四
梓と二人でミルクセーキを食べた後、俺は大きな画用紙を乗せたイーゼルの隣で、パイプ椅子に座って梓と向き合っていた。梓が俺の顔をじっと植物を見るみたいに観察するから、最初は居心地が悪かった。梓は黙々とパレットに絵の具を溶いていた。できあがった桃色のような赤を筆に纏わり付かせると、ざりざりと音をたてながら画用紙に色を塗る。そうしてしばらく無言状態が続いて、ミルクセーキの冷涼感が心地よかったせいもあってか、俺はいつの間にかうつらうつらと船をこぎ始めていた。すると、梓が不意に小さな声を零した。
「小学一年の時さ、母親が入院したんだ」
俺は顔を上げた。涎が出掛かっていたので慌てて手の甲で拭う。
「え、なんて?」
梓は俺の目をまっすぐに見とめ、また筆先に視線を戻した。筆が画用紙の表面をさらさらと撫でていく。梓の言葉も、さらさらと零れ落ちていく。
「それで、結局何の病気だったのかはよく知らないんだ。でも、なかなか帰って来なくてさ、手術中も親戚や父親が真っ青な顔をしていて、不安でたまらなかった。手術は終わったはずなのに、母親はなかなか帰って来なくてさ。怖くて、……怖くて」
梓は筆を止めて、長い息を吐いた。
「それで、がむしゃらに絵を描いたんだ。母親の絵を描いた。七歳なんて、幼すぎてさ、どんどん母親の顔が思い出せなくなるんだ。このまま帰ってきてくれなかったらどうしようと怖かった。誰だったかな、誰かが、『どこどこの誰々さんが死んだ』と言う話をしていたんだ。僕は、もしかしたら母親も死ぬんじゃないかと、そこで初めて『死ぬ』って言葉を自覚した。そのまま気が狂ったみたいに母親の絵を描き続けて、ようやく帰ってきた母親は、僕と僕の描いた絵を抱きしめて泣いた。寂しい思いをさせてごめんね、と言って泣いた。ママを美人に描いてくれてありがとう、って言ってたっけ。その時ふと僕は、絵に描いていた母親と、自分が思い描いていた母親の顔が違うことに気づいたんだ」
梓は筆を水に溶いた。透明だった水に、桃色が滲んで拡散する。
「おかしいな、って思った。僕はその頃から、多分他の子供より絵がうまかったからさ、本当は、その頃描いていた絵はびっくりするくらい母親に似てるんだよ。今よりは下手だけど、ちゃんと母親の特徴を掴んでた。だから今見ると、あの絵はちゃんと僕の母親のありのままの姿なんだ。だけどあの頃の僕には、それが全く違う生き物に見えた。急に、僕の中で生きていたはずのその絵が、死んだ姿に見えたんだ。なんでそう思ったのかはよくわからないんだけど……多分、少し前に父方の祖父の葬式に行ったことがあったからだろうと思う。遺影が、あの頃の僕には写真に見えた――絵に、見えた」
パレットでは赤と黄色と、先刻作られた桃色が筆の先で混ぜられ、淡い朱色が生まれていた。
「母親は、それからも体が弱くて、しょっちゅう具合が悪くなった。入院はしなかったけれど、いつも顔が青白いんだ。梓に弟とか妹を作ってあげられないね、ごめんね、って泣きそうな顔で言うんだ。僕は兄弟なんて別にどうでも良かった。それなのに、青白い顔でまるで僕を労るように笑う母親を見ていたら怖くて怖くて、僕はあの母親の絵を破り捨てたかった。一度ね、数枚破ったことがあるんだ。そうしたら、お母さんが、傷、ついた」
梓の声は震えている。その漆黒の眼が伽藍堂の暗闇のような気がして、俺は思わず目を反らした。後はずっと、梓の操る筆の先だけを見ていた。
「そりゃ、自分の描かれた絵を破られたら、誰だって傷つくよ」
俺が零すと、梓は哀しげに笑った。
「やっぱり?」
「そりゃあ……」
「うん、そうだよね。あとは、俺が自分の描いた絵を粗末にしたこととかも、僕が自分で自分を傷つけてるみたいで、見ていられなかったみたい」
梓は目を伏せた。
「それで、絵を破るのはやめたんだ。でもね、僕にはあの絵が怖くて、呪いのように見えるんだ。……こんなことを言っても、気持ち悪いって思われるかもしれないけどさ。でもね、もうこれ以上、大切な人の絵は増やしたくないんだよ。でも、人物画を描くなら、大切な人を描きたいんだ。だって、絵を描く時はそれだけ心を込めて描いてるつもりだから」
梓は朱色に更に青を混ぜた。パレットの上で暗めの橙色が生まれる。
「この家ね、母親の趣味なんだけど」
梓は顔を上げて俺の瞳を覗き込んだ。
「寝室とか、僕の部屋も花柄なんだ。ピンクの花柄。トイレとか洗面台もピンクでね。可愛いだろ」
梓はふわりと笑った。
「……僕の母親はね、この家でひとりぼっちなんだ」
「え?」
俺は目を瞬いた。けれど梓は首を緩く横に振った。
「僕は男だから、お母さんの哀しみに寄り添えない」
梓は乾いた笑顔を浮かべた。
「だからせめて、側にいたいんだ。いや、違うな……僕が、母親の側にいるつもりでいないと、耐えられないのかもしれない」
梓は暗くした赤に黄色を混ぜた。濁った色が出来上がる。
「だから、花が周りにないと、落ち着かないんだ。部室は暗くて、何もなくて、落ち着かない。色がないと、落ち着いて絵が描けないんだ。だから、ごめんね。今日は家に呼んで。後は大丈夫だから」
そう言って、梓はイーゼルをくるりと回して、俺のほうへと向けた。
俺の目に、鮮やかな赤が飛び込んできた。
俺の顔をしたそれが、空色の瞳で、赤髪を靡かせて笑っている。真っ白な画用紙に浮き上がる二つの色彩赤と青は、それだけで心を持っているようだった。
俺は胸を打たれたのだと思う。画用紙に色づけられた少年は、ジャージを着て、草の葉を額に貼付けて、汚れた軍手で額を拭いながら汗だらけで笑っていた。
その笑顔を、俺はとても綺麗だと思った。
俺は、自分の顔を綺麗だと思ったことなんて一度もない。
かっこいいとも思ったことがない。ましてや可愛くもない。産んでくれた母親には悪いけど、俺はよくも悪くも普通の顔、目立たない顔をしていて、自分の顔は嫌いでもないけれど、本当はあまり好きじゃなかった。梓は知らないだろうけれど、女にもてそうな可愛い顔をしている梓を羨んだことだってあるのだ。そんな暗い気持ちに苛まれては、男は顔で決まらないからと、虚しい気持ちで言い訳を零して乾きそうな心臓を潤した。
それが、梓が色を与えただけでこんなに鮮やかに輝くなんて、思ってもみなかった。
「天才だ――」
「え?」
俺の漏らした言葉に、梓が眉根を寄せた。
紛れもない天才だ、と思った。梓の目には俺がこんな風に見えているのかと思ったら、知らず涙が目の端に滲んだ。男だからめそめそするなとじいちゃんにも父さんにも言われてきたのに。
「お前の絵は死んでなんかいないよ」
たまらなくなって、俺は右の掌で顔を覆った。
「俺は、お前に描いてもらいたいよ」
「何、が」
梓の声が戸惑うように震えている。
「俺は、俺の絵をお前にもっと描いてもらいたいよ。髪だけじゃなくて、眼だけじゃなくて、全部描いてよ。そしたら、俺は俺自身のことが、す、好きになれそうな気がしてきたんだって。だから別に、今日だけじゃなく毎日でも来てやるよ。お前がここでないと描けないって言うなら、何度でも遊びに来る」
「そう」
梓は戸惑うように瞳を揺らして俯いた。長い前髪が眼に覆い被さって、その表情はうまく見えない。
梓は唇を噛んだ。ああ、そんな風に噛む癖があるから、いつも唇に赤い痕があるんだなと思ったら、どこか哀しかった。やがて梓は歯をそっと唇から離すと、小さな声で笑った。
「そんなこと言ってくれた友達は、君が初めてだよ」
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