第42話

「つつつ次は、どどどどうする?」

 バグの発生したロボットのような愉快な口調で僕にといかけるのは、傾城の美少女愛原そよぎである。

 そして、彼女は文字通り僕の『彼女』でもあり――

「お、おう。そそそそうだな……」

 彼女のバグが僕にも感染する。

 なぜだか、僕は彼女の顔をまともに見ることができない。おそらくは、向こうも同じ様なことを考えている。

 端的に言えば、僕たちは緊張していた。

 なぜなら、今日が僕たちの初デートだったからだ!


 時は一週間前にさかのぼる。

『え? おまえら、まだ二人きりで『デート』したことないのか?』

 電話越しに驚愕の声をあげたのは、完全無欠の笑い上戸、高岡凪だった。

 凪はたまに電話をかけてきては、僕にくだらない話をしてくる。

『おまえら、付き合い始めたのって夏休み直前だろ? もう夏休みも終わりだぜ? 夏休みの間、何してたんだよ』

 凪は僕を詰問する。

「プールいったりしただろ……」

『あれはあたしたちと一緒に行ったんだろうが。二人きりで出掛けたこととかないのか?』

「……少なくとも付き合い始めてからはないな」

『ありえないぞ、それ』

「………………」

『どれくらいありえないかというと、エロいハプニングが起こったときに鼻血を流すことくらいありえない』

「なんだ、そのたとえは」

『普通はエロい事体になったら、股間が(自主規制)するもんな』

「そういうこと言わなくていいから」

 いや、僕だって別にそよぎとデートしたくないわけではない。むしろ、二人きりで色んなところに遊びに行きたい。そう思っているのは間違いない。

 だが――

「……デートなんてしたことないから、どうしたらいいのかわからないんだ」

 情けないことを言っている自覚はある。

 だが、本当にどうしたらいいのか、解らないのだから仕方がない。

『スケッチは童貞だからな……』

「どどど童貞ちゃうわ!」

『よし! ここはあたしに任せろ!』

「スルーされた」

『この高岡凪さまが一肌脱いでやろう!』

「凪……」

『あ、一肌脱ぐっていうのは、たとえであって、あたしが本当に脱ぐってわけじゃないぞ』

「ご丁寧な解説をどうも」

 こうして、僕は凪と相談して、そよぎとのデートプランを構築したのだった。


 待ち合わせ場所に選んだ地元の駅前に僕は八時に到着した。

(めちゃくちゃ早くついてしまった……)

 待ち合わせの時刻は九時。一時間早くついてしまったことになる。

(まあ、遅れてくるよりはいいだろ……)

 昨晩は緊張のため、ろくに眠れなかった。『デート』なる未知の存在の脅威が僕の安眠を妨げたのだ。『デート』において、僕はいかに振舞うべきか。それが解らず、僕は一晩中悶々と過ごした。

「あれ?」

「え?」

 そんなことを考えていると、そよぎが現れていた。

 僕は思わずスマートフォンを取り出して時刻を確認する。やはり、八時を少し回ったところで、待ち合わせの時間にはまだ一時間近くある。

「えらく早いじゃないか……」

 想定していたよりも、だいぶ早くそよぎが現れたために、そよぎが来たら言おうと思っていた台詞などをすべて忘れて、素で問いかける。

「幸助くんこそ……」

 そよぎも歯切れが悪く、自分の髪をいじりながらぽつりと呟く。

 僕はそよぎが待ち合わせ時間に遅れてくる可能性まで考えていたというのに。ここまで早く到着するとは、思ってもみなかった。

「………………」

「………………」

(なんだ、この空気)

 僕たち二人の間になんとも言い難い妙な空気が漂っている。息が詰まるようなそわそわと落ち着かない雰囲気。別に二人きりになるのが、初めてというわけではあるまいに。なぜ、こうまで固くなっているのだろう。

(これが『デート』の恐ろしさか!)

 『デート』なる未知の体験が僕を自然体にはしておかなかったのだ。

 改めて、そよぎを見る。

 そよぎもうつむき加減に目を泳がせており、いつもの能天気な様子は些かも見られない。

(おまえまで緊張してんじゃねえよ……)

 そう言いたくなった。

 そよぎは誰もが認める美少女。『デート』に誘われたことなど、一度や二度では無いはずだ。それでもなお、これほどまでに固くなっているのは、ある意味では微笑ましく、嬉しいことではあるが、こうまでガチガチになられては、経験の浅い僕にはどうにもやりづらい。

「い、行くか」

「う、うん」

 僕たちは電車に乗り込み、目的地を目指すことにした。


 電車に乗り込み、一息ついた時点で僕は不意に気がつく。

(しまった! そよぎの服を褒めていない!)

 僕は事前に凪に言われていたことを思い出す。

『デートの始めに必ず服装を褒めろよ』

 凪は電話で僕にそうアドバイスしていた。

『服装を褒めるのは、ラブコメのヒロインが処女であることくらい大事なことだ』

 たとえは意味が解らなかったが、凪の言う事にも一理ある。

 僕は隣に座ったそよぎの服装を改めて観察する。

 トップスはフリルのついた白のノースリーブ。下に末広がりのふわりとしたフレアスカートを合わせている。まるで人形のような印象の服だ。紛れもない美少女のそよぎにはよく似合っている。

 髪型もいつもと違い、サイドからバックにかけて丁寧に編み込みを入れているのが、すごくおしゃれである。

 僕はファッションについて無知だ。だから、比較的わかりやすくおしゃれをしている髪型を褒めることにする。

「その髪型、かわいいな」

 僕はそよぎの目を見て話し始めたが、途中で思わず目を逸らしてしまう。

 そよぎの容姿やファッションを褒めたのは、何も初めてではない。今までだって何度も言ってきたことだ。僕はそういうことを自然に言える人間なのだという自己評価を下していたが、それは誤りだったようだ。僕は「かわいい」という一言を紡ぎ出すだけでも、かなりの緊張に襲われていた。

「ありがと……」

 そよぎは顔を赤くしている。

 こうした反応も斬新だ。自分の容姿にだけは自信を持っているそよぎは、見た目を褒められて照れるということが滅多に無い。こんな風に照れくさそうにしているのは、珍しいことなのだ。

(これも『デート』の魔力か……)

 『デート』とは本当にすごいものである。

「そんな編み込みを入れるのにどれくらいかかるんだ?」

 緊張している人間を見ると、自分の緊張は多少和らぐ。

 この程度のことを問う、余裕は出始めた。

「五分くらいだよ」

「五分でできるのか、これ」

 もう一度仔細に彼女の編み込みを観察する。両サイドから取ってきた髪を三つ編みにして、後ろで一つに束ねてある。女の子の髪形の具体的なセットの方法がまったく解らない僕でも、五分でこれができるというのは、なかなか信じられない。

「ああ、私が自分でやったんじゃないよ」

「え?」

「全部、雪哉がやってくれたから」

「あいつ万能すぎだろ……」

 雪哉がそよぎの髪をセットしている場面は何故か容易に想像できました。

 

 僕たちは電車を乗り継ぎ、目的地の梅田に辿り着いた。

 だが、何故か僕たちはコンビニに居た。

(どうしてこうなった……)

 そもそも、僕たちは朝早くに集まり過ぎたのだった。地元から梅田まで約一時間。八時過ぎの電車に乗り込んでしまったから、梅田についたのは、九時。梅田にある店の開店時間は大抵十時だったから、どこの店も空いていなかったのだ。夏ということもあり、外で立ちつくすというわけにもいかず、とりあえず、手近なコンビニに僕たちは入店したのだった。

(『デート』でコンビニ……)

 後で冷静になって考えると、喫茶店なんかはこの時間帯でも空いていたのではないかと思ったが、このときにはそんなことを思いつく余裕は無かった。

 しかし、意外にもそよぎは目を輝かせていた。先程までの緊張が嘘のようだった。

「ふわあ、コンビニ……」

 まるで夢の国を訪れた子供のような表情で店内を見回すそよぎを見て、僕は問いかける。

「なんだ? コンビニぐらい地元にもあるじゃないか」

 何がそんなに楽しいというのか。

「幸助くん。コンビニだよ」

「コンビニだな」

「コンビニには何でもあるんだよ」

「まあ、大抵のものはあるけどさ」

「だから、コンビニには夢と希望があるんだよ」

「おまえのコンビニ対する信頼感はどこから来てるんだ……」

 夢と希望は全国展開されているようです。


 約一時間、コンビニで立ち読みしたり、お菓子を買って食べたりして時間を潰し、僕たちは本来の目的地であるグランフロント大阪を訪れていた。

「ここがグランフロント……」

 グランフロント大阪とは、JR大阪駅と直結した大型商業施設だ。主に二つのビルから出来ており、商業フロアだけでも九階立て。その上には巨大なオフィスタワーやホテルまである。一日で回りつくすのは困難な大きさだ。

 そよぎはその居様を眺め、ごくりと唾を飲む。

「よ、よし、いくよ」

「おう」

「幸助くん……生きて帰るよ」

「魔王の城にでもいく気なのか?」

 確かに見た目の威圧感だけは魔王城級です。


「つつつ次は、どどどどうする?」

「お、おう。そそそそうだな……」

 ここで冒頭につながるのだった。

 ここまでやって来てはみたものの、この後どうするべきなのかは、僕にもよく解っていなかった。

 なぜグランフロントにやってきたかと言えば、

『『デート』といえば、ウィンドウショッピングだ』

 と凪に言われたから以上の理由は何もない。

『デートでのウィンドウショッピングは、ラブコメで転校してきたヒロインが実は幼馴染だった、というくらい定番だ』

 例によって、たとえはよくわからないが、確かに『デート』のときは、女の子が服を見て回り、男がそれについていくようなイメージがあるのは確かだ。だからこそ、たくさんの服屋があるこの場所を選んだのだが……。

「ど、どこに行くべきなの、これ」

「ええっとだな……」

 確かにここを選んだのは僕なので、僕がエスコートすべきなのだろうが、男子高校生の僕には、女のファッションブランドに関する知識など皆無だ。どの店が良いとか解ろうはずもない。

「とりあえず、適当に見て回るか」

「……うん」

 僕たちは一階から順番に店を回ってみることにした。


 手近な店に入り、服を見て回る。

(ていうか、すげえ値段だな……)

 どんなに安価な服でも5000円を下回るという事が無い。それどころか2万円以上する服もざらだった。自分が今日来ている服の上下を合わせても1万円に達しないファッションをしている身からすれば、信じられない値段だった。

 そよぎは値札を見ても平然としている。

 そういえば、こいつの家は金持ちだったな。僕とは金銭感覚がまったく違うのだろう。

 僕はそよぎに問いかける。

「普段はどんなところで服を買ってるんだ?」

 もしかしたら、こいつならもっと高い店で服を買ったりしているのかもしれない。

「いや、普段あんまり服買いに来ないから……」

「じゃあ、普段は服はどうしてるんだ?」

 すると、そよぎは平然と言い放った。

「普段は、雪哉が私の服を買ってくるから」

「おまえはいい加減に弟離れしろ」

 どうやら下着まで雪哉が買ってきているようです。


(やばいな、盛り上がらない……)

 何件か服屋を見て回ったが、僕たちの間に会話はほとんど無かった。

 それもよく考えれば当たり前のことで、僕はファッションに無頓着なのはもちろん、そよぎも僕よりましとはいえ、ファッションにはそこまで明るくないのだ。どの店が良い店なのか解らなければ、どういったファッションが流行なのかにも疎い。こんな二人がウィンドウショッピングで盛り上がれるはずもないのだ。

 そんな調子でも時間は過ぎていく。

 僕たちは昼食を取ることにした。


『昼食はだな』

 僕は凪のアドバイスを思い出す。

『ともかく、おしゃれっぽい店に行け。わからなければパスタが置いてある店に行けば間違いない。女はパスタが好きだからな』

 パスタか……。

『昼食はパスタ。これは萌え系4コママンガで、体型を気にしているキャラが唐突にダイエットを始める展開くらい定番だ』

 もう何を言っているのか本当にわからないが、まあ確かに女の子がパスタ好きというイメージがあるのは解らないでもない。

 そのため、僕は手近なパスタが置いてある店を見つけて言う。

「昼飯はあそこでいいか?」

 そよぎは言う。

「よかろう……」

「なんだ、その口調」

 僕たちは適当な話をしながら、店に入った。


(まあ、値段がそこそこなのは、想定内として……)

 僕はメニューを改めて確認する。

「こういうおしゃれな感じの店のメニューって、すごい料理名が長いよな」

 『とろ~り焼チーズと粗挽きソーセージのパスタ』だとか、『自家製スモークサーモンのカルボナーラとろ~り半熟卵のせ』だとか。

「ていうか、『とろ~り』多いな」

「幸助くん」

 そよぎは澄ました顔で言う。

「やはり、そういう名前がついてるってことは、それに大事な意味があるんだよ。『いめーじ戦略』なんだよ」

「はーん、そんなもんかね」

「そうだよ。やっぱり、ただの『かるぼなーら』よりもすごい感じがするからね。長い料理名は大事だよ」

「ふうん」

 僕の声色にどこか納得できていない響きを感じ取ったのだろうか。そよぎは続けて言う。

「ただ『魔導書』って書くよりも、『大いなる魔を導きし書物グリモワール』って書いた方がカッコイイでしょ」

「それは納得できる」

「だから、メニュー名の『とろ~り』も大事なんだよ」

 なるほど、そう考えれば、こんな複雑なメニュー名も意味があるのかもしれない。

 何故か、そよぎはドヤ顔である。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 店員がやってきて、僕たちに声をかける。

 そして、そよぎは言った。

「あ、じゃあ……カルボナーラで」

「あれ? 『とろ~り』は?」


 昼食を済ませると急にやることがなくなる。

「本屋に行ってみないか」

 僕はそう提案する。

「本屋?」

「ああ、六階に大きな本屋があるみたいだ」

「いいよ」

 『デート』にも慣れてきたのだろうか、だいぶ落ち着いた様子のそよぎは僕の提案を了承した。僕は本が好きだったし、そよぎも仮にも文芸部なら本が嫌いということは無いだろう。僕たちは本屋を目指すことにした。


 本屋に辿り着くと彼女は真っ先にマンガが積まれているコーナーを目指した。僕もマンガは好きなので、異論は無く、黙って彼女についていく。

 新刊のマンガが平積みにされている。

 僕はマンガ好きだが、経済的な問題からあまりたくさんの種類のマンガを持っていない。だから、本屋で様々なマンガを見て回るのは単純に好きだった。

「あ、これ新刊出てたんだ。買おう」

 そよぎは一冊のマンガを手にとる。

「あれ? それこないだ買ってなかったか?」

 僕は以前、学校の下校中に本屋に行った時のことを思い出す。

「え?」

 そよぎは自分が手にとった本の表紙をじっと見つめる。

「ああ、よく見たら、これはもう買わなくていいのか」

「買ったかどうかも解らなくなってるのかよ」

 僕は苦笑する。確かにマンガはしばらく間が空くと、何巻まで買ったのかわからなくなったりするものだ。

「いや、そうじゃなくて」

 そよぎは平然と言い放った。

「このマンガはもう保存用まで買ったんだった」

「保存用まで?!」

 ちなみに、読書用、貸出用、保存用まであるそうです。


「そういや、そよぎは小説は読まないのか?」

 僕は小説の新刊コーナーをのぞきながら問いかける。

「まあ、読まなくはないけど……」

 そよぎはどうにも歯切れが悪い。

「だいたい、おまえ文芸部なんだろ? じゃあ小説は読むべきなんじゃないのか?」

 別に作家が読書家である、なんて単純に考えているわけではないが、物書きとしては、たくさんの作品に触れることは決してデメリットにはなりえない。仮にも文章を書く者としては、読書は積極的に行うべきなのではないだろうか。

「小説は、ちょっと私の知性に追い付いてない作品が多いんだよね……」

「おまえの知性『が』追い付いてない、な」

 日本語は正確に使いましょう。

「読書好きでも無いのに、どうして文芸部に入ったんだ?」

 僕は改めてそよぎに問いかける。

 そよぎは小さく溜め息をついて、答えた。

「風音ちゃんが居たからだよ」

 そよぎは続けて言う。

「特に入りたい部活も無かったから、凪ちゃんか風音ちゃんと同じ部活に入ろうと思ったんだよ。凪ちゃんは、お笑い研究部だったから……」

「ああ。どう考えてもそちらはおまえには無理だな」

 まず、ネタを暗記することができないだろう。

「でもね。私、文芸部に入ってよかったな、って思ってるよ。私の作品を褒めてくれる人も居たしね」

「………………」

「自分の作品を愛して、読んでくれる人がたった一人でも居るっていうだけで、創作を続ける気になれるんだよ……」

 そよぎは、とても神妙な顔でそんなことを言うので、「おまえの作品を評価しているのは、おまえのファンクラブの奴らだぞ」と言うタイミングを完全に逃してしまいました。


 本屋での会話はそこそこに盛り上がったが、ずっと本屋に居るというわけにもいかない。

 僕たちは、手持ち無沙汰に、また服屋を見て回ることにした。


「いらっしゃいませ」

 特に目的もなく、様々な店を見て回っていると店員が僕たちににこやかに話しかけてくる。

「そちらの商品は今、当店で一番人気となっているんですよ」

「は、はい」

 そよぎは店員に対して身を固くしている。そよぎは慣れた人間に対しては不遜な態度を取るが、初対面の相手には緊張で固くなるタイプだった。

「同じ種類のものでも、こちらの色などは――」

 そよぎは店員の捲し立てるような言葉に目を丸くしている。あれは、ほとんど耳に入っていないだろう。

「彼氏さんも、こちらの服がお似合いだと思いますよね?」

「え?」

 店員が、突然、僕に話をふってきたために、僕はまぬけな声をあげる。

 『彼氏』。そんな言葉を使われると、せっかく少しずつ自然体になれていたというのに、俄かに今の状況を意識してしまう。

 固まってしまった僕の態度をどう解釈したのだろうか。店員は続けて口を開いた。

「あら? 彼氏さんですよね?」

 僕がうまく返答できなかったのを、『彼氏』扱いされて戸惑ったためと判断したのだろうか。

 その瞬間だった。

「彼氏だよ」

 そよぎだった。

 そよぎは僕の腕をぎゅっと掴んで言った。

「彼氏だから」

 まるで、宣誓するようにはっきりと言い放つ。

 そして、そう言い切った後に、不安そうな顔で僕を見る。

 僕はいったい何をやっていたんだろうか。

 僕が緊張とか、焦りとか、様々な感情に雁字搦めになっている間、きっとそよぎは不安だったのだ。僕はそよぎの彼氏だ。世界中でたった一人しかいない、彼女の隣に立つ資格を持った人間だ。だから、僕はその権利を持つものとしてはっきりと言ってやらなくちゃいけなかった。

「そうだな。僕はおまえの彼氏だ」

 僕に縋りつくそよぎにそっと言ってやった。

 次の瞬間だった。

「あわわ……」

 一瞬で、そよぎは顔をトマトのように真っ赤にしていた。

 おそらく自分が言った言葉の気恥かしさに思い至ったのだろう。

「うわあああああああああっ!」

 そよぎは大声でそう叫びながら、店から逃亡した!

「ちょっ!」

 残された店員や店内に居た客は皆、気まずそうに僕を見ていた。

 逃げ出したいのは、僕の方だった。


 そこから、そよぎを見つけるまでに三十分かかった。


「こんなところに居たのかよ……」

 そよぎを見つけた場所はグランフロント北館のテラスガーデンだった。

 ここはいわゆる屋上庭園というやつで、たくさんの緑の木々が設えられている。ベンチも多くあり、ここで思い思いのときを過ごす人も多い。

 何よりすごいのは、ここから見える景色だった。

「すごい景色だな」

 傾いた太陽は梅田の街をほんのりと赤く染めている。僕たちは立ち並ぶビル群を見下ろす高さに立っている。

 そよぎは、その景色を見下ろしたまま、ぼうっと立っていた。

 僕はその隣に立つ。

「僕はこんな風にたくさんのビルが立ち並ぶ街並みが好きなんだ」

「ビルが?」

 そよぎはそこでようやく僕の言葉に応える。

「こういう風景が嫌いな人も居るけどさ。僕は好きだ。なんていうんだろう。ビルってさ。人の英知の結晶じゃないか」

 百年前の人間は、今、人間はこんなにも空に肉薄しているんだ、なんて言ってもきっと信じないだろうと思う。

「だから、こういう光景を見ていると人間ってすごい、って気持ちになれるんだ」

 バベルの塔、という言葉を思い出す。不遜にも天に居る神に近付き過ぎた人間は罰を受け、その塔を壊された。ならば、今の僕たち人間にもいつか神は裁きを下すのだろうか。

「こういう風景を見ていると、どんなことだって出来ないことは無いんだな、って思えるんだよ」

「………………」

 そよぎはどんな事を考えているのだろうか。珍しく、どこか大人びた、落ち付いた表情で世界を見下ろしていた。

「今日はごめんな」

 僕は本題を切り出す。

「なんで謝るの?」

 そよぎはきょとんとした顔で僕を見ていた。

「全然うまく『デート』をエスコート出来なかったからさ」

「うまく出来なかった、って意味ならお互いさまだよ」

 そよぎは天使のように微笑んで言う。

「私たち馬鹿みたいだよね。『デート』なんて言葉に振りまわされてさ」

「まったくもってその通りだ」

 僕たちは、目的と手段をはき違えていた。『デート』なんていうのは手段だ。『デート』の本当の目的は、僕たち自身が楽しむことだというのに。そんな当たり前のことに気がつかないくらい『デート』という言葉に踊らされていたのだ。

「珍しく幸助くんも馬鹿だったね」

「まあな。たまにはそよぎと同じ様に馬鹿になってみるのも一興さ」

「私、さりげなく馬鹿にされてない?」

「されてない、されてない」

 そうさ。何も緊張することなんて無かったのだ。僕は、あの沈みゆく夕陽を見て思い出す。放課後の教室で始まった『なやみごと』相談。あんな風に面白おかしく、話をしていればいいんだ。

 僕たちがこの世界から消えてなくなる、その最期の瞬間まで。

「そよぎ」

 僕は改めてそよぎの瞳を見つめる。

 可愛らしいくりくりとした瞳がきらきらと輝いて僕を見つめ返す。

 この娘は僕のものなんだ。

 世界中の誰にだって渡すつもりはない。もしも誰かが僕からそよぎを奪おうというのなら、どんな手段を使ってでも止めてやる。たとえ、その相手が魔法使いだろうと、神様だろうと関係ない。

 僕は死ぬまでそよぎの側に居る。

 そんな僕の思いを言葉にしようとした。だけど、僕は口を開かなかった。言えなかったわけじゃない。言わなかったんだ。そよぎの深く澄んだ目を見ていたら、僕の気持ちは全部、伝わっているということが解ったから。

 だから、僕は無言で彼女を抱き寄せた。

 小柄なそよぎの頭は僕の胸に位置にある。

 そよぎは穏やかな微笑みをもって、僕を見つめていた。

 僕は自然に、彼女の顔にそっと自分の顔を近付けて――


 プルルルル


 瞬間、そよぎのスマートフォンが、無粋な着信音を奏でる。

 その音に、僕たちは二人だけの世界から現実に、強制的に引き戻される。

 僕たちは無言で見つめ合う。

 だが、着信音はいつまでもやまない。仕方がないだろう。

 僕は小さく溜め息をついて言う。

「出たら?」

「ん……」

 そよぎはあからさまに機嫌を悪くして、スマートフォンを取り出す。

 その相手は――

「何よ? 雪哉……」

 そよぎの弟である雪哉だった。

 電話越しであるので、僕には雪哉の声は聞こえない。だが、受け答えするそよぎの調子が完全に不機嫌なままなので、どうも緊急な用事というわけでは無かったようだ。

(まあ、このパターンなら……)

 僕は周囲をぐるりと睥睨する。

 この屋上庭園は開けていて、見通しは良い。

 隠れるところはそう多くない。

 僕は屋上庭園の入り口でもあるエレベーターのある建物の影に走る。

「いや、だから、姉さん。エレベーターってボタンを押し間違えたときは、長押しするか、ダブルクリックすれば、その階に止まるのをキャンセル出来て――」

「ゆーきーやー……」

 僕は地獄の底から響く様な低音ボイスを出しながら、雪哉の肩に手を置く。

「あれえ? 幸助さん、偶然ですねえ」

「ほう。おまえは今、この場所で鉢合わせをしたのを偶然というのか……?」

「いえ、偶然という言い方は適切ではありませんでした」

 雪哉は真剣な眼差しで宣言する。

「僕たちがここで出会ったのは運命です!」

「しゃらくせえわ!」

 この場面でいけしゃあしゃあとこんなことが言える根性だけは認めてやりたい。

「ああ、はいはい。すいません、今日一日、二人をつけてました。申し訳ありません」

「何、急に不貞腐れてんだ」

 雪哉は珍しく口をとんがらせ、拗ねた子供のような年相応な態度を見せる。

「だって、幸助さん。今姉さんとキスする気だったでしょ」

「んな!」

 いや、確かに流れ的にそういう雰囲気だったが……。

「そんな光景を見せられて平静で居られるわけないじゃないですか」

「おまえが勝手にのぞいてたんだろうが……」

「お二人がキスするのは、僕にとって最悪の展開です!」

「………………」

 まあ、このシスコン弟からすれば、姉のファーストキスが奪われるのは我慢ならな――

「僕が奪おうとしていた二人の初めてを同時に失うことになるんですから!」

「どっちも渡さねえよ?!」

 この男の欲望は本当に度し難い。

 そんなやり取りをしていると。

「雪哉……」

「あ、姉さん――」

「なんでここに居るの……?」

「え、あ、いや……」

 そこに居たのはまさに『修羅』。

 ふだんの抜けた様子など微塵も感じさせぬ圧倒的威圧感。ほとばしる怒気が、びりびりと空気を震わせている。怒髪天を衝くとは、こんな姿の人間をさすのだろうか。今なら目線だけで人を殺せそうだ。

「絶対についてきちゃダメって言ったよね……」

「いや……姉さんが心配で――」

「言ったよね」

「はい、申し訳ありませんでした」

 雪哉は地面に這いつくばって土下座していました。


 結局、僕たちはそのまま三人で帰宅することになった。

「まったく雪哉は」

「姉さん、ごめんって……」

 こんな結末の方が、僕たちらしいんじゃないだろうか。

 僕は一人そんなことを考えていたのだった。

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