梓の家は、商店街の町並みで頭一つ突き抜けたビルの三階にあった。ビルは梓の死んだ祖父のものらしく、梓の家族が移り住むにあたって、淡い緑のペンキで外壁を塗り直したのだと言う。ビルの前には小さな花壇があって、色鮮やかな花が日の光を追いかけていた。道路の向かい側に小さな花屋があって、そこで花の苗を買って植えたのだと言う。その後も花屋のおばさんが仕事の合間に花の具合を見てくれているようで、「狭いけど、一年中花で満たされた場所なんだよ」と梓は笑った。

 違和感があったのは、通りにガラスのドアを面した一階だった。緑のフェンスが、誰も中に入れないようにと縦横に張り巡らされている。フェンスは手作りなのか、ところどころ針金の断端が突き出ていた。危ないな、と思いながら俺がそれを眉根を寄せて見つめていると、梓がちらりと視線を寄越して、口元に歪んだ笑みを浮かべた。

「前は一階にデパートの支店が入ってたんだけどね。出て行っちゃってさ。だから今、一階は空家なんだけど、水回りが壊れてるらしくて、黴だらけなんだって。祖母は補修する気もないみたいだから、もうここにはどの店も入らないだろうね。このフェンスは空き巣と猫除け」

 俺にそんな込み入った話をしていいのかな、とぼんやり考えながら、俺は梓の冷えた声を聞いていた。針金には、蚯蚓が這ったような字で【勝手な立ち入りを禁ずる】【タバコは捨てるな】と書かれた紙が括り付けられている。人の目をぱっと引く可憐な花の棚と、濃い緑の針金は調和がとれておらず、どこに目を向けていいのか分からないと言うのが正直な感想だった。

 花壇の横にもう一つ小さなガラス張りのドアがあった。まるで鏡のようになっていて、歩道に佇む俺と梓の姿をゆらりと映している。梓は体重を預けるようにしてドアを押し開けた。中に入ってみてわかったことだが、鏡のようだと思ったのは鏡面シートだった。俺が物珍しさに剥げかけたシートの角をじっと見ていたからなのか、「外から中が見えないようにお父さんが貼ってんの」と、梓が聞いてもいないのに説明した。

 暗いビルの階段に足を踏み出すと、天井に備えられた電球がぱっと灯りを灯す。梓は躊躇いなく階段を上って行った。茶色の手すりには、素人が何度もペンキを塗り直したような跡があった。二階に上がったところで、梓は白いペンキ塗りのドアを押し開ける。ドアのガラスには、青い文字で『須﨑事務所』『Office Susaki』と書いてある。俺ははっと顔を上げた。

「お父さん。友達連れてきたから」

 梓は柔らかい声で言った。

 中から「うん?」と言う声が聞こえる。俺は梓の後ろから中を覗き込んだ。

 分厚い本が所狭しと積み上がった山の向こう側で、男の人がこちらを覗き込んだ。その人は無表情のまま、俺を訝るように見つめた。俺は慌てて深く腰を曲げた。

「あ、あのお邪魔します。梓君の友達の赤司絵哉です!」

 梓の父親らしき人は頷いただけで、梓を見遣った。

「母さんには言った?」

「いや、今から言うよ」

「急に来られたら嫌がるんじゃないかな」

 梓の父親が肩をすくめる。

「いや、どうかな。そうでもないと思うけど。じゃあお父さん、仕事の邪魔してごめんね。赤司君が帰るまで一階の鍵、開けててくれる?」

「わかった」

 父親の声を聞いて、梓は静かに扉を閉めた。ドアの上につけられたベルが、ちりんちりん、と鳴った。

 更に梓は無言で階段を上る。二階の廊下の暗さが気になった。俺はどことなく不安な気持ちで梓の背中を追いかける。

 先に登ってしまった梓がインターホンを鳴らした音がした。慌てて残りの階段を駆け上ると、清潔さを感じさせる洋風のドアが視界に飛び込んできた。俺はほっと息を吐く。ドアに掛けられたピンクのリボンがついた可愛らしいリースと、トールペイントで描かれたハート形のウェルカムボードに眼が釘付けになった。姉と妹に挟まれているせいか、俺はどうも、女が好きそうな小物に惹かれる質だった。しかもこれは、完成度が高くて、手が込んでいて、すごく可愛い。

「気に入ったの?」

 苦笑まじりの声が降ってきて、俺ははっと顔を上げた。

「う、うん。すげえかわいいな、これ」

「それ、言ってやって。多分喜ぶから。それ、母さんが作ったものだからさ」

 梓はウェルカムボードを細い指でそっと撫でた。インターホンからジ、ジ、という雑音が漏れて、俺ははっと顔を上げた。

『はーい、おかえり』

 柔らかい女の人の声が機械越しに聞こえる。

「ただいま。あのさ、友達連れてきちゃったんだけど、ごめん、先に言うの忘れた」

 梓が静かな声で言った。

『えっ、あっ、ちょっと待ってね、玄関片付けるから』

「あっ、あの、お構いなく!」

 俺は慌てて機械に向かって叫んだ。けれどそれからしばらく、何かをがたん、ごとん、と動かす音がドアの向こう側から聞こえていた。俺はとてつもなく申し訳ない気持ちになった。ややあってがちゃりと鍵が開く音が響くと、梓はどこか疲れたように小さく嘆息した。気になって梓の横顔を覗き込んだけれど、長い前髪に覆い隠されて、表情はよく読めなかった。

 重みのあるドアノブを下に押して、引く。

 桜の花びらが、ぶわり、と視界一杯に巻き上がったような錯覚を覚えた。

 玄関の壁一面に広がる、淡いピンクのギンガムチェック。どこか埃っぽく灰色の空気を纏っていたビルの中で、突然色ある世界が、扉の隙間から花弁の群れとなって吹き出してきたようだった。床と同じ焦げ茶色の靴棚の上には、にっこりと笑ったカントリードールや華やかなドライフラワーが置かれている。

 恐らくは、梓の母親と俺の母親は好きなものが似ていたのだろうと思う。俺は自分の母親が、縫製の甘いカントリードールやあまり上手に塗れていないトールペイントの置物を、家の中に頑張って飾る姿を幼い頃からずっと見てきた。けれどそれらは、貸家の黄ばんだ白無地の壁にはまるで似合わなかった。言いたくはなかったが、かえって見窄らしく見えることさえあった。俺の母親のセンスの問題もあったのかもしれない。

 それなのにこの家では、小物の全てがまるで絵の中の世界のように家と調和して見えた。玄関に漂う花のいい香りに、鼻がすん、とした。小さなサシェが靴棚の上にそっと置かれている。俺はきっと、俺の母親が夢見た世界に足を踏み入れたのだと思った。桜色の部屋の中で、梓によく似たとても綺麗な女の人が、淡いピンクのスリッパに白い足を包み込み、ふわりと微笑みながら佇んでいる。

「いらっしゃい〜。もう、梓、お友達を連れてくるならそう先に言っててよね? 何もお菓子用意してないでしょ」

「あっ、いえ、あの、本当にお構いなく!」

 俺はへら、と笑って思い切り頭を下げた。

「こ、こんにちは。あ、赤司絵哉です」

 梓の母親はにっこりと花が咲くように笑った。

「梓の母です~。よかったわぁ、梓ったら中学に入ってから一度も友達を連れて来ないから、本当に友達がいるのかって心配していたの。赤司くんが友達だったのね。この子そういうことも何にも言わないから~。さあ、あがってあがって」

「スリッパ履いて」

 梓が俺に声をかける。焦げ茶色の床のタイルにピンク色のスリッパが二足並んでいる。

「え、あ、うん」

 梓も躊躇いなくそのスリッパの一つを履く。靴を揃えもしない梓の後ろ姿に嘆息しながら、俺が梓の分まで靴を並べてやると、梓の母親が慌てたように飛んできた。

「あああ、そんなことしなくていいのよ! お客さんなんだから! ありがとうね」

 梓の母親は申し訳なさそうな顔で言うと、俺に笑った後で梓の肩を小さく叩いた。

「もう! いつも靴はきちんと並べなさいって言ってるでしょ! お友達はちゃんとしてるのにこの子ったら」

 梓の母親の目は笑っていなかった。哀しげな色がその茶褐色の瞳に滲んだように見えた。梓と言えばどことなく下を見つめながらへら、と笑った。

 梓の母親は肩をすくめ、格子状に磨りガラスを張った木の扉を、がらがら、と横にスライドさせた。その向こう側に広がる世界に、俺はまた息を飲んだ。

 部屋の広さだけじゃない。ホールのような広い部屋の壁を、優しい乳白色の壁紙が一面覆っている。白の中に大輪の桜色の薔薇達が、ふわりと風に舞うかのごとく散らばっていた。壁紙に印刷された絵なのだと頭では分かっているけれど、まるで本物の花いっぱいに囲まれているような心地だ。部屋の真ん中には、壁とよく似合うくすんだピンクのソファーが三つ、コの字を描くように置かれており、その真ん中にテレビがあった。

 度肝を抜かれたのは更にその奥だ。大きな、グランドピアノが、置いてある。

「あ、梓」

「何?」

「お前、まさか、もしかしてとは思うけど、ピアノやってる?」

「やってるけど」

「えっ」

「まあ、ピアノより絵を描く方が得意なんだけどね……」

 梓はそう言って、ピアノの側に立つ棚をぼんやりと眺めた。その視線の先を追いかけると、小さなトロフィーがいくつか置いてある。俺はぽかん、と口を開けたままそれを凝視した。

「すげえ……すげえじゃん、梓……」

「引かない? 男がこんなんで」

「いや、別に引かねえよ。すげえなあ。お前音楽も出来るのかよ。そう言えば音楽のテストいつも満点だったっけ。勉強はそこそこだけどさ」

「そこは言わないでおいてよ……」

 梓は肩をすくめた。

「優良賞? コンペ、ティション? なあ、ほんとすごくねえ、これ?」

 俺が触りたくてうずうずしながらトロフィーを眺めていると、梓はどこか寂しげに笑った。

「優良賞は優秀賞の下。最優秀賞じゃないと全国には行けないし、大したことないよ。そりゃ、賞もらえないよりは嬉しいけどね……」

 梓はトロフィーにつもった埃を指で撫でた。

「ピアノは、お金がかかるからね……」

 俺は梓を見つめた。どうして梓の口からそんな言葉が漏れたのか、脳が理解を拒絶しているみたいだった。どう見ても、梓と俺の家の生活水準は天と地ほどの差がある。それをまざまざと見せつけられた心地で、今思えば俺は少しだけショックを受けていたのかもしれない。何故ショックを受けたのか、自分でもよくわからないのだけれど。

「子供会、疲れたでしょう。ミルクセーキ食べる?」

 梓の母親はそう言って微笑むと、大きな食器棚からグラス取り出した。梓は肩をすくめた。

「そりゃ食べたいけど、お母さん、寝てたら。今日も具合悪いって言ってたじゃない」

「そうだけど、梓のお友達が来てるんだもの! 嬉しいわ。ねえ赤司君、大したお構いも出来なくてごめんなさいね」

 母親の声は弾んでいる。

「どうする? 食べる?」

 俺は梓の横顔を見た。梓は何かと葛藤しているようだった。食べたいなら食べたいと言えばいいのに、と思いながら、客である自分が言うことではないとも思った。俺と梓の顔を見比べる梓の母親の視線に我慢が出来なくて、俺は梓を肘で小突いた。

「ほら、俺食べたいから」

「赤司君が食べたいって」

 俺は頭を抱えた。つくづく俺の気遣いを察しない男だ、こいつ。素直に「食べる」って言えばいいのにな、変なの。

 梓の母親は、風に舞う花のようにくるくると回ってスカートの裾を揺らしながら、ミキサーに卵や牛乳を詰めていった。そんな母親の様子を横目で見ながら、梓は台所に向かって大きな声を出した。

「あのさ、玄関で絵描いてもいい?」

「いいわよ。壁を汚さないでね」

「大丈夫」

 梓は頷いた。そうして俺を置いてけぼりにして、イーゼルを組み立てに玄関へ引っ込んでしまった。一人乗り残された俺はどうしたらいいか分からなくて、結局梓の後を追った。


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