本作の登場人物紹介(2)

 『蜘蛛』で鍵が開けられることに気づいてすぐに思いついたのは高級マンションに忍び込むことだった。


 マンションブームというかなんというか、不景気だ不景気だと言われながらも駅前の一等地にはどんどん巨大なマンションが建てられていく。しかも、一室が普通に一軒家を建てられるくらいの値段で、だから金があるところにはあるんだなあ、と思う。

 そういうマンションの看板を見ていると、シアタールーム完備、とか、ジムが併設してあるとか書いてあって、なんというか、世界が違いすぎて呆れたいような気分になっていた。


 猫美が住むマンションも、そういう超がつく高級マンションだった。

 仕事の行き帰りに否応なしに建築現場を眺める度に、すげえなあと嘆息するような。


 もちろんそこに忍び込んで住人から何かを盗んでやろうと思ったわけではない。これでも常識的な小市民だから。ただ、シアタールームくらいだったら、使わせてもらっても罰は当たらないのではないかとちょっとだけそんなことが頭をよぎった。

 どうせこういうマンションに住む人間は、昼日中は懸命に働いていることだろう。そうでないならば、もう少し郊外に行けばいっくらでも豪邸が建てられるわけで、駅前に住むというのは多分そういうことだ。一方日中が暇で暇で仕方がない人間もいる。こういう人間が、日中、誰も使わないシアタールームにお邪魔し、そうだな、それこそ宇宙戦争とかインデペンデンス・デイとかをでかいモニターと優れた音響で鑑賞する。これで誰が傷つくというのか?


「ううん。傷つく、とか、傷つかない、という、問題では、ないような、気がします」

「おっしゃる通りだ。成長したなあ」

 褒めたたえるつもりで空の頭を撫でてやると、口元から歌うような音が零れる。

「あ、でも、そうですね……。うん、いいんじゃあ、ないですか。確かに、誰も、傷つきません」

「いや、別にお前を懐柔しようと思って撫でたわけじゃあなくてだな」

 むしろ道徳的判断ができるようになったと思って撫でてやったのに。少し教育的指導をしなければいけないかと思っているところで、空のiPhoneからLINEの着信音が聞こえる。

「こんな早朝に? 誰だ?」

「えっと、里見ですね」

 里見。里見紘子さとみひろこというのはあっぱらぱあな女子高生で、いや別にアホという意味ではないのであるが、なんというか前方視的、楽観的な奴であって、人生半ば泥沼に沈んで暮らしているような元泥棒の三十代男性にとってはあやかりたいところである。そういうなんというか陽気な人間であるのに、メガネを掛けて部活は文芸部というのだから、世の中は今一つ分からない。

 空と里見が何やら話し込んでいるので、しばらく黙って昔のことを思い出すことにする。


 マンションが完成して、引っ越し業者がひっきりなしに出入りしている間に、『調査』に出向くことにした。一階のオートロックを開けるのは非常に簡単だった。郵便受けがオートロックを抜けなくても、建物内部から開けられる構造になっており、だからその大きな穴を潜り抜けて、内側から自動ドアのセンサ『蜘蛛』で触れてやる。これでマンション内部には入れる。


 ジムの利用は簡単で、午前九時から午後九時まで、ルームランナーなんかの設備は自由に利用して良いということになっている。まあ、素知らぬ顔で使えばたぶん使えるだろうと思ったが、問題は風呂がついていないことで、そりゃあ住民は気が済むまで運動したら、自室に戻って入浴なりシャワーを浴びるなりすれば良いが、これは泥棒に対してあまりに配慮がなさすぎる。だからジムの利用については特に深く考えないことにした。


 狙うはシアタールームだ。どうやらこのマンション専用のポータルサイトがあるらしく、そのサイトにログインして、何号室の住人が何時から何時まで使用する、という予約をかける仕組みになっているらしい。この予約表自体はシアタールーム前の掲示板にもリアルタイムで表示されていて、ふらっと立ち寄って、空き時間があれば、その場で入室して、室内から空き時間の範囲で予約を取ることもできる。できるのだが、そのためには入居者の持つIDカードが必要で、IDカードが無いと予約処理はできない。

 これは少々厳しい。というのは、シアタールームに入るにもIDカードが必要なのだ。シアタールーム自体の鍵を開けることは『蜘蛛』があるからそう難しくはないのだが、シアタールームに入っているということはつまりIDカードを持っている、ということになり、であれば万が一住人と鉢合わせたとき、なぜカードを持っているのに予約をしなかったのか、という話になる。一度くらいなら、うっかりしていてと言い訳も聞くだろうが、複数回鉢合わせが生じて、誰かがおかしいと思ってしまえば、このマンション内に泥棒が入り込んでいるという話にもなりかねない。なりかねないっていうか、まあ、入り込んではいるんだが。

 そういう状況では、心静かに映画を鑑賞するという心持ちにはなかなかなれない。びくびくしながら映画を見ていたって楽しいものではないわけで、だからこれも難しく、結局世の中はままならないものだということを認識する。


「あの、里見が、ええと、新聞が、1000 ぴー・ぶい、で、祝いを、したいと、言っています」

「新聞が1000、なんだって? 何の話だ?」

「えっと、代わりますね」

 空からiPhoneを受け取る。

「もしもし?」

「あ、光平? 元気? あのね、今空ちゃんにも言ったんだけどさ、あたしたちの新聞が1000 PVを突破したの! 閲覧回数! 凄くない?」

「えっと、あれか、文芸部の。校内新聞をネットで公開しているという訳か」

「そうそう。それで、朝に見たらさ、ついにアクセスカウンタが四桁なの!」

「まあその、なんというか、1000くらいでそんな喜ぶものなのか? ちょっと気の利いたサイトだったら、一日、どころか数時間とかでそのくらい行くような気もするが。大体新聞ってことは、定期的に更新があるわけで、だから実質の読者数で言ったらそんな多いとは言えないような気もするんだけど」

「いいの! それでもたぶん、十人くらいは全部読んでくれてるの! これって結構すごいでしょ?」

 確かに、言われてみれば。十人くらい、に文芸部部員が何人含まれているかは追及しないこととして、それでも数人は、まったく利害関係がないのに、ただただ新聞の内容に興味を持って読んでいる読者がいるということで、それは考えてみたら結構大したことなのかもしれない。

「言われてみりゃあそうだな。おめでとう。で、なんだ? じゃあまた、パーティでもするか?」

「そうだね! 週末にでも、遊びに行ってもいい?」

「わかったよ。甲賀こうがも来るのか?」

 甲賀というのは、里見のお目付け役みたいな男子高校生で、野球部のキャプテンみたいな体格の良い坊主頭で目つきも悪いが、意外と話せばわかる系の男子である。

「もっちろん! じゃあ、また金曜に! 空ちゃんにもよろしく言っといて!」

 それだけ言って電話は切れた。忙しない奴だ。おそらく甲賀も早朝から起こされているんだろう。気の毒なことである。

 空にiPhoneを返す。

「どうやらな、あいつらが作っている新聞が、たくさんの人に読まれているらしい。それで、祝いをしたいんだと。週末に遊びにくるらしいぞ」

「ほう! それは、それは、楽しみですねぇ」

 空は破顔し、うふふん、と鼻歌と笑い声の中間のような声を出す。わかりやすく浮足立っている。パーティとか、祝いとか、そういう言葉が好きな娘なのである。まだ今週は先が長いから、あまり興奮しすぎて熱を出さないで欲しいところではある。

 しばらく、祝いをするなら何を食うかという話をする。ケーキは必要な気がする、と空が言うので、少し意地悪に大した祝い事でもないからいらないのではないかと反論すると、ケーキというのは大変美味なもので、見た目も華やかで、と必死にケーキの魅力について言い募る。魅力の問題ではなくて、必要性の話をしているんだけど、と言うと、頭を抱えて何やら考え込んでいる。


「じゃあこうしよう。これから一つクイズを出す。それに正解したら、ケーキ有り。不正解ならケーキは無しだ。タイムリミットは、猫美の家に着くまでだな」


 さて、そういう訳でシアタールームで映画を楽しむのはなかなか難しいということになったのだが、すぐに諦めるつもりにはなれなかった。というのは、この部屋の利用率は、予約表を観察した限りでは極めて低かったからである。

 何しろ各戸がだだっぴろい訳で、やろうと思えばリビングに巨大なTVと5.1 ch サラウンドシステムとかも置けるんだろうから、そういう家庭がわざわざ予約をしてシアタールームを使うという機会は少ないのだろう。新しい映画は映画館に見にいけば良いことだし、そもそも映画よりも楽しいことが人生にたくさんあるのだろう。羨ましいことである。

 部屋自体が使われていないので、ちょっと何かしらの工夫をすれば、気兼ねなく映画を楽しむことができそうな感じがあった。設備自体の有効利用にもなるわけだし。それで、ひとまず部屋の利用状況を真剣に調査することにした。と言っても、ポータルサイトをクラッキングしてログインするような技能は持っていないし、さりとてシアタールームの前で呆然と突っ立っている訳にもいかない。それで、蜘蛛のカメラ機能を使って観察をすることにした。蜘蛛をシアタールーム近くの目立たない場所に設置し、隠しカメラとして使う。


 シアタールームはマンションの二階にあるので、垂直方向の距離はさしてないのだが、しかしマンションの外から電波を受信しようとすると映像信号を受け取ることはなかなか難しかった。高周波帯域の信号は建物の壁とかですぐに乱されてしまうからだ。結局カメラを少々改造して、特定の空間周波数情報だけを低周波数帯域で送信できるモードを作成し、iPhone側である程度映像補正をかけることにした。

 ところが、このやり方だと、人が入る様子は観察できるが、誰が入ったかは分からない。だから、法則性を見出すのが難しい。あと頻繁に充電が必要になる。さてどうしたものか。


 このマンションは20階建てであるが、居住空間は3階から18階ということになっている。そして、なんとも豪勢なことに、一階につき二戸しか部屋はなく、15階から18階に至っては、一階層に一戸しか部屋がない。ということで、3階から14階までの12×2 = 24戸、それから、15,16,17,18階の4戸、計28戸の住人のスケジュールを把握すれば、かなり安全な時間帯が割り出せることになる。

 夜はどっちみち住人がいるので、そもそも選択肢に入ってこない。そんなわけで、12時から16時くらいまでの各部屋の住人のスケジュールを確認する。それで、たとえば特定曜日の特定時間は大体このマンションから人が出払っている、ということが確認できれば、そこで侵入して、映画を楽しむ。

 これで行こうと思った。それで、『蜘蛛』にカメラを起動するための人感センサをつけ、週替わりで各戸の前に取り付け、人の動きがあった後数分間だけを記録するようにした。その代わり、映像については無線で飛ばすのではなく『蜘蛛』自体にメモリを積んでそこに保存するようにする。これでバッテリ問題も解決するし、画像は鮮明なものが見られる。週に一度『蜘蛛』を回収して、映像の分析を行い、大体スケジュールを把握したと思ったら次の階に移す、ということを繰り返す。こういう作業は「ムジュラの仮面」でならしたものだから苦にもならない。

 まだ住人も引っ越してきたばかりで生活リズムが完成していない可能性もあるので、ゆっくり時間をかけて様子を見て行こうと思った。ぶっちゃけてしまえばシアタールームそのものが目的なのではなく、目的は暇つぶしであったから、時間がかかればかかるほどありがたいと思った。


 問題は一月後、『調査』が6階に差し掛かったときに発生した。

 602号室の住人の出入りがまったく記録されていないのである。最初は『蜘蛛』が故障したかと思ったが、清掃員が廊下を掃除する様子は撮られている。とすればこの部屋の住人は今週旅行にでも出かけていたのか?

 念のためもう一度蜘蛛を602号室に仕掛け、週末を待った。

 一度だけ記録があった。いわゆる宅配業者で、食品や生活雑貨などを届けに来たようであった。とすれば、この家には住人がいるらしい。単純に出無精なだけだろうか?

 次の一週間にはまったく人の出入りがなく、その次の一週間にはまた、宅配業者がやってくる。つまりようするに、ここの住人は、二週間に一度、宅配業者から食事や生活雑貨を受け取る以外には、玄関口にすら立っていないということである。


 なんというか、まあ、別にそれはそれでいいんだが、なんだかどうにも気になった。結局二か月ほどその住人の様子を見守り続け、この習慣がまったく変わらないことに驚愕した。郵便受けはどうなっているのかと思いちらりと覗きに行ったが、なんと驚いたことに受け口が内側から何かで固定されていた。つまり、この中には何も入れることができないのである。こいつは恐れ入った。外界とかかわらないことに徹底している。というかじゃあこいつは、個人宛の手紙すら受け取らないというのか?


 正直に告白すれば、何度か室内に蜘蛛を潜り込ませようかと思った。

 ただそれは完全にプライバシーの侵害だし、いやそれはこれまでの行為だってそうだと言えばそうなのだけど、何か一線を越えるような気がして嫌だった。

 しかし、どうにも気になって仕方がない。変わった人間なのは間違いないが、その変わり方が度を越している。引っ越ししてから多分3,4か月経っていると思うが、おそらくこいつは一度もこの部屋を出ていないのである。しかもおそらく自由意志で。そんなことってあるか?


「さあ、ここで問題だ」

「ふむ」

 真剣な顔で空は言う。

「この住人には、おそらく少なくとも一つは、困っていることがあるはずだ。それは何か?」

「ふむ? 困っていること、とは、抽象的、ですね」

「まあ具体的に聞いちゃっちゃあ、すぐに答えが出るからさ」

「ふむぅ」

 空は腕組みをする。


 さて、この602号室の人物は、一体何に困っているだろうか?

 答えはCMの後で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る