第11話

「ちょっと付き合ってほしいんだけど」

 そよぎは類いまれなる美少女である。そんな美少女が僕にこんなことを言ってくる。ならば、答えは一つだ。

「どこに行きたいんだ?」

「あれ?」

「『付き合って』って、どこかに一緒に行ってほしいって意味だろ?」

「いや、そうなんだけど……」

 そよぎは身を翻し、教室の反対側に居たクラスメイトである凪に声をかける。

「凪ちゃん! 幸助くん、『付き合ってほしい』という言葉を、交際の誘いと勘違いして焦る、というラブコメテンプレ行動を起こさなかったよ!」

「なにぃ! 生意気な奴だな!」

「おまえらのそういう態度に慣れきってるんだよ、こっちは」

 僕はこいつらのこういう所が嫌いです。


「それで、どこに行ってほしいんだよ」

 僕はさりげない調子で言う。

 ここでぶっちゃけよう。さっきはクラスメイトの手前、余裕のある態度を見せたが、内心ではそよぎからの誘いに滅茶苦茶喜んでいる。欣喜雀躍、歓天喜地、手の舞い足の踏むところを知らず、とはまさにこのことだ。

 僕はそよぎに片思い中だ。そんな相手からの誘いは、どんなことであっても嬉しい。屋烏之愛とはよく言ったものだ。

 僕はそわそわと落ち着かない気持ちを隠したまま、そよぎの返答を待つ。

 そして、そよぎは言った。

「サイクリングだよ」

「サイクリング?」

 彼女の予想外の言葉に、僕は少しばかり戸惑う。

「私も一つ歳をとったことだし、ちょっとばかり、おしゃれな趣味に手を出してみようかと思ってね」

「ほう」

 予想外の話ではあったが、案外に悪くない。確かに、自転車には通学のための手段として毎日乗っているのだけれど、改めて自転車を乗ることを目的にするというのは新鮮味があるかもしれない。

「僕はただのママチャリしかもっていないのだが、構わないか?」

 僕が今使っている自転車は同じアパートの住人のお下がりだ。そのため、マシンスペックはもとより、ガタが来ているという意味でも決して上等なものとはいえない。

「『ノープログラム』だよ」

「たぶん、それ『ノープロブレム』」

「私もそんないい自転車じゃないからさ」

「それならいいんだが」

 こうして、僕たちは二人でサイクリングに繰り出すことになったのだ。


 日曜日、僕はそよぎに指定された公園に足を踏み入れる。

 ぎらぎらと責め立てるような日差しがきつい。熱中症にならないように気をつけねばならないだろう。

「よく来たね、幸助くん」

「おまえ、その格好……」

 そよぎの恰好はいわゆるサイクルジャージだった。自転車競技を行う人が着る身体にぴったりと密着するタイプの服だ。ピンクを基調とした女性用のもの。普通の服より空気抵抗が減るのでかなり走りやすくなると聞いたことがある。頭には穴あきの自転車用ヘルメットまで被っている。かなり本格的な格好だ。

「どう、似合う?」

 正直に言おう。行動派というイメージでもないそよぎはどちらかと言えば、女の子らしいワンピースやチュニックのような服の方が似合うのは確かだろう。だが、今、僕はサイクルジャージを着た彼女の体の一点に目を奪われていた。

(胸が強調されている!)

 そよぎは平均的な一六歳以上のバストを持っている。体に密着するタイプのサイクルジャージはその形を浮き上がらせているのだ。

(サイクルジャージは結構締め付けがきついはずだから、そこまで胸のラインは浮かないはずなのに)

 それでもなお、胸の形がはっきりとわかるということは、彼女のバストサイズは相当なものなのだろう。

「ああー、すっげえ似合う」

「そう?」

「もう、むっちり……じゃなくて、ばっちりだ」

「そうでしょう」

 そよぎは何故か得意げだ。

 正直健全な男子高校生としてずっと胸の方を見ていたかったが、流石にそういうわけにはいかない。そして、僕はそよぎが持つ自転車の方に目をやる。

「これ、ロードバイクじゃねえか」

 軽量化されたフレーム。細いタイヤ。縦に握るドロップハンドル。まさに「走行」の為に作られた洗練されたフォルムの自転車だ。そんじょそこらの自転車とは性能が段違いだと聞いている。

「これって滅茶苦茶高いんじゃないのか?」

 僕もすこし憧れをもった時期があったのだが、どんなに安いマシンでも十万円近くなると聞いて、泣く泣く断念したことがあったのだ。

「お父さんからの誕生日プレゼントにもらったからなあ。よく知らない」

「いや、絶対高いやつだぜ、これ」

 誕生日とはいえ高校生の娘に、ぽんとロードバイクを買ってやるそよぎ父の経済力が恐ろしい。

「こんなママチャリで来た僕がなんか恥ずかしくなってくるな」

 こんな立派なマシンと並走できるほど、僕の自転車は良いものではない。

「幸助くん、大事なのはマシンじゃない。それを楽しむ心だよ」

「楽しむ心……」

 そうだ。僕は即物的な目線に囚われて、大事なことを見失っていたのかもしれない。別にプロになろうというわけではないんだ。自分の身の丈にあったもので楽しめばいいんだ。

「そうだな。背伸びせず等身大の自分でいけばいいんだな」

「そうだよ」

「よし、じゃあ、さっそく出発だ」

 僕はそよぎに声をかける。

「ああ、ちょっと待ってほしい」

 気持ちが高まっていた僕をそよぎが呼び止める。

「なんだ? なにか準備がいるのか」

「うん。実は」

 そよぎは僕の目を上目遣いで見ながら言った。

「私、自転車乗れないから教えてほしい」

「猫に小判って言葉を辞書で引いてこい」

 そよぎは何事にも形から入るタイプです。


「自転車にも乗れない奴がなぜロードバイクなんて買った?」

 僕はそよぎを問い詰める。

「いや、自転車レースの漫画読んでたら欲しくなったんだけど、自分が自転車に乗れないことをすっかり忘れててさ」

「忘れる様なことじゃないだろ、それ」

 そんなちょっと忘れ物した、みたいなノリで言われても困る。

「自転車の乗り方、教えてください、幸助さま」

「ええ……」

 僕の心はもう風を切ることに奪われているのだが。

「大事なのは、何事も楽しむ心だよ」

「その言葉はもう僕の胸に響かないから」

 今となってはどこかむなしくすら聞こえる。

「お願い! 教えてください!」

「仕方ないな……」

 こうして、僕はそよぎに自転車の乗り方を教えることとなった。


(ロードバイクで自転車の乗り方を教えるってすごい贅沢だよな……)

 価値の解らない子供にブランド物の服を着せているようなものである。

 僕のボロ自転車を使って練習させようかとも思ったが、小柄なそよぎでは僕の自転車はすこし大き過ぎた。サドルを下げればいいと思うのだが、僕の自転車はサドルの上げ下げをするレバーが破損しているため、上下調節ができない。仕方が無いので、ロードバイクで練習することにしたのだが――

「後ろから押さえといてね」

「いや、待ってくれ」

 僕はそこで気がつく。

「僕はどこを持ったらいいんだ」

 ロードバイクの特徴は無駄を削ぎ落したシンプルなデザインだ。速く走るためには軽量化が必要だからだ。当然、籠なんかはついていないし、後ろに荷台もついていない。普通、子供に自転車の乗り方を教えるときは、誰かが後ろの荷台あたりを抑えて、補助輪無しの感覚に慣れさせるところから始めるのだろうが、これではその方法が使えない。

「サドルをもったらいいんじゃないの?」

「いや、でもそれ……」

 確かに消去法でいけば、握れるところはそこくらいだろう。だが、サドルの上には当然そよぎのお尻がのっているわけで……。

「幸助くんならできるよ!」

 おそらく、そよぎは僕が考えていることが解っていない。

(いや、本人が言っているんだからいいか……)

「じゃあ、いくぞ」

「ばっちこーい!」

 僕はそよぎのお尻がのったサドルに手を伸ばす。一応、彼女には触れないように掌を上に向けるような形で、下から掴むように握る。

(こいつ、いいケツしてんな……)

 先程も言ったようにサイクルジャージというのは、身体の線に沿って作られている。それはとうぜんヒップも同様だ。そよぎのおしりの良い形がはっきりと解る。これは安産型だ。

「幸助くん! さあ、準備はいいかい!」

「ケツ……じゃなくてケツイは固まったぞ!」

 いつまでもケツを見ている場合じゃない。僕は前を向く。

「よし、こぎ始めて見ろ」

「うん!」

 そよぎはそろそろとペダルを漕ぎ始める。

「怖いかもしれないけど、ある程度の勢いでこがないと逆にコントロールが難しいぞ」

「う、うん」

 そよぎは少しずつスピードを上げていく。僕は歩幅を大きくしてそれについていく。意外に安定感がある。これは思ったよりも早く乗りこなせるかもしれない。

「おっと。おわわ」

 そよぎは戸惑いの声を上げているが無視して言う。

「おい、そろそろ手を放すぞ」

 するとそよぎは叫ぶ。

「ええ! まだ無理!」

「いや、大丈夫。結構安定してるから」

「いや、少なくともあと一年は押さえといてよ!」

「僕の腕がもげるわ」

 おまえは一年も自転車の練習をする気か?

「ほら、いくぞ」

 そう言って僕は手を放す。

「無理無理無理無理!」

 途端にそよぎはパニックになる。ハンドルを握る手がぶれる。まずい、あれでは倒れる。

「そよぎ!」

 僕はすぐに彼女に駆け寄る。間に合うか?

 次の瞬間、彼女は自転車を横倒しにしていた。

「きゃっ!」

 僕は間一髪間に合い、地面に倒れ込みそうになったそよぎを受け止める。

 そよぎは僕に抱きつく様な形になる。彼女の全体重が僕にのしかかってくる。

 シャーと小気味良い音を立てて回るロードバイクの後輪の音だけが公園に響く。

「ありがと……」

 彼女は自分の両足で立ってからもしばらくの間、僕から離れようとしなかった。

 僕はそういえば、今、僕たちは二人きりなんだな、なんてことを今更意識した。


「案外簡単だったね」

 それから三十分もしない内にそよぎは自転車の乗り方をマスターした。

「高校生にもなって乗れない方が少数派だからな」

 僕たちは照りつける真夏の太陽を避けて、木陰のベンチに並んで座る。持参したスポーツドリンクを口に運びながら、僕たちは穏やかな時間を過ごす。今日は本当は遠出するつもりだったが、そよぎは一応自転車に乗れるようになったとはいえ、初心者。あまり遠くまで行きすぎないのが賢明だろう。

 そんなことを考えていると、そよぎは自分の手に持ったペットボトルを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「ありがとうね……」

「別に大したことはしてないよ」

「ううん。今自転車を教えてくれたことだけじゃない。幸助くんはいつも私を助けてくれる……」

 僕は横目でそよぎの顔を窺う。そよぎは不思議な表情をしていた。何か遠い昔の出来事を懐かしむような、そんな顔をしていた。

 そんな彼女の顔を見て、僕は彼女と初めて会った日のことを思い出していた。


 入学式のとき、僕はきょろきょろと落ち着きなく周囲を見回していた。僕は塔坂学園に特待生として高校から入学した。親の居ない僕は、特待生に選ばれれば完全学費免除で奨学金まで支給されるというこの学園しか、通うべき学校として選ぶことができなかったのだ。

 だが、うちの学園はほとんどがエスカレーター式だ。高校から入学するのはいわゆる編入組で一クラスになるほどの人数も居ない。だから、高校入学組はまるで転校生のような気分で内部進学組のクラスに混ざらねばならなかった。

 僕は人づきあいが得意なタイプではない。昔から大人の顔色をうかがって生きてきたから事務的な会話は得意だったが、その分、同世代の人間とどのように接したらいいのかが、よくわからなかったのだ。別に友達が居なかったわけではない。だが、親友と呼べるような本当に親しい友は一人も居なかった。

 だから、僕は新たな生活を踏み出すことへの緊張から落ち着きなく周囲を見回していたのだ。ここにいる彼ら、彼女らは、はたして僕を受け入れてくれるのだろうか。

 校長や来賓の通り一遍のあいさつが終わり、式は閉会する。僕たちは割り振られた自分のクラスに向かうことになる。

 クラスに入ると既にグループがいくつもできていた。いや、もともとグループだったいうべきだろうか。彼らは小学生のときから同じ校舎で学んでいるのだ。当然といえば当然だった。

 担任が現れ、自己紹介や学園生活の諸注意を行う。そして、生徒達の自己紹介の時間がめぐってきた。

 僕は緊張した。これがこれからの学園生活をわけるターニングポイントであることは明らかだったからだ。僕はゆっくりと生唾を飲み込む。

「じゃあ、出席番号の一番と最後、じゃんけんしろ。勝った方からスタートだ」

 担任はこんなことを言いだした。

 僕は虚をつかれた。苗字が「渡辺」である僕は、出席番号の最後だ。冷静であれば充分に予想できた展開だった。しかし、緊張に呑まれていた僕はじゃんけんの結果によっては、自分がこの自己紹介の先鋒に立たねばならなくなることを、まったく予見できていなかったのだ。

 今、僕が一番最初に自己紹介することになれば、絶対にうまくいかない。緊張のせいかうまく頭が回っていないし、他の奴らの自己紹介を聞いてからじゃないと、どんなことを言えばいいのか対策が立てられない。つまり、このじゃんけんで勝ってしまうことは僕の学園生活の順調な滑り出しを著しく阻害することになる。なんとしても負けなくてはならない。

「じゃあ、立て」

 担任は何も考えていないのであろう。僕の思いとは裏腹に軽く言い放つ。

 僕は仕方なく席を立つ。出席番号が最後の僕は、教室の右後方に居る。出席番号一番の生徒のちょうど対角線上だ。

 すべての生徒を挟んだ向かい側の一人の女子生徒が立ち上がった。

 それが出席番号一番、愛原そよぎだった。

 綺麗な子だな、僕はそんなことを考えた。決して余裕なんてなかったはずなのに、そよぎの顔を見て、綺麗だと思ったことははっきりと覚えている。これが僕とそよぎの初めての邂逅だった。

 しかし、僕はすぐに気分を切り替える。相手が誰かは今は関係ない。ともかく、負けないといけないんだ。

「ようし、じゃんけんだ。最初はグーでいくぞ」

 担任にそう声をかけられ、僕は思わず握る拳に力を入れる。もしかしたら、明らかに緊張した様子が顔に滲んでいたかもしれない。だが担任は素知らぬ顔だ。きっと気付いていないのだ。

 一瞬のことだ。僕はじゃんけんをする相手であるそよぎと目があった。このとき、そよぎがどんなことを考えていたのだろう。ただ、彼女の澄んだ目は僕を真っ直ぐに見据えていた。

 もうどうにもならない。万事休すだ。後は運を天に任せるしかない。

 仕方なく何も考えずグーを繰り出そうとした瞬間だった。

「先生! 私の方から自己紹介したい!」

 そよぎは思いもよらぬことを言いだした。

 担任もきょとんとした顔でそよぎを見る。

「ん? なんでだ?」

「えー、だって」

 そよぎはクラスメイトの方を振り返って言った。

「私のことを知らない人は『あの美少女、誰だろう』って、きっとそわそわしてると思うからね!」

 そよぎの言葉に対するリアクションは様々だった。「さっすがそよぎちゃん!」と楽しそうに声をかける女子もいれば、「てめえ、そしたら流れで二番、うちじゃねえか!」と怒号をあげるもの(これは今思えば内田だった)、「いいってばよ……」と恍惚の表情でそよぎを見つめるもの(なんだこいつ、キモい)、「あはははは」と馬鹿でかい声で笑うもの(これは当然、凪だ)。

 だが、教室全体の雰囲気が柔らかくなっていた。内田の怒号ですらあれはきっと本心じゃない。きっと本当に仲が良いから言える言葉なんだとすぐに解る。

 そよぎの言葉一つで、まるで教室にさわやかな風がそよぐ様に空気が変わっていったのだ。

 遂には皆は「そよぎ」コールを始め、担任もそれを認めざるを得なくなったようだ。

「わかった、わかった。じゃあ愛原から始めろ」

 そして、そよぎは誰もを魅了する太陽のような笑顔で言った。

「愛原そよぎです。魔法少女……あ、違います! 魔法少女ではないです!」

 明るい笑いに包まれた教室の中で、僕はひとり、そよぎに目を奪われていた。


「いや、助けられたのは僕の方だよ」

「え?」

 あの自己紹介の日以来、僕はそよぎを目で追う様になっていた。僕はやっぱり人づきあいが得意でなかったから、なかなか話しかけることはできなかったが、僕はずっとそよぎのこと見ていた。

 そして、好きになった。

「そういえば、ちゃんと口にしたこと無かったな。ありがとう、そよぎ」

 僕は隣に座るそよぎの目を真っ直ぐに見据える。

 そして、僕は思わず言った。

「好きだよ、そよぎ」

 まただ。僕は本当に大事なときに限って考えなしなんだ。よりにもよって自転車の練習をして、汗まみれの泥まみれのときに言わなくてもよさそうなもんだと自分でも思う。

 どうせそよぎはきょとんとした顔で受け流すに決まっている。

 ところが、そよぎは意外な反応をした。

 そよぎの顔が赤くなったのだ。頬は紅潮し、眉は困ったように八の字に曲げられていた。

「な、なに言ってんだか急に。そんなの当たり前じゃん」

 そんなそよぎの様子を見て、僕は苦笑する。

「だよな。全世界の人間はそよぎのこと好きだもんな」

「そうだよ!」

 どこか怒ったような口調で言うのは、照れ隠しなのだろうか。

 そんなそよぎがたまらなく愛おしい。僕は更に言ってやる。

「だな。すべての人間はそよぎを愛してるもんな」

「愛して……」

「全人類はそよぎがいないと生きていけないもんな」

「いや、そこまでは……」

「そよぎはこの世界の神よりも貴い存在だな」

「さすがにそこまでは言わないよ!」

 そよぎは大声を張り上げる。

 一瞬、僕たちは黙って見つめ合った。その瞬間に僕たちの間に色々なものが流れていった。初めて会った入学式の日。夕暮れに染まる教室で始めたなやみ相談。そよぎの家での勉強会。みんなで集まった誕生日パーティー。そんなきらきらした思い出が僕たちの間で輝きを放った。

 そして、僕たちは幸せに笑った。


 そのときだった。

 僕たちの足元に一個の赤いゴムボールが転がってきた。

「おねえちゃん、取ってー」

 転がってきた先を見る。姉妹だろうか? おそろいのワンピースに身を包んだ二人の女の子が立っていた。お姉ちゃんと思われる方は小学校中学年。妹の方は小学校低学年といったところだろうか。

 そよぎは足元に転がったボールを手に取りながら言った。

「任せなさい!」

 そう言って、そよぎはボールを投げる。しかし、ボールは明後日の方角に飛んでいく。

「下手くそ」

 僕は後ろから声をかける。

「ふんぬー。もう一回だ!」

 そよぎは自らボールを追いかけていった。


 いつの間にかそよぎは二人の子供と一緒にボール遊びを始めてしまった。それも遊んであげているというより本気で小学生と勝負しているようなのだ。

「うわあっ! もう一回だ!」

「大人げなさすぎだろ」

 どうやら、ドッジボールのようなルールでお互いにボールをぶつけようとしている様だが、幼い姉妹はうまくそよぎのボールをかわしている。というより、そよぎにコントロールが無さ過ぎるというべきか。

「まったく……」

 せっかく二人きりで、しかも少しばかりいい雰囲気だと思ったら、これだ。

 しかし、子供と遊ぶそよぎを見ながら思う。

 あんな風に無邪気にはしゃいでいるそよぎの方が、よっぽどそよぎらしいかもしれない。

 僕はあんなそよぎを好きになったのだ。

 僕はそよぎにボールの投げ方を教えてやろうと三人に近付いていった。

 そのときだった。

 そよぎが投げたボールはまたも明後日の方角に飛び、公園の外へ転がり出てしまう。

「みさきがとるー」

 幼い姉妹の妹はそのボールを追いかけて公園の外へ飛び出してしまう。

 そこには一台の車が迫っていた。

 僕はごくりと息を呑み、瞬間的に走り出す。

 ――間に合え!

 幼い女の子はまだ車に気がついていない。

 そこからの記憶はスローモーション。まるで世界を動かす神様の時計が狂ってしまったかのように、世界のすべてがゆっくりと動いた。僕は全力で走り、手を伸ばす。

 僕は――幼い女の子の手を掴んだ。

 ボールはてんてんと道路に転がり出ていく。

 車はそのボールを見て、止まった。

 もともとここは住宅街だ。しかも公園の隣という事もあって、車の方もそうスピードは出していなかったのだ。運転手の男は僕の方をちらりと見る。彼は何も悪くない。むしろ、安全運転を心掛けていたのだから褒められるべきだろう。

 僕が軽く会釈をすると、向こうも微笑んで会釈をし、車を走らせて去っていった。

 僕はそこでやっと自分の心臓がばくばくと脈を打っていることに気がつく。実際には、この子が飛び出していたとしてもあのドライバーならブレーキをかけられたかもしれない。だが、まかり間違えば交通事故が発生しかねない状況だったのだ。僕が緊張するのも無理からぬことだろう。

 僕は掴んだ手を放しながら女の子に言う。

「道路に出る時はもう少し気をつけような」

「……うん」

 女の子は放心状態のようだったが小さな返事をした。

 僕は一息ついて振り返る。

 姉妹の姉の方が心配そうに妹に駆け寄っていた。

「大丈夫?」

 姉に優しく声をかけられ、緊張の糸が解けたのだろうか。妹はぽろぽろと涙を流し始めた。

「ああ、泣くな泣くな」

 僕はそんなことを言いながら、姉妹の世話をしていたとき、不意に気がつく。

 そういえば、そよぎはどうしたのだ。こんなときそよぎなら真っ先に飛んできて、この女の子を慰めそうなものだが。

 僕は公園を見渡す。

 そこには信じられない光景があった。


 そよぎは、公園の真ん中で気を失って倒れていた。

 

 そして、僕たちの平和な日々の終わりが始まった。

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