アアアアアアア。

 午前四時。誰かが哭いているような音に、俺はふと目を覚ました。

 アアアアアアアアアア。アアアアアアアアアア。

『……は、災害……です。かが……まちで、火災がはっ……ました……』

 途切れ途切れの、籠った声が窓の外から聞こえてくる。俺は暗闇の中、むくりと起き上がった。カーテンの隙間から、月白のような色が漏れて、俺の腕に白い線を引いた。それを見つめながら、俺はぐすりと鼻を啜った。まだ夏だけれど、朝方は少しだけ涼しく感じる。盆を過ぎたからかもしれない。

『こちらは、……す。……がみが……ちで、…さいが、発生しました……』

 エコーがかかった無線放送が、同じ言葉を繰り返す。少し離れた市内の町で、火事があったのだ、と言うことだけは理解できた。人の声のように聞こえたのは、消防車のサイレンだ。

 アアアアアアアアアア。アアアアアアアアアア。

 やがて、その音も遠ざかり、擦れていく。残響だけが、静かな朝に取り残される。鳥のさえずりが、少しずつ増えていった。

 ――最近、火事が多いな。

 俺は眠気を覚ますために頭を振った。家中が寝静まっている。階段を踏みしめると、ギイ、と嫌な音が響いた。なるべく音をたてないようにそっと爪先で降りて、洗面所に向かう。水道からしばらく水を出して、歯磨きをする。

 そのまま、窓から差し込む色がもう少し金色を帯びるまで、俺は畳の上で一人ごろんと寝そべっていた。

 ピピピピピ。ピピピピピピピピ。ピピピピピピピピピピ。

 階上から、目覚まし時計の音が微かに降りてきた。妹たちのかけている目覚まし時計だ。ラジオ体操で皆勤賞をとるために。俺は思い出し笑いのように徐ろに微笑んで、体を起こした。

 そのまま、今度は足音にあまり配慮せずに階段を上る。

 部屋に戻って、机の上の貯金箱を見つめた。小学生の時、紙粘土で作ったものだ。何の変哲もない、お菓子の家。男のくせに変なものを作るなあ、と同級生には笑われた。姉に手伝ってもらったらこうなったんだから、仕方がない。だからといって、気に入っていないわけでもないのだから、もうしょうがない。

 底にある黒いゴム栓を外して、大きく上下に振る。じゃらじゃらと小銭が零れて、ちらばった。大小様々な小銭と、小さく折りたたまれた千円札が重なり合っている。それは少しだけ……少しだけ、いらないごみが机に散乱しているみたいに見えた――まるで梓の机みたいだ。俺はふっと笑った。

 そのまま金額を数える。五千三百十二円。俺は引きだしを開けて、奥に隠していた封筒を取り出した。親に没収されたお年玉のほんの少しのおこぼれと、手伝いの駄賃や、小遣いの余り。小学一年生の頃から、ずっと貯めてきたお金だ。一度も使ったことなんかなかった。もはや貯めることが趣味になっていた。時々金額を数えては、万を超えたら銀行で両替してもらって、封筒に入れる。使い方なんてわからなかった。使い道も知らなかった。……だけど。

 俺はそれらを全部無造作にかき集めて、財布にぐしゃぐしゃと押し込んだ。ファスナーが一万円札を引っかけて、縁をぼろぼろにしてしまった。けれど、構いやしない。いつもは綺麗に揃えて入れるのに、そんな気分には到底なれなかった。ずっしりと重たくなった財布を、使い古したサブバッグに放り投げる。

 にいちゃん、にいちゃあん、と寝ぼけながら俺を呼ぶ妹たちの声が廊下から聞こえてくる。俺は窓辺に寄って、色褪せた水色のカーテンをやっと開けた。生成り色の光が俺の目をつく。アアアアアアアア。アアアアアアアアアア。耳からサイレンの音が離れない。にいちゃん。にいちゃあん。にいちゃあん。

 俺は、音を遮るように両手で耳を塞いで、目を閉じた。

 目蓋の裏は朝日に照らされて、血のように赤く見える。眼前の赤い薄暮に、俺の心はすう、とほぐれていった。

 俺は帽子を被って、サブバッグを肩にかけ、腕時計を掴んで、ドアを開けた。妹達が待ちかねたように、にいちゃん、にいちゃん、と言って纏わりついた。

「俺、今日は先に行くから」

 妹達に短く告げると、上の妹、色葉が顔をしかめた。

「なんで? なんでえ?」

「たまには俺の手を借りなくても行けるだろ。いつまでも俺に頼ってばかりで、それじゃただのお子さまだ」

 色葉はむすっと膨れた。よくわかっていない下の妹、音葉が、目を擦りながら俺と色葉の顔を見比べる。

 俺は自分の眉間に皺が寄るのを感じながらも、いつものように色葉の頭を撫でようとして、手を伸ばした。それなのに、僅かに震えた指は空で静止して、それ以上動かなかった。ぎこちなく固まった俺を、色葉が不思議そうに見上げる。俺はそのまま手を帽子のつばに添えて、深く被り直した。

「じゃあな」

 俺はそのまま階段を静かに駆け下りた。靴紐をきちんと結んで、玄関の鍵を開ける。外に出て、ふと、握りしめた合鍵を見つめた。しばらく思考が停止する。玄関の鍵を開けたまま出かけられるのは憚られた。俺はもう一度ドアを開けた。階段の途中まで、二人は降りてきている。

「おい、勝手に二人だけで行くなよ。姉ちゃんでも起こせ」

 俺の声に、妹たちはびくりと肩を跳ねさせて泣きそうな顔でうなずいた。そんなに怖い顔で言っただろうか。まあどうでもいい。

俺はドアを静かに閉め、鍵穴に鍵を差し込んで、回した。がちゃり、と音が落ちる。たたき起こされた姉ちゃんはどう思うだろう。すげえ腹立てるだろうな、と思った。でも、いつも俺ばかりじゃないか。俺ばかりあいつらの面倒を見て、疲れたよ。もう、知らない。ドアに手をかけ、鍵がきちんとかかっていることを確認すると、踵を鳴らして苔生した石段を駆け下りた。

 自転車を漕いで、走った。少しだけ冷たさを帯びた温い風が頬を切る。土手を左手に並走していると、湖に浮かぶ蓮の花が見えた。ピンク色が鮮やかに風に揺れている。俺はそれをちらりと一瞥して、走り続けた。空が次第に白から青へと変わっていく。坂を下って、下り続けて。やがて視界の端に鮮やかな青がよぎってよそ見をした。通勤車にクラクションを鳴らされる。身体がぐらりと左に傾いた。危ないな、と思ったけれど、間に合わなかった。自転車から飛び降りて、軽く土手の斜面を転がり、踏みとどまる。自転車は嫌な音を立てて最下の地面にぶつかった。

 擦り傷を撫でながら、俺は斜面の緑に混じる一滴の青色へ向かって、のろのろと歩いた。――露草だ。そっと花弁をつまむと、指先に青い色が滲んだ。俺は肩からずり下がっていたサブバッグをもう一度かけなおして、露草を根っこごと引き抜いた。一房、二房。……やがて緑の絨毯から、青色が一つ残らず消える。

 引き抜いた青の塊を一旦斜面に置いて、俺はサブバッグをまさぐった。はらはらと花弁が幾つか斜面を転がり落ちていった。底の方で、結び目を作ったコンビニの空袋がしわくちゃになっていた。それを開いて、露草を詰め込む。口を結んでサブバッグに戻し、俺は斜面の下で伸びている自転車を起こしにかかった。

 その後は、痣の出来た足を引きずって、自転車を押して歩いた。七時二十八分。早すぎて、笑えてしまう。こんなんじゃ、どこのお店も開いていない。開いてるのはコンビニくらいだ。俺はいつものコンビニに駐輪して、トイレで泥だらけの手を洗った。そのまま何もすることが無くて、漫画を立ち読みする。腹がきゅう、と痛んで、空腹であることを自覚した。だらだらと店内を歩き回って、食べたいものを身繕う。レジに籠を乗せると、『千九百四十四円』の数字が点滅した。買いすぎたな、と思いながらコンビニを後にして、縁石に腰かけながらのんびりとアイスを食べた。サブバッグがぶんぶんと振動する。携帯電話が鳴り続けていた。

 俺は着信が止むのを待って、履歴を確認した。姉の名前がずらりと並んでいる。難儀な姉だ。母親はかけてもきやしない。俺はメールボックスを開いて、かちかちとしばらく文字を打っていた。『朝昼は適当に外で食べるから。夕方までには帰る。』――そう送ると、しばらくして姉から『あんた、そのお金どっから出てんの?』と返ってきた。口の端から笑い声が漏れた。そんなことしか気にしねえのか、あんたらは。俺は唇を歪めながら、メールの文字を打つ。『貯金箱。』――ただそれだけの一文に、姉からは『あっそ。じゃあいいんじゃない』と返ってくる。そのまま俺は、部活の顧問に電話をかけた。

『もしもし』

 先生の、どこか訝るような声が擦れる。

「あ、先生。朝からすみません。あの、今日部活休んでいいですか」

『はぁ? 何、風邪でも引いたか』

「いえ、風邪は引いてないです。でもちょっと、今日は用事があって。部活したくないです」

『……正直に言え』

「さぼりたいです」

『……正直だな』

 吐いた息の音が、電話越しに漏れ聞こえた。

『赤司は、一度も休みなく来ていたからな。いいぞ。何かやることがあるんだろ。けど、明日は来いよ』

「明日は行きます。ありがとうございます、先生。好きですよ」

『は、はぁ!?』

 先生は素っ頓狂な声をあげた。

『なんなんだ……気持ち悪い。お前、キャラじゃないだろ』

「そうですね。これ、俺の友達の真似です。じゃあ、先生、また明日。朝からほんとにすみませんでした」

 俺は淡々と言葉を紡ぐと、電話を切った。そのまま携帯電話を折りたたんで、サブバッグに投げ入れる。

 そのまま、俺は車が来るまで、弁当を食べながら縁石の上で空を眺めつづけた。車が来てからは、ぶらぶらと自転車を押し歩きながら、時間を潰した。開店十分前の花屋の前に自転車を停めて、サドルにもたれながら、十時の開店時間まで待ち続けた。



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