白と黒
翌日、俺は4階ナースステーションにおつかいを頼まれていた。
おつかいと言っても、今日も森岡さんに面談をさせてもらうという申請の書類をただ届けるだけなのだが。
そして、そのおつかいもすぐに終わり、伝達管理部へ戻ろうとしたところで後ろから声がかかった。
「あー! 晴真先生だ!」
「ホントだー!」
「咲ちゃんと奈穂ちゃん、元気だね……」
先生と呼ばれることに、気恥ずかしさというか、後ろめたさがあるというか、居心地が悪い俺としては、どうかその元気のいい大声で呼ばないでくれと願わずにはいられなかったのだが、そうもいかないのが子供である。
俺のちょっと落ち込んだ表情を見て、二人は首を傾げていたが、深く気にした様子もなく俺の手を引いた。
「晴真先生、オセロしたことある?」
「え、オセロ? あるけど……」
「強い?!」
2人の眼差しが輝き始めたことに、驚きを隠せなかったが、それより、強さの基準がわからない。
「ええと……どうだろう……普通?」
「あのね! ええと……なんだっけ?」
「助っ人!」
咲ちゃんの出てこない言葉を奈穂ちゃんが補い、話が続いてはいくのだが、俺としては端々の言葉だけで話の全体像がわかるほど勘が鋭くはなかった。
「そう、それ!」
「助っ人? オセロの?」
「うん!」
「ゴメン、イマイチわかんない……」
「えっとね、これから森岡お爺ちゃんのところに勝負しに行くの!」
「森岡お爺ちゃん……?」
「オセロが好きでね、すごく強いんだよ!」
森岡のお爺ちゃんと言われれば、1人しか思い浮かばなかった。
この上なくマズイ。このままだと森岡VS鶴木のオセロ勝負が現実となってしまう。
全くもって意味がわからないではないか。
俺は昨日、直接森岡さんと喋ったわけではない。寧ろ、俺は後ろに立っていただけだし、そもそも悠菜さんとも会話が弾んでいたとは言えないし……。
会うべきではないという声が俺の中から無数に聞こえ始めていた。
「いや、でも俺仕事が……」
やんわりと断るにはやはりこれしかないだろうと、俺は二人に立ち止まるように頼む。
「一回だけ!!」
「悠菜さんには私達も謝るから!!」
「え、いや……そういうことじゃないんだけど……」
仕事に行かないと悠菜さんに怒られると勘違いしてしまったようで、俺はこの後、子供に言い訳をしてもらうことになるのだろうか。
「森岡さーん!!」
「来たよー!!」
子供の力で引きずられるわけないのだが、力を入れてそれを拒むのも気が引けてしまい、ましてや咲・奈穂コンビは俺の腕を一本ずつ引っ張っているので、もう従う他なかった。
談話室には森岡さんと、それを囲むように数人の子供達がいて、俺の姿を見るなり、やはり森岡さんの片眉が反応していた。
「今日はね、助っ人連れてきたの!!」
「助っ人? その兄ちゃんか?」
「そう!!」
「晴真先生が相手だよ!!」
仁王立ちで誇らしげな咲・奈穂コンビに紹介されてしまい、反射的に聞き返してしまう。
「ホントに俺がやるの?!」
「そうだって言ったじゃん!!」
「頑張って!!」
2人の応援に、テーブルを囲んでいた他の子供達も森岡さんの対戦相手席を譲ろうと道を開けた。
仕方ないという一言では片付けたくない展開だったが、子供達が開けてくれた道を引き返すわけにもいかず、俺は椅子に座った。
「え、ええと……」
「お前さん、確か昨日の……」
「はい……。俺、鶴木晴真と言います。今、この病院の伝達管理部で研修中の大学生です……」
何かを誤魔化す余裕はなかった。
ここで怒鳴られてしまえば、それまでだ。それこそ悠菜さんに謝る他ない。
実際に、大学生という言葉に、森岡さんは訝しげに反応していた。
「お前さん大学生って、学生なのか?」
「え、はい……」
やはり、学生が面談に立ち合っていたことがよく思わなかったのかと、俺は目を伏せたが、聞こえてきたのは、何かが吹っ切れた笑い声だった。
「ははははっ!! 何だよ! あの姉ちゃんより年上の上司かと思ってたぜ!!」
「……はい?」
「後ろで何も言わずに見てるもんだからよ、あの姉ちゃんのテストでもしてんのかと思ったわけよ」
「あ、あはは……」
俺は、そういうふうに見られていたのか。
確かに、何も言わずに見ていた。だが、それは口を挟む勇気も何もなかっただけの話なのだが、傍から見ればそうなるのか……。
「そんで、晴真先生? オセロで一勝負、どうだい?」
「……よろしく、お願いします」
「そうこなきゃな」
雰囲気が変わった森岡さんを前に、俺は少し楽しくなって勝負を受けた。
もちろん、大人同士の対戦になったとは言え、プロの戦いではない。持ち時間などの細かいルールはなく、先攻と後攻をじゃんけんで決めたくらいだった。
俺としては、持ち時間という束縛的なルールがないのはありがたかった。パソコンなどに入っているソフトではたまに一手にかける制限時間が設定されているものも見たことがある。俺はどちらかといえば長考する方だったので、のんびりできるというのはありがたかった。
開始から、およそ5分。オセロ盤に7割方、石が置かれた。
四つ角の取り合いは、結構読み合いになったけど、お互いに二つずつの互角におさまった。
7割を打ち終えた盤面にしては予想以上に、後攻の俺の白が多いというか、打てる場所が少ないのが正直なところだった。劣勢は言わずもがなだったが、それでも手順次第では最後にひっくり返せそうだと俺は感じていた。
最後の一手を打ち終え、お互いの石を数える。
単純な話、32の数字を数えることができれば、俺に負けはない。
もっと簡単な話、自分の打った色の石が33個あれば勝ちである。
そして、呟いた俺の最終的な数は35。
向かい側では楽しかったと言わんばかりに笑う森岡老人の顔があった。
「やられたやられた! やるねえ、晴真先生」
「ど、どうも……」
だから、先生をつけるのをやめていただきたい。
「やったー!! 勝ったよ!! 晴真先生!!」
「すごーい!! 晴真先生つよーい!!」
もう、先生でもなんでもいいや……。
「真剣勝負してスッキリしたぜ。あんがとな」
「いえ、俺も楽しかったです。ありがとうございます」
「聞いてもいいか?」
「何です?」
オセロ勝負を通して、森岡さんの俺を見る目が変わった気がした。
勝手にことを運んだ家族に憤り、他を拒んでいた昨日の雰囲気から一変して、別人のようにも見えた。
「ワシみてぇな老いぼれのためにあの姉ちゃんが頑張ってくれようとしてるのはわかるんだがな。まだそんな気になってねえんだ。今回は見送りってことにはならねえのか?」
「もちろんできますよ。昨日もその確認だけでしたし」
「そ、そうだったのか?」
驚く森岡さんに、悠菜さんの本心を伝えるべく、俺は言葉を続けた。
「元々、ゆ、黒崎さんに依頼していたのは娘さんという話は聞いていましたから。黒崎さんはご本人からの依頼しか基本的に受けませんからね」
「そんで、ワシに確認しようってか」
「ええ」
肯定する俺の言葉を聞き、森岡さんが少し考える素振りを見せた。
そして、考えがまとまったのか、顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめると笑った。
「今日、もう一度話がしたいってあの姉ちゃんに言ってくれるか?」
「わかりました。夕方4時頃、お伺いします」
「おいおい、いいのか?」
俺の言葉に驚いていた森岡さんだったが、何も問題はなかった。今日の予定は、当初の予定通りになりそうだ。
「黒崎さんは、森岡さんがどうであれ、今日もう一度話を聞くと言って、昨日から予定を入れてましたから」
「はっはっは!! こりゃあ一本取られたな! じゃあよ、晴真」
「?」
その後、森岡さんが言い出したことに、最初は驚いた俺だったが、それがこの人のやり方であるならばそうするのが一番いいのかと思い、協力することにした。
まあ、ちょっとばかし、悠菜さんを騙すようなことになるのは後ろめたかったのだが。
「失礼します」
「……また来たのか」
「申し訳ありません。お話を……」
「申し訳ねえと思うなら、俺と一勝負してもらおうか」
昨日は雑誌を置くために使ったテーブルには、すでにオセロ盤が準備してあった。
「……オセロ、ですか?」
「姉ちゃんが勝ったら話を聞いてやるよ」
「わ、わかりました……」
オセロ盤を間に置いて向かい合う森岡さんと悠菜さん。森岡さんが計画していた通り、二人の対戦が行われることになった。この勝負を通して、俺の時のように、森岡さんは悠菜さんに何を見出しているのだろうかと、俺も後ろからその盤面を見ていた。
見てはいた。
ただ、途中から、笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。
勝負に水を差さないようにと、必死に口を抑えて、笑いを堪える。
勝負開始からおよそ5分。盤上に全ての石が出揃った。
まあ、先攻だった悠菜さんの黒い石は両手で数えるくらいしかなかったわけだが。
「……姉ちゃん、オセロやったことあるのか?」
「あ、ありますよ!! 勝った記憶はほとんどないんですけど……」
尻すぼみになる悠菜さんの声を聞いた俺はいよいよ耐え切れず吹き出した。
「おい、晴真。いい加減笑ってないでこの姉ちゃんにオセロ教えてやれよ」
「ちょっ?! 何笑ってるのよ!!」
「だ、だって……悠菜さん、ボロ負けじゃないですか……」
「むぐ……」
誰が見たって明らかの結果に、悠菜さんも口を尖らせていた。
「ま、ここは晴真に免じていいとするか」
「ホントに勝負してみたかっただけなんですか?」
「当たり前だろ。面白そうだと思ったからやっただけだ」
「だ、そうです」
俺と森岡さんの会話を「おやっ?」という顔で見ていた悠菜さんは、そのままため息をついた。
「いつの間に仲良くなったのよ……」
「昼間にオセロ勝負してから、ですかね」
「むぅ……」
「晴真から話は聞いた。昨日は確認だけだったんだってな?」
「あ、はい。今回の依頼は娘さんを通じてでしたので、私達としてはご本人の意思を確認させていただきたいのです」
「なるほどな。悪いが、ワシにその気はまだない」
森岡さんの意思を聞き、悠菜さんは大きく頷いた。
「わかりました。では今回はこれ以上のお話はナシにしましょうか」
「すまねえな」
「構いませんよ。これが私達の仕事ですから」
「娘の方にはワシから言っておくから、後は任せてくれ」
「わかりました」
こうして、最初の案件は無事完了した。
その後、どうなったのか気になった茶倉さんに、オセロ珍勝負の話を教えると、いいだけ笑ったあと、悠菜さんに向かって褒め言葉とは受け取れない一言を口にした。
「お前、オセロの最終スコア一桁って、ある意味凄いぞ?」
「何よ、ある意味って」
「まあ、それだけしかないなら最後まで打たずに完全試合になってしまいそうなものですよね」
「それそれ」
後ろで見ていながら、本当によく完全試合にならずに済んだものだと何度も思ったのだ。背水の陣というか、壁際の防戦みたいな、そんな勝負だった。
「二人共馬鹿にしてるわね?!」
「だって、お前……それじゃあ小学生にも負けるぞ?」
「そんなわけないでしょ!!」
「じゃあやってみろよ、咲ちゃんとか奈穂ちゃんとか」
「よおおおし!!」
拳を天井に突き上げながら意気込んだものの、その翌日、悠菜さんは咲・奈穂コンビに華麗に連敗を喫したのだった。
「人間には得手不得手があるのよ‼」
もちろん、そういう話ではない。
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