではなく、自分の脳をコーティングしていた何かが取り去られた音を、はっきり耳で聴いた。

 自分の感情を整理する前に、咲の不思議なメロディーによって言葉が勝手に動き出す。

 咲のメロディーと重なった言葉のワンフレーズを、声に出して呟くように歌ってみる。

 自力で自分の感情を整理せずとも。今できたこの歌によって、それまで自分のこだわっていた言葉が、全く新しい意味を持ち始める。

 ワンフレーズで、自分自身の心が洗われる感覚。心にこびりついていた垢が、ちょっとの隙間から楔を入れることによってごそっとこそげ落ちたような快感。

 これまで僕が、どうしようもなく辛いときに「美しい」と、心を慰めてくれた幾つものバンドの幾つもの曲。

 詩単体でも、メロディー単体でも持ち得ない、「歌」の力。

 今、僕が口ずさんだワンフレーズが、少なくとも僕自身の心を洗った。

 他の誰かの心も洗えるのなら、バンドをやっている理由は、あるのかも。


その3


 僕は、恥ずかしかったが、マスターと3人の前で、アカペラでいくつかのフレーズを歌って見せた。3人は僕の顔をじっと見つめ、マスターは目を閉じて聴いている。

「やってみろ」

 マスターが僕たちに、スタジオにセットされたそれぞれのポジションに着くよう、促す。

 丁寧にギターの最初の一音を弾き、ドラム・ベース・ギターが曲を奏で始める。

 そして、僕は、できて間もない「歌」を歌い始める。

 僕たちの演奏が何か変わった訳でもない。けれども、歌がそれぞれの演奏を引っ張っていく。曲がそれぞれの手の動き、足の動き、抑揚すら引っ張っていく。ギターの一音、ベースの一音、ドラムの一音、に切ない気持ちが込められるような。

 僕は、まだ詩が埋まっていない虫食いの部分は、マスターが言ったように、出鱈目単語でメロディーに重ねた。だが、意味の無いはずの出鱈目歌詞の部分すら、「歌」として自分の気持ちを揺らし、抑えることのできない胸のくすぐったさを表現していく。

 僕たちの曲ではあるけれども、多分、自分達の所有物ではないのだろうと感じる。

 歌が、曲が、自立している。そして、演奏している僕たち自身を慰め、駆り立て、「さあ、行けよ」とぐいぐいと前に押し出してくれている。

 これでは、どちらが親なのか分からない。

 

 その日を含め、三曲とも、たった三日間で完成した。


その4


 「たかい夕涼み」一連のイベント開始の当日、僕たちは朝一番に、アーケード商店街の氏神様である、この市で一番大きな神社に集合するよう、マスターから指示された。もう夏休みに入っていたが、それぞれの高校の制服を着て集合するように、という指示だ。

 イベントの成功を祈願して、関係者一同、お祓いを受けるのだ。僕たちの出番は四日後。僕たち以外の二組のバンドは仕事を持ちながら活動しているアマチュアだが、30代の「大人の」バンドだ。お祓いのためにワイシャツにきちんとタイを締め、濃紺か黒のスラックスを履いている。

 「BARたかい」だけではなく、一週間を通して行われるすべてのイベントの関係者が一同に集まるので、100人近い人数が、早朝とはいえ既に暑い日の下、正装をして静かに談笑しながら神前で待っている。

 商店街組合の役員、まちづくり法人のスタッフ、飲食関係の受注を受けたデパートや近隣の飲食店関係者、僕たちのようなイベントの出演者等、一つのイベントを成し遂げるのにこれだけの人間の力をもって当たらないとできないのだ、という事実に、軽い衝撃を受けた。

 そして、こうして神前で、実は神様の力を以てしないと成し遂げられない、と、いう更に厳粛な事実が、そういうこととは一番遠いのではないかと勝手にイメージしていた僕たちロックバンドにも当てはまる、という不思議な感覚に、全く次元の異なる世界を示されたような感動すらあった。

「おはよう」

 男三人で緊張しながら端っこで佇んでいたところに、咲がやって来た。

 咲の鷹井高校の夏服は、白いセーラーで濃紺のリボンに、スカートは涼しさを出すためだろうか、紺色だが、やや薄い明るめの色だった。

 よく考えてみたら、高校に入ってから僕たち四人は、それぞれの制服姿をほとんど見たことがなかった。ポピーはそれぞれの家から等距離にあり、水曜日の練習は夜なので普段着に着替えてくるし、土曜日の練習は午後三時頃だが、午前中に補習で登校したとしても、十分着替えて来る時間があるからだ。土曜日、補習が長引いて制服のまま咲が練習に来たことがあったが、その時は冬服で、咲の夏服姿を見るのは初めてだ。

「マスターは?」

 咲の問いに、加藤が向こうの方を指さす。

 マスターは商店街の組合長である洋装品店の社長と笑いながら話し込んでいる。マスターは商店街組合の理事の一人なのだ、ということを今回初めて知った。

「間もなくお祓いを行いますので、社殿の中にお入りください」

 神職が一同に向かって声を掛ける。マスターが僕たちの方に歩いてきた。

「さあ、行こうか」

 僕たちを引率するようにマスターが前になって社殿への階段に向かう。

 僕たちは、今朝のマスターを見て、何だか別人を見るような気がした。

 マスターは普段からだらしない恰好は決してしてはいない。職業柄、ラフな服装ではあるけれども、清潔で誰と応対しても礼儀を感じさせるいでたちをしている。

 だが、今、上下濃紺のスーツに落ち着いたネクタイを締め、きれいに磨き上げられた革靴を履き、髪をバックにしたマスターの姿は、神社の鳥居の上に昇っている朝日を受けて、眩いぐらいの感じがする。

 僕たちの目の前にいるマスターは、紛うことなき、一人の「大人」だ。


その5


 100人が整然と社殿の中に上り、赤い毛氈が敷かれた床に正座した。

「鷹井市中曲輪町一丁目二番五号に住まいし‘まちづくり鷹井’の祈願せし・・・」

 神職が、イベント主催者であるまちづくり法人の住所と名を読み上げ、その誓願を神様の前に申し上げ、祝詞を上げる。その間、一同は頭を垂れたまま、厳粛に座っている。

 神職がお祓いをし、まちづくり法人の代表取締役が玉串を捧げ、式が終わった。

 100人がぞろぞろと社殿から外に出ると、日は既に真夏の太陽として中空高く昇っていた。マスターが「BARたかい」に出演するバンド3組に声を掛けて来た。

「朝メシ、まだだろ?チェリッシュのモーニングでよければ驕るぞ」


その6


 3組のバンドはマスターに率いられて、イベント広場に面する老舗喫茶店「チェリッシュ」の店内中央にある大テーブルを取り囲んで陣取った。チェリッシュも今回のイベントに軽食等を提供する協賛店だ。大テーブルの中央には、小ぶりの向日葵と夏草を思わせる可愛らしい花が活けられた卓上タイプのプランターが飾られている。

 全員40歳前後と言っていた3ピースバンドの「Acid Voice」、30代前半で全員既婚者だと言っていた4ピースバンドの「枯井戸」と僕たち「4LIVE」のバンド3組が、お誕生会の席上のように皆で顔を突き合わせている。マスターはその中央、というよりは、端っこでプロデューサーか何かのような顔をして座っている。

 まずは皆で自己紹介をする。それぞれのバンドのフロントマンが各バンドのメンバー紹介をすると言った体で、紹介されたメンバーは「ども」とか、「よろしく」と軽く挨拶する。

 僕たち以外の2組はさすがにこういった遣り取りには慣れているようで、まるでステージ上のMCを観るようなスマートさだ。僕が苦手とする遣り取りだ。

 僕は、自分のことを4LIVEのフロントマンだと思ったことは一度もない。単にボーカルだからマイクスタンドがバンドの中央のポジショニングだというだけで、許されるものならば、ドラムの後ろで歌ってもいいぐらいだと思っていた。けれども、先輩バンドを前にして、ぐだぐだと迷っている暇などあるはずもない。

「4LIVE、ボーカル・ギターの室田です、よろしくお願いします・・・」

 そう言った後、何か気の利いたことを言おうと思うが、本当に頭の中が白紙で、仕方なく残り3人の方を振り返って、棒読みで紹介する。

「こっちは、ギターの加藤です・・・」

 僕の抑揚の無い紹介を受けて、普段はそこそこクールなイメージのあるはずの加藤が「おがいしゃーっ」と意味の分からないしどろもどろの音声を発して、頭を下げる。

「・・・ドラムの武藤です・・・」

 こんにちは、と武藤は長閑な挨拶をして場を和ませる。

「彼女は、ベースの咲・・・」

と言って、あ、余所行きの挨拶なら「咲」でなく、「白木」と紹介すべきだったかな、と僕がどうでもいいことを考え始める間もなく、

「白木 咲です・・・よろしくお願いします」

と、咲は男どもとは比べ物にならない落ち着いた声で、素都なく社交性の片鱗を見せた。

 咲の挨拶の時、そこに居合わせた残り2組の先輩方の反応は、男3人に対してとは明らかに異なり、軽く、「ほおー」と声を出す人さえいた。

「紅一点だね」

 テーブルを取り囲んだ男11人と、女1人。ちょっとだけ異様な感じがするが、テーブル上の向日葵と夏草っぽい花がその雰囲気を中和している。花は、咲のためだけに用意されたもののような気がして、自分でも何となく納得した。そして、咲の身長を含むルックスと、それ以外の3人のメンバーのバランスの落差が先輩方の驚きの理由だということは、容易に想像できた。

 それから、しばらく、全員で音楽談義をする。といっても、4LIVEのメンバーは、ほとんど、「はい」と「いいえ」と「へえー」以外の言葉を口にすることが無い。

 マスターは苦笑いしながら、僕たちに助け船を出す。

「こいつは、「キャッシュ」が嫌いなんだよ」

 マスターが僕の肩をぽんぽん叩きながら、あの‘おめでたいバンド’の名前を出した。

 すると、枯井戸のボーカルが、鋭く反応する。

「えっ、なんで?」

 この人はおそらく「キャッシュ」が好きなのだろう。マスターはそれを知って話題を‘提供’したのだ。僕は、何か答えないと、余計気まずくなると考え、自分の思っていることをできるだけ柔らかな言葉で表現しようと、言葉を探り始めた。

「いや・・・‘前向き’すぎるから、何か‘本当’じゃない気がして・・・」

 言葉は選んだが、内容は十分に無礼で直接的なものになってしまい、枯井戸のボーカルの反応を恐る恐る待っていた。

「そうか・・・確かに捻りも工夫も無いような歌ばかりだからな・・・」

 彼は真顔で僕に向かって呟くように言った。

「ところで、室田はキャッシュの昔の歌は聴いたことあるの?」

 枯井戸のボーカルの切返しのような問いに、僕は、えっ、と一瞬言葉に詰まった。

「いえ、ないです・・・」

 そう答えると、彼は、そうだろうそうだろう、という感じの満面の笑みを浮かべ、雄弁

に語り始めた。

「キャッシュはデビューしたての頃は、‘鬱バンド’とか‘性根曲がり’とか言われてたんだよ」

 へえー、と、加藤が条件反射のように、僕の代わりに相槌を打ってくれた。

「大体、バンド名が‘現金’だぞ。それだけで単なるポジティブバンドじゃないだろう?」

 彼はコーヒーを立て続けに啜り、カップを小気味良く、タン、とテーブルに置いた。

「20年ほど前、キャッシュがデビューしたての頃、ラジオで曲を聴いてさ。凄いバンドだ、ってびっくりして、わざわざ東京までライブを観に行ったんだ」

 僕は、キャッシュのことより、おそらく当時中学生だったであろう彼が、東京にバンドのライブを観に行くことを親が許す、ということに異世界の物を観るような気がした。

「プロデビューしてるとは言っても、鳴かず飛ばずで、ライブ会場はポピーよりもしょぼいライブハウスだったんだよね」

 やかましい!、とマスターが合いの手を入れて、皆笑った。

「客がたった20人ほどでさ。俺、段々危ないところに来たんじゃないかなって怖くなって。

 8曲演ったんだけど、6曲は期待通りの、殺伐とした気だるい感じの超後ろ向きの曲で。

 おおー、やっぱりこいつら違うよな、凄いよな、って感激したんだけど。

 ラスト2曲がさ、え、何これ、って感じなんだよ」

 「お、それ、俺も初めて聞く話だな」、と枯井戸のベースも面白そうにコーヒーを啜って興味を示している。

「ラスト2曲が始まる前に、3人のバンドメンバーの後ろから、キーボードのスタンドをガラガラ押して、何だか可愛らしい背の低い女の子がちょこん、とベースの脇辺りの位置に突っ立ったんだよ。

 何する気だ?って思う間もなく、いきなり演奏が始まって。

 ギターの音もベース、ドラムもいつもの殺伐・轟音なんだけど、そこに、やたら切なくてキャッチーなキーボードが割り込んでくるんだ」

 彼はそこで、大げさに皆の顔を見まわして、続ける。

「その子がまた凄いんだ。鍵盤を叩く指が見えないぐらいの速弾きで。

 でも、その速弾き・複雑なメロディーが、一度聴いたら忘れられないぐらいキャッチーで」

 珍しく咲が反応している。もっとも、4LIVEのメンバー以外が見たら気付かないぐらいの微かな視線の動きなんだが。

「それで、もっと驚いたのが、水谷(キャッシュのボーカル・ギター)の歌がさ・・・

 まるで別人の声みたいに、きれいな声なんだよ。その前の6曲のしゃがれた声じゃなくて。歌詞は全部は聞き取れなかったけど・・・

 でも、俺は、こんなのキャッシュじゃない、って思って。これは、他のバンドにやらせときゃいいだろ、って感じて。

 その7曲目が終わって、水谷が突然MCを始めて。

 「次は、最後の曲。何か質問は?」

って。

 俺は、つい、反射で、何、今の?みたいな感じでステージに向かって大声で‘質問’して。

 「これも、キャッシュだよ」って、俺の腹の中を見透かしたように水谷が答えて。

 そしたら、他の客が、誰、それ?って、キーボードの女の子のことを訊いたんだ。

 「こいつも、キャッシュ」って、水谷が言った瞬間、ドラムがリズムを叩きだして。

 音は馬鹿でかいんだけど、それまでの単音・割れた音、みたいな感じと明らかに違うドラミングなんだよ。‘柑橘系’なんて上手い表現をした音楽雑誌の記者がいたけど、スネアとスネアの間隔を極力詰めた、流れるような疾走感があって。

 そこにキーボードの超速弾きと、ベースも隙間の無いドラミングを埋めるように手数の多い速弾きで。それで、水谷もガーンとギターの最初の音を鳴らした後は手の動きは見えないくらい速くて。でも、メロディーは、複雑だけれども、はっきりした、一度聴いたら忘れられないメロディーなんだよ」

 そこで、枯井戸のボーカルは一旦コーヒーを飲む。珍しく、咲も、はっ、としたような表情になり、慌ててコーヒーを飲んでいた。別に、話を聞きながら飲めばいいだけなのに、と思うが。でも、そういう自分も、つい反射でコーヒーカップを急いで持ち上げて一口飲んだ。

「ラストの曲が終わって、観客は拍手も忘れて呆けてる、って感じだった。そのまま水谷を先頭に、キャッシュのメンバーはみんなさっさとステージ袖に引っ込んだけどね。三人の後を追って、その女の子がちょこちょこと後をくっついて行くのが、なんだか可愛らしかったな」

「その女の子は誰だったんですか・・・」

 僕は、咲が声を出して質問したことに驚き、一瞬、体をびくっ、とさせた。

 枯井戸のボーカルは咲の方を見て、おっ、さすがに興味あるみたいだね、と言い、解答を言った。

「水谷の妹だよ。その時は中学二年生だったらしい。

 今は結婚して姓が変わって、‘葛西 ゆうき’。ピアニスト。クレジットには出ないけれども、キャッシュのレコーディングでは今でもキーボードを弾いてるよ。ライブにも時折顔を見せるみたい。

 ピアニストとして、どのくらい有名なのかは俺はちょっと分からないけど」

 なんとなく、僕たち3人は、咲の方を見た。‘葛西 ゆうき’って知ってる?っていう無言の問いの意味で。

「葛西 ゆうき・・・知ってます。ピアニストとしては有名、ではないかもしれませんけれど、結構色んなバンドのレコーディングに参加してて・・・

 彼女のキーボードのパートだけを抜き出して曲にして欲しいくらい、好きです・・・

 でも、妹、って知りませんでした・・・」

 マスターが咲に訊く。

「咲が曲を作ってたのは、もしかして葛西 ゆうきの影響か?」

 咲は素直に、うん、と頷く。

 マスターは苦笑いしながら、僕の方を見る。

「結果的にキャッシュのお蔭でできた咲の曲で、キャッシュの嫌いな室田が歌う・・・

 面白いな」

 枯井戸のボーカルも、なぜか、僕の方を見て笑いかけ、そして、僕に訊いた。

「室田の好きなバンドは?」

 僕は、恐る恐る答える。

「・・・ekです・・」

 僕は、「フン」、とでも言われるのかと思ったが、枯井戸のボーカルは、明るく笑って答えてくれた。

「ekか・・・いいバンドだよな。俺も大好きだよ。

 自分の感性で好き・嫌いを選ぶのは、とても大事なことだ。

 ただ、バンドが全てを賭けて作った曲を‘駄目だ’と言うのなら、言う側もきちんとした覚悟で言わないとな」

 僕は、何も言い返せなかった。


その7


 それにしても、軽く朝食、のはずが、結構長い時間話している。いつの間にかモーニングのトーストや目玉焼きの皿は下げられ、それぞれの前にはお代わりしたコーヒーだけが置かれている。まだまだ話は続いた。今日は土曜なので、マスター以外の人たちは仕事は休みなのだろう。僕は、何だか仕事について訊いてみたいと思ったちょうどそのタイミングで加藤が訊いてくれた。

「仕事やりながら、バンド、って、時間、取れるんですか?」

 マスターが、Acid Voiceのボーカル・ギターの最年長、神谷さんに、‘神谷はどうだ?’と訊く。神谷さんは

「職場が東京だからね。週末に帰省した時にしか残りのメンバーと会えないから、割り切って土日だけで練習してるけどね」

と、低い声で教えてくれた。

「神谷さんはKey TECHNOSの本社営業部長だからね」

 枯井戸のボーカルがそう解説してくれたのを聞いて、僕たちはびっくりした。Key TECHNOSは音響機器メーカーの中では国内最大手の企業だ。僕の父親が勤める会社の親企業でもある。その本社営業部長、しかも、おそらくは40代前半というこの若さで。

 枯井戸のボーカルは更に続ける。

「マスターは昔、key TECHNOSの技術課長だったんだよ」

 それを聞いてさらにまた僕たちはびっくりした。マスターの前歴を聞いたことは確かに無かったが、サラリーマンで、しかも超一流企業の管理職だったとは。

「近藤さんは僕の上司だったんだよ」

 Acid Voiceの神谷さんがマスターのことをそう言うと、僕たちはまた一旦びっくりして、それから、成程、と種明かしを聞いたような気分になった。

「昔々の物語だよ」

 マスターはなんだか照れているようだ。僕は話の続きが是非聞きたい、と思っていたところへ、武藤がタイムリーに、

「その物語を聞かせてください」

と頼んでくれた。


その8


 神谷さんはゆっくりと話し始めた。

「近藤さん・・・マスターは、僕が新入社員の頃に技術課長だった。とにかく、楽器という楽器のことに精通してて、ギターやベース、ドラムなんかのロックだけでなく、ピアノはもちろん、管楽器にしたって、サキソフォンだけでなく、クラシックの分野にも知識と技術が及んでた。もっと凄いのは、そういった何十種類もの楽器を大概演奏できた、ということだよ」

 マスターは、足を組んだまま、手をぶんぶんと振る。

「違う、違う。ほとんどの楽器はドレミファソラシドを弾ける程度だよ」

「いや・・・・僕は近藤さんが参加してた市民オーケストラでトランペットを吹いているのをこの目で見ましたからね・・・

 かと思えばジャズバーでサックスを染み入るように吹いていたのも見ましたよ」

 マスターは‘違うんだけどなあ・・・’と呟きながらも、観念して神谷さんに思うままに話させることに腹を決めたらしい。

「東京本社の技術課は、製品開発に直接携わる研究チームと製品を購入してくれる顧客へのフォローをする顧客対応チームとに分かれてて、近藤さんは顧客対応チームから双方を統括する課長になったんだよ。

 たとえば、この市のクラシカルホールはスピーカーからミキシングシステムまですべてkey TECHNOSの製品が納入されてるけど、これの受注・納品から据え付け時、据え付け後の技術指導までを近藤さんが昔やったんだよ。クラシカルホールはクラシックだけでなくロックコンサートもやれば演歌もやる。そういった異なるジャンルで使っても最高の音質になるようにセッティングするには、音楽というものを知り尽くしている近藤さんのような人じゃないとできない仕事なんだ。

 それで、僕は近藤課長のもとで、部下として働いてた。同郷だということもあったし、可愛がってもらったよ。僕の側からは尊敬し、目標だったしね。この話は加賀谷くんにはしたことあったかな?」

 加賀谷、と呼ばれて枯井戸のボーカルが反応するのを見て、ああ、そういえば、さっき自己紹介の時に名前がはっきり聞こえなかったけれど、枯井戸のボーカルの人は加賀谷さんだった、と、僕は大変申し訳なく思った。

 加賀谷さんは、いや、そこまでは聞いたことないです、と答える。神谷さんは続ける。

「でもね、近藤さんは、すぱっ、と辞めちゃうんだ。39歳の時でしたね。はっきり言って僕はショックでしたけどね」

「え、何で辞めたんですか?」

 加賀谷さんがさももったいない、というような顔をして質問した。神谷さんはマスターの顔を見て話し始める。

「僕から説明していいですかね?近藤さん・・・」

 マスターの、何でもいいよ、というような頷きで神谷さんは話し続けた。

「近藤さんのお父さんがくも膜下出血で倒れてね。後遺症が残って介護が必要になったんだ。近藤さんの妹さんももう、県外に嫁いでたし。近藤さんは色々と考え、奥さんとも話し合った末に、実家に戻ってご両親と同居することにしたんだ。近藤さんの奥さんは、お母さんと一緒に、お父さんの介護をする、と決心した。近藤さん・・・マスターも、もちろん、仕事が終わった後や時間の許す限りお父さんの介護をしたい。さあ、そこで、だよ・・・」

 神谷さんは、なぜか僕の顔を見る。そして、また口を開いた。

「介護をするとなると、家から通えて転勤もない、っていう仕事を探さないといけない。

 サラリーマンとしてはそんな都合のいい職場はそうそうない。地元企業と言ったって、他の県に支社や営業所があれば、転勤の可能性は当然ある。もちろん、ホームグラウンドはこの県だから、帰着点は故郷、ってはなるけども。マスターの場合は、今も先もずっと実家のそばにい続ける、っていう条件が必要だった。

 運のいいことに、というか、そんなに運はよくなりそうにはないけれど、というか。

 この商店街がちょうどシャッター商店街になりかけた頃で、この市では伝統あるライブハウス、‘ポピー’も、マスターの前のオーナーが、営業を辞めよう、って考えてたところだったんだよ。そんな時、Uターン転職しようとしてるマスターと前のオーナーの間に入ってくれたのが、ムロタトシキさんだよ」

 僕は、ん?、と思った。‘ムロタトシキ’、聞き覚えのある名前だ。

 マスターが苦笑いしながら僕に声をかける。

「室田。室田 俊樹。お前のお父さんだよ」


その9


 ええー?という感じで加藤と武藤が驚いてみせている。咲はええー?というような咲らしくないジェスチャーは決してしないが、それでも普段はクールな眼を少し丸くしているように見える。しかし、一番、ええー?と大声を出したいのは僕だ。

 神谷さんに代わって、ようやくマスターが自分で話し始める。

「室田のお父さんは、うちの子会社のやり手営業マンだった。県内のありとあらゆる音楽施設、それこそ、小中高の音楽室に至るまで把握して付き合いがあってな。当然市内で一番の老舗ライブハウスだった‘ポピー’の前オーナーとも友達みたいなもんだった。

 俺が市のクラシカルホールの仕事をやった時も、室田のお父さんに頼んで、色んな方面との橋渡しをやってもらったよ。

 そんなこんなで、俺が相談したら、じゃあ、自営業者にならないか、って言って来てな。

 よく聞いたら‘ポピー’の跡を継がないか、って話だったんだよ。

 ただ、商店街自身がさびれて、ライブハウスの客も減り続けてた。自分がやったって、うまく行くかどうか分からなかったけどな。

 ほんとはオーナーはライブハウスの土地と建物を俺に売りたかったんだよな。まあ、それまでの貯金と退職金でなんとかなりそうな金額ではあったけれども、父親の介護にどのくらい費用がかかるか見えない部分もあったからな。だから、買うんじゃなくって、賃貸にしてくれ、ってオーナーに頼んだんだ。設備だけはお金で譲渡してもらう形にしたけどな。だから、店の不動産としての所有者は今でもオーナーだよ。俺はあくまでもそこを賃借してやってるだけ。それで、ライブハウスだけじゃ収入が不安だから、隣の廃業してたお茶屋さんの小さい店舗も賃借して、中を改装して一階を楽器屋に、二階をスタジオにしたんだ。結局、俺の店は、全部借り物だよ」

 僕は、何だか不思議な気分になった。中1のときの轟音叩きつけの時まで、僕の父親が自分のことをほとんど何も知らなかったのと同じように、僕も父親のことをほとんど知らない。なんだか、ああ、馬鹿だったな、という気分になる。

 神谷さんは、少し寂しそうにまた話し始めた。

「僕は、マスターほどの決断はできない・・・

 僕は母が早くに亡くなって、父親が残ってるだけなんだけど・・・

 父親は70代前半なんだけど、母親が亡くなってから、心身共に急激に弱ってしまって。

 認知症、ではないんだけど、火の始末とかも正直心配で、独り暮らしはさせられないかな、と。なので、グループホームに入居させてるんだ」

 マスターは、神谷さんの話を、目を閉じてじっと聞いている。

「ほんとは東京のグループホームに入居させようとしたんだけど、故郷を離れるのだけは絶対嫌だと言い張ってね・・・・

 確かに、生まれ育ち、学校から仕事から友達、そして自分の女房まで全部県内での人生だったからね・・・

 だから、僕は、罪悪感にかられる部分もあって、週末には帰郷するようにしてるんだ。Acid Voiceの練習、っていうのも自分への動機づけにしてね」

「難しいですよね・・・」

 枯井戸のボーカル、加賀谷さんが、さっきまでとは違う、シリアスな感じで呟いた。

「俺は、図らずも地元で就職して、働きながら地元の仲間たちとバンドや色んな行事や遊びで関わりながら、地元で生きてる。別に、親の面倒を見ようとか、地元のためにとか意識したわけじゃないですよ。自然に、こうなっただけで、はっきりいって、何も考えてない。

 でも、マスターや神谷さんは、悩んで苦しんで、今の選択をしてますよね・・・」

「おい、4LIVEよ」

 マスターが唐突に僕たち4人に声を掛けた。‘4LIVE’と、まとめて呼ばれると、なんだか改まった感じがする。

「お前らはこれからどんな進路を進むのか分からんけど、ここでこうやって集まってるみんなは、別に親孝行、とか、家の跡を継ぐ、とかそういうことのためにやってる訳じゃないんだよ」

 マスターは、4人の方に顔を向けて、ゆっくりと言葉を継いだ。

「さっき、氏神様に祈願したよな・・・

 俺は、親兄弟とか子供とかいう血縁や家族、といったものの前に、地元の縁、ていうものも強く感じる。

 ことあれば、この商店街の皆は氏神様と関わる。咲、お前はさっきの祈願を迷信と思うか?」

 咲は少し考えた後、ゆっくりと首を横に振った。マスターは咲の顔を見て、うん、と軽く頷いた。

「俺には残念ながら神様の姿が見えないから、お前たちに神様の存在を断言することはできない。見えれば断言してやれるんだがな・・・

 でも、あの氏神様の神社が、この俺たちが住んでる地元の中心だ、ってことは俺は十分、分かりすぎるくらいに分かってる。いや、この場所で商売をするようになってから、思い知らされてる、っていう方がいいかもしれない」

 神谷さんも、加賀谷さんも、大人たちはじっと、聞いている。おそらくは、自分一人ひとりの様々な事情と照らし合わせながら聞いているのだろう。

「お前らは若いからな・・・神様、っていうのが違和感を持つかもしれないから、俺はさっき、‘地元の縁’って言い換えた。

 その、地元の縁のホームポジションがあの神社なんだな、って感じる。あの神社を中心に広がっているこの地元の土地の面積。たとえ、現住所が地元じゃなくても、地元で生まれて一旦あの神社の氏子になった以上は、ホームポジションとの縁は絶対に無くならない。

 ことある毎にホームポジションに戻る・・・体が物理的に戻れなくても、精神は戻らざるを得ないことが絶対にある。

 そのホームポジションと関わる以上、そこに縁のある親も、家も、自分達が考えなくちゃいけない要素の一つだ、ってだけさ」

 さ、そろそろ行くか、と、照れたのか、マスターは伝票を持って立ち上がった。

 マスターが会計をしている間、僕は加賀谷さんに、加賀谷さんの仕事は何か、と訊いてみた。

「ん・・「仙田」って文房具の店、知ってるよね。隣のデパートにも店、入ってるけど」

 「仙田」は、県内では中堅の事務用品の卸・小売業者だ。

「そこで、営業やってるよ。店頭には出ないから、来てもおまけしてあげられないけど。

 また、使ってやってよ」

 やっぱり、加賀谷さんも、大人だった。


 

その10


次の日から、僕たちは、屋外で練習を始めた。マスターの厳命だ。マスターの店のワゴン車に「BARたかい」当日の演奏用機材を積んで、僕が自転車に乗りながら咲の曲をウォークマンで聴いた、あの河川敷で炎天下、練習することとなった。当日はあくまでもBARがメインなので、イベント広場のせり出しステージは使わず、BARのテーブルが並ぶ横で、小型の機材を使って、比較的小さい音量で演奏する。一番大変そうなのが、武藤だ。いつも使っているドラムセットよりも小ぶりのものを使わざるを得ない。慣れる必要がある。屋外での演奏は、屋根付きとはいえ、屋外のイベントスペースとできるだけ同じ環境で練習することが河川敷練習の理由の一つ。もう一つは、中学の時から部活に属していなかった僕たちに、河川敷で演奏する、という、青春ぽいことをさせてやろうというマスターの不思議な親心。それから、昼間の炎天下でやるのは、夜はライブハウスの仕事も入るので、マスターが僕たちの練習に付き合えないからだ。


その11


 マスターが土手脇の道路から、うねうねとワゴンを走らせて河川敷の砂利の所へと降りていく。車を停めたのは、芝生と雑草が半々の広場の横だ。すぐ目の前には川が流れている。

 以前、何度か自転車でこのポイントには来たことがある。夕方、向こう岸に見える夕陽が美しい場所だ、と記憶している。

 広場の向こうの方では、サッカーの練習をしている、高校生なのか、中学生なのか分からない男が何人かいる。土手を見上げると、散歩をしている老人、と、ウォーキングをしている主婦っぽい人がいる。

 芝生と雑草の上に機材をみんなで降ろしてみたが、見事なまでに日蔭がない。マスターはワゴンのハッチを開けてわずかな日陰を作り、そこに折り畳み椅子を置いて腰かけ、足を組んだ。

「さ、やってみようか」

 僕たちの様子を、散歩・ウォーキングする人やサッカー男子たちが、ちらちらと見ているのが分かる。ちょっとだけ、恥ずかしい感じがした。

「PVの撮影みたいで、気分いいだろ?」

 マスターはあくまでも僕たちの青春の演出者であろうとしているようだ。

 じっとしていると余計に暑いような気がしたので、とにかく練習を始めることにした。

 ドラムはある程度の音量は出るが、普段武藤が使っているドラムに比べたら、「静かでしょうがない」という感じの音だ。そのドラムに合わせてアンプの音量を小さい設定にする。

 少し、風が吹き始めたので、日蔭はないが、体がやや冷やされる。

 普段の感覚でギターを弾き、歌い始める。皆の出す音を聴いて、瞬間にマスターが苦笑いをするのが見えた。しかし、僕も、「ありゃ?」という感じで、自分達の音に違和感を感じる。

 音が、バラバラだ。

 1曲終わって、マスターが‘講評’した。

「分かったろ?」

「・・・はい・・・」

 僕はそう答えざるを得なかった。普段の僕たちの音は、エコーや大音量のお蔭で、何となく微妙な音の時間のズレを誤魔化していただけだったのだ。

 小音量で、アンプの音以外に、弦やドラムの皮の直接の音すら聞こえるような状態では、ズレやもたつきが残酷なまでに突きつけられる。その中で唯一、正確なリズムを刻み、丁寧なピッキングをしていたのは、咲のベースだけだった。咲のベースがなかったら、「ボロボロ」としか言いようのない演奏になるだろう。

 さあ、どうしたものか。

「実は、酒場で演奏するのが一番大変なんだぞ」

 マスターの言う意味がちょっと、分からなかった。え、なんで?と加藤が訊く。

「酔っ払いだから音が分からん、と思ったら大間違いだぞ・・・

 大人の内の何人かはな、酒場に泣きに来るんだよ。

 ほんとに泣かなくても、腹の中で泣きながら酒を飲むんだよ。

 そんな時に、ふざけた感じの音を聴いたら、本気で腹が立つと思わんか?

 ブルースを演奏するようなバーなんかまさしくそうだろう」

 言い返す言葉もない。

「でも、心配するな」

 マスターのこの言葉には、何か、根拠があって欲しい、と願うばかりだ。

「お前らは下手くそな訳じゃない。ほとんどスタジオでの演奏ばっかりだったんで、感覚が慣れてないだけだ。ここで今日、明日ぐらい演奏すれば、微妙なタイミングのズレは合ってくる。演奏に少し、タイトさが持たせられるはずだ。

 それに、タイミングやピッキングを完璧にする必要もそこまではない。なんの歪もズレもない音が相手の心に響く、とも限らん。室田の好きなekだって、そうだろう」

 確かに、ekには、チューニングすらしているのか、というアルバムもあったし、ボーカルが歌いながら弾くギターはピッキングがとても甘い。それでも、なぜか、僕の心には響き渡ってくる。

「観客に失礼のない音、にするための作業だと思ってくれ。

 その上でのお前らの‘上手くなささ’は、まあ、いいんじゃないか。

 お前らはそれなりに練習量も積み重ねてきたぞ。自分らじゃ意識はないかもしれんけど。大体、お前らが学校で浮きまくった挙句にポピーに来た時点で、その辺のバンドよりよほど根性入ってたぞ。外見は根性なしにしか見えないけどな・・・」

 僕らは、途中でスポーツドリンクを飲みながら、繰り返し演奏した。

 たしかに、自分の耳と、直接伝わる楽器の繊細な振動、空気の震え、それから加藤・武藤・咲が今、どんな状態で演奏しているのかに気を配ると、一瞬にして音が‘結集’するような感じになった。おそらく、他の3人も、同じように対応したのだろう。そして、何よりも、僕は、気持ちよく声が出せた。タイトでまとまった音に自然と声が出る。普段、絞り出すようにしていた高音パートも、するっ、という感じで頭頂部やや前方から声が突き抜けるような、初めての感覚があった。もっと、声を出したい、という欲望に駆られる。すると、武藤のドラムが、加藤のギターが、咲のベースが、僕のその欲求を助けに来てくれるような、錯覚があった。

 武藤のドラムの躍動感に自分の声もシンクロさせたい。加藤のギターの乾いたリフに自分の声を乗せ切りたい。咲のクールな、でも、甘酸っぱい感情がこみ上げるようなベースラインに自分の歌を絡め合わせたい。そして、これらに引きずられるように、自分のギターを弾く指も勝手に動く。これならば、自分のギターに意識を取られずに、歌い上げることができる、と感じた。

 ただ、暑い。しかし、その‘暑さ’が次第に、‘熱さ’に変わってくるのがなぜだか、分かる。着ているTシャツは汗でべっとりと濡れ、履いているジーンズが太腿にペタッと張り付いていて、気持ち悪い。けれども、炎天下を振り下りた風が、芝生と雑草の上5cmすれすれを吹き抜け、川から僕たちの演奏している場所に届くまでに急激に冷やされる。その温度差で涼風と感じる風が僕たちの背中に当たり、ベトベトペッタリと気持ち悪い感触が、その瞬間に、‘ああ、涼しい!’と却って‘熱さ’と‘昂揚感’をあおる。

 僕の、床屋で、「普通でお願いします」と頼んでいる、何型とも呼び難い髪型の、その前髪が、汗でびしょびしょになって、額に張り付いた。僕は、前髪を掻き揚げた。

「髪を掻き揚げるな!室田」

 マスターが鋭く叫ぶ。

「お前のそのかっこ悪い前髪が、かっこ悪くおでこに張り付いてるのが、かっこいいんだ!」

 僕は、マスターのその言葉で、体の芯が熱くなるのが、分かった。この、演奏したい、という高揚感を抑えることができない。体の表面のTシャツとジーンズと汗の被膜は瞬間の涼風で空冷で冷えるが、背中の背骨というか、脊髄の辺りが、いいようもなく、熱い!

 僕は、前髪がおでこに張り付いてカッパのようになろうが、武藤はドラムのスティックが汗で色が変わるくらいにシミがついてこようが、加藤は汗が目にとめどもなく流れ込んで塩気でしみようが、咲は普段、決して汗をかかないのに、さすがにこの環境でかいた大汗の匂いがどんなに気になろうが、咲の作った、そして、この10代の僕らが演奏する、キャッチーで甘酸っぱく、でも、きっと酒場で泣くような‘大人’にもこの‘青春の匂い、感覚’が確実に伝わるような曲を今、はっきりと知り、自覚し、疾走感を持続させながら、最後まで演奏し切った。

 確かに、これは、まるで、運動部の練習のようなものなのだろう、と感じた。僕が言うと自分ながら変な感じがするが、演奏し終わった後の出し切ったような感覚が、不思議でしょうがなかった。今までの人生の気だるさの中に、突如強烈なミントの刺激が注入され、頭の中の、脳みそと頭蓋骨の隙間にかかっていた薄膜がぺりぺりときれいに剥がされて、取り除かれたような、クリアな感覚。あの、咲の曲を土手でウォークマンで聴いた時に感じかけた、ぺりぺりと剥がれる感覚を事実・現実、知った。

 単に、暑さにやられたのだろうか、と、一瞬思ったが、他のメンバーの涼やかな表情を見ると、どうやらそうではなさそうだと思い直す。急速に‘熱’せられた体と心が、涼やかな風に当てられて、急激に体温を返していく、その涼しさなのだ、と感じる。

 咲が2,3口ごくごくと飲んだスポーツドリンクのペットボトルを軽く握った右手首を、体育座りをした膝の上に乗せて、ときたま、ごうっ、と芝生と雑草の上を滑ってくる涼風に長い後ろ髪を、ばっ、と吹き上げられながら、それを楽しむようにして土手の上の方を見ている。

 ‘青春’なんていう言葉は自分達には一滴も縁の無い清涼飲料のようなものだろうとずっと思い続けて来たけれども、咲の作った曲は青春そのものだ。それも、今までまったく誰も触れたことの無い、新しい、新種の、限りなく爽やかで涼やかな、青春。

 言葉でも態度でも恋愛でも友情でも表現し尽すことが決してできないような、メロディーが直接人間に訴えかけてくるような、涼風であり清涼飲料であり胸がくすぐったくなり、脊髄の辺りが熱くなるような、そんな、曲。単に楽しさだけではない、恥辱や屈辱・屈折・自暴自棄・倦怠・・・そういうものに蹴散らされたりやり過ごしたり火箸のように突きつけられたり放り投げようとしたりして生きて来た十数年間の、それを一気にクリアにするような、美しく・軽やかで・でも、切なくて・青い海が深度を増すごとに青さが濃くなるような深さを持つ曲。

 この曲に詩を載せて歌うことが、僕自身の青春にとっては、この上ない気持ちよさがあったが、果たして、僕の歌が却って曲を邪魔していないか、というのが唯一の心配だ。

 

その11


 マスターのワゴンに乗っかって帰り道の土手を走ると、マスターが運転するその向こうには、土手のアスファルトに陽炎が見えた。何だか、自分達が、映画の中のワンシーンに居住しているような錯覚に陥る。

 そして、その映画のような雰囲気に浸ったままでフロントガラスから土手の下に目を遣ると、さっきと同じように、草の上数センチだけの涼しい風の空間が、可視化できるような気がした。



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