梓の家の玄関を出ると、花色の世界が急速に色を失った。足が、何故だか一歩も動かなかった。まるでそこから離れるのを怖がっているみたいに――花色と灰色の境界線を越えるのを、躊躇うように。動かない足をぼんやりと見下ろす。その僅かな仕草を感知して、ビルの電灯がぱっと点いた。優しい黄色に包まれた階段を見下ろして、俺は震える一歩をようやく踏み出した。突然心が軋んだ。なぜ軋んだのかも、その時の俺には理解できなかった。

 俺の足音が、かつん、かつん、と僅かに反響する。二階へ降りると、ガラス張りの白いドアが視界の隅でゆらゆらと揺れた。ドアを開けてまで挨拶をするかどうか迷った。仕事中なら迷惑かもしれない。俺は躊躇って、躊躇って……結局、ドアを軽くノックした。中から声は聞こえない。恐る恐る、ベルが鳴らない程にそっとドアを開け、隙間から中を覗いた――誰もいない。俺は急にいけないことをしているような気になって、大きな声で「お邪魔しました!」と叫んだ。ドアを勢いよく開ける。ベルがちりん、ちりん、とけたたましく鳴った。それでも返事はなかった。人の気配すらなかった。何故だかとても泣きたいような心地になった。俺のいた証を残すかのように、ドアを勢いよく閉める。ベルが鳴り続ける。ちりん、ちりん、ちりん、ちりん。

 行儀が悪いとは思ったけれど、俺はばたばたと足音をたてて階段を駆け下りた。足音が反響して、とても煩かった。駆ける俺の姿を感知して、電球が次々と灯った。はあはあと喘ぎながら、ビルの扉の前で立ち止まる。

 鏡面シートの裏側から見る外の世界は、暗い灰色に染まって見えた。道を行き交う人の姿。通り過ぎる自動車。風に舞って転がるビニール袋。はためく店の暖簾――それらの全てを、映画を見ているような心地で呆然と眺めていた。やがて、電球が音もなく消えた。

 今度は俺のいる世界が灰色だった。鏡面シート越しに差し込む光が空の色を映している。俺は震える手でドアノブを握った。ここから出て行くことがどうしようもなく怖かった。自分でも訳が分からず、俺は混乱していたのだと思う。ドアノブを握る手に汗が滲む。

 不意に、ドアの隙間から『夕焼け小焼け』の無線チャイムが漏れ聞こえた。心臓がどきりと跳ねた。――帰らなきゃ。帰る時間だ。早く、ここから、出て行かないと。

 俺がドアノブを握る手にもう一度力を込めた時、階上から誰かの足音がした。……降りてくる。梓だろうか、それとも、梓の父親だろうか。俺の心臓が跳ねた。俺は一体どれだけ長い間、この長い階段で立ち尽くしていただろう。

「お邪魔しました!」

 俺は叫んで、勢い良くドアを後ろに引いた。赤く染まった日差しが眼に染みる。俺はがむしゃらに走った。走っているうちに、目の前がぼんやりと白けて、何のために走っているのか分からなくなった。やがて肺が悲鳴を上げて、のろのろと歩き始めた。公園の裏を通って、雨の白いしみがついた石畳の階段を登る。階段の影を赤い光が消している。

「ただいま……」

 家のドアを開ける。視界に飛び込んできたのは、無造作に転がるピンク色の靴達だった。汚れて踵の踏みつぶされた小さな二足の運動靴。その横で、下ろしたてのパンプスが一足、踵を綺麗に揃えて並んでいる。姉のパンプスをぼんやりと見下ろしながら、とても、とても似合わないな、と思った。俺は妹達の色褪せた運動靴を揃え、玄関に腰を下ろして靴ひもを外した。

 逆光に照らされた靴棚の上で、母親が作った不格好なカントリードールが、にっこりと笑っていた。俺はそれを手に取って、しばらく頭を撫でていた。指に埃が絡み付く。

「あれ、絵哉帰ったの? メールしたのに~。お使い行ってきてほしかったんだけど」

「何が」

 キンキンと甲高い姉の声に振り向きもせず、俺は人形を見つめたままそう応えた。

「日焼け止め~。無くなっちゃったから買ってきてってメール出したのに。見てなかったの?」

「ごめん、見てなかった。今から買ってくるから。金は?」

「立て替えといて~」

「やだよ。今出せって」

 俺は言いながら、軋む床を踏みしめ、家の奥へと進んだ。畳の上で寛いでいた姉が、俺に合わせて不思議そうに首を回した。

「母さん、なあ」

「ん? おかえり~。何?」

 母親は、夕飯の支度をしていた。包丁がまな板にぶつかる音が、小気味よく響いている。

「このカントリードールさ……」

「ん? ちょっと待って。……ああ、はいはい、なあに?」

 母親は、手をタオルで拭きながら振り返った。俺は人形の顔を指差した。

「これ、目をもうちょっと大きくして、口の位置を少しあげてさ、あと、これじゃ髪ぼさぼさになるから、二つにリボンで縛ってさ、みたらさ、どうかな。今度作る時」

 目蓋の裏に、梓の家にあったそれを思い浮かべながら、俺は目の前の人形を無感動に見つめていた。母親は俺の指先を覗き込んで、なるほど、と声を漏らした。

「そうねえ。時間がある時、今度やってみる」

 母さんは、けろりとした顔で言って、さっさと台所に戻って行った。

 俺は戸惑っていた。母親のその態度に少しだけ傷ついた自分に、そして、自分の言った言葉に、戸惑っていた。

 せっせとキャベツを洗う母親の後ろ姿を見ていたら、ちくりと胸が痛んだ。俺はもう一度人形の頭を撫でて、玄関へときびすを返した。

「日焼け止め買ってきてー」

「分かってる」

 俺は短く言うと、姉をちらりと見下ろした。姉はストッキングを履いた足をゆらしながら、だらだらとテレビを見ている。手伝えばいいのに、と思った。母さんと違って大学に入ったからって、偉そうに。

 俺は姉がこちらをちら、とも見ずに後ろ手でちらつかせた千円札を乱雑に掴むと、玄関へと歩いた。

「おつりはあげるよ~」

「……いらん」

 俺は姉に聞こえないような小さな声で呟いて、靴を再び履き直した。靴ひもを結ぶのさえ面倒で、そのまま靴底につっこむ。

 人形を棚に戻す時、もう一度だけそっと頭を撫でた。別に、お前が可愛くないって言いたいんじゃないんだ。そうじゃないんだ。何かがじわりとこみ上げて、胸が苦しくなった。振り返ると、姉のてかてかと光るパンプスが妙に目について、苛ついた。その踵が擦れていることも、俺を苛々させた。俺は、靴棚に姉のパンプスを放り込むと、妹達の靴を引っ掴んで、玄関先の洗い場に投げ入れた。

 そのまま自転車で薬局に行き、帰ってきてからは只管に妹達の靴の泥を落とした。夕方から靴なんか洗ってどうするんだと母親に叱られ、昼には乾くだろ、とへらへら笑った俺は、少しだけ、少しずつ、頭がおかしくなってきていたのかもしれない。



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