本作の登場人物紹介(1)

 しばらくしとしとと雨が降り続く日が続き、気づけば季節は秋である。北海道は言うなれば年の半分が冬で、その他の季節が短すぎると思う。

 早朝、そらと一緒になんとなく湿った町を歩いていると、空が尋ねる。

「そういえば、光平こうへいは、どうして泥棒をしていたのですか?」

 今? なんで今?

 唐突に本質的なことを聞く奴だ。ちなみに、空というのはすてれんきょうな(てれすこかと思ったら、違ったという意味で)女で、まあいろいろあって知り合った人間である。


「どうしてと言われても、深い理由はない。まあ、猫美ねこみが勧めたからかなあ。人に言われたことをやる人間なんだよな」

「ふうん。そもそも、猫美とは、どうやって、知り合ったんですか?」

「泥棒の腕試しのついでにというか」

「だとすると、猫美が、勧めたから、泥棒を始めた、というのは、おかしいのでは」

「ああ、えっと、まあ、言われてみれば。この二つは時期的に不可分なんだよ」

「興味が、あります」

「面白い話ではないぞ」

「でも、聞きたいです」

「別に話したくないわけじゃあ、ないんだが」

 そんなに面白い話でもないんだ。本当に。


 人の言うことばかり聞いて生きていた。

 一人称で話すことが苦手だった。そうやって話すと、責任が降りかかってくる気がしたからだ。とにかく責任を取りたくない、そういう未熟な人間だった。今でもそう大きくは変わっていないと思う。


 担任の勧めに従って高校に入り、そこでも担任の勧めに従って理系クラスを選択し、進路指導の教師の勧めに従って大学に入った。就職活動というやつは、自分から動かないと何も進まないということが分かって、暗澹たる気持ちになった。その時に覚悟を決めれば良かったのだけれど、修士課程に進めば『人買い』、つまり企業の人事担当が直接採用に来るという話を聞いた。それで安直に修士課程に進学した。進学してからは、教授の言う通りに研究室の研究作業を分担し、それで作った業績でちょっとしたグラントを取った。それですっかり安心し、『人買い』の話もろくすっぽ聞かず、そのグラントで博士課程に進学し、そこまで行ってようやく気付いた。


 研究というのは自分で何かを考えることで、人に言われたことをやることではないということに。自分で責任を取らなければいけない、ということに。遅すぎるだろ。


 それでグラントの期限が切れたところで退学をした。

 今思えば当時から世界は非常に優しかった。学位だけでも取っておいた方がいいとか、大学で雇用する形である程度生活費を援助するとか、そういう申し出が多々あった。その年の『人買い』が現れるまで待って、就職するという手もあった。でもなんだか、ずいぶん長い間大学にいて、それで気づいたのが「向いてない」ということ、というのがアホらしい気分になって、たぶん人生で初めて他人の勧めを断って、すっぱり大学とは縁を切った。


 一般に、どこであろうと教鞭をとるためにはライセンスが必要である。が、最高学府と言われるところだけは例外で、そのようなライセンスは特に必要ない。考えてみると不思議な話だ。

 強いて言えば学位がライセンスなのかもしれないが、「情報処理技術入門」はともかく、工学(修士)の学位のどこをどう解釈すれば「子どもの心理学」を教える資格になるというのか。

 なんというか、奇妙と言えば奇妙な制度である。


 もともとはこれらの講義も大学時代の先輩からの勧めでいくつか受け持っていたもので、退学した旨を告げると各校講義を増やしてくれ(というと善意のようだが、ようは安く使える人材を求めているということだ)、生活するには困らなかった。将来の見通しはなかったが、なるようになるだろうと思っていた。先のことはその時考える、というのが信条だった。というかこれは、今もそうだ。


 困ることと言えばただ一つ。暇で暇で仕方がないということだった。


 金銭的な問題とかではなく、単に好みの問題で四畳半のぼろアパートに住んでいた。読書が趣味と言えば趣味だが、それさえあれば寝食を忘れるというほどでもなく、本にも体積というものが存在するので、気軽に増やすわけにはいかない。根がずぼらな人間なので、図書館に出向いてこまめに本を読んだり借りたりというほどの熱意もない。スマホでゲームをやってはみるが、そんなものに情熱を捧げられるほど熱い気持ちはそもそもない。ただ、世界を救えと誰かが命じてくれて、その通りに進めばいいというのは気楽だったからやっていただけで、世界を救ってしまえばもう、そこから先には興味がなかった。一人でできるスポーツには限界があり、パークゴルフを嗜む程度で、それだって冬が来ればできない。


 人間関係は不得意だったから、友達と遊びに行くということもない。


 というかそもそも、友達になるような同期はまっとうに社会に出て行っているわけで、のんべんだらりと暮らしている半フリーターのような人間とはスケジュールが合わない。


 結局、空いた時間は銭湯に行ってただ湯に浸かるだけの生活を送ることになる。そうでなければ家で横たわって、何度も読んだ漫画や小説を読み返す。

 それが悪いとは思わなかったが、もちろん良いとも思っていなかった。漠然とした焦燥感というか、不安感というか。芥川龍之介の自殺の理由みたいなことをうすぼんやりと感じていた。


 そんなある日のことだった。何かの拍子に、ちゃぶ台の上に置いてあった紙が落ちて、すぅっと本棚の後ろに吸い込まれてしまった。ここから、本棚の間を覗くと不思議な世界に出かけることになって、と話を展開できれば面白いのだが、そういうことはなかった。あったのはただただ過酷な現実だった。


 というのは、何しろ四畳半の家に住んでいると、余剰スペースというものがない。それが気に入って住んでいるのだから文句は言えないが、窓側には本棚、ストーブ、冷蔵庫、タンスがぎっちりと並んでいて、その手前にはちゃぶ台、小物を入れる棚、そして残ったスペースには敷きっぱなしの布団、洗濯機。この部屋に「床」という概念は存在しない。

 この状態で本棚の裏に紙が入っていかれるととにかく面倒なことになる。


 まずしぶしぶちゃぶ台を畳む。いったん風呂場か玄関にこいつを寄せて、次に敷きっぱなしの布団を畳み、アパートの渡り廊下かどこかに干しておく。

 次にストーブをコンセントから切り離し、ずりずりと部屋の中央に持ってくる。これでようやく本棚の「裏」を見通せるだけのスペースができる。手とか細長い棒を駆使しても紙が取れない場合、本棚を動かしたいが、本棚自体の重量と、このアパートの床の危険度がそこそこあるので、本棚に入っている本をいったん床に置いて、本棚を動かし紙を取り出す。お疲れ様でした、とだけ言っていられないので、本棚をもとの位置に戻し、本を棚に入れ戻し、ストーブをまた引きずってコンセントに繋ぎ、干していた布団を取り入れて、ちゃぶ台を広げ、落とした紙を見ると、二か月前の講義予定表で、うんざりして破り捨てる。ストーブの電源を抜くときに冷蔵庫の電源をまとめて引っこ抜いていたらしく、翌日冷凍庫が壊滅していることに気づく、というおまけもついてくる。まったくもって、お疲れ様でしたくらいしか言うことがない。


 それで思った。工学というのは、こういう不便な状況を科学の力をもって改善するために存在する学問である。というとなんだか高尚に聞こえるが、なんのことはない。狭いところに落ちてしまった紙を拾う機械でも作ってみようと思ったのだ。


 電子工作用品を売っている店でいろいろなものを買い込む。

 まずは超基本的な二関節型の三本足ロボットを小型化する方向で考えた。外見だけ言えばトライポッドみたいなやつだ。トライポッドは関節がアホほど多いが、そのことは考えない。


「トライポッド、とは、なんですか?」

「タコ足の異星人の乗り物だ。小説にも映画にも出てきたはずだから、ちょっと残酷な話ではあるが、今度一緒に見てみよう」


 で、それなりに、というのは本棚の裏に入れそうなくらい小さいものを作るには、手作業では限界があるという当たり前のことが分かる。ちょうどその頃、義肢装具を作っている専門学校にたまたま講義に出向いており、そこに頼み込んで工具を使わせてもらったり、あとは大学時代につながりのあった町工場に連絡を入れてみて、ちょっと機材を借りたりして、本棚の裏くらいに入れるサイズのロボットを完成させる。


 これで基本的なところをつかんだので、今度はラジオ・コントロールが出来るようにする。操作媒体を作っても良かったが、iPhoneがとにかく高性能なのでこれでいいやということにして、操作用のアプリケーションを作る。三本足では、二本の足で物を掴めるようにすると自立できないので、足を増やす。四本でも安定しないだろうから、倍の六本。自立できるための足と、物を掴むための足。

 今やビデオカメラは、内部で映像処理さえしなければ超小型化しているので、こいつを腹側と背側に取り付け、アプリで映像の切り替えができるようにする。ただ問題は電池で、市販の電池だとサイズ的にどうしてもでかくなる。


 こりゃあここで手詰まりかなと諦めかけたところで、古巣の研究室が当時価格が下がりだした3Dプリンタを購入したという。卒論生の一人の面倒を見るという約束をし、電極用のインクを作成してほどほどのサイズの充電池を自作する。

 これで基本構造が出来た。いよいよ、ということで本棚の裏に適当な紙を突っ込むが、紙のような薄いものを掴むのは非常に難しく、最初はまったく回収出来なかった。今でこそ、ジャミング効果とやらを利用した吸着方法が出て来ているが、当時は薄っぺらいものを掴むというのは義手サイズの大きさでも難しかったので、当然の結果とも言える。


 しばらく考えて、点で物を支えるのは難しいが、平面で抱え込むならなんとかなるかと思いつき、足を地面とほぼ水平に伸ばすようにする。足の先端をちょっと平らにして、ごくごくわずかな凹凸をつけ、摩擦係数を高める。見た目が蜘蛛みたいになってきて、思いつきで足を八本にしてみると、これが異様に安定する。自然とはよくできているものである。こうして『蜘蛛』型のロボットが完成した。


 最も適切な足を二本選べば、紙を掴むこともできる。簡単に話しているが、たぶんそれから何年か経った現在でも、これは最先端に近いかちょっと超えた水準と言えるだろう。ちょっとしたオーパーツと言ってもいい。もう一度一から作れと言われても作成は難しい。ようするにそれだけ暇だったのである。


 ここまでで概ね半年が経っていた。

 

 『蜘蛛』は結局のところ紙を掴むだけのロボットで、それ以外に面白みは何もない。だから完成してしまった後はまた、暇になってしまった。約束をした卒論生の指導くらいはするが、こいつも優秀というか良くできた人間だったので、やることはほとんど何もない。そして、一度暇でない生活を過ごしてしまうと、再びやってくる暇というのは前よりも精神に堪えるものになる。物質依存症みたいなものだ。


 それで、すっかり情熱は失せてしまっていたが、未練がましくこの『蜘蛛』の機能改善は続けていた。

 ある日のこと、凄く良い防水スプレーが開発されたという話を聞いて、『蜘蛛』をコーティングしてもらおうと持ち出す。で、ちょっとそわそわしていたのか、アパートの一階まで降りたところで、ドアに鍵を掛けたかどうかが分からないことに気づく。というかたぶん、掛けてない。


 盗まれて困るようなものなど何一つないが、それでも変に荒らされたりしても嫌だから、戻ろうか、と思った瞬間、脳内で何かが弾けた。


 こいつ、サムターンくらいだったら回せるんじゃあないか?

 

 そう思って、『蜘蛛』を起動する。アパートの外壁を這わせ、換気口から室内に侵入させる。玄関に至るドアの下部の小さな隙間を抜けて、いよいよ玄関ドアにとりつく。ドアノブに到達させ、二本の足でサムターンを掴む。目いっぱい伸ばした足四本でドアノブを抑えて、蜘蛛本体を旋回させる。


 かちり。


 見事『蜘蛛』はサムターンを回せた。思わず路上で快哉をあげる。一瞬で我にかえってあたりを見渡すが、幸運なことに人はおらず、奇人の認定は受けずに済んだ。

 それから『蜘蛛』を手元に戻す。操作に慣れていないこともあり、路上で一時間は立ち尽くしていたことになる。言うまでもないが、戻って鍵を閉めて降りてきた方が、三十倍は早かった。でもそんなことはどうでもいい。結構興奮しながら、防水スプレーをかけてもらいにいそいそと出かけていった。


「なるほど。それで、泥棒を、しようと、思った、わけですか?」

「いや、そんな短絡的なことではないんだけど」

 

 でもまあ実際はかなり短絡的であったのだろう。

 その時すぐに思いついたのは、高級なマンションに忍び込むことだったのだから。

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