第17シュー 犬はそうした
「死ぬためのダイエットなんて、ダイエットで死ぬよりまぬけだ」D・M(サッカーの神様)
2010年6月11日。「18番ホールの悲劇」(ジンバブエ戦)の翌日。
初戦のカメルーン戦が行われるブルームフォンテーンのホテルで、即席の記者会見が行われた。ブルーなメガネの岡ちゃんは、サムライ心からブルー記者団を前に、十二年ぶりにあのセリフを言った。
監督「外れるのはカズ、三浦カズ」
バシバシバシバシとフラッシュ。
監督「代わりに入るのは、信司、バロン信司、以上です」
記者「ドログバ選手は右腕を骨折しましたが、手術と呪術で大会に間に合わせるそうです。カズ選手にも、そういう選択肢はなかったんでしょうか?」
監督「カズは右側の肋骨が三本も折れています。たかが右腕一本とはわけが違います。日本の新宗教が束になって手をかざしても、どうにもならないレベルです」
記者「カズ選手を蹴ったジンバブエの選手に対して、何か一言ありますか?」
監督「今後、OとDとAのつく援助は忘れたほうがいいでしょう」
記者「怪我で出場できないベッカム選手も、世界中の女性ファンのためにイングランド代表チームに帯同しています。カズ選手にも同じことを期待してはいけないのでしょうか?」
監督「蹴球教会からもそういう提案を受けたことはたしかですが、女うけの問題ではなく、交通費の問題で、カズは既に日本に帰しました」
記者「交通費?」
監督「ちょうど早野信司を乗せてきたチャーター便が日本に帰るので、今頃はもう空の上でしょう。僕の好きな四字熟語に一石二鳥があるんですけども……あ一鳥二石か」
記者「カズ選手から、何かメッセージはありましたか?」
岡ちゃんは突然、職人かたぎの娼婦のように無言で背広の上着を脱ぎ始めた。
なんじゃそりゃ? と口を開ける記者団。
白いワイシャツの下から、サムライブルーがこんにちは。
記者団に背中を向け、両手の親指で背番号と名前を指差す岡ちゃん。
「11、KAZU」
バシバシバシバシとうなるフラッシュ。
巨人ファンは、監督復帰後初のユニフォーム姿となった長嶋監督を思い出そう。
「KAZU」の下には、黒マジックでこう書いてあった。
信司ろ!
の信司はその頃、そのホテルに向かうジープの窓から、僕が見たのと同じ脚色なしの南アフリカを眺めていた。アパルトヘイト廃止もアフリカ一のGDPもなんのその。トタン屋根と大理石、黒人スラムと白人ゲートコミュニティー。ゲートの前でライフル銃片手に黒人を追っ払うのは、もちろん黒人ガードマン。南アフリカはいまだ植民地の教科書だった。
黒人運転手「ワールドカップ?」
バロン信司「イエス。アイ、アム、プレイヤー」
黒人運転手「ミートゥ、ミートゥ」
昔昔、リンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」と言った。後継者のブッシュ親子は、ホワイトハウス人民(石油会社や傭兵会社の株主)のためならイラク人民に容赦しない。天国のリンカーンも、さぞお喜びだろう。
1986年、メキシコW杯は、「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」だった。マラドーナはアルゼンチン人民のためならイングランド人民に容赦しない。マルビナス(フォークランド)島に散った英霊も、さぞお喜びだろう。
十一年後の1997年。マラドーナは、もうどこかのもの好きなクラブで、気が向いたら練習をし、気が向いたらマラドーナのぬいぐるみを着てショーに出る生活は終わりにしようと決めた。世にいう引退である。
が、スーパーの上にスーパーがつくスターは、たいてい次の職にあぶれる。「神の手」や「五人抜き」を描いたあとで、これ以上何を描けと? あとはゴッホよろしく、自分の頭をふっ飛ばして絵の値段を吊り上げるしかない。
そんなわけで、引退からの十年、神の子は何度も神のもとへ向かおうとした。自宅の前で張っていたパパラッチに向かって空気銃をぶっぱなしたのは、自分の頭を撃ち抜くところを邪魔されたからに違いない。そして、コカインとアルコールのワンツーで、ついに念願の昏睡状態に。
が、あと一歩というところで、大好きなカストロの国キューバにある薬物依存症治療施設へ入院旅行。ハバナの夕陽の誘惑に勝てず、やむをえず生還。
お次は、重力を利用して地獄に落ちる実験。体重が130キロを超えたあたりで、街へ出てもサイン攻めに遭わなくなった。「ほら見ろよ、あそこ、マラドーナのぬいぐるみを着た奴」と笑われた。
が、あと一歩というところで、大好きなコカイン栽培の国コロンビアの病院にまたも入院旅行。胃の部分切除手術を受ければ合法的にモルヒネでハイになれるという誘惑にも勝てず、やむをえず生還。
ありとあらゆる誘惑に勝てなかったおかげで、マラドーナは引退後の十年を生き延びた。体重も二桁に戻り、足元のボールも見えるようになった。時は来た。
アルゼンチン蹴球教会大司教、フリオ・グロンドーナは、取材陣に囲まれるたびに繰り返される二つの質問にうんざりしていた。
記者A「マラドーナは今、何キロですか?」
記者B「アルゼンチンには、マラドーナが安心して入れる病院が一つもないんですか?」
グロンドーナ「おたくはどこの記者?」
記者B「ハイチです。ハイチ毎日新聞です」
グロンドーナ「おたくにだけは言われたくないね」
グロンドーナがアルゼンチン蹴球教会の誰かと話した通話記録のデータを、僕はモスクワのベネズエラ大使館経由で手に入れた。NSA、嘘つかない。
「このままじゃディエゴはラザロの役を降りてくれないぞ。ディエゴにはまともな仕事が必要だ。……どアホ! グルメレポーター以外のだ!……そうか、ははっ、ならディエゴをバシーレの代わりにアルゼンチン代表監督に……って冗談に決まっ……あ切れてる」
そんなこんなで、2009年、サッカー界のゴッホは猟銃を捨て、母国の若い画家を鑑定する仕事に就いた。「監督だろ? 何度か齧ったことあるし、いいよ」
頼むほうも頼むほうなら、齧るほうも齧るほう。鑑定家マラドーナは、画家時代のマラドーナの面汚しだった。腐った林檎のように、齧ったそばからペッペッとその短い監督経験を吐き捨てていた。ましなチームを瀕死に追いやり、瀕死のチームを死に追いやった。息子をもつアルゼンチンママの間でさえ、マラドーナの代表監督就任は純然たるジョークだった。「あんまり言うこと聞かないと、ディエゴを代表監督にするよ!」
そこへビッグニュース!
「本日未明、聖ディエゴがアルゼンチン代表監督に就任いたしました。繰り返します。本日未明……」
テレビを見ていたアルゼンチンママは、「ほらみなさい」と隣の息子に言った。
黒人選手への偏見が消えつつある一方で、監督業界はまだまだアパルトヘイト的だった。特に英国では、サッカー監督はいまだ英国紳士の職業とされている。白人、元選手、横分け、ホモでない英国人なら完璧。
アメリカが黒人を大統領に選んでも驚かなかった英国人も、愛する地元クラブが選手経験ゼロの黒人女性を監督にしたら、首を吊るだろう。
マラドーナのアルゼンチン代表監督就任は、少なくとも僕にとっては、ビヨンセがFCバルセロナの監督に就任するほどの衝撃だった。奴はそんじょそこらのワルじゃない。禁止薬物でW杯から追い出され、ペレをホモ呼ばわりし、合衆国大統領やローマ法王をジョークにしたワルなのだ。
にもかかわらず、アルゼンチン国民は聖ディエゴをかばおうとした。代表監督就任に反対したのだ。「悪いこたあ言わない、ビーチサッカーにしとけ」「マラドーナの履歴書には、ただマラドーナと書けばいいんだ」云々。
前任者のバシーレがマラドーナに丸投げした南アフリカW杯南米予選は、既に第三コーナーあたりだった。新生(神聖)アルゼンチンは、ブラジルにホームで負け、チリ、パラグアイに負け、アウェイでボリビアに屠られた。六失点では、ラパスの酸素濃度も苦しい言い訳だ。日一日と、南アフリカが遠のき始めた。
ピンクハウス(これはジョークじゃない)在住のアルゼンチン大統領は、「マラドーナの解任か私の解任か、どっちかだ」と意味不明な見得を切った。国民は口を揃えて「じゃ両方で」と言った。メディアもここぞとばかりに団結し、両方の解任を煽った。南米予選敗退がちらつき始めたアルゼンチン国民によるディエゴ解任コールは、本大会目前の日本国民による岡田解任コールの比じゃない。
「メッシに頼り過ぎ」~クラクラリン
「態度が悪過ぎ」~バチカン・デロ・スポルト
「このままでは監督、選手、国民揃って仲良くW杯のテレビ観戦」~ハイチ毎日
「結局のところ、マラドーナは我々より狂っている」~東狂スポーツ
ディエゴの息子たちも、ハイ毎や東スポに同情されるのだけはごめんだった。
勝たなければ他の大陸のおまけチームとプレイオフ、という運命のウルグアイ戦。土砂降りの中、アルゼンチンは後半終了間際に勝ち越しゴールを決め、2対1で勝利した。南米四位、ケツから一位で、南アフリカ行きのチケットを手にした。
試合後、一人の男が雨でドロドロのピッチにヘッドスライディングし、水しぶきで勝利のVサインを描いた。世界中の動物園が「天然パーマのオットセイ?」と驚愕したその男は、なにを隠そう、アルゼンチン代表監督、ディエゴ・マラドーナだった。「SHOW MUST GO ON」~シェイクスピア
マラドーナは、監督となっても左手でゴールを決めた頃の役者魂を失っていなかった。オットセイ役ならロバート・デニーロといい勝負だろう。聖ディエゴのセリフの切れ味は、その左足や左手に匹敵する。
「パサレラ(94年アメリカW杯のアルゼンチン代表監督)が俺に髪を切れって言ってるらしいけど、下の毛でも剃って証拠として提出しようかな」
「ペレは博物館に帰るべきだ。相部屋のティラノサウルスが寂しがってたぞ」
「俺はエフェドリンのせいでアメリカから追い出された。ちょっと待てよ、カリフォルニアにはステロイドで州知事になったターミネーターがいるんじゃない?」
「ブッシュはそのうち、イラク代表の投げたスパイクのポイントで死ぬね」
『ジュリアス・シーザー』のような台本は、『ディエゴ・マラドーナ』には必要ない。ディエゴにとっては日常が舞台であり、人生が演技である。ウルグアイ戦後の記者会見場も、そんなディエゴの独壇場だった。
DM「息子たち(アルゼンチン代表選手のこと)には試合前に言っておいた。今日負けたら、パパ(自分のこと)も含めて、全員でイグアスの滝にダイヴだってね。だからパパも死ぬ気で戦った。あんたらに飛び込み自殺のためにダイエットしたなんて書かれたくないからね。死ぬためのダイエットなんて、ダイエットで死ぬよりまぬけだ」
記者「それにしても、派手な水しぶきでしたね」
DM「イグアスに比べりゃ屁でもないさ」
普通の記者会見ならここで終わる。
ただし、主役は聖ディエゴ。アドリブもお手のもの。
DM「今まで俺をこきおろしてた奴は、てめえのポコ○ンでもなめてろ!」
アルゼンチンの記者はもうそんな言い草に慣れっこだった。
キョトンとしていた僕に、隣の英国人記者が英語で耳打ちした。
「違う違う。ディエゴは今、犬に言ったんだよ」
無論、犬はそうした。
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