十一

 自転車のバスケットには、鉢花四個が限度だった。俺は身繕った赤とピンクのゼラニウムをバスケットに詰めて、サドルに跨った。そのままびゅんと風を切って、中学の校舎へ急ぐ。

 一つ一つ、両手で抱えて教室に運んだ。時計の針は十一時五分を指していた。梓の机は、絵の具の箱も、パレットも、筆も全て、昨日俺が置いたままの状態だった。窓を開けると、潜りこんできた風で、少しだけ筆が転がった。

 サブバッグを開いて、ビニール袋を取り出す。俺は梓の黄色いバケツを手に取って、水道の水を汲んだ。その中に、土を洗い落とした露草をばらばらと落とした。水がほんのりと青に染まる。バケツの側面に貼りついた花弁が、青い雫を垂らした。梓の机にゼラニウムとバケツを置くと、俺は窓を閉めて、教室を後にした。

 夕方には帰ると言ったけれど、堪え症がないせいで、結局耐えられなかった。そのまま家に帰って、母親の小言を受け流しながら、昼飯を食べた。母親が、「昨日のあてつけのつもり?」と言った声だけが、嫌に耳に残った。俺はなんて言ったらいいのかわからなくて、白米を睨み続けた。

 色葉と音葉は、結局姉が連れて行ったらしい。姉は、食卓で俯く俺の姿を見るなり嫌そうな顔をしたけれど、黙っていた。食べ終わるなり、「明日はやんないわよ」と棘のある声で言い捨てて立ち上がった。色葉と音葉のことだろうと思った。俺も黙ってうなずいた。時計を見ると、もうすぐ二時になろうとしていた。今から行っても、部活は終わってしまうな、と思った。電話をかけたことを酷く後悔した。


 次の日も、俺は部活前に花屋に寄って、ゼラニウムを買った。花屋のおばさんが、奇異なものを見るみたいな目で俺を見ている気がした。昨日と同じように鉢を四つ、バスケットに詰めて自転車を漕ぐ。ずっしりとした重みが足にかかった。教室に一つずつ抱えて運ぶ。鉢の位置も、パレットの位置も、イーゼルも画用紙も、何一つ変わらずそこにあった。

 俺は俯いたまま、全部の鉢を運び出した。バケツを覗き込むと、露草の花弁はすっかり萎れてしまって、水の染みこんだ部分がまるで虫に食われたみたいに汚く見えた。青く濁った水を、花ごと手洗い場にぶちまけて、肩で息を吐いた。けれど、結局そのままにすることはできなくて、花を手で拾い集めた。

 バケツを洗って、花をごみ箱に捨てて、手を洗って、着替えて。真っ白な頭で、部活に打ち込んだ。部活が終わって、戻ってきても、梓はいなかった。画用紙をちらりと眺めやると、赤髪の俺が笑っていた。俺は不快な気持ちになって、模造紙をイーゼルごと画用紙にかけて、窓を閉めた。


 次の日も、その次の日も、またその次の日も、梓は来なかった。俺はどの朝もまず花屋に行って、鉢花を買った。ゼラニウムは買い尽くして、今度はマリーゴールドやベゴニアを買った。三日目にはもう鉢花には飽きて、切り花を買った。教室で埃を被っていた花瓶を洗って、水を溜める。

 俺と梓の机の周りには、鮮やかな花がひしめき合っていた。部活に行って、終わったら水をやって、窓を閉めて帰る。やがて、教室には花の匂いが染みついた。ドアを開けるたびにふわりと香る甘い匂い。俺は花束を抱えて、ドアをくぐる。その期間、家で何をしていたのかは、あまりよく覚えていない。酷く怒られた記憶はないから、きっといつもの習慣で、うまくやっていたのだろう。


 八月二十五日。

 アアアアアアアアアアアアアア。アアアアアアアアアアアアアアアアア。

 その日の朝も、サイレンが鳴って、目が覚めた。相変わらずはっきりとは聞きとれない無線放送を、ぼんやりと耳に入れながら、身支度を整えて、妹達の手を引いて歩く。その日は体操をする気になれなかった。妹達が他のちびっこと混ざって小さな体を一生懸命曲げたり伸ばしたりしている姿を、公園のタイヤに座ってぼんやりと眺めていた。音葉が「兄ちゃん、具合悪いの?」と聞いてきたけれど、曖昧に笑って返した。

 朝飯を食べて、自転車を走らせる。

 俺は花屋の前に自転車を停めて、車道を横切った。梓の家のビルは、向かいにある。俺はドアの前で財布を取りだし、レシートの裏側にボールペンの先を付けた。

 ……けれど、何を書いたらいいのかわからない。

 『いいかげんにしろ』――そうじゃない。そういう事を伝えたいわけじゃない。『そろそろ来れば?』――なんで俺が、歩み寄ってやらなきゃいけないんだ。

 結局俺は、『梓へ』とだけ書きなぐった。その後には何も続かない。言葉が、うまくまとまらなかった。

 ドアの下の隙間にそれを忍ばせて、もう一度車道を横切る。花屋に入ると、いつもの人とは別のおばさんがにこやかに「いらっしゃいませ」と返した。俺はほっとした。もう、あの好奇に満ちた目にはそろそろ耐えられそうになかったから。

 ショーケースの中を見つめる。昨日はなかった、綺麗な薔薇の花が、銀色の筒一杯に詰まっていた。淡い、ピンク色の薔薇。

 ――綺麗だな。

 そう、思った。どぎつい色ばかりの鉢花とは大違いだ。淡いピンクを見ていたら、ふと、梓の家を思い出した。あの家に行かなくなって、随分と長い時間が経ったような心地さえする。

 俺は財布の中身を見つめた。財布の中に、縁の欠けた一万円札が一枚だけ、残っている。

「これで、」

 俺はそれをレジに置いて、言った。

「これで、作れるだけの、その薔薇の花束を作ってください」

 花屋のおばさんは、にこやかに笑った。



 本当は、予感があったのかもしれない。

 今日は、梓が来るような気がした。理由なんてない。ただ、なんとなくだ。

 俺は、萎れた花を捨てて、花瓶に薔薇を詰めた。一瓶だけでは足りなくて、隣のクラスに声をかけに行った。花瓶を貸してほしいといったら、部活の仲間は不思議そうな顔をして、「そういうのは先生に言ったら」と返した。それもそうかと思いながら、俺は一階の職員室へ足を運んだ。顧問の先生に花瓶を貸してくださいと言ったら、怪訝そうに眉を潜められた。結局、三つの花瓶を抱えて、俺は階段を上った。

 一個を床に置いて、ドアを開ける。花の香りがふわりと俺の鼻を撫でた。俺は床に置いた花瓶を拾い上げて、視線を上げた。

 青い空。黒い髪。揺れる白いカーテン。細い首筋。白いシャツから覗く、がりがりの細い腕。鮮やかなピンクと、赤。画用紙の中の、赤。

 梓が、丸めた模造紙を腕に抱えたまま、窓辺に佇み、じっと絵を見つめていた。睨むような眼差しで。

 喉が詰まって、声が出ない。

 俺はその場から、一歩も動けなかった。

 梓が静かに振り返った。真っ黒な瞳が、俺を捉える。俺はただ、口を引き結ぶことしかできなかった。

 梓の血色の悪い唇が、小さな隙間を開けた。

「何やってんの」

 梓は、少しだけ擦れた声で言った。

「何、って」

「馬鹿じゃないの」

 梓は目を伏せて、俺の机に横たわる大きな薔薇の花束を見つめた。

「何、これ。こんな花束、誰にあげるつもりだったの。まさか、僕にとか言わないよね」

「わから、ない」

 俺は、正直に答えた。梓が好きそうだな、と思ったのは本心だ。だけど、それを綺麗だと思ったのは、俺自身だった。俺は、ようやく息を吐いた。

「馬鹿だね」

 梓は、はは、と擦れた笑い声を漏らした。

「僕が、変にしちゃったね」

「別に」

 俺は、ドアの側にあった誰かの机に、重い硝子の花瓶を置いた。

「別に、お前のせいじゃねえよ」

「そう」

 梓はもう一度俺を見た。

「やっぱり、描ききらなきゃいけないね」

 梓は哀しげに笑った。

「絵のこと?」

 俺が尋ねると、梓は頷いた。

「これはまだ、僕が描きたかった絵じゃないから」

 梓は少し歪んだ画用紙の表面を撫で、机の上のパレットに目を遣った。

「洗っててくれたんだね。ありがとう」

 梓は椅子に崩れ込むように座ると、顔を片手で覆った。俺は梓の側へと歩み寄る。

 泣いているのかと思って、覗きこんだけれど、別段肩は震えてはいなかった。

「泣いてないの?」

「別に、泣かないよ」

 梓は、籠った声で答えた。

「君の絵なんて、描くんじゃなかった。見せるんじゃなかった。だめだった。間違った。ごめん。ごめんなさい」

 囁き声のように指の隙間から漏れる梓の声は、酷く擦れていた。俺は、体を突き刺すような痛みに襲われた。

「やめろよ」

 唇から、刺々しい声が漏れる。

「やめろよ。描いたこと否定されたら、俺の気持ちはどうなんだよ。ふざけんなよ」

「違うよ。そういうことじゃないよ」

 梓は首を振ると、手を放して、俺を見あげた。口元に、へらりとした笑みを浮かべて。

「描くよ。君に、描いてくれてありがとうって言わせる」

「何だそれ」

「絵哉。一つだけ、約束して。これは、この絵は、まだ僕が描きたかった景色じゃない。これはまだ、途中経過なんだ。だから、違うんだ」

 梓はキャンバスにそっと指を触れた。

「ありのままの君を描くから。そうさせて。もう、奇をてらったことはやめるから。僕が最後に描く絵だけを、覚えていて。最後に出来上がった絵だけを、心に残して」

 梓は笑って、俺を見上げた。俺は力が抜けて、近くにあった机に尻をぶつけた。

 梓は立ち上がると、バケツに水を汲んで、戻ってきた。真っ白なパレットを抱えて、濃いピンクのゼラニウムの花びらをそっと指で撫でた。そうして、絵の具をパレットの上に並べていく。

 俺は、部活に行くことも忘れて、梓の筆の動きに見惚れていた。

 この景色を、ずっと見たかった。


 そして、八月三十一日。夏休み最後の日。

 梓の絵はようやく、完成した。



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