十三

 梓の絵の完成した姿を、実を言うと、俺はまだちゃんと見ていない。


 八月二十五日。俺が梓と仲直りをした日。あれ以降、俺は梓が描くキャンバスを見ていない。

 最後の絵だけを、覚えていてほしい――そう言われたから、見るのをやめた。

 展示会は、九月三日の金曜日からだ。それまでは、我慢すると決めた。

 俺達は、お互いに何か言うべき言葉があったと思う。例えば梓は、俺に「ごめん」と謝るべきだったと思うし、俺にも何か伝えたい言葉があった。

 けれど俺には、俺の伝えたい言葉がなんなのか、自分でもよくわからずにいたのだ。

 それをそのまま伝えたら、「この花だけで、十分」と梓は言った。「それ以上言ったら、きっと引き返せなくなるよ」――そう言って。

 だから、だめ――

 俺は、だから、気持ちを閉じ込めた。梓の絵を見たら、きっと、この苦しい気持ちも楽になれるような気がする。

 そのまま、八月の登校日と同じように、擦れてよく聞こえない放送が鳴って、俺達は廊下に並んだ。たった一ヶ月の間に、随分と身長が伸びた子供たちが、流れ作業のように列の後ろへ流される。俺の体も流される。夏休み前には俺の三人前にいた梓の頭が、小さく見えた。

 体育館で、校長先生の話を聞いて、疎らな足音を立てながら、教室へ戻る。椅子を机にあげて、机を全て前に寄せて、雑巾を絞って、床を掃いて。

 美術部員達は、始業式後の掃除には参加しなかった。先生のワゴン車に作品を詰めて、美術館に持っていくのだそうだ。梓もいつの間にかいなくなっていた。いちいち俺に報告しないところが、梓らしい。


 次の日は朝から体育で、梓は早々にへばった。日陰でちゃっかり休もうとする梓を、同級生達が笑ってどやす。梓も笑った。俺は思い切りボールを投げる。朝の陽射しが眩しい。

 太陽に向かって投げたボールは、地面に影を落として、弾んだ。それを見つめながら、俺は長く息を吐いた。どこに投げてるんだよ、なんて笑われて、肘で突付かれる。俺は泣きたくなるような気持ちで笑った。やっと、帰ってきた。日常が、戻ってきた。


 体育の後の気怠い眠気を噛み殺しながら、黒板の上になぐり書きされた読み辛い文字をノートに書き写す。梓は青白い顔ですやすやと寝入ってしまっていた。どのタイミングで起こそうか、気を張ってこちらは居眠りするどころではない。

 昼食時、珍しく梓が購買に行くと言った。どうせサンドイッチしか買ってこないんだろうなと思いながら、俺は千円札を一枚預けた。戻ってきた梓は、パンの入った白いビニール袋をぷらぷらと揺らしながら、片手に紅茶味豆乳の紙パックを二つ抱えていた。俺は笑った。

「またそれかよ」

「別に絵哉、嫌いじゃないだろ。選ぶの面倒だったし」

「嫌いじゃねえけど好きでもなあ……」

 俺は嘆息しながら、紙パックからストローを引き剥がす。

 梓は俺の机の上に小銭をばら撒いて、一枚一枚に指でそっと触れた。長いまつげが真っ黒な瞳を覆い隠している。鼻が机の縁に触れそうで、俺はなんとなく笑った。

「そうしてるとさ、おはじき並べてるみたいだな」

 俺は笑いながら、紙パックにストローを差し込む。

 梓は顔を上げて、ゆっくりと瞬いた。

「おはじき? ……ああ、そうかもね。なんか平べったいの、似てる」

 梓は俺の言葉の意味なんて、深く考えていないみたいだ。しばらく紅茶豆乳を啜っていると、思い出し笑いみたいに梓が吹き出した。

「おはじきって……絵哉って意外と面白いよね」

「どこがツボったのか知らねえけど」

 俺は卵サンドイッチの山から一つ掴んで、ラップを剥がす。

 梓はくつくつと笑い続けていた。その日は珍しく、梓はサンドイッチを残さず食べた――とは言っても、俺の三分の一しか食べていないようなものだけど。

 食べ終わって、梓は引き出しからスケッチブックと練り消し、鉛筆を取り出した。そのまま、窓の外に揺れるゼラニウムをデッサンし始めた。俺は、忙しく揺れる梓の右手をぼんやり眺めていた。女みたいに小さい手だ。俺は、自分の掌を見つめた。相変わらず手首には、バレーボールの痣が残っている。

 アアアアアアアア。アアアアアアアアアア。

 不意に、また、サイレンが鳴り響いた。梓は顔を上げて窓の外を見た。俺もつられて、校庭の向こうに広がる町並みを――揺れる灰色の煙を見つめた。

「最近多いね、火事」

 梓がぽつりと呟く。

「乾燥してるのかな」

 そのまま、梓はスケッチブックに視線を戻した。俺は、さあ、と言ったような気もするし、声にならなかったかもしれない。

 耳の奥に、サイレンの残響が潜り込む。アアアアアアアア。アアアアアアアアアア。俺はまだ、あの八月九日の夢から目が覚めていないのかもしれない。まだ覚められない。あの絵を、見るまでは。

「明日、さぼろうか」

 不意に、俺の指を鉛筆で押さえて、梓が言った。

「何?」

 俺は、押さえつけられた指を見つめながら眉根を寄せた。

「指、ピアノ弾いてるみたいにずっと机を鳴らしてた。……弾きたいの? 僕の真似?」

 俺は喉が詰まって何も言えなかった。指上げ――指を一本一本上に上げる運動は、梓に教えてもらったものだった。これをやっていると、指が速く動くようになるんだと言って。

 梓にも、親にも隠れて、寝る前にやるようになっていた。そうしないと、頭の中がぐちゃぐちゃで、眠れなくなっていたのだ。梓から借りたCDのノクターンが、耳の奥でうわんうわんと鐘のように鳴り響いている。

 梓は、俺を試すようにじっと見つめ、不敵に笑った。

「見たいんだろ? 絵」

 俺は首を横に振った。

「見たいけど、授業はちゃんと出るよ。後が面倒だろ」

「そう。まあ、そうだね」

 くすりと笑って、梓はスケッチブックに視線を戻した。

 体付きはまだ子供みたいなのに、唇に浮かぶ笑みは大人びているように見えて、俺は目を伏せた。



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