七
八月十四日。
梓が部室に行くということは、俺があの家に行けなくなるということに等しい。
それに気づいたのは、梓と一緒に学校へ向かい、美術部の部室の前で別れた時だった。
うちの学校の美術部は、二年生の教室の並ぶ廊下――二階の突き当りの部屋だ。一階から二階に上がるための階段は二つある。一つが下駄箱から右に曲がり、職員室の前を横切って職員トイレの前にある中央階段、そしてもう一つが、下駄箱から左に曲がり、保健室の前を横切ったら見えてくるトイレの前の東階段だ。俺と梓は二年四組で、東階段から上ったほうが教室が近いのだった。美術部の部室は、その東階段を上ってすぐ左手にドアを構えているのである。美術部の部室と俺たちの教室の間には、またもトイレがそびえている。梓は階段を上り終えるとためらいなく美術部の部室のドアを開いた。整理整頓されていない画材の山がドアの隙間からちらりと見える。けれど梓は振り返りもせず、後ろ手でがらがらとドアを閉めた。梓の姿が、ドアのガラス窓からも見えなくなったその瞬間、胸がぎゅっと痛くなった。俺はのろのろとラベンダーの香りが漂うトイレの前を横切り、教室のドアを開けた。中は蒸されたように熱い。
盆まっただ中のその日、部活は午前中で終わってしまった。バレー部の他の二年生は一組とか二組ばかりで、やつらの足は慣れたように中央階段へと向かう。その日は俺もそこについていった。シューズが床を打つ音がばたんばたんと響き渡った。中央階段を上りきって、仲間たちと別れて、一人で人気のない廊下を歩く。水の染みがついたステンレスの洗面台が二つ。突き当りに、美術部室のドア。廊下に差す窓の形の白い光。俺は急に苦しい心地になって、目を伏せた。足元ばかりを見つめて、教室のドアをゆっくりと開ける。がら、がらがら、がたん。
とてつもなくのろのろとドアを開けて、それでも教室の中に足を踏み入れないまま、俺はもう一度未練がましく美術部室をじっと見つめた。タイミングよく梓が出てきてくれないかな、なんて考えたけれど、そうはうまくいかない。思い切ってドアを開けてやればいいのかもしれない。けれ美術部員でもない俺が、馴れ馴れしく部室に押し掛けるなんて恥ずかしくてできない。逆の立場でもぎょっとする。なんでこいつ、勝手に入ってきてるんだろうって。
部活の違いっていうのは、中学生にとっては大きな問題だ。運動部同士ならまだ交流もあったりするけれど、文化部と運動部はほとんど交流がないのだ。それでも、例えば吹奏楽部は部員でない人間にもオープンだったりする。どうぞどうぞ見学していってよ、って、そんなスタンス。でもうちの学校の美術部は違う。そこだけ隔離されていて、窓もすりガラスだし、中がどうなっているのか外からはまるでわからない。美術の授業でしょっちゅう入っているはずなのに、そこが部室となる時間帯だけ、まるで異空間だ。中の音がほとんど聞こえてこないし、積極的に部員を募集しているそぶりもない。意外と思い切って中に入ってみればなんてことはないのかもしれないけれど、俺にはその最初の一歩がなかなか踏み出せない。入った途端、中にいるであろう美術部員に「何か用?」だなんて奇異なものを見るような目で見られるのは心地悪いし……まあ、想像してるだけなんだけど。でも何より、梓が「来る?」と言わなかったのに行けるはずがないのだ。俺が美術部室に行けるとしたら、梓しか理由にならないのだから。
俺は頭を振り、教室の中に足を踏み入れた。美術部室のほうから、何かガタン、とものが落ちるような音が聞こえたけれど、特に意識していなかった。そのまま窓辺に歩み寄り、窓を全開にして、中にこもった熱を放散する。バレー部員はこのクラスに俺しかいないから、部屋の中はセミの鳴き声が反響するばかりで、とても静かだった。俺は廊下から反響して聞こえる、よその教室での笑い声に耳を澄ましながら、椅子に座ってぼんやりと入道雲を眺めた。目が覚めるような青空を見ていると、不意に笑みが零れた。思い出し笑いの類いだったかもしれない。特に意味のない笑いだ。
俺はただ、寂しいと意識しながら、心の片隅では満たされている、そんな自分に笑いがこみ上げてきたのだった。
「自覚ないかもしれないけど、」
不意に、梓の声が静まり返った教室で響いた。俺は振り返る。
「絵哉って、空に向かって笑う癖あるよね」
「そう……かな」
「うん」
梓はどこか疲れたようにそう言って、自分の席――俺の前の席に、腰を下ろした。
「何? 終わったん?」
「終わってないよ。疲れただけ」
「ああ……」
汗をかいた体に、緩やかな疲労感が滲む。俺は仄かな眠気を覚えながら、ぼんやりとして頷いた。
「花が無いから、居心地悪いだろ」
そう言った瞬間、梓が俺を鋭く睨みつけた。何故睨まれたのか、分からなかった。
「絵哉は変だ」
「は?」
眠気が霧を散らすように覚めていく。俺は眉根を寄せた。
「いきなりなんだよ」
「なんでもないよ」
梓はそう言って、息を吐いた。床を睨みつけて、ぐしゃりと、髪を引っ張るみたいに搔き上げて、握りしめた。
「絵哉が美術部だったら良かったのに」
「はあ?」
俺は笑った。
「俺に美術部とか似合わねえにも程があんだろ? 笑えねえぞ、それ」
「そんなことないよ」
梓は手で目元を覆った。
「音楽だって好きだし、ほんとは絵だって好きだろ。だから絵哉は、僕のことを狂人扱いしないんだ」
「狂人って」
俺は肩をすくめた。
「大げさだなあ」
「大げさじゃないよ。気持ち悪いっていわれたことだって何度もあるよ。自覚してるんだよ。普通のことが出来ない。今日だってそうだ……あの絵を、変だって言われた。自分でも本当は分かってたんだ。ただ舞い上がってたんだ。僕が奇抜な絵を描きだしても、絵哉が、何も言わなかったから」
俺はしばらく黙っていた。ふと、蝉の声が耳に煩く響いた。梓の声を聞いていた時は、聞こえなかったのに。
「何て言われた?」
「規約違反じゃないかって。赤髪碧眼の人間なんて、この街には存在しない。なのに色を捏造するのは、趣旨にそぐわないでしょ、ってさ」
梓はますます強く髪を握りしめた。抜けて千切れてしまうんじゃないかと、心配になるくらいに。
「せっかく綺麗な髪なんだから、痛めつけるのやめろよ」
「男が綺麗って言われても嬉しくないよ」
「どうだか。音が綺麗って言われるのは嬉しいくせに」
俺がそう言うと、梓は泣きそうな顔を上げて、俺を睨みつけた。俺は静かにその揺れる瞳を見つめかえした。
「他の人間がどう言おうが知ったことじゃねえけどな、俺はピアノのことも、絵のこともよく知らねえわ。でも、俺はお前の弾いてたノクターンは綺麗だったと思うよ。ま、さすがにプロの録音には叶わねえけどな!」
俺はにっと笑った。
梓から借りた、ノクターン集のCDを何度再生したか分からない。親や姉から「気取って」と笑われたって、何度も頑に聴いた。だから、もう空でメロディを口ずさめるくらい覚えている。
梓が、どの曲の、どの部分が好きかだって、わかる。それを話した時の梓の目は、清かに輝いていたから。
「ごめん……」
梓は、また俯いた。俺は首を傾げた。
「何が」
「かっとなって……僕……イーゼルを蹴飛ばしたんだ。だから、絵哉を描いていた画用紙の角が、少し曲がってしまった。……もちろん、伸ばせば直るし、ごまかせるけど、でもそういうことじゃなくて」
俺は黙っていた。誤摩化すように再び髪を引っ張りだした梓の仕草を、静かに眺めていた。
「ものに当たるなんてことしたからさ、部長に余計に、変だ、気持ち悪い、暴力だって言われたよ……どうしよう、母親が呼ばれてしまったら……先生に言いつけるって言ってたし……」
「お前は何に怯えてんだよ」
俺は少しだけ苛立ちの混じった声で言った。
「わからない」
梓は俯いて、目を隠したまま首を降り続けた。
「人の絵描いといて、粗末にすんなっつってんだろ」
「ごめん」
「そうじゃねえっての。謝ったって……変わんねえだろ」」
俺は嘆息しながら、鼻を噛んでティッシュを捨てた。無性に腹が減ったから、サブバッグに入れていた菓子をがさごそと取り出す。
「俺は別に、赤髪も青い目も悪くねえと思うけど? まあ、俺絵のことはよくわかんねえからな。素人だから、梓の発想ってすげえなあって思うだけだし」
「そのさ、自分を卑下するような言い方やめない? 絵哉は何かとそういう言い方するよ。苛々する」
「苛々するって、なんでそんなこと言われなきゃいけねえんだよ」
俺は梓を睨んだ。それに呼応して、梓の眼差しが、手負いの狼のような鋭さを帯びる。
「僕は、絵哉のことは認めてるよ」
梓の口から、そんな言葉が零れた。
「絵哉の感性が、僕は好きだよ。君は気づいてないだろうけどね、君の言葉の端々にさ、君がどんな風にものを見ているのか伝わってくるんだ。君が何を景色から感じて、笑っているか伝わって、僕もそれが心地いい。一緒にいて楽だと思ったのは君が初めてだった。だから、君の絵を描きたかった。僕に見えている絵哉を、ああいう形でしか描き表せないんだよ。僕はまだ、未熟だから。初めて、今まで奢ってたなって自覚した。描きたいように全然書けないんだ。色を変えて、筆を変えて……それでも、もがいてる。だから、だから……」
梓は水の滴が溢れるようにぽつぽつと言葉を溢していく。俺はそれを、呆然としたまま魅入るように聴いていた。
「だから、僕と同じところまで来てよ。もうちょっと自信もったらどうなんだよ。そうじゃなきゃ、描いてたって虚しいだろ」
「……なんで」
俺は喉が潰れたような声を漏らした。梓は俺をじっと見つめる。その目には、光がなかった。
「僕に見えているありのままの絵哉を描いているだけなのに」
梓は静かな声で言った。
「それなのに、僕が、おかしいの……?」
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