六
八月十三日。
その日は部活が休みだった。昨夜から梓の家に行くつもりで、楽しみにしていた。さすがに朝から行くのは迷惑だろうと思ったから、昼まで待って昼飯をかき込んだ。時計の針をじっと見ているのが、もどかしかった。案の定母親の手伝いもしない姉の代わりに食器を洗って、洗濯物を干す。姉の下着を見つめながら、適当に干してやろうかと邪心がよぎったが、結局はちゃんと皺を伸ばしてやった。よれよれになった父親のシャツをびりっと破り、雑巾にして洗濯機の中を拭く。腹を出して寝ている妹達――色葉と音葉に布団を被せて、ばたばたと支度した。
「姉ちゃん、母さん、色と音、ちゃんと見ててよ!」
「わかってるってば〜」
「はーい。いつもありがとう」
姉と母親は、ぼりぼりとスナック菓子を食べながら、テレビの前で寛いでいた。甲子園の試合を見ては、ああでもないこうでもないと議論している。俺はほっと息を吐いて、弾む心ににやけながら玄関先へと駆ける。
「絵哉、あんた今日はどこに行くの? 部活ないでしょ?」
玄関先で靴を履いていたら、母親に声をかけられた。
一瞬、俺は言葉につまった。何もやましいことはないはずなのに、喉が詰まったようで、何も言えなかった。それはほんの一瞬のことだったけれど、母さんに勘づかれてはいないだろうかと、酷く不安になった。
ありのまま、友達の家に遊びに行くんだと笑ったら、なんで何も言わずに行こうとしたのかと怒られ、手土産の菓子折りを持たされた。俺は大人って難しいなと思いながら、打たれた頭をさすり、玄関を出た。青空がぶわりと広がって、俺に覆い被さる。俺はもう一度ほっと息を吐くと、空に向かってにやりと笑った。本日は快晴、いい日和だ。眼球を抉るような日の光に眼を細めた。帽子を深く被って、蝉達が鳴く声の渦を駆け抜ける。
俺は夏休みの間中、部活の合間を縫って梓の家に遊びに行った。慣れてくると、ビルの内部の暗さもまるで秘密基地のようで、楽しかった。暗い階段を上りきり、逸る気持ちを抑えてインターホンのボタンに触れる。扉を開けば広がる花色の世界は只管に華やかで、まるで遊園地やおとぎの国のようだった。ぼうっと熱に浮かされたまま梓の家を出て、アスファルトを踏みしめた途端、蝉の声に我に返ることが多くなった。
そうだ、俺はきっと、梓の家に憧れたのだと思う。俺が弾いてほしいとねだると、梓は何でも弾いてくれた。流行りのJ-POPと音楽の教科書に載っている歌くらいしか知らなかった俺が、クラシックをかじる日が来るなんて夢にも思わなかった。興味を持つ日が来るとも思っていなかった……元来、リコーダーを鳴らすのは好きだったけれど。
俺は夏休みの間中、梓から借りたCDでショパンのノクターンを何度も何度も飽くことなく聴き続けた。イヤホンを耳にさしていなくても、そらでピアニストの奏でる音が頭の中に浮かぶくらいに。
ノクターン、第一番と、二番。楽譜を見つめながら、苦しげに顔を歪めた梓の表情が、忘れられずにいた。
――一番は、母親が好きで、二番は父親が好きなんだ。これを弾けるようになるために、練習もがんばったんだけど……。
梓はそう言って、へら、と笑った。俺は首を傾げた。
――弾けてるじゃん、普通に。
俺がそう言うと、梓はただ、哀しげに首を横に振った。
――うん。そんなに難しい譜面じゃないからね。でも、そういうことじゃないんだよ。父親はうまいって言ってくれるけどね。母親には、違う、って言われるから。僕の心が、綺麗じゃないから、音も綺麗じゃなくなったんだ。
梓の言った意味は、俺にはよく分からなかった。俺からすれば、梓の音はまるでトライアングルの音のように辺りにすんと響く綺麗な音だった。聞き惚れてしまうような。でも俺がありのまま感想を伝えたところで、梓は絶対に首を縦に振らなかった。何がそこまで、梓の心を頑なにさせているのかわからない。それとも、専門家が聞いたらそれは魅力のない音だとでもいうんだろうか。俺が分かったことは、梓は絵を描くのと同じだけ、ピアノが好きだと言うことだけだ。ピアノを弾いている間は、梓はすごく穏やかな顔で、音楽に浸っていた。本人すら、きっと気づいていないんだろう。
――心が汚いと、ピアノはすぐわかっちゃうんだ。音がさ、すごく汚くなる。でも、絵の具なら、汚い色もかけがえのない色だ。だから僕は、絵を描いていると楽なんだ。
だから、もう少ししたらピアノも辞めるつもり、だなんて、梓はそんなことを言った。
俺は、梓の理屈に共感なんてできなかった。ごちゃごちゃ言ってないで、素直に生きればいいのに、そしたら楽だろうになんて、そんなことばかりずっと考えた。だからと言って梓に言えやしなかった。梓が聞き入れないのはわかっていたし、俺も梓と衝突したくはなかった。理屈なんて全然わからないけど、俺にわかったことはただ一つだけだ。きっと梓は、できることならピアノを続けていたかった。そして、今はもう、弾きたくない。鍵盤に触れるだけで辛くなるから――心が苛まれるから。音が汚い、綺麗な音が出ない――って。だから俺は、それから梓にピアノの話を振るのをやめた。
それが無くとも、梓の家で、梓と向き合いながらだべっているのは楽しかった。いつか完成する俺の絵に思いを馳せながら、俺はそわそわと毎日を過ごした。どうして梓が、家の奥にある自分の部屋ではなく、玄関で絵を描くのかわからなかった。梓は時々ぴしゃりと絵の具の雫を顔に飛ばして眼を瞬いた。慌てて眼を洗いに行く後ろ姿とか、母親に小言を言われてムッとする顔を見ると、自然に笑みが零れた。俺は、部活で今日こんなことがあっただの、誰が何をしただの、今まで母親や姉に言ったこともないようなたわいもない、くだらない話を梓に只管ぶちまけた。梓はただ笑って聞いていた。
もしかしたら、もしかしなくても、俺は初めて、自分の心を開く喜びを知ってしまったのかもしれない。今思えば、俺はあの時、梓の前で心の一番柔らかい部分を曝け出していたのだと思う。梓に対する気持ちが溢れて止まらなかった。まるで皮を剥かれた果実から滲んで滴るみたいに。梓が描いてくれた赤髪の少年が、俺の心を剥き出しにしてしまったのだ。
あの家にいる間だけは、俺は花の香りに包まれていた。梓の母親の纏う花の香りが、俺をくらくらとさせた。まるで、馬鹿な蝶みたいだ――華やかな匂いにふらふらと引き寄せられて、甘い蜜に酔うだけの、馬鹿な虫。
俺はそれまで、誰かを恋愛対象として好きになったことはない。けれど、俺は梓の家――あの家に満ちた花の色に、匂いに、焦がれてしまっていた。その感情は、本でしか読んだことのない恋情にも似ているような気がした。梓と梓の母親を象徴する全てが、俺にとって桜色の花だった。
ただ俺は、梓の父親のことだけはどうも苦手だった。たまに会う時もあったけれど、挨拶をしても頷くだけで笑ってくれない。花のように笑う梓の母親とは随分印象が違う人だと思った。もしかしたら、俺が思うよりもずっと不器用な人だったのかもしれない。母親が明るいピンクなら、梓の父親は俺にとって灰色だった。
「……鋭いね」
梓が筆を止める。俺は首を傾げた。
「何が?」
「いや……」
梓は筆をパレットの上にそっと置いた。筆の柄が濃い青と黄色の絵の具でぐちゃりと汚れた。
「赤司君には、僕は何色に見える?」
「え?」
「僕は、何色に、見える?」
柔和に笑うと、梓は筆をとってバケツで洗った。汚れた柄をそのまま握ったせいで、梓の指が緑色に染まって、爪の中まで汚した。それを俺は、いつものように眉根を寄せるでもなく、ただ凪いだ気持ちで眺めていた。
ふと、今までの俺なら、梓の問いに対してすかさず「知らねえ」とか「わからねえ」と言ってしまっただろうに、とぼんやり考えた。
俺は声を出すのを躊躇っていた。余計なことを言ったのだという思いが駆け巡る。言うべきじゃなかった。誰だって、父親が灰色だなんて言われていい気はしないはずだ。けれど、梓が気にしていることはそこじゃないということもわかる。
「梓は……」
俺はふと眼を伏せた。そういえば、俺は一度だって梓に名前を呼んでもらったことがない。
「なあ、その前に、俺のこと名前で呼んでよ。いい加減何ヶ月友達やってると思ってんだよ」
「え?」
梓が固まった。
「どういうこと?」
眉根を寄せて、本当に分からないと言った風な梓の姿に、俺は嘆息した。
「だからさ、名字じゃなくて、そろそろ下の名前で呼んでよ。なんかフェアじゃないじゃん」
「え……ああ、そうか」
梓は少しだけ恥ずかしいのか、耳を赤く染めた。
「じゃあ、絵哉くん」
「絵哉でいいよ」
「じゃあ、絵哉」
梓が眼を泳がせる。俺はそれを凪いだ気持ちで見つめながら、すう、と息を吸い込んで呼吸を整えた。
「梓は水みたい」
「は?」
梓が眉をひそめた。俺はもう一度深呼吸して、言葉を選ぶようにゆっくりと話した。
「梓は、なんていうか、透明な水って感じがする。まだ色を持たないって言うのかな。簡単に染め上げられないって言うのかな。でも一度濁ったらもう取り返しがつかなさそうでさ。とにかく、俺からするとお前ってすごく、なんていうか、危なっかしい。野郎に使う言葉じゃないかもしれないけどさ」
言いながら段々恥ずかしくなってきて、俺は頬を掻いた。
「その、筆を洗うバケツみたいな感じ。うまく言えないけど」
「そう……」
梓はどこか呆然としたように、黄色いバケツの中の、青に染まった水を見た。
「言い得て妙だね……」
梓は不意に立ち上がると、パレットを持って家の奥へと引っ込んでしまった。しばらくして戻ってきた梓の手元には、絵の具をすっかり洗い流して綺麗になった白いパレットが、透明な雫を垂らしていた。
「あれ? 塗ってる途中だったんじゃねえの」
「いい。頭がぐちゃぐちゃになったら、一度全部洗い流すことにしてる。新しく作った色を乗せた方が、うまく行く時もあるから」
そう言って、梓はぶちゅ、と勢い良く赤の絵の具を出した。
「お母さんは、暖色系」
蓋を閉めると、今度は青の絵の具を摘む。勢い良く出た青の絵の具の雫が、パレットの縁に跳ねた。
「お父さんは、寒色系」
「ちょ、ちょっと、お前何やってんの」
どこか荒れたような梓の仕草に、俺は混乱した。
俺の言葉も無視するかのように、梓はその後も手当り次第にパレットに色を流し込んだ。緑、オレンジ、ピンク、紫、黄色、金色、銀色――それらを水で満たした筆の先で、繊細に混ぜ合わせていく。……梓の瞳には、狂おしい光が宿っているように見えた。やがて出来上がった暗い茶色を眺めて、梓は呟いた。
「同じ色を混ぜても、どの色がどれくらいあるかの小さな差で色が変わるんだ。この間はもっと灰色に近かった」
梓は疲れたように言った。
「だから、同じ色は二度と作れないし、それぞれに良さがあるんだ。例えばこの色、」
梓は筆に茶色を絡める。その細い筆を数回上下に揺らした後、俺の眼を見た。
「ほら、この色さしただけで、髪が風にさらさら棚引いて見えるだろ」
そう言って梓は俺の絵の赤髪を指差した。俺は、夏の日差しの中でアイスを食べたみたいに、すんとした気持ちになりながら頷いた。
「うん、なんていうか、躍動感がある、かも」
「躍動感なんて難しい言葉知ってるね」
梓はにやりとする。
「僕にとってどきりとするような言葉も、出来事も、誰かの言動も、結局は混ざり合ってかけがえのない色になる。だから本当はそれを怖がる必要なんてない。でも、現実にはそれがうまく行かない。僕はいつだって、母親と父親の顔色をうかがって、もう、疲れた」
梓は溜め息をついて、出来上がった色をバケツの水に流し入れてしまった。バケツの水が濁って、汚い色になる。
ピピピピ、ピピピピ。
不意に、リビングの電話が鳴って、俺は反射的にびくりと揺らした。内線の音だ。俺が驚いたのは、その日梓も俺と同じように電話の音で肩を跳ねさせたことだった。梓の父親と母親が電話の内線で会話をすることは、それまでにも何度かあった。その日電話を取った梓の母親は、どこか喧々とした物言いで、電話の向こうから漏れ聞こえる低い声に応対していた。でも、俺の考えすぎかもしれない。いつもと大して変わらないような気もするのだ。少し神経質になってしまったのは、きっと梓がびくりと肩を揺らしたからで。
「お前んち……もしかしてうまく行ってない?」
俺は恐る恐る梓に尋ねた。
「どうだろう」
梓は首を緩く振った。
「僕が気にしすぎてるだけなんだとは思う」
梓はそう言って、空を塗るための蒼や紫や緑をパレットに溶き始めた。
「明日から……」
「え?」
梓の零した言葉を俺は慌てて拾い上げた。
「明日から、しばらく部室で描こうと思うんだ」
梓は、どこか諦めたような眼差しでバケツの中の濁った水を見つめた。梓の指先から零れた絵筆が底にぶつかって、小さな雫を床に零した。
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