十四
一面の朱。朱を塗り潰すように乗せられた青の波紋。緑の影。灰色の粒。赤髪に一筋引かれた、鮮やかなピンク色。青い目に零された緑と紫色の滴。空を覆う紫。地面を覆う金色。少年の肌に掠れる銀の色。鼻の上に散らばる、黄色。
一つ一つの色はわかる。どこに何色を使ったのか、近づきさえすれば、素人にだってわかる。一面赤く塗られた画用紙に赤髪と碧眼の少年が笑っている。その上に、七色が虹をかけているだけ。
それなのに。
それなのに、それは確かに青空で。
大地は確かに草色で。
少年の髪と眼は、濡れた烏の羽根のように、黒だった。
わけがわからない。
目の錯覚なのかもしれない。俺の目がおかしくなってしまったのかもしれない。だけど、同じ絵を見ている人々が、全て首をひねっている。戸惑うように瞳を揺らめかせながら、視線を逸らせないでいる。
だからきっと、この絵の風景は、本物なのだ。
わけがわからない。どうして、黒をひとつも使っていない絵が、俺の姿をありのままに再現しているのか。焼けた肌の、真っ黒な髪の、真っ黒な目の、そばかすだらけの顔を。俺の無邪気な笑顔を。何もわからなかった頃の、俺が失ってしまった俺自身を。
「肌が荒れてるのまで再現しなくていいっつったろ」
俺は、掠れた声で、ようやくそれだけを零した。
「別に、悪い顔でもないよ」
梓は笑う。
「どう?」
梓は、不安そうな顔で俺を覗き込んだ。
「ありがとう」
俺は、手で顔を覆った。
胸が痛い。苦しい。わかってしまった。それが何かわかってしまった。俺は失ったんじゃない。手放したんだ。梓と同じになりたくて、対等になりたくて、赤の向こう側へ、来てしまった。
梓の才能を、恐ろしいとさえ思う。
「天才だ……」
「はは、またそれを言うの」
梓は悲しげに笑った。俺はいつの間にか、ぼろぼろと声も無く泣いていた。こんなに泣いたのはいつぶりだったろう。色葉が生まれてから、きっと一度も泣いていなかった。梓の言っていた意味が、ようやくわかった。俺は、変わってしまったんだ。この絵に、切り取られたまま。
「あのね、」
梓が、折れそうな声で言った。
「僕にとっての絵哉を描いたよ。ちゃんと描いた。変なことしないで、でも、僕の最初のとっかかりはそのままにしたんだ。僕には君が、僕の家をかき消すくらい、鮮やかな人に見えた。それで、」
梓は、赤髪の少年を見つめた。
「やっぱり、画家になりたいなと思うんだ。自分の描きたいものが、やっと見えてきた。ごめん、ピアノは諦めるよ。僕は、絵を描いていたい」
「いいと思う。当然だろ」
俺は、指の隙間から声を振り絞った。
「こんなん、お前にしか描けねぇよ。これで終わったら承知しねえぞ」
「でも、絵哉はピアノが好きだろ」
「絵も好きだよ。大体、習えもしないものにしがみついてどうすんだってんだよ」
「そっか」
梓は、目を閉じて、笑った。
「子供って、ままならないね」
俺は帰宅したその足で、戸惑う姉と母親を美術館に引きずって行った。最初嫌がっていた二人も、美術館に入った瞬間から、微笑ましい物を見つめるような眼差しで、展示作品を一瞥していった。やがて梓の作品に辿り着いて、姉は首を傾げた。母親は眉をひそめた。
「須﨑……もしかして、商店街の須﨑さん?」
母親の零した、その発言の意図は、俺にはよくわからなかった。
「そうだけど。知ってるだろ、子供会で」
「そうよ、知ってるわよ……でもまさか、あんたがあそこの息子さんに絵を描いてもらうほど仲良しなんて思わないでしょ? あんた一回も話したことないじゃない」
母親の口元は、引きつっていた。俺は眉根を寄せた。
「そう、だけど」
「やめときなさいね、今後関わるのは」
母親は、ぴしゃりとそれだけを言って、踵を返した。
「変なのぉ。これ、絵哉を描いてるんでしょ? なのになんで赤い髪してんの? 変なのぉ。変わってんのね、あんたの友達」
姉は鼻で笑って、他の絵を見に歩きだした。かつ、かつ、とヒールの足音が静かな美術館に響き渡る。
俺は酷く傷ついた。その日の晩、母親が、遅く帰ってきた父親に険しい声で何かを言いつけているのが聞こえた。俺は耳を塞いだ。信じられなかった。信じられなかった。
次の日、珍しく早く帰ってきた父親は、皿洗いをしていた俺の隣でネクタイをゆるめた。椅子に座って靴下を脱ぎながら、
「お前の絵、綺麗だったな」
と、ぼそりと呟いた。俺ははっとして振り返った。父親は悲しげに笑っていた。どうしてそんな風に笑うのか、わからなかった。皿を持つ手が震えた。
日を置かず、ローカル番組が美術展を取材した。
梓の絵が、色鮮やかに放映される。一つだけ、あまりにもレベルが違いすぎた。全国から問い合わせが殺到した。あの素晴らしい絵を描いたのは、一体誰だと。
田舎に埋もれていた梓の才能は、瞬く間に全国に認知された。それまでと違い、絵画に造詣の深いわけでもない一般人にまで知れ渡ることになったのだ。周囲から寄せられる期待の眼差しに、次第に梓の表情が翳っていくのが見て取れた。俺は梓の力になりたかったけれど、梓は「自分でもよくまとまらない」と首を振るばかりだった。
梓はまた食べなくなった。それでも毎日、学校にだけは来た。梓の家の前の、緑の網に、貼り紙がまた一つ増えた。梓はなかなか家に帰ろうとしない。俺が部活を上がるまで、暗くなるまで待っている。その日もまた一つ、貼り紙が増えていた。次の日の朝、花壇にタバコの吸い殻が捨てられていた。俺はそれを拾って、道路に打ち捨てた。次の日は、空き缶が花を潰していた。俺はそれを蹴飛ばした。ドアから出てきた梓は、貼り紙を破いて、ポケットに詰めた。
花瓶の薔薇は、すっかり枯れてしまった。梓は頭を抱えることが多くなった。もう空を見ようともしない。梓の黒い瞳は、もう青を映さない。
アアアアアアアアアアアアア。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
翌朝も、また、火事のサイレンが鳴っていた。
俺は苛々しながら、寝返りを打った。無線放送が何か言っていたけれど、どうせよく聞こえないのだから、耳を傾ける意味もないような気がした。……けれど。
アアアアアアアアアアアアア。アアアアアアアアアアアアア。
その日のサイレンは、いつまで経っても鳴り止まなかった。
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