十五

 誰かが剣呑な声で言い争っている声が聞こえる。呑気な他人の声も混ざっている。多分、朝のテレビ番組の音なんだろう。

 俺は不快な気持ちで目を覚ました。

 いつもと比べて、眠気がすっきりしない。体が、泥のように汚い気がした。

「ああ、起きたの」

 姉の声がして、振り返る。

 ぼやけた視界の先で、姉がドアに寄りかかって、俺を見下ろしていた。

 勝手に入るな、と言いたいのをぐっと堪える。

「何。何か用」

 目を擦りながら言うと、姉は鼻で笑った。

「何か用? 姉弟なのに、用がないと部屋に入っちゃいけないわけ。こっちはあんたのせいで最悪の目覚めなんだよ」

「は?」

 身に覚えがない。俺は布団を引き上げて、姉を睨んだ。

「お父さんが~、お母さんに内緒であんたにクラシックのCD買ってたんだって。で、今朝お母さんがそれを見つけ出したらしくて、何余計なもの買ってんのってずーっと朝っぱらから喧嘩してる。お母さんもさあ、『店に返してきて!』なんて無茶言っちゃってんの。もうね、あんたのせい。最悪。この、気取り屋」

 姉は憎々しげに目を細めた。

 姉が寝起きが悪いのは嫌というほど知っている。だとしても、こっちこそ、朝っぱらからそこまで言われる謂れはない。

 けれど俺は、姉への苛立ちよりも、呆然としていた。梓の絵を綺麗だったと言ってくれた父さん。ゲームを買ってくれた父さん。そんなの二年前の大昔だなんて悪態をついた俺。ピアノを習わせられないと目を伏せた父さん。それに嫌味を言った俺。俺を気取り屋と罵る姉さん。俺に、梓と付き合うなと吐き捨てた母さん。父さんに言いつけた母さん。父さんが、久しぶりに俺に買ってくれたプレゼントを、罵る、母さん。

 音葉の泣き声が聞こえる。目覚めが悪かったのだろう。母親は、不快なキンキン声で父親に愚痴を言っていた。父親は父親で低血圧なのか、いつにも増して声が荒い。「朝っぱらからそんな話をするな」という声が響いた。全くだ。この家は、低血圧な人間ばかりだ。「じゃあいつ言うの!」――甲高い声が反響する。

「あー煩い……ほら、兄ちゃん、兄ちゃんって泣いてるよ。行ってあげれば」

 姉が、心底苛立たしげな声で言った。心臓が、突然、どくどく、どくどくどくどく、と激しい鼓動を打ち始めた。

 耳の奥で、サイレンがうわんうわんと鳴っている。

「たまには姉貴がやれよ」

「は? あたしには全然懐いてないでしょぉ? あたしが世話してやっても結局あんたを呼ぶんだよ、あの子。可愛くない。なんで、可愛くない妹をあたしが世話してやらなきゃいけないの。懐かれてるあんたがやればいいことでしょ」

「彩乃」

 口の中で、血の味がした。姉が――彩乃が顔をしかめる。

「は? 何、人のこと呼び捨てにしてんの?」

「煩い」

 俺は立ち上がった。肩から、掛け布団がずるりと剥がれた。

「はは、不細工。化粧したってその面は直んねえな」

「は?」

 彩乃は俺を憎むように睨みつけた――そう見えたのはきっと、俺が姉を恨んでいたからだ。

「よくまあ、五歳も歳の離れた弟に、そう低レベルな喧嘩をふっかけられるよな。気取り屋はどっちだ? 化粧して踵高い靴履いて洒落た服着たって、あんたの性根がそうである限り、誰もあんたのことを好きにならない。好きになったとしても、見限られるよ。実の弟に――家族に、嫌われてんだからさ、あんたは」

 言葉が、止まらない。

 体中が赤黒い血液で波打っているようだ。目の前が真っ赤だった。そうか、俺は今、怒っているんだ、と頭の隅でぼんやり考えていた。

 彩乃の顔は、さっと色をなくした。知ってる。あんたが、愛されてないんじゃないかと悩んでいるのは知ってたんだ。俺から見たら、姉貴ばかり甘やかされてるみたいに見えてた。でもあんたから見たら、俺だけが家族みんなに頼られて、愛されてるみたいに見えるんだろ?

「あんたは……あたしのこと、嫌いなの?」

 彩乃は震える声で言った。まるで捨てられた猫のようだ。でも、どうせ、ここで許しても、また噛みつくんだろ。

「今のやり取りでどこに好きでいられる要素があるんだか」

 俺は口の端で笑った。

 にいちゃん、にいちゃあん。

 音葉が泣いている。音葉を宥めようとして、色葉まで泣いていた。階下から、「絵哉はいつまで寝てるの!」とヒステリックな声が聞こえる。父親も何かを怒鳴っている。

 あとは、本当に、ただの衝動だった。

「黙れよ!」

 階段が、壁が、床が、天井が、

 ビリビリと音を立てて、揺れたような気がした。家中の声がピタリと止まった。テレビの音が、間抜けにも垂れ流されているだけ。俺は、自分の腹から妙に大きな声が出たことに、驚いていた。音葉と色葉が、再び声を抑えて啜り泣いた。ある意味、よく出来た妹だ。今はこれ以上、優しい兄の神経を逆撫でしたらいけないと、肌でわかっている。

 俺は彩乃を残したまま、階段をゆっくり降りていった。目の前が血のように赤い。喉の奥が、焼けるように熱い。両親は、呆然として俺の姿を見つめていた。

「子供の癖に、」

 俺の姿を認めて、母親が呟いた。言葉を吐き出したら少しだけ威勢が戻ってきたのか、母親は俺をきっと睨みつけた。

「子供の癖に、その態度は何?」

「親の癖に、それしか言うことないわけ?」

 母親の顔が蒼白になる。やがて、怒りで唇が青ざめていく。母親は肩を震わせ俺の頬を打った。俺の唇から、嘲るような笑いが漏れた。

「何? 怖いの、母さん。いい子だった俺が、いきなり反抗なんかしたもんで、恐ろしい? 親の権力振りかざして、馬鹿な親だね。彩乃が反抗した時より、もしかして俺の方が怖いわけ? ねえ、溜まっていないとでも思ってた? 俺にさんざん頼り切ってたくせに、父さんのちょっとした甘やかしも許さないの? ねえ、母さんは俺の気持ち、一度でも理解したことあった? わかったつもりなんだろ? おめでたいね。最悪だね」

 母親の手がわなわなと震えている。俺は怖かった。打たれるのは怖い。口からは、押し止めようとしても言葉が雪崩のように転がり落ちる。再び僅かに揺れた母親の手首を、咄嗟に掴んだ。打たれたくない。理不尽に、打たれたくない。それともやっぱり、俺が悪いんだろうか。母親の口から、ひっ、という小さな悲鳴が漏れた。俺は絶望した。

 俺は、俺を客観的には見られないから、今の俺がどれだけ怖いのかわからない。そんなに、怯えるほど怖いんだ、と思った。まだ十四歳になったばかりの餓鬼に、母親が怯えている。反抗期なんて、思春期なんて、誰でも来るかもしれないのに、俺がそうなるなんて、欠片も思っていなかったのだ、この人は。

 ねえ、母さん。

 この家で、あんたの下手くそなトールペイントを、裁縫を、あの不格好な人形を、ずっと心に留めているのなんて、俺くらいじゃなかったの。

「ああ、父さん。CDありがとう。買ってくれたんだって? 彩乃が言ってた」

 父さんは、俺を呆然として見つめたままだった。親に反抗なんてしたことがないと前に言っていたから、俺のこれが、信じられないのかもしれない。

 俺だって、反抗する気なんてなかったんだ――

 言葉にしたはずの気持ちは、声にならなかった。俺の唇は、不自然に歪むだけだ。

「で?」

 俺は、二人を見つめた。

「なんか、言うことあんだろ。最近、ずっとそれで喧嘩してんだろ。何? 俺の友達が気に入らないの? 夫婦喧嘩は俺のせいなんだろ? なあ、彩乃」

 階段の上で、彩乃が固まった気配がした。

 やがて、掠れた声が降りてくる。

「あんたの付き合ってる友達は、変な家の子なんだよ」

「そうよ」

 干物のように固まっていた母親が、水を得たように喋りだした。

「あんたが今おかしくなってるのもきっと須﨑さんちの息子のせいよ! あのね、絵哉。あそこはお爺さんもお婆さんも酷い偏屈者で、その息子は人目憚らず誰にでも因縁つけて暴れる騒ぐ、そういう狂った男なのよ。そんな親を持って、そんな家庭で育った子供がまともなわけが無いでしょ。悪い影響を受ける前に離れなさい」

「梓の爺さんは死んだって言ってた」

 俺は静かな声で言った。

「例えそうだとしても、死人の悪口言う親の言葉は、聞きたくないな」

「悪口じゃないでしょ!」

 母親がかっとして怒鳴る。

「少なくとも、梓のお母さんは、変な人じゃないよ」

 俺はそう言って、はた、と視線を伏せた。

 本当に?

 脳裏に柔らかな桜色が浮かんだ。その中で微笑む桜色の女の人。あの人は優しい。それは確かだ。でも、もしも、父親だけがどうしようもない人間だとしたら。

 どうして、梓はあんなに、不安定なんだろう。

 今の俺に、父親への怒りはない。父親への感情は、浜辺に打ち寄せる静かな波のようだ。色々と思うところはあるけれど、怒りをぶつけようとは思わない。俺が憤りを向けてしまうのは、母親と、姉だけだ。俺は今、心に反して二人を敵とみなしているのだ。そうすれば、楽だから。

 なのに、梓は怒りのやり場がきっとない。商店街の賑わいから切り離されたようなあのビルの奥で、梓の味方は父親と母親しかいないのだ。俺とは違う。無条件に俺の名前を呼んでくれる、妹がいる俺とは、違うんだ。

「母さんは、あの絵を、俺への悪い影響だってみなしたんだね」

 零れた言葉は、弱々しかった。

「それとも、あの絵、よく見もしなかった? 俺を描いてくれた絵を、ちゃんと見てくれた? 俺は、あの絵が好きだったんだよ」

 顔を上げられない。きっと今、両親の顔を見たら、吐き気がする。

「でも、母さんは梓を否定しただけだったね。なんにも知らないくせに」

 わかってるよ。

 わかってるんだ。多分、子供だから、我が子だから、俺のことが心配なんだろ? 当たってるよ、母さん。俺ね、少しだけ、ほんの少しだけ、梓に深入りしたこと、後悔してるもの。

 でもさ、なんで、まだ俺十四歳だよ?

 なんで、そんな大人の事情、汲んでやらなきゃいけねえんだよ。

「遅刻する……」

 俺は弱々しく呟いて、二人に背を向けた。一瞬、テーブルの上に、黄色い紙でラッピングされた四角いものが見えた。でも結局、あれは貰えないんだろうな。キズ付き……だから。母さんがケチをつけた、キズ付き。

 そのまま、本当は食事の時間くらい残っていたけれど、俺は着替えて玄関に向かった。

 妹達の啜り泣く声だけが耳に残った。俺は、開けたドアから差し込む光に、瞼を閉じた。


 その日の朝、俺の家はぐちゃぐちゃになった。

 ぐちゃぐちゃ過ぎて、朝から流れてきた、とある建物が全焼したという噂でさえ、話題に上らないほどに瑣末な出来事だったのだ。俺はそこに何も関わりがなかったから、当然と言えば当然だったのかもしれない。

 でももし、母さん、父さん、姉貴。

 人の心があったのなら。

 教えて欲しかった。だって、あんたら、俺の絵を見たろ? ニュースで流れてなかった? 噂話で聞かなかったの? いつも朝っぱらから噂話に花咲かせてるじゃん、ご近所さんと。一言も話題に上らなかった? そんなことってある?

 赤髪の少年を、あんたらは見ていたんだから。

 半月遅れの誕生日プレゼントなんて、どうでも良かったんだよ。あんたらにとって、梓の絵に価値がなかったようにさ。俺にとってはさ、本当にどうでも良かったんだ。


 美術館が、焼けてしまったことに比べたらさ。



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