第6話

「遂に最大にして最強の敵が現れてしまったよ……」

 いつもの放課後の教室。いつにもまして深刻な顔で僕と向かい合っているのは、愛原そよぎだ。

 愛原そよぎは誰もが認める絶世の美少女にして、その正体は魔法少女だ。彼女には悪い魔法少女と戦う使命があるらしい。だが、魔法少女とやらは一人一人固有の能力を持っていて、中には厄介な力を持つ者も存在する。彼女はそんな魔法少女を倒す方法をいつもなやんでいる。だから、僕はよくその相談に乗ってやっていた。

 だが、今日は彼女の表情はいつもよりいっそう暗い。まさか、そこまで強大な敵がやってきたというのだろうか。

「今回ばかりは私一人の力では太刀打ちできない……」

「そんな……」

 今までなんだかんだ言ってもそよぎは勝利してきた。そのそよぎが今回ばかりは勝てないと言う。一体どれほど強大な敵なのか。

「あいつの事を考えるだけで頭が痛くなるんだよ」

「………………」

「なぜあんな悪魔の様な存在がこの世界に生まれてしまったんだろう」

「………………」

「もう私戦えない……戦えないよ……」

 そこでそよぎは目を潤ませる。

「期末テストとなんて」

「まあ、そのオチは読めてた」

 期末テスト一週間前の出来事である。


「というわけで幸助くん、勉強教えてください……」

「それは一向に構わないが」

 正直いつかこんな日が来るのではないかと予想はしていた。

「前回の中間テストはどうしたんだ」

「前回は必死に頑張ったからね」

「ほう」

「なんと現代文で二点取れたんだよ」

「……他は?」

「もちろん、0点だよ」

 想像を絶するやばさだった。

「今回の目標を高く設定しようと思うんだ」

「………………」

「なんと全教科0点回避を目指すよ!」

「………………」

「あ……さすがに大きく出過ぎたかな?」

「赤点回避を目指そう!」

 どこから突っ込んでいいのか解らない有様である。


「テスト勉強するぞ」

 放課後の教室、僕はそよぎの隣の席を借りて座る。

「まず英語からだ。教科書を出せ」

 おそらくはアルファベットから教えねばならないだろう。

「……教科書?」

「まさか教科書が何か解らないとは言わないよな」

 そよぎの場合、本当に言い出しかねないのが困る。

「さすがに教科書はわかるけど、どこにあるか解らない」

「は?」

「家のどこかにはある」

「普段の授業どうしてるんだよ」

 僕の記憶にある限りではそよぎは特別忘れ物が多い訳ではなかったように思うが。

「別のクラスの人が毎日交代で、私の机の上に置いておいてくれるから」

「別のクラスの人?」

「私のファンクラブだよ」

「ファンクラブ、活動実態あるじゃねえか」

 主な任務はそよぎに交代で教科書を貸すことだそうです。

「そよぎ、そうやって何時までも他人に頼っていたらダメだ。相手にも迷惑だろ」

 ファンクラブの奴らは自分の教科書を使ってもらえてむしろ喜んでそうだが。

「そうだね……よし、きちんと自分の教科書を持ってくる様にするよ!」

「そうだな」

 小学生を諭している気分である。

「あっ、でも。とりあえず今日は教科書がないんだ」

「そうだな」

 教科書もないのでは流石に話にならない。そよぎの学力は、学力という言葉を使うのも烏滸がましいレベルなので、時間は一刻も無駄にできないのだが、仕方がないだろう。

「仕方ない、勉強は明日から――」

「じゃあ、私のうちでやろうよ」

「え?」

 僕は自分の耳を疑う。

「それなら教科書使えるし。今日、お父さんもお母さんも居ないし」

 お父さんもお母さんも居ない……?

 そよぎは意味が解って言っているのだろうか。いや、解っていないだろう。

 両親が不在のクラスメイトの女子の家に誘われた男子高校生として、至極真っ当で当然の想像が僕の頭を過る。

 僕はできるだけ平静を装って言う。

「それなら、そよぎの家に――」

「キモい面さらしてんじゃねえよ、顔面、ローラーで更地にしてやろうか」

「あはは、顔面ローラーって、小顔になりそう。マジでウケる」

「案の定出やがったなお邪魔虫ども」

 正直、この展開も読めていた。

 怒気をはらんだ顔で口汚く罵ってくださったのが、内田風音。ボブカットにメガネという何かを拗らせた女子大生のような出で立ちのクラスメイトだ。

 対照的に喜怒哀楽の「喜」以外の感情をどこかに落としてきた様な笑顔をした碧眼金髪ツインテールが高岡凪。こいつもクラスメイトだ。

「ふん、どうせ二人きりの勉強会なんぞ、許さない。自分たちもついていくとか言うんだろ。おまえらの行動は、『眼鏡を外すと実は美少女』レベルにベタなんだよ」

「あはは、かざっちも眼鏡外したら美少女になるのかぁ?」

「内田は眼鏡を外すと目が『3』になるタイプだな」

「てめえは目は節穴のようだから、かっぽじって代わりに電球詰めといてやるよ。その方がよっぽど世の中の役に立つぜ」

「電球で照らすくらいじゃてめえの陰険な面は誤魔化せねえけどな」

「言ってろ。今にてめえに、目玉を電球にされたくらいで済んでいたことが幸せだと思えるくらいの生き地獄を味あわせてやるからよ」

「あはは、おまえら面白すぎ、ワロス」

 僕と内田は一歩も引かない。凪は後ろで笑い転げている。

「三人とも仲良くなったんだね」

 そよぎがぽつりと呟く。

「これが仲良さそうに見えるなら、おまえの目玉も取り替えた方がいいな」

 これはガチの喧嘩である。

「でも、けん――」

「喧嘩するほど仲が良いとかベタな事言っちゃだめよ」

「……けん……けんか……じゃなくて…………けんちんじる」

「そういや、けんちん汁と豚汁って何が違うんだ? あはは、気になるなぁ」

「どうでもいい。僕とこいつの関係は少なくとも、喧嘩するほど仲が良いなんてありきたりな言葉で片付けられる関係ではない」

 喧嘩できるだけで仲が良いことになるならば、喧嘩を売ってばかりいる不良ほどラブ&ピースの精神に溢れた人物は居ないことになるだろう。

「でも、少なくとも趣味は合うよね、風音ちゃんと幸助くんって」

「趣味? ああ、漫画とかか?」

 確かに僕はよく漫画を読むし、内田もよく漫画を読むと言っていた。

「いや、もっと共通の趣味があるでしょ」

「共通の趣味……? そんなものあったかしら」

「僕も心当たりがないんだが」

 そよぎは、得意げに答えた。

「二人とも私のことが大好きでしょ」

「………………」

「………………」

「おい、今調べたら、けんちん汁は精進料理だから豚肉とかは使わないらしいぞ!」

「………………」

「………………」

「それにしてもけんちん汁ってなんだよぉ。けん『ちん』だって。『ちん』だぜぇ。うけるわぁ、マジで」

「………………」

「………………」

「あはは……は?」

 内田はそよぎと凪の肩を掴んで、真っ直ぐに目を合わせて言った。

「そよぎ、調子に乗るな。凪、黙れ」

「「……はい」」

 たまには、僕と内田の意見が一致することもあります。


 てっきり、二人がついてくると言い出すだろうと思っていたら、本日、初めて内田は予想外の発言をした。

「別についていかないけど」

「マジかよ」

「なに、あんた。うちと一緒にテスト勉強したいだなんて思っているわけじゃないでしょ」

「当たり前だ」

 内田と一緒にテスト勉強するくらいなら、猿とでも一緒に勉強する方がましである。

「うちは忙しいのよ」

「どうせメイトに予約したDVD取りに行くとかだろ」

「Blu-rayだっつうの」

「当たらずとも遠からずじゃねえか」

 適当に言ったのに当たってしまうあたり、僕と内田の思考回路は似通っているのかもしれない。認めたくはないが。

「ていうか、テスト勉強しなくていいのかよ」

「うちは普段から計画的にやってるからね」

「じゃあ凪は?」

 僕は凪に話をふる。

「あたしも今日は忙しいんだ。ライブチケットが今日から予約開始だから、パソコン前で待機しなくちゃならない」

「ライブ?」

 凪とライブ。全く想像がつかない。

「ああ、ダイナマイト関西だ」

「ライブってお笑い芸人のライブか」

 それなら、めちゃくちゃしっくり来る。こいつ一人いるだけで、会場の空気は十二分に暖まりそうだ。

「というわけで、あたしたちは帰るから後は自由にやってくれ」

 そう言うと、二人は本当に帰ってしまった。

(いいのか?)

 どうせ四人で、がやがややって、結局、テスト勉強は捗らず、そよぎは全科目0点だった、みたいなオチになると思ったのに。

 それならそれで、二人きりの勉強会(意味深)と洒落混むだけだが。

(いや、別に実際にいい雰囲気になったときに、踏み込む自信がないから、そうならないように本当は一緒に来てほしかったとかでは無いからな)

 僕は心の中で、誰にするでもない言い訳を行う。

「じゃあ、私の家に行こう」

 こうして、僕は初めてそよぎの家に行くことになったのだった。


 しかし、内田があっさりと僕がそよぎの家に行くことを許可したのには理由があったということを、僕はすぐに知ることになる。


「ようこそ、いらっしゃいました」

 緊張しながらそよぎの家の玄関をくぐった僕を迎えたのは、小学生くらいの男の子だった。

「紹介するね、私の弟の雪哉だよ」

「いつも、姉がお世話になっております」

 雪哉と紹介された小学生は深々と頭を下げた。男にしてはくっきりとした目鼻立ちで、このまま成長すれば間違いなくイケメンになるであろう。姉弟というだけあって、どことなくそよぎに似ている。間違いなく「美少年」の類いだ。

(両親は居ないけど弟は居る、というオチだったのはともかく……)

「初めまして、渡辺幸助です」

 相手の丁寧な礼につられ、僕も思わず深々と頭を下げる。

「姉から聞きました。何でも姉のテスト勉強をお手伝いして頂けるそうで。ご存知でしょうが、何分不出来な姉でして。本当に御迷惑ではありませんか」

「い、いえ。あくまで自分の勉強のついでですから」

「ああ、そんなに固くなられないで。私は年下ですから礼儀として敬語で応対させていただいてるだけで。私には平語で話していたたければ」

「そ、そうかい」

「はい。何もないところですが、是非くつろいでいってください」

 僕はそよぎに連れられて、そよぎの部屋に入る。

「雪哉って、子供っぽいでしょ」

「あの子が子供っぽかったら、そよぎは赤ん坊かなにかかな」

 あんな大人びた小学生初めて見たわ。

 なぜ、この姉の弟があれほどしっかりしているのか。理解できない。

 それはそれとしても。

 雪哉くんのあまりの衝撃に圧倒されていたが、よく考えてみると。

(今、僕はそよぎの部屋に居るんだよな)

 僕は改めてそよぎの部屋を観察する。子供部屋としてはかなり広めだ。普通の家のリビングくらいの大きさはあるだろうか。

(まずこの家そのものがでかいんだよな)

 間違いなく上流階級に属する家庭だろう。

 中央には高級感のあるテーブルが置かれ、部屋の隅には、木製のお洒落な勉強机や大きな薄型テレビがある。薄桃色の布団のベッドの周囲には、可愛らしい動物のぬいぐるみが、溢れんばかりに置かれており、いくつか実際にベッドからずり落ちてしまっている。あれだけベッドの上にぬいぐるみが溢れているとなると、彼女は一体どこで寝ているのだろう。

 部屋の反対の壁の一面には、かなり大きい本棚が設置されていた。

「すげえ数の漫画だな」

 ちょっとした図書館並の本棚に置かれていたのは、ほぼ全てが漫画だった。汗牛充棟とはこういうことをいうのだろうか。

「そよぎも漫画好きなんだよな」

「そうだよ。風音ちゃんほどじゃないけど」

 僕もかなり漫画は読む方だが、経済的な事情から、本当に好きな作品以外は人から借りて読むことが多い。これほど沢山の漫画を所持していることは単純に羨ましい。 

「まあ、半分くらいは途中までしか読んでないけど」

「なんでだよ」

「途中で読んでて話が解らなくなって……」

「漫画の話だよな?」

 小説ならまだしも、漫画で話が解らなくなるなんて奴は初めて聞いた。本棚のラインナップを見ても、そこまで難解な作品が並んでいるわけでは決してない。

(いくらなんでも不自然だよな)

 最近、時々考えさせられる。そよぎの理解力の無さは「アホ」なんて言葉で片付けていい範疇を越えている。何か原因があるのだろうか。

 しかし、今考えてもせんなきことだ。

(そんなことより、女の子の部屋に二人きり)

 しかも、相手は類を見ない美少女と来ている。これで冷静になれという方が無理だろう。

 僕は落ち着かず、視線をそわそわとさ迷わせる。

「座って」

 そう言って、そよぎは可愛らしい猫のクッションを指差す。僕はその上に座り、部屋の中央の机につく。

 よく見ると中央の机の上には、きちんと整頓された教科書が置かれていた。

「そういえば、意外と綺麗にされてるんだな」

 教科書がどこにあるかわからない、などと言っていたので、てっきり部屋の中で教科書を探すところから始まるかと思っていた。

「ああ、これは雪哉だよ」

「え?」

「帰る前に家で勉強するから私の部屋掃除して、教科書出しといてって言ったの」

「弟にやらせることじゃないよね」

 母親でも、なかなかここまではしてくれないと思う。

「大丈夫。あの子、こういうの好きだから」

「掃除がか?」

 珍しい男子小学生である。

「まあ、それもだけど――」

「よかったら、お茶をどうぞ」

 いつの間にか、僕のすぐ隣には雪哉くんが立っていた。

「うおっ」

 全く気が付かなかった。

「ああ、すいません」

 雪哉くんは申し訳なさそうに眉をハの字に曲げる。

「私は存在感がない故に、不意に現れ、人を驚かせてしまうことがしばしばあるのでございます。私の不徳の致すところです……」

「雪哉は塔坂学園小等部四天王の一人で『神出鬼没サイレントロスト』の二つ名を得ているからね」

「私は勿体なき高名にございます」

「やばい、突っ込みが追い付かない」

 うちの学園には、まだまだ実力者が居るようです。

「では、ごゆっくり……」

 そう言うと、雪哉くんは部屋を出ていった。

 僕はどこか気勢を削がれた感じになる。

「勉強しますか……」


 テスト勉強の内容は語るべくもない悲惨なものだった。

「アルファベット? なんと最近、半分くらいは言えるようになったんだよ!」

「方程式? それって九九と関係ある?」

「漢字? 漢字は得意だよ! ちゃんと自分の名字の『愛原』はかけるからね!」

「いい国作ろう、鎌倉幕府! でも、『かまくら』って夏はどうするの? とけちゃわない? えっ、鎌倉幕府って雪で出来てるんじゃないの?」

「必殺! 等速直線運動!」

 語るべくもない……。

 僕には、テストの山を無理矢理叩き込むので精一杯だった。


「……ちょっと休憩しようよ」

「そうだな」

「やった」

 勉強を開始してから何だかんだで一時間半は過ぎている。そよぎにしては頑張った方だろう。できるだけ、色んな科目を満遍なくやるという方針が効を奏したのかもしれない。

「このマンガなんだけどさ、読んだことある?」

 そよぎは本棚から一冊のマンガを取り出す。それはアニメ化やドラマ化もされた有名な作品で、僕も昔、友人に借りて読んだことあった。内容はミステリー。名探偵である主人公が様々な事件を解決するという内容だ。

「この事件の意味が解らない」

「これか」

 確かにこの作品はマンガにしては難解だ。先程、そよぎに勉強を教えていて確信したが、そよぎの頭脳のレベルは小学校中学年レベルだ。小学生にはこの作品は確かに手に余るだろう。

「だから、あからさまにこの男が犯人だとみんな思うだろ?」

「そうだよね」

「だから、みんな逆にこの男は犯人じゃないだろうと思うわけだよ」

「なんで?」

 そよぎは可愛らしく首をかしげる。

「アリバイがないのは一人だけ。動機があるのも一人だけ。ダイイングメッセージまでが一人の男をさしてる。ここまでされたら逆にこの男を別の誰かが陥れるためにやってるんじゃないかと、みんな思うわけだ」

「ふむ……でも、結局、その一番怪しい奴が犯人だったんでしょ?」

「そうだよ。犯人は『まさかここまで怪しい奴が犯人ではないだろう』という思い込みを利用して、あからさまに自分が疑われる証拠を残してたんだよ」

「えー、でも結局この男が犯人だったんでしょ? じゃあ、最初からこいつを捕まえとけば、すぐに話が終わってたんじゃないの?」

「いや、だから、それは裏を――」

 そこで僕は気が付く。

(そよぎの胸が当たっている……)

 確実に無意識であろうが、僕がもつマンガを覗き込むことに夢中になり、そよぎは後ろから僕に抱きつく様な体勢になっている。結果、そよぎの豊満な胸が僕の背中に押し付けられることになっている。

(やっぱり、こいつ結構胸あるな……)

 初夏に入り、ブレザーを着用しなくなってから確信したが、そよぎはスタイルが良い。「見ただけで女性のスリーサイズがわかる」というラブコメ主人公の友達の様な能力はないので、はっきりしたことは解らないが一般的な同年代の女よりも大きい事は間違いない。

 健全な男としては、胸を押し当てられて平静でいられるなどという事はあり得ない。それが現在片思い中の相手であれば尚更だ。僕は自身の血流が早くなるのを意識する。

「だからさぁ――」

 そよぎの吐息が僕の耳元にかかる。

(くっそ!)

 僕は思わず理性のタガを外し――

「ご休憩でしたらお菓子でもいかがですか?」

「うわぁ!」

 僕とそよぎの間に割り込むように現れたのは、雪哉くんだった。

 雪哉くんの顔が僕のすぐ目の前にあり、男にしては長い睫毛をしていることに気がつかされる。

「もー、雪哉って、私が誰かと遊んでるといつも急に現れるんだから」

「ごめんなさい、姉さん」

「この子、いつまでも私にべったりで。子供っぽいでしょ?」

「お、おう」

 すんでのところで、ことを止められたことで僕は動揺し、冷や汗をかく。

「では、ごゆっくり……」

 そう言うと、雪哉くんは、また音もなく去っていった。


(ベタなラブコメじゃないんだから……)

 勉強を再開しながら僕は今起こった出来事について、思いを巡らす。

 僕がそよぎに(自主規制)のタイミングで部屋に弟が入ってくるなんて、まるでマンガの展開である。

「………………」

「うわーん、やっぱり英単語100個覚えるなんて無理だよお」

「………………」

「うわああああああ!」

「………………」

「ねーえ。無理だよぉ」

「……そよぎ、こっちに来てみろ」

 僕は立ち上がり、部屋の隅までそよぎを誘う。そこは巨大な本棚のおかげで部屋の中心からは死角になっている。

「なになに?」

 そよぎは勉強から逃れられると思ったのか、飛び上がる様にして僕の誘いに乗り、ついてくる。

「どうしたの?」

「いいから、来い」

 僕はそよぎの手を掴んで強引に物影に引きずり込む。

「きゃっ! なーに? どうしたの?」

 ほとんどそよぎを抱き寄せる様な体勢になってしまっている。ちょうど先程の反対だ。

 そよぎの身長は僕よりも少しだけ低い。こうやって至近距離で見つめ合うと、そよぎは自然上目遣いになる。それだけでも僕の理性は崩壊寸前であるのに、女の子独特の甘い臭いが僕の鼻孔をくすぐり、僕の心臓は爆発寸前となる。

(ぐっ! 堪えろ!)

 人間と動物をわける一つの要素は理性だ。僕は人としての尊厳にかけて、先程犯そうとした様な本能に任せる様な真似はしない。

 確かに、やっている事は先程、理性が吹っ飛びかけた時にやろうとしていたことと、ほとんど何も変わりはしない。二人きりの室内で半ば強引に女の子を抱き寄せている。もしも、言い訳が許されるならば、自分の中のけじめとしてあくまでも「抱き寄せる一歩手前で止めている」ことだ。あくまでも僕はそよぎの手以外には触れていない。

(これでも僕は紳士なんだよ!)

 もちろん、客観的に見れば女の子を無理矢理抱き寄せているようにしか見えないだろう。そよぎは鈍いので何も感じていないようだが、相手の女の子が嫌がればアウトであることも重々承知だ。しかし、今、こんな真似をしてでも確かめておかねばならないことがある。

「おっと、やっぱり来たな」

「……私がやってくる事を予見していらしたのですか?」

 僕はそよぎを掴んでいた手を離し、突然部屋に踏み込んできた雪哉くんと向き合う。驚いたのだろうか、ずっと冷静沈着だった雪哉くんの表情が崩れ、焦りの色が浮かぶ。 

「そこのぬいぐるみについてさ、お兄さんと二人でお話しようぜ」


 そよぎを自分の部屋で勉強する様に言って残し、僕は雪哉くんの部屋へと移動する。

 雪哉くんの部屋もそよぎと同様に広い。置かれているものもほとんど変わらない。違いがあるとすれば、本棚の数が少ないこととそこに置かれた本のラインナップのほとんどが純文学であったことだろうか。

 僕は本棚を見ながら言う。

「なかなか渋い趣味してるんだな」

 古今東西、名作と名高い作品はほとんど網羅されているだろうか。こんな本ばかり普段から読んでいるのであれば、あれほどしっかりした言葉遣いができることも頷ける。

「……いつから気付いてらしたんですか?」

 雪哉くんは声を震わせて呟く。

「うーん、違和感をもったって意味なら部屋に入った直後かな」

 僕は雪哉くんに言う。

「部屋は全体としてはよく片付いていて、教科書まで中央の机に置いてくれている至れり尽くせりぶりなのに、ベッドの上のぬいぐるみはあまりに雑然とし過ぎていた」

 そよぎは雪哉くんに部屋の掃除を頼んだと言っていた。机を片付けるに手一杯だったとしても、ベッドからこぼれたぬいぐるみをベッドの上に戻すくらいならすぐできたはずだ。

「なら、わざとぬいぐるみを適当に置いていると考えたら答えはでたよ」

 僕は彼に真実を突き付ける。

「雪哉くん、君はあのぬいぐるみに監視カメラを仕掛けているね」

「………………」

「だから、君は僕が……その……そよぎとちょっといい雰囲気になったタイミングを見計らって邪魔する事ができたんだ」

 実際、アイドルがファンから貰ったぬいぐるみの中身に盗聴器があったなんて話はざらだ。ぬいぐるみにカメラを仕込む事も決して現実的に不可能な話ではない。そんな種でも無ければ、あんないいタイミングで部屋に突入するなんて真似ができるはすがない。現実は、ラブコメとは違うのだ。

 雪哉くんはうつむいてしまう。

「今から部屋に戻って一個一個ぬいぐるみを確かめることもできるけど……」

 僕には大体の目星もついている。わざと死角になりそうな部屋の隅にそよぎを連れ込んだときに、慌てて雪哉くんがやってきた辺り、中央の机に向かって正面を向けていたおおきな熊のぬいぐるみ辺りだろう。

 雪哉くんは、顔を上げるとどこかふっきれた様子で言う。

「いえ、それには及びませんよ。認めます」

「潔いな」

「花は桜木、人は武士と言います。みっともない言い訳はしませんよ」

 人は一瞬で散る桜の様に、潔い武士こそが最も優れているという意味だ。

「そうです。ぼくは姉と幸助さんが行き過ぎた行為を行わないかどうか見張っていました」

 自らの所業を認めた雪哉くんは、慇懃な仮面を外したためだろうか、より一層大人びて見えた。

「なぜ、そんなことを?」

「愚問ですね。それはぼくが姉のことを愛しているからですよ」

「愛して……」

「ええ。もちろん、家族愛としてはもちろん、それ以上のものとしてもね」

「念の為聞くが、君とそよぎは……」

「もちろん、血のつながった実の姉弟です」

 姉を思う禁断の愛。それが彼を行き過ぎた所業へと走らせたのか。

「ぼくの事を異常だとお思いでしょう?」

 雪哉くんは、どこかシニカルな笑いを浮かべて、自嘲する様に言った。

 僕はそんな彼を見て、打算ではなく、純粋な思いで言った。

「思わないよ」

「ぼくの秘密を知った人は、皆さん、そんな風に気を使ってくれるんですよ」

「いや、これは僕の純粋な気持ちだ」

 僕は正直な気持ちを吐露する。

「姉があのそよぎなら仕方ねえよ」

「………………」

「僕だって、あいつの実の弟だったとしても惚れちまってただろうね」

 むしろ、四六時中一緒に居なければならない姉弟であるならば尚更だろう。なにせそよぎの魅力にやられることは、老若男女、避ける事はできない。多感な男子なら意識するなという方が無理な話だ。

「ぶっちゃけ、僕は善人ぶる気はないから、近親相姦とかはあんまり理解できないよ」

 まあ、これには僕が天涯孤独の身で、血の繋がった家族が一人もいないことも関係しているのかもしれないが。

「それでも、まあ本人同士の同意があるなら好きにすればいいんじゃないか、くらいのスタンスだ。でも、あれが姉なら仕方ないさ。これは掛け値なしの感想だよ」

 僕の言葉を黙って聞いていた雪哉くんはじっと僕の顔を見つめている。

「というわけで、僕と君は純粋にライバルだ。だから、お互い正々堂々一人の女を奪い合おうぜ」

 僕はにっこりと微笑みかける。

 すると、雪哉くんは毒気の抜けた顔で呟いた。

「幸助さんはぼくが思っていた以上の人でした……」

 雪哉くんはどこか熱に浮かされた様な瞳で僕を見つめている。

「ご存じの様に姉は思慮の足りない人ですから、男をすぐ自分の部屋に入れてしまいます。もちろん、相手の男の思惑なんて何も解ってはいないのですが。だからこそ、ぼくがお守り申し上げなければと、常々考えていたのです」

「そのためにカメラを?」

「ええ。昔、友達を家に呼んだときに部屋が余りに乱雑であったことに引かれて以来、姉は部屋に人を呼ぶ時は必ずぼくに連絡をして部屋を掃除させる様にしていました。そのときに、ぬいぐるみの中に一台カメラを仕掛けたものを置くようにしていたのです。誓って言いますが、普段は置いていません。姉が誰かを部屋に入れたときにだけ置いているのです」

 雪哉くんの目は真摯だ。嘘をつく人間は視線を外したり、言葉に妙な間があったりするものだが、彼にそのような様子は見受けられない。おそらくは真実を語っているとみていいだろう。

「信じるよ」

「ありがとうございます。今回の様にカメラのことを見抜かれたのは初めてのことです……」

「まあ、それは相手が悪かったな」

 僕はあえて軽口を叩いてやる。反省しているようだし、動機も純粋なものだった。これ以上、彼を責める理由は、少なくとも僕には無いだろう。

「ええ、幸助さんは本当にすごいです。本当に……」

「いや、褒めても何もでないぞ」

「いや、尊敬します……」

 雪哉くんが僕を見る視線がどことなく熱い。

 何故だか嫌な予感がする。

 気が付くと雪哉くんは僕との距離を一瞬で詰めている。

(これは古武術の縮地か何かか!?)

 おそらくはこれが雪哉くんが人に出現を悟らせずに突然現れたように思わせる種の一つだ。ほとんど、上半身を動かさず、滑る様に移動することで気付かれない内に間合いを詰める。結果、相対した者からは一瞬で目の前に近付いてきた様に感じさせる。

(おそらくは、縮地だけでなく、視線誘導や気読みの技術も併用しているな)

 これが『神出鬼没サイレントロスト』の実力か。

 僕が中二バトルマンガの解説役みたいな思考をしている間に、雪哉くんは本当に僕の眼前にするりと潜り込む。

 吐息がかかる距離。この距離まで近づくと、彼の端正な顔立ちがよりはっきりと解る。顔のつくりは本当にそよぎにそっくりで、この世のものとは思えない美少年っぷりだ。

「ぼくがどうやって姉に手を出そうとする不届き者から姉を守ってきたか……幸助さんなら見抜いていらっしゃるのでしょう?」

「顔が近い!」

「姉に近付くほぼ全ての人間は醜い情欲によってのみ姉を見ているのです。ですから、その情欲をぼくがはらしてさしあげれば、皆さん姉から手を引いてくださいます」

「自分が何を言ってるのか解っているのか!」

「ええ。ぼくは正気です。ああ、勘違いなさらないでください。何も自己犠牲心などから姉の身代わりになろうとしているわけではありません」

 雪哉くんはどこか妖艶に舌なめずりをする。

「そよぎ姉さんのことが好きな相手ならぼくも趣味が合う、相性ばっちりな相手だからね……」

「僕にそっちの気はない!」

「幸助さんは今までの相手の中でも最高。本気で惚れたよ……」

「話を聞けぇ!」

 ちくしょう、これは最後の最後にまたベタな台詞を吐かねばならない!

「アーッ!!」

 

「もう、雪哉はいっつも私が連れてきた友達取っちゃうんだから!」

「………………」

「ごめんね、姉さん。幸助さんがあまりに素敵だったからさ」

「………………」

「もう、当たり前でしょ! 幸助くんは私の一番大事な人なんだからね!」

 僕は薄れゆく意識の中でそんな幻聴を聞いた気がした。


 そよぎのテストの点数は、彼女にしてはそこそこでした。

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