十二
九月一日。俺達は朝早くに登校した。「昨日、また眠れなかった」とどこか不機嫌そうに梓はぼやいた。俺はなんだかそれがとても可笑しくて、笑った。
誰もいない教室には、花の匂いが香水のように立ち込めていた。梓は額の汗を拭って椅子に座ると、冷たい机に額を当てた。俺は白いカーテンを開けて、窓を開けた。花の匂いが出ていってしまうのは勿体無いけれど、他の奴らにこの匂いはきついだろう。
俺はもう、それがないといられないけれど。
俺達は、そのまま何も声を交わさず、ただ黙って空を見つめていた。やがて、梓のすうすうという寝息が聞こえる。梓の伸びた前髪が、風に撫でられさらさらと揺れた。俺は自分の襟足の、癖のある髪を摘まんで、放した。
「うわっ」
ガラガラとドアが音を立ててスライドする。廊下に、明るいオレンジ色の声が反響した。同級生達が、花の匂いに虚をつかれたように、目をぱちくりとメジロのように見開いて、立ち尽くしている。
「よ」
俺は首を傾けた。同級生達はわらわらと窓辺に駆け寄った。窓の外には、俺が買ってきた鉢花達がずらりと並んで、風に揺れていた。
「えっ、何、この花」
同級生達は、どこか興奮したように窓から顔を付き出した。けたたましい足音に、梓がぱちりと目を開ける。梓は寝返りをうち、窓枠に腕と頭をもたせ掛けて、笑った。
「なんか、赤司君が夏休み中に買っておいてたらしいよ」
「はぁ? 何やってんの、赤司」
同級生がけらけらと笑う。俺はへら、と笑った。
「……余ったんだよ」
「はは、何が余ったらこんなにたくさんの鉢植えなあ?」
きれー、と囁きながら笑う彼らの表情は、どこか幼く見えた。
「あー、これ女子が喜ぶんじゃね?」
「あ、てか何これ、花瓶四本もあるんだけど」
何が面白いのか、無邪気な笑顔で花瓶に駆け寄る。
「ほら、だから持って帰ればよかったんだよ」
頬杖をついてそれを眺めながら、梓がくすくすと笑った。
「だから、全部持ち帰るのは無理だっつったろ」
「まあ、綺麗だからいいんじゃない。先生も喜ぶだろ、きっと。先生のために持ってきました、って言えばいいじゃない」
「やめろよ」
俺は眉間にしわを寄せた。梓はなおも笑い続けている。
「おはよう……」
窓辺の花を気にしながら、梓の前の席に別の同級生――斎藤君が座った。恐る恐ると言ったように、梓の顔を覗き込む。
「須﨑くん、絵はできたの?」
「えー?」
梓は笑った。
「なんで?」
「んー……なんか、憑き物が落ちたみたいな顔してるからさ」
彼は眼鏡を押し上げて、視線を揺らした。
「うん、まあ、おかげさまで。部室に置いてるよ。今日持って行くんでしょ」
梓が頷くと、彼はほっとしたように肩を下ろした。
「そ、そっか。じゃあ後で見させてもらおう。部長も心配してたんだからな。須﨑君、なんか追い詰められてたのかなってさ。悪いこと言っちゃったなって」
「ああ、あれ」
梓は首を傾けた。口の端が力なく釣り上がる。
「実際、奇をてらったことやってたんだ。佐倉さんが心配したのも無理なかったんだよ。ただ……僕に余裕がなくて」
梓はへら、と笑って目を伏せた。
「あー……謝らなきゃな」
斉藤君は、梓から目を逸らして頬を掻いた。
「じゃあ……また描き直したの?」
「いや? あのままだよ。でも、ちゃんと黒髪に見えると思う」
梓の言葉に、俺の唇の端が思わず釣りあがった。俺は徐に腕の中に顔をうつぶせて、口元を隠した。
斉藤君は不思議そうな顔で首を傾げていた。
やがて女子たちも流れ込んできて、花の山に群がった。きれい、だとか、かわいい、だとか、いい匂い、だとか。素直な薄黄色の言葉たちが、笑い声に溶けていく。
「失礼します」
教室のドアの先で、声が凛と響いた。梓はちら、と視線を寄越しただけで、すぐに目を伏せた。
ポニーテールの少女――隣のクラスの女子だったと思う――が、きょろきょろと誰かを探していた。やがて俺達を認めると、僅かに目を見開いて、ずかずかと中に入ってくる。周りの同級生たちも些か驚いたようで、成り行きを見守る様に視線を動かした。
少女は梓の前で立ち止まった。
「須﨑君」
「おはよう、佐倉さん」
梓はへら、と笑った。佐倉さんは、俺に一瞬だけ視線をよこして、再び梓を見下ろした。形の良い唇が、きゅっと噛み締められる。
「絵、見た、よ」
彼女の声は震えていた。
「そう」
梓は視線を揺らした。
「どうだった? ……あれでもいい?」
「でもいい?、なんかじゃないよ!」
佐倉さんが叫んだ。その声に、教室中の囁きが一瞬止まった。佐倉さんは、喉が詰まったように口を引き結んで、震えていた。やがて、唇から掠れた音が漏れる。
「あんなの、反則だよ――」
佐倉さんの目から、ぼろっと大粒の涙が零れた。俺はぎょっとする。
はらはらと涙を零して、俯きながら嗚咽を漏らす佐倉さんを、梓は静かな眼差しで見上げていた。梓の開襟シャツに、涙の染みが点々と広がる。辺りには、ざわっと声の波がさざめいた。俺は慌ててハンカチを彼女に差し出した。彼女は頭を振り、スカートのポケットから自分のハンカチを取り出して、ぐしゅっ、と鼻を啜った。
おろおろとしているのは俺ばかりで、梓はただ、佐倉さんの次の言葉を待っているようだった。
「わたし、が、まちがっ――すごい――」
佐倉さんは、途切れ途切れに叫んだ。
「あんな、絵、描けるの、すごいよ、すごすぎるよ、うらやましい。うらやま、しい……」
佐倉さんは、その場に崩れ落ちて、わんわんと泣いた。
梓は、幼い子供の様な表情で、彼女の旋毛を眺めていた。やがて、ぎこちなく笑った。
「……変じゃない?」
「変な、わけが、あんなの、もう、」
佐倉さんの言葉に、梓の目が見開かれていく。そのまま梓は、俺を見た。反射的に、俺も瞬いた。
梓は、まるで泣き腫らした後のような表情をしていた。
梓の眼に、俺の姿が映っている――
俺は、俺の鏡像に笑いかけた。
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