第22シュー(そりゃナイッシュー) キリマンジャロ

「バナナで釘が打てる場所なら、どこでも」H・S(名画「神のピカッ」と「五人抜き」を描いた和製ゴッホ)


                 ズコッ! 


 と、右足(軸足)が後ろに滑った。信司は緑のマットに沈んだ。


山本「本日未明、24歳の日本人男性が、ワールドカップでズコッ!」


 スタンドの六万二千人、地球の裏側の一億人、クライフもソファごとL字にズコッ!


「信司! 前! 前!」という僕の叫びもむなしく、


              ゴッツーーーーン!


 前につんのめった信司と目を閉じて突っ込んだロメロの頭と頭がノーブレーキで衝突。左脳ンアルファ波は消え、友達は力なく転がり、アルゼンチンゴールのゴールラインの手前で止まった。僕は思わず、高かった軍用双眼鏡を放り投げ、スタンドの階段を駆け下りた。


 その時、ずっこけると命に関わる上空のカメラマンは、ヘリの床で両足を踏ん張り、神の視座で22人の動きを追っていた。「ラ、ララ、ライオンだああああ!」


 僕はスタンドの最前列の柵の前で警備員に捕まった。「信司が信司まうって!」


山本「信っ司られない!」


 誰もがズコッたピッチで、ただ一人、獲物に向かって一直線に駆けた黄金のたてがみ=本田圭佑が、無人のゴールに信司の友達をコロコロ突き刺した。


『沈黙のスタジアム』~週刊スティーブン・セガール


 どっこい、『沈黙』シリーズに沈黙はない。あったためしがない。

 六万二千人のジャンプ。

 一億人のジャンプ。

 クライフもL字ジャンプ。

 桑田も正座のまま尊師ジャンプ。

 ヘリのカメラマンもジャンプして操縦士に怒られた。


山本「本田……本っ本田は……ブレ……ませんで……(ジャンプで声ブレブレ)」


 ロメロに頭突きをくらった信司は、完全にのびていた。肉眼でもわかった。ロメロはすぐに立ち上がった。アルゼンチンのキーパーは頭突きも練習しているのだ。


 恐れていたことが起こった。グロッキーな信司の上に、チームメイトがまさかのダイヴ。「シンジ!」×9。白の上下を着た闘莉王、中澤、駒野、長友、阿部、遠藤、長谷部、大久保、本田が、わりとポジション順に重なった。


 山渓新聞は、号外の一面をそんな危険極まりない組体操の写真で飾った。「キリマンジャロ!」

「信司が信司まうって!」なるスタンドからの叫びは、一面の見出しにはならなかった。


 四年前、ドイツの夜空の下で寝そべった孤高のエースは、ケチョンケチョンにされたばかりのセレソンのファンキーなイエローシャツで涙を隠した。

 四年後、アフリカの夜空の下で寝そべった孤高のエースは、生まれて初めてゴール以外の山を築いた。

 彼の頬に光っていたのが涙かどうかは、肉眼ではなんとも言えない。

 僕に言えるのは、すぐ上の闘莉王と中澤が、やはり日本代表史上最高のツインタワーだったということだけだ。「あれ、二人だけでも信司まうって!」


 それはもうちょっとあとで。


 信司は、翌日にはもうチームを離れ、空の上にいた。大日本航空のチャーター便(またもゼロクラス)で、今度こそファーストクラスの席で寝そべっていた。

信司「すみません。お水をもらえますか?」

CA「かしこまりました。ご一緒に湿布はいかがでしょうか?」

 女性イレブンによると、湿布には黒マジックで「TIGER」のサインが……だからそれ、どうやって確認したの? ブラックボックスで?


 余談だが、先制点と引き換えに信司を失った日本は、「俺が本物のレオだ」とばかりにメッシに三連発を食らい、1対3でアルゼンチンに逆転負け。

 岡ちゃんが前言を撤回し、しぶしぶ三位決定戦に臨んだ信司抜きの日本は、予定通りウルグアイに敗れ、予定通りのベスト4。三位なんてもってのほか。

 岡ちゃんは公約を達成し、週刊ゴールポストを筆頭とする日本全国の岡田解任派は沈黙した。試合後の記者会見に現れた岡ちゃんは、自分をこき下ろしてきた連中に目の前のマイクに似た何かをなめろと要求……しなかった。いつも通りつまらなかったので、割愛。


 七夕決戦の翌日、信司がちょうどキリマンジャロ上空に差しかかった頃、札幌の桑田は道産子テレビの女子アナが握るマイクをしゃぶっていた。


アナ「早野選手の誕生日に、マラドーナのビデオをプレゼントしたそうですね」

桑田「ええ。庭とパパラッチにホースで水を撒いてるほうじゃなくて、五人抜きのほうですけどね。あの頃はパソコン編集なんてなかったので、編集作業は命懸けでした。夜中にビデオデッキを三台並べてガチャガチャやってたら、危うく離婚しかけましたよ」

アナ「編集? ゴールシーンを抜き出したんですか?」

桑田「逆です。教育上ふさわしくないゴールをカットしたんです。私も教師のはしくれです。刺青にグラサンの潜入捜査官だって、横断歩道では手を挙げますよ」

アナ「すすきの交番の制服のおまわりさんは、すすきの大交差点の横断歩道を手を挙げずに渡っていましたが……」

桑田「すすきのはノーカウント」

アナ「教え子が五人抜きでマラドーナに並んだご感想は?」

桑田「信司の伝説のアシストは、ワールドカップの歴史に刻まれました。こぐまFC時代の信司にとってビデオテープのマラドーナがバイブルだったように、これからの日本サッカーを担うこぐまたちにとって、ブルーレイディスクの信司がバイブルになるんです」

アナ「アシスト……(こけた? こけてね?)……ですか?」

桑田「黙れ! プロ野球選手しか興味ない女子アナに何がわかるんだ!」

アナ「今のはカメラマンとディレクター! 私が結婚したのは軟式!」

桑田「……失礼。あれは練習通りです。あれこそ信司です。シュートを打つ勇気こそが早野信司です。結果じゃない」

アナ「では最後に、早野選手にメッセージがあれば」

桑田「信司、少し遅くなったけど、24歳の誕生日おめでとう! 来年からは、お前のブルーレイがうちのこぐまたちへのプレゼントだ。無修正だぞ!」


 七夕決戦直後の記者会見場。聖ディエゴは、どこで買ったのか、缶入りの白い「恋人」を持って現れた。席に着くなり一枚手に取り、個包装を破り、齧ると思いきや喋り始めた。


「日本の役人どもは別だが、シンジにはもう何もなめるなと言いたい。今、心の底から、あの子がアルゼンチンで生まれなかったことが残念だよ。あの子は戦士だ。本物の戦士だ。アルゼンチンの戦士はゲバラのように、仲間のために生き、仲間のために死ぬ。86年のイングランド戦、俺が五人目のキーパーをかわす前、左にドがつくほどフリーのバルダーノがいた。俺には完璧に見えていた。けど、俺はパスをせず、キーパーをかわしてゴールを決めた。バルダーノより俺の左足を選んだ。だからバルダーノは今、スペインにいる。あそこで歴史的なゴールを決めていれば、バルダーノはイングランドを倒した英雄になっていたはずだ。今頃はペレみたいに、ブエノスアイレスの博物館で隣のティラノサウルスに頭を噛まれていたはずだ。おたくらも見ただろう? シンジはその気になりゃ自分で決められた。なのに、あの子はあそこでパスをした。(こけた? こけてね? と記者団)……黙れ! ブン屋に何がわかるんだ! いいか、誰がなんて言おうと、ジョージ・ブッシュが大量破壊兵器だって言おうと、あれはパスだ。もちろん、今日のレオ(メッシ)は素晴らしかった。本物のヌメロウーノだ。だからこそ、この場を借りて敢えて言いたい。レオ、今日のシンジを忘れるな。お前はサッカーの未来だ。けどな、お前が月までドリブルできる男になっても、月に未来はない。足跡ももうない。葉っぱ(芝芝、芝のこと)もない。仲間もいない。恋人も……ってこのお菓子、誰から?」


 ジャンボジェットは、ちょうどキリマンジャロの真上に差しかかった。雲一つない晴天。窓におでこをくっつける「恋人」の贈り主。

 キリマンジャロのてっぺんに、白いキャンバスに、信司は心の筆でプルトップを描いた。準決勝でハットトリックのメッシを差し置いて獲得したマン・オブ・ザ・マッチの副賞が、同じ名前の缶コーヒー一年分だったからだ。「平日はコーラ禁止! 土日もなるべく!」なる桑田の声なき声が、スポンサーを動かしたのかもしれない。


 信司は登山家だったのかもしれない。キリマンジャロを左足一本けんけんで制覇し、頂上で左足のかんじきプルトップを脱いで天に掲げた、登山家だったのかもしれない。いわば、下山の手な登山家だったのかもしれない。

「ピカッ」で左足が覚醒した小四以来、信司にはボール以外の友達がいなかった。同じ喜びや悩みを同じ高みで共有できる登山部のような友達がいなかった。


「結局、僕はずっと、信司の友達の友達だったんです」と、こぐまFC、FCバルセロナ、コンサドーレ札幌と信司とともに歩んできた信司の守護神、アルカイダ森崎は言う。「友達は友達を分析したりしませんから」


 こんばんは、クリスティアーノ・ペプラーです。ここからは、回収されたブラックボックスから、トラック13のリマスター版をご紹介しましょう。なあに、歴史の教科書だって立派なリマスター版です。真実なんてただのリマスター版です。クソくらえでステイチューン!


CA「早くお怪我が治るといいですね」

信司「怪我が治ったら、久々にスキーでもします。それでまた怪我でもします」

CA「キリマンジャロで?」

信司「バナナで釘が打てる場所なら、どこでも」

CA「今度は事前におっしゃってくださいね。ウォームアップ用にゴムのスキー板をご用意しておきますので」

信司「あっ、そうだ……(スポーツバッグをガサガサやる音)……これ、行きのウォームアップのお礼です。まだあと、ひ、ふ、み……364本もありますから」

CA「ふふっ、お気持ちだけで、この景色だけでじゅうぶんです」

信司「まあまあ、乾杯だけでも」

缶「ブシュウウウウウウウ!」

信司「なにいいいい(翼くん風)」

CA「でいやあああ(日向くん風)」

レオ「ゼロクラスに手荷物検査はない。缶コーヒーも、プラスチック爆弾も、ドリアンさえも持ち込み可」

信司「……これコーラじゃん」

レオ「信司がプルトップを引いた瞬間、キリマンジャロは噴火した。人類がエントロピー増大の法則を取り戻したことを、祝福するかのように」

CA「だからこれコーラですって、森本機長」

レオ「信司に敗れ去った者たちの呪いは、缶コーヒーの中身を炭酸に変えた。気圧の変化は炭酸をシャワーに変えた。甘ったるいシャワーを顔に浴びた信司とCAは、お互いの顔を指差して笑い合った。岩井俊二の映画なら、そんな甘ったるいエンディングにぼやっとしたフィルターもありだろう。どっこい、人生のエンディングはそんなに甘くない。あのジャッキー・チェンでさえも、エンドロールのNGシーンで何度も首から地面に落ち、何度も死にかけているのだから。よせばいいのに、信司はキリマンジャロのプルトップを左手で開けた。インドでは不浄の手、アルゼンチンでは神の手とされている、左手で開けてしまった。その瞬間から、ジャンボジェットは急旋回し、高度を下げ始めた。キリマンジャロをちょっぴり活火山にするために」

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神のピカッと五人抜き 林雪 @ramsyu

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