部長と助手

 自動ドアをくぐり抜け、消毒液の匂いが漂う建物の中へと足を踏み入れた。

 南見市の中心街からおよそ徒歩5分といった距離にある、この大きな建物までの道のりが今日ほど遠いと感じたことはなかったと思う。

 南見市総合病院に来るのは初めてではないが、診察以外で来るのはこれが初めてだった。俺は外来受付や会計、広い待合室となっている1階のエントランスホールを横目に、息を整えながらエレベーターホールに向かう。

 あの後、颯介が送ってきたメッセージには、俺の欲しかった答えがちゃんと書いてあった。着替えて準備をしてみれば、時間は結構ギリギリで慌てて出てきたのである。

 エレベーターで3階に上がってみれば、もうそこは病棟だった。降りてすぐの場所にナースステーションも見える。迷わないだろうと言われたが、初めて来た場所でもある。こんなところに本当に伝達管理部があるのかどうかも、ちょっと心配になってきた。

 3階のエレベーターホールにあった案内図で伝達管理部を探していると、俺が乗ってきたエレベーターではなく、その隣の別機から数人が降りてきた。

 全員が白衣を纏っていたために、医師だろうと気にも止めていなかったのだが、そのうちの1人が真っ直ぐ自分の方へ歩いてくる気配を感じて振り返る。

「あ、やっぱり。早かったね鶴木君」

「……黒崎さん、こんにちは」

 一瞬誰かわからなかったのだが、話し方というか、俺の名前の呼び方というか、雰囲気が黒崎さんだった。

「さてと、こっちだよ。行こっか」

「あ、はい」

 歩き出した黒崎さんの後を、俺は小走りについていった。



 ナースステーションの裏側に位置する医局と同じ並びにある一室が伝達管理部だった。

「さ、どーぞ」

「失礼します」

 部屋には、机が二つ。区切られたスペースに応接用のソファ、奥に書類が並ぶ棚がいくつかあるという、何とも新設されたばかりの雰囲気そのままの空間だった。

 「座って」と促されて、応接用のソファの一つに座る。

「大学ってもう春休みなんだっけ?」

「あ、いえ。今日は補講日で講義がないんです」

「へぇ、そんな日があるんだ」

 黒崎さんはそう言いながら、応接スペースを区切るために置かれていたパーテーションを移動させ、机の上にあったリモコンのスイッチを押した。すると部屋の入口と逆の壁側の空中に、大きめのスクリーンが現れる。

 移動黒板、ホワイトボードの電子版、俗に電子ボードと呼ばれているものだった。パソコンやスマートフォンとも同期しやすいので、大学の授業でも使われているし、ゼミのプレゼンなどで学生が使うことも多いので、見るのは初めてではなかった。

「まずは、日程の話をしようかな」

 電子ボードの表示がカレンダーに変わる。

「大学の春休みは2月入ってからって聞いてるんだけど」

「明日からテスト期間になるんですが、俺は明日でテストが終わるので……」

「え、明日テスト?!」

 カレンダーを見ていた黒崎さんが驚いて首を俺の方に回す。少し大袈裟すぎる反応に、俺は余計なことを言ったのかと申し訳なさを感じていた。

「あ、いえ。明日は大丈夫な科目なので」

「……そういうのも、あるのね。っと、明日で終わりか。鶴木君、アルバイトは?」

「今は何もしてません」

「もしかして、就活だから?」

「はい」

 就活が終わり次第再開する予定ではいるが、就活片手にアルバイトはしてられないと考えて辞めた。その予定もあってか、去年いいだけ働いた。

 数ヶ月で尽きる貯金ではないので、そっちの心配はしていなかった。

「そっか、じゃあ、来週から来る?」

「え。あの、日程決まっているわけでは……?」

 日程の話と言われたので、いつからインターンに来いという話をされるのだと思っていた俺としては、困惑せずにはいられなかった。学校がないなら月曜日からおいでよ、という気楽な声を聞いてしまえば当然だったのだが。

「まあ、学生の予定もあるだろうと思ってたから、大まかにしか決めてなくってね。大学側からは春休みの期間で、学生の就活に影響しない範囲なら一任しますって、言われてるの」

「そ、そうですか……」

「本音を言えば、2月中をインターンシップの期間にしようと思っていたんだけど、どうかな? あ、もちろん学校のガイダンスがある日とかはそっちを優先してもらって構わないから」

「……大丈夫です」

 1ヶ月という単位はインターンシップにしてみれば長丁場である。だが、今のところ他に行くあてもない俺としては、一箇所で長い期間インターンできるというのは嬉しいことでもあった。

「うん、ありがと。じゃあ、一応日程に関しての注意事項を」

 わざと咳払いをする素振りをしてまで、黒崎さんが俺の方を向いた。

 俺としては、日程に関しての注意事項なんて、あるのか? というのが素直な疑問だった。

「耐え切れなくなったら、ちゃんと言ってね」

「……え?」

「君にこの心配はあまりしていないんだけど。君は、ちゃんとこの仕事のことを知っているって感じたから」

「俺も学生程度の理解しかありませんが……」

「君は、大丈夫よ」

 大丈夫と言われても、何に対して言われているのか、まだよくわかっていない。

「この仕事がただ伝えるだけじゃないってわかってるから」

 一度会って軽く話をしただけなのに、信頼されているような眼差しを向けられてしまった。俺は状況を何も理解していなかったが、その視線から逃げることもできず、ぎこちない笑みで「頑張ります」とだけ言っていた。

「それじゃ本題ね。インターンについての話をしようかな」

 そう言うと、黒崎さんは俺の向かい側に座った。

 そもそも、説明会とは別口なのだから、仕事内容の説明を受けているわけではない。これが実質初めての説明を受ける場でもあった。

 1ヶ月という長期間ということから考えると、体験型と言われる業務体験なのだろうかと考えていたのだが、伝達という特殊業務を学生にやらせられないだろうとも思っていた。だからか、ちょっと怖いもの見たさというか、好奇心に駆られている部分があった。

「鶴木君には、インターンの期間中、私の助手として伝達業務を手伝ってもらおうと思ってるの」

 とりあえず、さっきの考察は自分の中で消去した。

 こうもサラッと裏をかかれるとは思っていなかった俺の反応は一拍遅れだったが、聞かずに了承するわけにもいかなかった。

「い、いいんですか? インターンっていうだけなのに、学生にそこまでさせて……」

「やらなきゃわからないことだってあるし!」

 俺の心配の内容を理解した上で、黒崎さんは笑う。ついでに「手伝いなんだから大丈夫!」と言い切られてしまった俺としては、もう諦めるしかなかった。

 まさかインターンで本当に伝達業務をすることになるとは。

 もしも予想的中していた奴がいたのならば、褒め称えたいくらいだ。

「ま、仕事の詳しい話については次から教えていくわね」

「はい」

「あとは、インターンについての書類を何枚か書いてきてほしいのと、先にメールアドレス教えてくれる? 連絡用に」

「わかりました」

 書類が入ったクリアファイルを黒崎さんから受け取り、テーブルに置かれたメモ用紙にアドレスを記入する。確か、黒崎さんのアドレスは名刺の電話番号と一緒に書かれていたはずだ。

 俺は書き終えたメモ用紙を黒崎さんに渡す。

「はい、ありがとう。それじゃ、来週からで頑張ろっか!」

 危うく頷くところだった。

 最後の最後で、俺は爆弾を投げつけられた気分になっていた。

 確かに、机は二つあった。そして、そのうちの一つには使われている気配があまりしなかった。

 学校でもらった名刺には、南見市総合病院伝達管理部の部長であると、書いてはいた。だから、部長自らが学生に声をかけているのかとも不思議に思ったこともあった。

 が、このタイミングで合点がいった。

「どうかした?」

「黒崎さん、あの、他の伝達管理部の方は……?」

「……もしかして、言ってなかったっけ? ここには私だけしかいないって」

「……初めて聞きました」

「あははは!! そういうわけだからよろしくねー!」

 忘れていたことの照れ隠しなのか、俺の表情から何を考えていたのか読み取ったからなのか、黒崎さんは盛大に笑いながら誤魔化した。

 その後は、来週から必要になると思われるものなどを教えてもらったり、簡単な打ち合わせをして、この日の説明会は終わることとなった。




 病院前の通りは大きな幹線道路になっていて、車通りも多く、病院前を通るバスも結構な数がある。俺は病院を出て、それほど待つことなくバスに乗ることができた。

 空いている席に座り、スマートフォンの電源を入れると、数件の通知が表示されていた。

 午前中に連絡するために使っていたアプリの新着メッセージを知らせるアイコンが表示されていて、俺のいない間もなんだかんだ話をしていたようだった。

 開いてみると、俺が抜けてから彰が颯介と就活ファッションなる話題で盛り上がっていて、昼過ぎからは靖人も参加していた。

 そして、お決まりのように「晴真の格好は会社務めというよりは事務職」などという、一言から始まっていた。

「事務職って……どういうイメージを持ってるんだ……?」

 ぼそっと呟きながら、可笑しくて笑いそうになった口元を手のひらで覆う。とりあえず反論するのは、次にしよう。

 俺は3人の論議の結末まで眺めた後、顔合わせが終わったということだけを伝え、スマートフォンをポケットに突っ込んで、降車のボタンを押す。

 家路についた頃、空は薄暗くなり始めていた。

「伝達の仕事は……死者のためにあるべき、か。俺が言えた義理じゃねえな」

 アンケートの回答欄に打ち込んだ一文を思い返して、呟いていた。

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