第16話
僕はすべての真実を聞いて考える。
はたして、僕にそよぎを救うことができるだろうか。
あらゆる可能性を精査し、あらゆる希望に縋ろうとする。どんな方法でも構わない。僕にとりうる行動の中でそよぎを真の意味で闇から救いだす方法が何か一つでもあるだろうか。僕は深い深い思考の海へと潜っていく。
どれくらいの時間、考えこんでいたのだろうか。
三人は僕をじっと見つめている。
僕は彼らの顔を見回して、最後に未だに目を覚まさないそよぎに目をやる。
そして、僕は一つの結論を導き出す。
「僕には――そよぎを救えそうにない」
三人に失望の色が浮かぶ。
それはそうだろう、あれだけ大口を叩いて、彼らの古傷をえぐって、出した結論が僕には彼女を救えない、なのだから。
雪哉は取り繕うように言う。
「さすがの幸助さんでも無理ですか……」
「ああ」
やっぱり、僕は物語の主人公などではないのだと思う。内田はよく僕をまるでラノベの主人公の様だ、などと言ってからかうが、実際にはそんないいものではないのだ。
世界を救う力どころか、好きな女の子一人、闇の淵からすくいあげることすら出来ない。
でも、僕にただ一つだけ誇れることがあるとするなら、僕は僕が矮小で卑俗な人間であるということを理解しているということだ。
だから、たとえどんなに無様でも、かっこ悪くても、それが結果に結び付くならその手段を選択できる。くだらないプライドなど、とうに置いて来た。
だから、僕はどんなものにだって、縋ってやる。
そして、僕は続けて言う。
「僕には無理だと言っただけだ。世界中でたったひとりだけそよぎを救うことができる存在がいる」
雪哉は驚いて僕を見る。
「誰なんですか?」
「そいつに今から会いにいこう」
さあ、これで本当に最後だ。
それから、一時間が過ぎて、ようやくそよぎは目を覚ました。
「目が覚めたか?」
そよぎの意識はまだ朦朧としているようだ。まるで遠くのものを見る様な表情で僕を見つめる。
「幸助くん……」
彼女の姿は正視に耐えない。普段の溌剌とした雰囲気は消え、深い影が差している。
そして、そのままぽつりと呟く。
「私、思い出した……私がやったこと。死なせてしまったおねえちゃんのことを……」
やはり、凪の魔法が切れている。事故現場の目撃をきっかけにして、封じられた記憶がよみがえったのだろう。
「私が殺したんだよ……」
「違う! 姉さんのせいじゃ――」
感情的に叫ぶ雪哉を僕は手で制する。
たとえ、彼女がどんな姿であろうとも、僕は彼女と対話しなくてはならない。
そして、僕はそよぎと正面から向き合って言う。
「そよぎ、おまえは今、何を考えている?」
そよぎは僕に問われ、顔をあげる。やはり、顔に生気はない。彼女の瞳は時折見せた憂いを秘めたそれと同じになっていた。いや、今はその色はよりいっそう濃い。彼女が瞳に湛えていたのは間違いなく『絶望』だった。
「私が!」
瞬間、そよぎが叫ぶ。世界を震わせる様な咆哮。それは、間違いなく、彼女の魂からの叫びだった。
「私が殺しちゃったんだよ! 大好きだったおねえちゃんを! 私が!」
そよぎが自らの髪を乱雑につかむ。彼女の美しい髪が、振り乱される。その手に凄まじい力がかかっていることがわかる。
「私が……」
僕はその手をそっと握り締めてやる。一瞬、手の力が弱くなり、次の瞬間、彼女は僕の手を強く握り返す。彼女の細い手からは想像できないほどの握力で握りつぶさんとする様に僕の手にすがる。
「幸助くん幸助くん幸助くん!」
狂気に取りつかれた声で、そよぎは叫ぶ。
「ねえ、助けてよ! 私、どうしたらいいの! 私はお姉ちゃんを殺したんだよ!」
顔をあげたそよぎの瞳からは、涙が溢れだしていた。
「私は死ななくちゃいけない! 生きてちゃだめなんだ! 私が殺したんだから!」
「落ち着け、そよぎ」
そよぎは肩で息をしながらもなおも喚くことを止めない。
「ねえ、幸助くん、助けて! 私を殺して! 幸助くんはいつも私を助けてくれる。だから、今だって私をきっと殺してくれるでしょ!」
支離滅裂に喚き散らすそよぎ。
「そよぎ!」
僕はそっとそよぎの頭を僕の胸に押し当てる様にして抱いた。はたから見たらすごく不格好に見える自信がある。泣いている女の子を抱きとめるなんてかっこつけた真似をするのは人生で初めてのことだから。
最初は抵抗する様にもがいたそよぎだったが、しばらくすると動かなくなった。
そして、震える声でつぶやく。
「私を助けて……」
「そよぎ……」
僕の大好きな女の子が今、闇の中にいる。だから、僕は彼女を助けだしてやらなくちゃいけない。たとえ、どんな手段を使ってでも。
そして、僕はそよぎを救う言葉を告げる。
「そよぎ、僕にはそよぎを救うことはできない」
僕の言葉を聞き、そよぎの身体はびくんと震える。
「僕はいつも偉そうで、さも何でもできるように振舞ってきたけど、本当は何の力もないただの餓鬼なんだ」
僕は物語の主人公じゃない。世界を救うなんてもってのほかだし、大好きな女の子一人を救ってやることだって困難だ。
「でも、世界中で一人だけ、今のそよぎを助けてあげられる人間がいる」
そよぎは僕の胸に顔を埋めたまま問う。
「……それは誰?」
だから、僕は告げてやる。
そよぎを救うことができるたった一人の救世主の名前を。
「それは、そよぎ。おまえ自身だ」
そよぎはそっと顔をあげる。そして、涙を浮かべたまま、どこか呆けた顔で、僕を見る。
「そよぎが僕に縋りたいなら縋っていいし、やつあたりで僕を傷つけたいなら傷つけてくれても構わない。でもな。僕が何を言ってもそよぎは救われない。これは単なる『なやみごと』なんて軽いものじゃないんだ」
僕はそよぎを見つめながら続ける。
「そよぎを救えるのは、過去の自分の過ちを許してやれるのはそよぎ自身だけなんだよ」
僕の言葉が理解できないのか、彼女の表情はただ困惑の色を強くする。
「でも、おねえちゃんは、きっと私を許してくれない……」
僕はそんな彼女の瞳から目を逸らさない。今の彼女の辛さを、悲しみを、怒りを、すべてを忘れないために。
「僕はきみのおねえちゃんを知らない。彼女がどんなことを考えていたかも解らない。だから、おねえちゃんはきっと許してくれる、なんて適当なことも言えない」
僕は僕の思いのすべてをぶつけるように話し続ける。
「だから、おねえちゃんは関係ない。大事なのは、自分がどう思うのかだ。今の自分を許してやれるのかだ」
「私は……」
そよぎは虚ろな瞳でうつむく。きっと今、彼女の中では様々な感情が去来している。彼女はその一つ一つと戦っている。
そして、そよぎはぽつりと呟いた。
「やっぱり、自分が許せない……」
そよぎが出した結論を受けて、僕は問う。
「じゃあ、どうする? おねえちゃんの後を追って死ぬか?」
「幸助さん……!」
業を煮やした様に雪哉が叫ぶ。
「やはり無理です! 姉さんは過去を受け止められない。姉さんはすべて忘れていなくちゃいけないんだ!」
「雪哉!」
僕は振り返り、雪哉を一喝する。
「おまえの姉は、おまえが大好きな人は、そこまで弱くないぞ」
僕は再びそよぎに向きなおる。
そよぎはまた消え入りそうな声でつぶやく。
「私なんかが生きてちゃだめだって思う。私は私自身に罰を与えなくちゃって思う。でも……」
そよぎの瞳から大粒の涙がぽろりぽろりと流れ出す。
「でも、死んじゃったら、もう幸助くんと……みんなと一緒にいられないなんて嫌なんだよ……」
「僕の両親は――」
僕はそよぎに向かって言う。
「僕の両親は、僕が幼いときに死んだ。一家心中だった」
そよぎは驚いた顔で僕を見る。僕は続ける。
「借金を苦に家に火をつけたんだ。衝動的なものだったようだ。何の計画性もない心中。その結果、子供部屋にいた僕だけが偶然生き残った」
目覚めたときには、僕の部屋は火に包まれていた。何もかもを喰らい尽くさんとする化物のような火が、僕に襲いかかった。僕は驚き、飛び起きた。そこからは必死だった。窓を開け、外へ飛び降りた。そのあとの事はよく覚えていない。あとの記憶にあるのは、かつて僕が暮らした小さな家が黒い墨へと変わった姿。
「僕には親戚もいなかったから、そのあとは施設を転々とした。その間、何度なぜ自分だけが生き残ったのか。そう思わない日はなかったよ。死んでしまおうと思ったことも一度や二度じゃない」
人生がうまくいかなくなったとき、誰だって死にたいと思う事はあるだろう。しかし、僕はあの火事の日以来、自分は本来死んでいるはずだったんだと思う様になっていた。今生きている自分は何かの間違いで、本当は両親と一緒にあの世に行くべきだったんだと思っていた。
別に自殺志願者だったわけじゃない。ただ、自分の命があることに違和感を持ったまま生きてきた。
「僕はいつ死んだって構わない。そんな思いで生きてきた」
そして、僕はそよぎの手を優しく握って言った。
「でも、今は違う。僕は今、生きていきたい。そよぎと一緒に」
僕は僕の思いのすべてを吐露する。
「僕はそよぎに出会って、そよぎと話して、そよぎの側にいて、初めて本当に生きたいって思えるようになった。死んでしまったら、もうそよぎに会えないんだとしたら、僕は絶対に死にたくない」
僕は告げる。
「だから、そよぎ。自分を許して、生きてくれ。そして、ずっと一緒に居よう」
そよぎは僕の言葉をどう受け取ったのだろうか。ただ茫然と僕を見つめ返すことしかしない。だが、少しずつ。本当に少しずつだが、彼女の瞳に色が戻っていく。取り付いていた狂気が洗われていく。すべての闇を洗い流そうとするように、大粒の涙が再び溢れだす。
「幸助くん……」
「おう」
「私も生きたい……」
「おう」
「幸助くんとみんなと一緒に生きていきたい……」
「おう」
「いいのかな? 私が生きててもいいのかな?」
「いいよ。許すよ。僕が許す。たとえ、世界中のだれがそよぎを責めたって僕が許してやるから」
世界中を敵に回しても好きな子の味方をするなんて臭い台詞を、自分が言うときがくるなんて想像した事もなかった。でも、不思議なことだけど、今この瞬間はそんな台詞を吐くのがきっと正しいんだと思えた。あとで思い返せば恥ずかしさで身もだえするだろうし、赤の他人に聞かれたらこっぱずかしくてたまらないだろう。それでも、もしもいつか今日と同じように、僕の大好きな誰かが泣いているのなら、それでその人を救えるのなら、誰に笑い飛ばされたって構わない。全力で臭い台詞を吐いてやる。臭い台詞を言う人間は、きっと皆、こんなことを考えている。
「幸助くん……」
「そよぎ……」
「うわあああああああああっ!」
そして、そよぎの許しを求めるかのようなの最後の慟哭は、きっと天にいる誰かまで届いた。
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