九
八月十五日。
梓の家の前で、俺はしばらく躊躇うように立ち尽くしていた。梓の言葉にどう応えたらいいのか、まだ答えは出ていなかった。しばらく待っていたけれど、梓は一向に出てこない。ドアをそっと押すと鍵が開いていた――どうやら先に学校に行ったみたいだ。俺はなんとなく傷ついて、同時にどこかほっとして、学校まで歩いた。着替えようと教室のドアを開けたら、窓の側で梓が絵を描いていた。
「部室で描くの、やめたの」
俺は努めて何気ない口調を装い、梓の顔を見ないまま机にサブバッグを置いた。
「うん。昨日、ちょっとトラブったから……行き辛い」
「ああ……だから今朝早かったわけ」
「うん、ごめん」
梓もまた、俺の顔を見ようとはしなかった。
俺はその後、梓と取り留めもないことを話して、逃げるように体育館へと向かった。練習中、終戦記念日を告げるサイレンが鳴って、俺は部員達と共に静かに黙祷した。バレーボールが床で跳ねて、ダム、ダム、と言う音が静けさの中に響き渡った。
二時を過ぎた頃、部活が終わった。俺部活仲間と一緒に坂を駆け下りて、汗だくでコンビニ前の自販機に金を入れた。レジを待つのも時間が惜しい心地だった。水入りの冷えたペットボトルを二本掴み、店内の冷気で涼んだ仲間を置いて、俺は坂を駆け上った。ペットボトルで額を冷やしながら教室へと戻ると、梓はいつかのように、窓の枠に頬杖をついてぼんやりと青空を眺めていた。逆光が透かした黒髪が風になびいて、綺麗だ。汗をめいっぱい流したせいか、心の中にあったもやもやが、いつの間にか薄く色褪せていた。窓越しに見える色鮮やかな青空は、まるで絵画の背景のようだ。俺にもしも絵心があったなら、きっとこの風景を描き留めたいと思っただろう。俺は笑いながら梓に声をかけた。
「お前、昼飯食べたの」
タオルで汗を拭きながら、梓の目の前に腰掛ける。梓の分のペットボトルをどん、と音を立てておくと、梓はそれをじっと見つめたまま緩く首を振った。とたん、きゅう、と梓の腹が鳴った。俺は黒のサブバッグから、おやつ用にと持ってきていたポテトチップスの袋を取り出した。夏休みだとお菓子持ってきてもばれないし、二人でこういうのもたまには楽しいかもなとにやけながら袋の口に手をかけて――ふと急に、こんなスナック菓子みたいなもの、俺が普段から食べてるようなものなんか、梓にあげてもいいのかと悩んだ。今まで、躊躇ったことなんてなかったのに……。梓は俺をぼんやりと見遣って、「食べる」と言った。梓は財布から小銭を取り出して、机の端に置いた。金額を確認するように、またおはじきを並べるような仕草で。
俺は袋を開けて、小銭を受け取った。財布のファスナーを開けながら、梓の隣に歩み寄る。何気なくだった。その日俺は、なんとなく絵がどうなったか、見たくなったのだ。そうして覗き込んで、塗りたくられた画用紙に、ぎょっとした。
赤髪の少年が、炎の中で笑っている――否、それは炎ではなかったのかもしれない。背景が赤一色で染め上げられたその絵は、血の色にも似て、禍々しかった。その赤の中心で、柔らかく笑う少年の笑顔は、あまりにも不釣り合いだ。俺の手が震えて、ポテトチップスが床に散らばる。
梓はそれをぼんやりと見下ろすと、やがて椅子から立ち上がった。零れたポテトチップスを掌に集めて、ゴミ箱に捨てる。そして絵の具だらけの指を、まだ少しだけ中身の残る袋の中につっこんだ。俺はかろうじてそれを手で制した。「手、洗ってこいって」――それだけを言うのが、精一杯だった。
「別に、病んでるわけじゃないからね」
梓は感情の見えない眼差しで俺を見遣った。廊下で手を洗って、ハンカチで拭く。そのハンカチに、落としきれなかった赤が滲んで、ピンク色に染まった。
「ここに、また青を乗せていくんだ。そしたら少しだけ削れて、赤の線が見えるだろ。それで空の波紋を表そうと思って。夕焼けに変わって行く空の、途中が表せるから」
梓はどこか苛立ったような声で言った。
「だからさ、そんな、傷ついた顔しないでくれる?」
「し、てねえよ」
俺は緩く首を振った。梓がどんなことを言おうと、今の俺には、この絵が禍々しい何かに見える。その中に取り込まれようとしている赤髪の俺の姿が、まるで今の自分を表しているように思えた。
「怖い……」
「何?」
俺の漏らした声に、梓の語気があがった。はっとして顔を上げると、梓が今まで見たことが無いような激しい怒りを滲ませて、俺を睨みつけていた。
「何? 怖いの? 僕が? この絵が?」
梓は笑った。
「だから嫌なんだよ」
くすくすと、震え声にも似た笑いが、梓の口の端から零れて行く。
「僕の絵なんだから、僕がどう描こうと勝手だろ。なのになんでみんな、いちいち傷つくかなあ。いちいち何か言ってくるのかなあ。好きにさせてよ。好きにさせろよ。もう、こりごりなんだよ!」
梓の目の端には涙が滲んででいる。
「出てけ」
梓は俺を睨む。
「出てって。僕はまだこれを塗るから。君にとっちゃ、僕はもう友達でも何でも無いかもしれないけどな、僕はこの絵をまだ描かなきゃいけないんだ。そんな目で僕を見るくらいなら、出てってよ。さっさと出てけ!」
泣いているような声だった。俺は呆然として、髪を掻き毟る梓の姿を眺めていた。あの絵を怖いと思った俺を、どうすることもできない。俺のそんな態度に、梓が傷ついた。それをどう、繕えばいいのか分からない。
「ここは、」
俺は震える声で呟いた。
「ここは、お前だけの教室じゃないぞ」
梓はばっと顔を上げた。失望の色が浮かんでいたその顔は、やがて歪んで、笑い出した。
「そう……そうだよね。そうだけど。そう。そうだよ」
梓は疲れたような声を出した。
「……帰る」
梓はそのまま、バッグを掴んで立ち上がった。絵の具のチューブがばらばらと床に散らばった。
「おい、片付けろよ」
「煩い! 帰る!」
「梓!」
梓は振り切るようにして、教室を飛び出して行った。俺はぐしゃぐしゃに物が散乱した床を見て、深く、深く息を吐いた。
どうして俺が、取り残されたのだろう。傷ついたのは俺の方だ。あんまりじゃないのか。なんで俺が、あいつの後始末をしなきゃいけないんだ。
子供みたいだ。
俺は、聞き分けの無い妹達のことを思い出した。母親から叱られるのに、泥だらけになって、毎日毎日服や靴を汚して。洗ってやっても足りやしない。叱られて泣いてるのが可哀想だから、俺が洗ってやってるのに、ありがとうも言わない。俺が、ただやりたくてやってるみたいに。
俺はふと、自分の中に梓への怒りが無いことに気がついた。俺はもしかしたら、梓のことを端から友達とは思えていなかったのかもしれない。手のかかる弟ができたみたいに……あの家に行ってからは、まるで憧れの存在みたいに、眺めていた。俺は一度だって、梓に応えたことが無かったのだ。そう自覚したら、目の前がぼやけた。あれだけ、イーゼル越しに向かい合っていたのに。
俺はバケツの中の濁った赤い水を捨て、筆を洗った。赤で汚れたパレットを見つめて、少しだけ躊躇った。せっかく作られた色を、簡単に洗ってしまっていいんだろうか――でも、どうせ明日には乾いてしまうから、と自分に言い聞かせる。水を流しながらパレットを筆でなぞった。絵の具がどんどん剥がれ落ちていく。梓に抱いていたぐちゃぐちゃの感情も、削がれていく。やがてパレットは、日の光に照らされて白く輝いた。
水の雫を払って、濡れた手のまま教室に戻る。梓の机に洗った筆とパレットを置いて、俺はもう一度、赤髪の少年を見つめた。
少年の顔は、どこか無理して笑っているように見えた。何故なんだろう。あの時は、心から笑って見えたのに。
赤い背景を、まだ、怖いと思っていた。同じ赤なのに、どうしても夕焼けには見えなかった。禍々しいのは、俺が悪いから? それとも梓が不安定だから? どっちもだったのかもしれない。俺にはもう、よくわからない。
俺は溜息をついて、着替える気力もなくて、体操服のまま教室を後にした。
盆を境に、蝉の鳴き声が、変わったみたいだ。
ブン、とバッグの中で携帯電話が震えた。メールを確認すると、母親からは「爪楊枝買ってきて」とだけ書いてある。一時間前に届いていた姉からのメールには、「コンビニでタピオカミルクティー買ってきてね~」とだけ。
不意に、猛烈な鋭い痛みが体中を切り裂いて、俺を苛んだ。携帯電話を道路に投げようとして、すんでのところで思いとどまった。どうして、俺はこんな日にこんな気持ちでいなければいけないんだ。梓のせいだ。梓のせい……。
俺は十三年前の今日、生まれた。戦争経験者がまだ生きているこの街で、八月十五日は終戦記念日以外の何物でもなかった。人々の命を奪い尽くした、悲しみの歴史。……それがようやく、終わった日。平和の黎明に生まれた子供達は、その命を祝福されたけれど、俺はどうしても、自分がこの日に生まれたことを喜べなかった。喜んではいけないような気がしていた。ばあちゃんもじいちゃんも、この日は戦争の話しかしなかったから。泣いたことさえあったから。
その気持ちは学校に通うようになって、平和への教育を受け始めてから、更に強くなった。俺の家は、子供の誕生日にケーキを買わない家だった。それはどこか寂しかったけれど、俺は、自分は終戦記念日に生まれたからと心に言い訳をすることで、寂しさを紛らわした。
でもだからと言って、毎年何もないのはどういうことなんだろう。どうして一言も、誰もおめでとうって言ってくれないんだろう。産んでくれてありがとうと、心の中で感謝し続けなければいけないんだろうか。だから期待なんかしちゃいけない? でも、ねえ、俺は頑張ってるだろ?
俺は歯を食いしばって、母親と姉から頼まれた物を買いに走った。そのまま店を出てからも走り続けた。胸の辺りがむかむかとして、走っていないと吐いてしまいそうだった。玄関を開けて、靴を揃えるのもやめて、どかどかと音を立てて床を踏みしめた。家の奥から「足音を立てないで!」と鋭い声が聞こえた。
俺は息の吸い方も吐き方もよくわからなくなりながら、無理矢理笑って、母親に袋を押し付けた。
「ああ、ありがとう。ロールキャベツ作ろうと思ったらね、爪楊枝がなかったから。助かった」
母親は淡々と言って、再びボウルの中の肉を捏ねはじめる。
俺は急にむせ返る心地に襲われて、洗面所でがらがらとうがいをした。消毒液を吐き出すと同時に、心の中のどす黒い何かも吐き出してしまいたかった。水の冷たさに少しだけ落ち着いて、玄関に戻り靴を並べ直す。妹たちを急き立てて、一緒に風呂に入り、体を洗ってやる。
風呂から上がって、妹たちの髪を拭いて、乾かして。ようやく自分の髪をタオルで拭きながらテレビの前に座り込むと、姉が何かと俺に絡んできた。けれど、何を言われているのかよくわからなかった。言葉が何も、入ってこない。俺は濡れたタオルで口元を押さえながら、ひたすらテレビの画面を睨みつけていた。何が映っていたかは、覚えていない。
やがて父親が帰ってきて、家族全員で食卓に並ぶ。いつも通りの食事に、黙々と父親は箸を伸ばした。妹二人がびちゃびちゃと服を汚すのを、母親が疲れ切った顔で着替えさせる。姉だけはやけに楽しそうだった。父親は寡黙ながら、姉の話に耳を傾け、頷いている。
俺の喉から音が零れ落ちる。けれど何を言ったか自分でも覚えていなかった。それでも団らんは続いていく。
「そうだ、絵哉。あんたももう中学生だし、誕生日だし、何か買ってあげようか?」
不意に、母親からそんな言葉が漏れて、俺ははっと我に返った。
「え? 何の話?」
「だから、」
母親はキャベツを箸で器用に裂いた。
「あんた、今日誕生日だし、たまにはプレゼントも欲しいでしょう? 何がいい?」
「はいはーい! お母さん、あたし財布が欲しい!」
「んなの自分のバイト代で買えよ」
俺は味噌汁に浮かんでいた豆腐を口の中に放り込んだ。
「大体姉貴の誕生日は再来月だろうが」
俺が静かに言うと、姉は鼻で笑った。
「女の子はいつだってプレゼントが欲しいものなんです~」
母親が笑う。
「まあ、彩乃にはまた今度ね。それで絵哉、何か欲しいのないの? ゲームとかは?」
「ゲームはこの間僕が買ってやっただろ」
父親がぼそりと言った。
「二年前な」
俺もぼそりと呟いた。父親の眉間にしわが寄った。
「絵哉。どうしたんだ。虫の居所でも悪いのか?」
「やだぁ、反抗期じゃない~?」
姉がけらけらと笑う。
「別に……いつもと変わらないけど。父さんの勘違いだって」
「そうかな……そうだな、僕が疲れているのかもしれない」
父親は首を傾げたまま、ロールキャベツの解体に戻った。
そのまま、しばらく無言状態が続いた。やがて、姉が、今日は大学でこんなことがあった、あんなことがあった、とどうでもいいような話をし始めた。こうやっていつも、なおざりになるのだ。わかっている。
欲しいものだなんて、聞かれたって、わかるはずがない。
そう言うものは買ってもらえないんだってわかっているから、望んだこともない。
ある時期までは、「ケーキ!」と無邪気に答えていた。そうして、一日遅れの誕生日ケーキを食べるのだ。それが毎年の習慣だった。やがて、それもしなくなった。高校生になってから姉が言った言葉が、胸に刺さって、虚しくなったからだ。――「誕生日にケーキを食べなくったってねえ、好きな時に買おうと思えば買えるしねえ。どうしても食べたいんなら、バイトして好きにお金使えばいいことだし」
姉の言葉を思い出した瞬間、不意に声が喉を突いて出た。
「ピアノ……」
「えっ、何?」
「ピアノ、習いたい」
母親が絶句したのが肌でわかった。食卓が凍りつくようだった。俺はひたすら、白米を口に入れ続けた。
ややあって、弾かれたように姉が笑いだした。
「あははははっ。いきなりな~に言いだすかと思えば! あんたちょっと最近気取りすぎてない? おっかしい~……。大体ね、ピアノ習うんならもっと小さい頃から習わなきゃだめでしょうよ。今更習ってどうすんの。しかも男が、習うって、あはははっ」
「絵哉……」
父親が、疲労の滲んだ声で言った。
「うちには、まだ色葉も音葉もいる。彩乃だって昔、習いたいと駄々をこねたのを、諦めてもらったんだ。お前だけ特別、というわけには……」
「うん、わかってるよ。ごめん、父さん」
俺はにっこりと笑った。胸の内に、赤黒い思いが渦巻いて、自然と笑みが零れた。
ああ、あの絵は。あの赤髪の少年の空は。
確かに、こんなにも、赤黒い。
俺は、俺を気遣わしげに見る父親の目と、まるで俺を責めるような母親の眼差しに、どうしようもない怒りを抱えた。母さんも父さんも、少しくらい傷つけばいいんだと思いながら、俺はその言葉を吐いた。
「少しだけ、友達が羨ましくなっただけ」
姉は馬鹿にするみたいに、吹き出して笑った。妹たちは不思議そうに俺を眺めていた。
母親の顔も、父親の顔も、もう、見る勇気が出ない。白いパレットのような白米を汚すみたいに、ふりかけをざらざらとかけた。口に入れたそれは、とても辛かった。母親が、塩分の取りすぎになる、と怒鳴ったけれど、視界が滲むばかりで、何も心に響いてこなかった。俺は、自分で放った言葉に、心臓を抉られるような心地がしていた。
そうだ、俺は、羨ましかったんだ。
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