第15シュー 俺? 俺?

「シンジが決定論者かどうかはもう関係ない。彼の左足は誰がどう見ても決定論の世界だ。(世界蹴球)教会のお偉いさんがはっきりそう言わないのは、八百長試合を仕組む香港マフィアからのお布施のせいかもしれないな。なんにせよ、シンジは現在の宇宙論がひっくり返るほどのビッグクランチだ。私はただのフチボウ好きだが、シンジは違う。ニュートンがただの林檎好きかい? ちなみに、私が哲学よりフチボウを選んだ理由はね、前任者があまりにも偉大で、あまりにも無知だったからさ。わかるかな? わかんねえだろうなあ」S(ブラジルのフチボウ哲学者)


 憂鬱なる五月。舞台は南アフリカW杯の直前合宿地スイス。

 カレンダーの前でため息を連発する、五月病の日本代表監督。6月14日の初戦までおよそ二週間。大卒の岡ちゃんはきっと、スイスの宿舎でネイチャーを広げ、取り下げられる前のタイムマシンの論文を探したに違いない。

 時差は飛行機から降りた日本代表に八時間のロスタイムをもたらした。が、機内トランプタイムがかなりのタイムロスだと気付いた岡ちゃんは、よかれと思ってトランプを持参した楢崎を責めた。

 「スタメン落ちの原因はババ抜き!」~女性イレブン、嘘つかない。


 岡田ジャパンは、セルビア(の二軍)、韓国、イングランド、コートジボワールと、スパーリング四連敗のまま南アフリカ入りした。いつ監督がサムライブルー記者団を呼び、「外れるのは俺、監督の俺」と言ってもおかしくない雰囲気だった。

 前任のオシムも駆け付けたグラーツでのイングランド戦とその次のコートジボワール戦は、オウンゴールの祭典と化した。四試合の合計は得点1、失点9。本番なら間違いなく四試合目は来ない。


 スイスで離陸した縁起物のボーイング777は、無事南アフリカに着陸。「日本代表御一行様」なる毛筆の看板も準備万端のベースキャンプは、郊外のゴルフ場。理由はズバリ治安。郊外の動物よりも都市部の人間のほうが危険というわけだ。たしかに、僕の知り合いのオランダ人記者は、ヨハネスブルクで武装した強盗団に襲われ、パンツ以外すべてを失った。その強盗団は救急車に乗っていたらしい。

 無理もない。マンデラ大統領誕生のどさくさで外国のグローバル企業に国営企業を根こそぎにされた南アフリカでは、都市部の黒人の失業率と犯罪率がアパルトヘイト時代より上昇していた。自由を勝ち取ったはずの黒人は、まんまと自由貿易の罠に嵌ったのだ。


 オウンゴール続きで骨の髄まで守備的になっていた岡ちゃんは、野生のライオンに対するゴルフ場ホテルの守備戦術について、支配人にしつこく尋ねたらしい。

 緑色のベストを着た黒人の支配人は、笑ってこう答えたらしい。「いい練習じゃないですか」


 急遽決まった最後の練習試合の相手は、アフリカ予選敗退組のジンバブエ。仮想カメルーン。ジンバブエ代表はその頃、W杯出場チームの仮想スパーリングパートナーとして南アフリカ中のキャンプ地を飛び回っていた。

「正直、W杯に出るより稼げた」とジンバブエのスポーツ大臣は語る。

「ギャラなんてもらってねえぞ」とジンバブエ代表選手は語る。


 2010年6月10日。初戦のカメルーン戦まであと四日。前日の夜にブラジルとのスパーリングを終えたばかりのジンバブエは、その足で(僕らの税金でチャーターした)軍用ヘリに乗り、日本代表が待つジョージのゴルフ場の練習グラウンドに舞い降りた。たぶん、18番ホールに。

 女性イレブンによると、選手が降りたあとのヘリ内には、トランプのジョーカーが派手に破り捨てられていたという。サッカーもそうだが、ババ抜きのルールも世界共通らしい。もう三文解説者の言う「アフリカの身体能力」は聞き飽きたが、仮眠もせずにセレソン、ババ抜き、日本代表という高校球児もびっくりのスケジュールをこなすジンバブエ代表の身体能力には、僕もびっくり。


 非公開のジンバブエ戦は、日本がカメルーンに「引いてドカン」で挑むための最終チェックだった。たなぼた式1対0でも勝てば官軍のW杯では、「引いてドカン」は常套手段だった。イタリアならまだしも、禁じ手とされていたブラジルですら「引いてドカン」で官軍となった実績がある。

 岡ちゃんも実績は十分だった。「引いてドカン」の横浜Fマリノスは、お茶の間を催眠術にかけながらJリーグを連覇した。チャンピオンシップのスタジアムで爆睡したのは、僕だけではないはずだ。


 運命のジンバブエ戦の前に、ちょっとだけタイムマシンに乗らせてほしい。

 時はジンバブエ戦前日。場所は18番ホール。出演は監督とコーチ。


監督「(目を細めて)なあ、アフリカにはあんなカズみたいな動物もいるのか?」

コーチ「カズです。本人です。それ3Dメガネですか?」

監督「なんでカズがここに? なんかのドッキリ?」

コーチ「ドッキリはこっちのセリフです。こっちに相談もしないで、記者会見でいきなりカズって言ったのは監督じゃないですか」

監督「ああ、あんときゃつい言っちゃったんだ。ぶっさんだってオシムって……」

コーチ「あ、もしかして得意のあれですか、現地まで連れてきて帰しちゃうやつ」

監督「そうゆう言い方ないだろ」

※女性イレブンの取材班が、報道規制中の練習グラウンドでどうやってこの会話を録音したのかは、ウォーターゲート級の謎。


 翌日、監督は自らの手でホワイトボードにジンバブエ戦のスタメンを書き込む。


                   本田

        カズ三浦カズ 長谷部 阿部 遠藤 松井

              長友 中澤 闘莉王 駒野

                   川島


監督「ベンチから外れるのはカズ、三浦カズ」

カズ「俺? 俺?」


 11番、四捨五入しても40歳、オーバーアンドオーバーエイジ枠、キング・カズ。ジンバブエ戦開始直前、数万年ぶりにサムライブルーの11番に袖を通し、ピッチの真ん中で円陣の輪に加わるカズ。またもベンチを向いて、「俺? 俺?」

十三年前とは意味が逆だった。


 非公開なのに、なぜ僕がそこまで知ってるのかって? 写真写真。とあるイエローモンキーなスチールカメラマンが、バナナの木によじ登り、望遠レンズでジンバブエ戦を撮りまくってくれたおかげだ。

 そのカメラマンには、十三年前にジョホールバルで撮ったカズの同じポーズの写真でひと儲けした過去があった。そのカメラマンはカズの大ファンだった。後日、喜望峰で僕に写真のデータをただでくれた彼は、EOS印のストラップをハンマー投げの要領でぶん回し、商売道具を大洋に沈めた。「これでパパラッチ引退だ」


 試合前だろうか、ジンバブエ代表がピッチで肩を組んで輪になり、全員で目を瞑っている写真もあった。ババ抜きによる睡眠ロスを少しでも取り返すつもりだったのだろう。往生際の悪い選手の一人は、「国家斉唱は?」と主審に聞いていた。口元でわかる。ジンバブエは試合中も寝ていた。瞼でわかる。一人がボールを大きく蹴とばし、十一人で黙想。その繰り返しだった。日本が試したい「引いてドカン」の濃縮型をジンバブエがやっていた。カメルーン戦の日本が238なら、この日のジンバブエは235だった。

 日本ベンチの焦りも写真に滲み出ていた。カズのせいでスタメンを外され、腹いせにラインズマンにドロップキックしようとした大久保を、大木コーチがドロップキックで止めているバトルロワイヤルな一葉もあった(のちに蹴刊プロレスの表紙を飾った)。


 その頃、あいつはまだ地球の裏側にいた。北緯43度の、本場の寿司屋に。


信司「カズ君、大トロ入りたてだって。大トロいっちゃう?」

森崎「一貫千五百円だって。俺今財布に千円しかないんだよ、早野信用金庫さん」

信司「しゃあねえな。今日は早野信用金庫のおごりだ。なんてったって大間産だからね。こりゃマグロ御殿どころかマグロ原発も建っちゃうよねえ」

森崎「大将! 大トロ二貫プリーズ!」

信司「一個はシャリ抜きで!」

大将「あいよ。……にいさん、どっかで見たことあんだよねえ」

森崎「あ、やっぱりばれました?」

大将「あんたじゃないよ、お連れさん」


「つらいことは大トロで忘れるに限ります」と森崎。

「おごりで?」と僕。ICレコーダー、嘘つかない。


 ラプラスの後継者、ゴリゴリの決定論者にとって、信司こそがイエス・キリストであり、大トロだ。高さ、強さ、速さ、味方、出自も赤身もクソくらえ。ボールとゴールと信司があれば、「ほかのマグロはいらない」~クロマグリスタ


 20世紀。ボールとゴールさえあればできるサッカーは、貧しき者に広まった。貧しくとも性欲満点のブラジル人が、セックスよりも夢中になれる娯楽となった。

 21世紀。富める者が貧しき者を倍々に増やしていく資本主義の世紀に、サッカーがボールとゴールと信司の娯楽になってしまったら……それでも、アスファルトで、砂利道で、塀の中で、テニスボールで、オレンジで、空き缶で、靴下を何足も丸めたボールで、北朝鮮で、香港で、マカオで、チベットで、イラクで、リビアで、アフガニスタンで、南極で、今は亡きザイールで、ビアフラで、ジンバブエの寝不足ディフェンダーがボールと間違えてカズに前蹴り一閃。「ドログバの仇!」

 ベッカム。バラック。そしてまたひとつ、星が流れて消えた。


 カズの代わりに南アフリカに呼ぶ予備登録の選手は、三人。ジュビロ磐田の真栄田、FC東京の小石川、コンサドーレ札幌の早野バロンドール信司。


 週刊ゴールポストのライバル誌、蹴球現代ヒュンダイの編集長は、ゴリゴリの信司否定派だった。編集長は久々に腕まくりし、キーボードで二本の人差し指を躍らせた。


「広島と長崎を吹き飛ばす前のオッペンハイマーのように、岡ちゃんは早野信司という大量破壊兵器の危険性を知っているはずだ。サッカーが狩猟本能のソープランド、戦争の代替物(エルサルバドル対ホンジュラスは除く)として重宝された理由は、人間だけは核兵器のようにはならないという前提があったからだ。私たちは間違っていた。軍事用レーダーで早野信司のシュートの脅威を思い知った米軍は、慌てて世界中の米軍基地内にあるサッカーゴールを撤去させた(バスケのゴールも道連れに)。早野信司は、キーパーとして出場しても得点王になれる、世界でただ一人の選手だ。ゾーン、マンマーク、スイーパー、3バックも4バックもお構いなし。どんな守備戦術も、もはやトマホーク・ミサイルをお堀で凌ぐほどの知恵でしかない。カテナチオは勝てなチオとして、天動説の仲間入りを果たすだろう。行き着く先は、『北斗の拳』や『マッドマックス』のようなワールドカップ日本大会である。トゲトゲファッションで国立競技場の日本戦に集まった敵国のフーリガンが、ピッチでただ一人のご老体に、トマトならぬ火炎瓶の雨を降らせるのだ。白髪のサムライブルー、スフィンクスも認める三本足の闘魂、死ぬまでゴールと勝利に燃える、老いてなお盛んなカミカゼシンジに。彼を放っておけば、やがて死の灰は世界中に降り注ぎ、肉体の不確定性原理に依拠するあらゆるスポーツを破滅させるだろう。あなたはホームラン続きでスリーアウトにならない野球を見たいか? サービスエース続きのテニスは? ホールインワン続きで勝敗がつかず、ボールをティーグラウンドからカップまで運ぶような嵐(0打!)を祈り続ける呪術師だらけのゴルフは、ちょっと見てみたい。ちなみに、プロレス並みのアングルを隠し通せなかった角界よ、おまえはもう、死んでいる」


 ジンバブエ戦の翌日、2010年6月11日は、民主主義国家日本の(蹴球現代以外の)メディアというメディアが戦後初の集団プロパガンダを行った記念日となった。


「俺を最初から選ばなかった岡ちゃんのメガネは絶対伊達!~ジュビロ真栄田、暴言で代表入り絶望か?」~毎月新聞

「カズさんの代わり? 俺は何ダンスも踊れない!~FC東京小石川、事実上の代表拒否発言!」~駅売新聞

「今こそ信司ろ! その力!」~週刊ゴールポスト 

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