第16シュー インビクタス~敗れざる者たち

「早野様が蹴れば、墓前のゴムボールもジャブラニに早変わりです。行きの機内での早野様の教えの数々は、機体だけでなく、私の心のブラックボックスにも刻まれています。インサイドキックはシンプルですが、一番奥が深いキックです。かかと側で叩くと強いボール、つま先側でこするとバナナボールと、まったく表情の違うボールを蹴り分けられます。インステップキックのポイントは、足の指と指の間を意識することです。親指と人差し指の間で蹴ると強いボール、中指と薬指の間で蹴るとシュート回転になります。そして、小指の外側、キックの極北、つまりアウトサイドキックがゲームに違いをもたらします。天才とはアウトサイダーである、と、墓前のサイダーも口にしない早野様も隣でおっしゃっています。中でも早野様が絶賛されているのが、元ジュビロ磐田の藤田様です。根っからのサッカー好き、根っからのアウトサイダーが、藤田様とのことです。私もジュビロ時代のプレイを早野様の走馬灯で見せてもらいましたが、特に、左サイドから右足アウトサイドで蹴る藤田様の不意打ちクロスは、絶品です。日本で藤田様のような真のアウトサイダーが育たないのは、指導者像に夢中なだけの指導者のせいだと、早野様はこちらでも憂慮なさっています。H1(HEAVEN?)でもいまだにアウトサイドキックを禁止しているサッカー部顧問は、H2(HELL?)に堕ちろ。地上の子供たちには、勇気を持って第一歩を踏み外してほしい。と、早野様はおっしゃっています」C・A(キャビン・アテンダント)~守護霊インタビューより


 ファーストクラスの上には、ゼロクラスがある。大急ぎで南アフリカに向かうジャンボジェットの中で、信司以外の乗客はゼロ。大日本政府が緊急手配した大日本航空のチャーター便は、南アフリカまでの直行便。僕のような金欠ライターには、トルコの真夜中の空港で発着時刻を知らせる電光掲示板と数時間のにらめっこという乗り換えがあるが、信司にそんなハーフタイムはいらない。バルサでも後半から出るか、出ないかだったのだから。


 CAさんの守護霊を呼んでくれた霊媒師によると、誰もいないゼロクラスで、行きの信司はエコノミーシートに座ったらしい。椅子も当然エコノミーだが、サービスはゼロクラス。ドンペリ、山崎、青島、ペプシもコカも、飲んだり吸ったりし放題。おまけに、チャン・ツィイーに似たキャビン・アテンダントは、ヨハネスブルクまでマンツーマン。

「もっと激しいサービスもあるのか?」なるセリフは、セックス中毒病棟でリハビリ中のTWのインタビュー(ゴルフプラウダ)で飛び出したもの。

 CAさんの守護霊によると、信司は……


信司「すみません」

CA「はい」

信司「ボールって置いてますか? 寿司屋でいきなり、水曜どうでしょうの大泉さんみたいに拉致されたから、なんにも持ってきてなくて」

CA「スコッチとバーボン、どちらになさいますか?」

信司「いや、ハイにならないほうの、サッカーボールのほうで」

CA「失礼いたしました。ボール……お子様用の、ゴムのボールでよろしければ」

信司「ジャブラニはありませんか? ワールドカップの、公式球の」

CA「申し訳ございません。機内では安全のため、そちらのブランドは扱っておりません」

信司「じゃあゴムので。まゴムなら安全か。じゃ一緒にゴムのでやりませんか?」

CA「か、かしこまりました。ご、ご一緒にワインはいかがでしょうか?」


 信司はゴムボールと水(アフリカでは飲める水はワインより高級品)を注文した。ご一緒に「ウォームアップ」も。CAさんと二人で、「ゴムのでやった」らしい。ゴルフプラウダによると、セックス中毒病棟のTWにはこの話は禁句らしい。

  

 ヨハネスブルク空港の入国カウンターは混雑していた。

 2010年6月11日。現地時間の午後3時。南アフリカW杯の開幕戦、ホームの南アフリカ対メキシコ(サッカーシティ・スタジアム)が一時間後に迫る興奮のヨハネスブルクに、信司は降り立った。こぐまFC、つまり小学生以来のアフリカだった。今度は砂漠の独裁国家リビアではなく、高層ビルの民主国家南アだった。民主国家は民主的だった。バロンドールも入国審査の列に並ばされた。


 同じ頃、僕は煮えたぎるサッカーシティ・スタジアムの記者席にギリギリで駆け込んだ。歌ったり踊ったりの開会式は既に終わり、全員起立で国歌斉唱が始まっていた。

 僕の頭のすぐ上で南アフリカ大統領ジェイコブ・ズマが国家を歌っていたのを知ったのは、ホテルに帰ってテレビをつけた時だった。ズマは黒人だった。それもテレビで知った。

 ズマの隣には、世界蹴球教会(Fから始まる四文字)のお歴々がいた。「決勝は八万人規模のスタジアムじゃなきゃやだ」と四年周期でごねだす白髪の駄々っ子たちは、八万四千人収容の大聖堂にご満悦の様子。それもテレビで知った。日韓のようにお隣りさんのボツワナやスワジランドと南アフリカのW杯共催が実現しなかった理由は、スタジアム建設資金というよりは、お布施の有無。ない袖は振れない。


 95年のラグビーW杯南アフリカ大会の決勝は、同じヨハネスブルクのソウェト(黒人スラム)に近い六万人収容のエリスパーク・スタジアムで行われた。南アフリカは決勝でニュージーランドのオールブラックスを下して初優勝。「マンデラ」「スプリングボクス」「アパルトヘイト」なるキーワードが世界中を駆け巡った。

 サッカー界ではオールホワイツと呼ばれる白くて可愛い子羊ちゃんのニュージーランドも、ラグビー界ではあの泣く子も黙るオールブラックスである。世界で唯一、試合前に踊れるフィフティーン。

 が、95年ラグビーW杯南ア大会でその踊り疲れたオールブラックスを破って優勝したのは、地元南ア代表、スプリングボクスだった。サッカーに例えるなら、ブラジルを破って地元でW杯初優勝を遂げた98年のフランス代表、レ・ブルーか。

 黒人の星、ネルソン・マンデラの大統領就任から一年後、今度は白人だらけのスプリングボクスが、南アフリカを一つにした。


「そんな映画みたいな話って……」の「みたいな」を削った男がいる。ミスター・ハリウッド、クリント・イーストウッド。南アフリカとは縁もゆかりもないダーティなハリーは、70代で子供を作った色男は、インビクタスを映画化した。この本もイーストウッドが映画化してくれないかと、僕は密かに期待している(信司役はケン・ワタナベ?)。


『インビクタス(敗れざる者たち)』のマンデラ役は、名優モーガン・フリーマン。アパルトヘイト後の黒人による白人いじめを厳しく戒め、ヘリコプターで突然スプリングボクスの練習場に激励に訪れる、映画みたいな大統領を演じている。

 蹴球秘宝によれば、映画を見たとあるイラク人は、「こんな大統領がオバマと交代すれば、アメリカもちったあまともになるかもな」と真顔で話したという。真顔チームには、アフガニスタン、ベトナム、キューバなどのベテランもいる(日本はそしらぬ顔チーム)。ただ、本物の俳優が大統領だった頃のアメリカを思い出した真顔チームは、苦笑いチームに変わったとか。


 日本がWBC(ボクシングではなくワールド・ベースボール・クラシック)で初の世界一になるまでを描いた二番煎じムービーを企画している日本の映画関係者には、僕からアドバイスを一つ。大統領のくだりは真似しないほうがいい。日本国民の九割九分九厘が、その頃に誰が総理大臣だったのかを思い出せないからだ。


 サッカーであれラグビーであれ、W杯開催は楽観主義を助長する。十五年前のラグビーの歓喜の再来を期待するだけならまだいいが、矢羽飛び交うスラムで朽ちかけたトタン屋根を毎日直している大多数の黒人が、サッカーのW杯が自分たちにも新スタジアムと同じくらいまともな屋根のある家を運んでくると信じた。

 結果は?

 治安維持の名目で黒人はなけなしのスラムからもただ追っ払われた。

 サッカーのほうは? 

 グループリーグ敗退。


「マンデラが大統領になるハードルに比べれば、バファナバファナ(サッカー南ア代表)がスプリングボクス(ラグビー南ア代表)に並ぶためのハードルなんてどうってことない。北京五輪で劉翔がずっこけたほどの高さもない。優勝すればいい」~道産子スポーツ


 バファナバファナ(少年)は、スプリングボクス(羚羊)とは逆に、全員黒人だった。それもアフリカ系のみ。20世紀最悪のオセロ盤からいかさまがなくなったのが本当なら、バファナバファナには白人どころか、インド系やアラブ系の選手がいてもいいはずだが?

 イーストウッドの映画が嘘じゃなければ、白人だらけのスプリングボクスにもチェスターという名の黒人スプリンターがいた。おせっかいを承知でバファナバファナ監督、白色ブラジル人パレイラに言わせてもらえば、監督はノーカウント。


 話を空港に戻そう。信司も僕と同じように、観光客やなにかの運び屋と一緒に長い入国審査の列に並ばされたらしい。寿司屋から拉致されたジーンズにパーカーの信司は、誰にもバロンドールだと、噂のカミカゼシンジだと気付かれなかった。


 信司のパスポートにスタンプを押した黒人の入管職員は、長身で、ややドログバ似。闘莉王に右腕をポキッとやられたドログバが、リハビリの一環でパスポートにスタンプを押している姿を思い浮かべてほしい。そんなドログバ似は、のちに僕だけでなく道産子テレビの取材にも答え、バロンドールを「でかいガキ」だと思っていたことを白状した。道産子テレビは再現ドラマまで作ってしまった。


D似「(信司のパスポートをパラパラしながら、英語で)どちらに滞在を?」

信司「ジョージ(日本代表のキャンプ地)……ブルームフォンテーン(初戦の会場)……ブラー、ブラー(自分が出ればもっと沢山)」

D似「(英)ワールドカップ? 中国も出てたっけ?」

信司「ノーノー。ジャパンジャパン。ってパスポート見ろや」

D似「(英)まあ、チケットのことならチケットセンターで聞くんだな。そこを出て……」

信司「ノーノー。ノーサンキュー。えーと……アイ、アム、プレイヤー」

D似「(英)卓球の?」

信司「ワールドカップ、フットボールプレイヤー、ジャパン、えー、ナショナルチーム」

 ここでドログバ似は隣のブースの同僚に信司の知らない言葉で何かを言う。

 隣りのエトー似の同僚は、信司のリュックサックを見てククククと笑い出す。

D似「(英)ワールドカップに出たいんだな?」

 ククククがブブブブに。

信司「イエス。アイ、アム、プレイヤー」

D似「(英)用意がいいんだな」

 ブブブブがハハハハに。

信司「イエス。アイ、アム、プレイヤー」

 ギャハハハハハハハ……


 信司はパスポートを受け取り、ドログバ似を抜き去った。チョロイもんだ。


 伝言ゲームはあっという間だった。偽造パスポート片手に順番を待つなにかの運び屋そっちのけで、全ブースの全職員が歩み去る信司の背中を指差し、防弾ガラスを叩いて笑い転げた。信司の普段使いのリュックサックの右サイドでは、ピクサーアニメのような、シャビのようなクリクリおめめの飛行機がプリントされたゴムボールが揺れていた。網にかかってプラプラ揺れていた。

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