第12シュー 哀愁のバルセロナ

「エトー? こいつは王将気取りの飛車ってとこだべ。わしはあのロッベンだかなんべんだかっちゅう坊主のほうが好きだわ。あいつは飛車が飛車だってことをよくわかってる」G(札幌のじいちゃん)


 舞台はバルセロナ市内のとある寿司屋。カウンターに並んで座る、二人の男。

その横で二つのスーツケースがお行儀よく並んで「待て」のポーズ。


信司「カズくん、このシャリ、なんで黄色いの?」

森崎「サフランライスだよ。パエリアとか……信司、まさか食べたことないの? バルセロナに住んでたのに?」

信司「ないよ。サフランライスは糖質の塊だもん。一皿食べたら1.5リットルのコーラ一気飲みするのとおんなじなんだよ」

森崎「そのあとで山手線の駅を言ってくやつ? 浜松町からだっけ?」

信司「浜でオエーだね。っていうかさカズくん、バルセロナでの最後の晩餐がなにゆえ寿司? 俺ら日本人なのに? もうすぐ帰って本場の食べれるのに?」

森崎「この店、俺も初めてなの。ヨーロッパで一番トリッキーな寿司屋って聞いてさ」

信司「そういえば、こぐまFCの韓国遠征の時も羽田で焼き肉食べ……この緑の醤油は?」

森崎「オリーブオイルだよ。そうそう、あのフィーゴもバルサにいた時、このへんで日本食レストランを経営してたんだって。レアルに移籍した日に火炎瓶で燃やされたんだって」

大将「(カタルーニャ語)あんた、今フィーゴって言ったか?」

信司「えっ?」

大将「(カタルーニャ語)さっさと荷物まとめて出て……まとまってんじゃねえか!」

森崎「グラシアス、アミーゴ」

大将「(カタルーニャ語)こちらこそ……ん?」

信司「大将なに怒ってんの?」

森崎「違う違う、謝ってんの。醤油切らしてごめん、だって」

信司「これ、マジにオリーブオイルで食えっての?」

森崎「だってサフランライスだぞ」


 2009年夏。信司に「サヨナーラ」を告げたバルセロナは、「売ります! FW! 本年度バロンドール九割九分九厘確定! 日本語可! 23歳! 左利き! 利き過ぎにはご用心!」と書かれた紙をヨーロッパ中の電柱にぺたぺた貼った。小国の年間GDPに匹敵する強気の売値にもかかわらず、信司はすぐに入れ食い状態。ヨーロッパ中のビッグクラブが黄金の左足印の撒き餌に群がった。

 バルサのクラブ事務所の電話回線はパンクした。とあるビッグクラブの代理人は、カンプノウ・スタジアムの掃除のおじさんの携帯電話を聞き出し、そこにかけたとか。「シンジ? 今そいつのロッカーを掃除中」


 ここ最近、ヨーロッパのビッグクラブは、数十億円で買ったストライカーをベンチの肥やしにしておきながら「ストライカーがいない」と嘆くオチの漫才に夢中。つまり、信司ほどのオチはなかった。オークションは大盛況。信司の移籍金はピカソが画廊に出し忘れていた絵のごとく高騰に高騰を重ねた。フォーブスかどっかによれば、「ギニアビサウ共和国の年間GDPに、キリバスかパラオを足した額」らしい。要するに、五百億円から六百億円。「から」だけで百億円。「から」だけでクリスティアーノ・ロナウドが買える。


 そもそも、バルサ以外のビッグクラブは、バルサが信司をクビにすること自体を不思議がった。プレミアリーグの強豪チェルシーを買ったロシアの石油王、油モビッチは、女性イレブンの(本物っぽい)インタビューに、世界中の成金を代表して答えた。

「毎年チャンピオンズリーグで優勝して数千万ユーロをクラブにもたらし、年末にバロンドールの授賞式でパリコレモデルのケツを触り放題のゴールマシンを売りたいだって? バルサはよっぽどゴールが嫌いらしいね。シンジを買うためなら、今チェルシーでただ飯を食ってるストライカーを全員売っぱらってもいい。いやいや、トーレスとは言ってない」


 どっこい、手を挙げて値段の釣り上げに加担したにもかかわらず、ロナウド五、六人プライスを前にして、さすがの金持ちクラブもびびりだした。「パスタが口に合わなかったら?」「いつかのオランダ人みたいに飛行機恐怖症だったら?」「シンジはロシア生まれらしいから、もうロシアのクラブと話がついてるんじゃないか?」云々。

 念のため書いておくが、信司は樺太生まれの世代ではない。国後、歯舞はぼまい、色丹、択捉の出身でもない。


 芸術の町バルセロナに、ゴールの自動販売機は不要。信司は最初からイタリアに行くべきだった。個人的には、インテルがおすすめだった。ウノセロ(1対0)のイタリアなら、もしくはどこか寒い地方の、ロングボールをドカドカ蹴り合うクラブなら……


 時計台の鐘が鳴った。


 ぐずぐずしていたヨーロッパを仰天させたのは、北緯43度のへっぽこクラブだった。2009年7月7日。FCバルセロナは、J2のコンサドーレ札幌に早野信司を移籍させると発表した。ワーオ! 七夕の奇跡! 北海道の七夕は8月7日だけど!

 バルサのクラブハウスで行われた移籍決定記者会見の模様が、こちら。


記者「サッポロは雪の町だそうですね。しかもそのなんたらドーレはロシアの二部リーグだそうで……本気ですか? おつむは大丈夫ですか?」

信司「大丈夫です。札幌ドームには屋根がありますし、暖房もまあまあ効きます。どっちかっていうと野球向きの構造なのは認めますが、なんと、移動式の天然芝なんです。天然芝が外と中を移動するんですよ! ロシアじゃないけど、二部リーグのくせに!」

記者「……正直に言って、今、我々バルセロナ市民はほっとしています。あなたにはフィーゴのようにレアル・マドリーに移籍し、クラシコでバルサ相手に23点決め、我々に復讐する選択肢もあったわけですから。やはり故郷が恋しくなったのですか?」

信司「移籍先のスポンサー向けに言えば、白いほうの恋人は恋しいです。あ、雪も。雪が降るラサ・ユナイテッドに移籍して北京国安と戦うという選択肢もありましたが、頭も心も、まだダライ・ラマになる準備ができていません。短い間でしたが、ここ、バルセロナには沢山の思い出があります。モンジュイック、オリンピックスタジアム、」

記者「そこ、ライバルのエスパニョールのスタジアム」

信司「うちがわりと近所だったもので。いやいや、カンプノウが嫌いなわけじゃないですよ。満員のカンプノウで、世界最高のチームメイトとプレイできたことは、僕の一生の思い出です。なんかもう死んじゃうみたいで、あれですけど」

記者「どう言えばいいか……あなたは戦力外じゃない。むしろ逆です。バルサはあなたに何度も救われてきました。ペップも、グアルディオラ監督もきっと同じ意見だと思います。ただ……」

信司「あそっか、エスパニョールに移籍すれば引っ越さなくて済むのか」

全員「さっさと帰れや!」


 女性イレブンは、札幌との移籍交渉を担当したバルサのテクニカル・ディレクター、元浦和レッズのベギリスタインの(架空の?)こんなコメントを載せた。「移籍金はがっぽりが理想だけど、チャンピオンズリーグで当たるヨーロッパのビッグクラブにシンジを渡すのは自殺行為だ。レアルなんてもってのほか。だから、J2のコンサドーレが手を挙げた時は驚いた。J1で一番裕福なレッズでさえお手上げの金額だからね」

 そう、ベギリスタイン先生に当てられるまで元気よく根気よくお手を上げ続けたのは、当時J2、今もJ2の、コンサドーレ札幌だった。


 信司の移籍金(560億円で決着)は、J1の中堅クラブの年間予算でも五十年分はあった。板チョコなら何年分かで数え始めた北大教授も、胸焼けがしてやめたほどだ(約153万年分)。もちろん、コンサドーレの金庫を振ってもそんな音はしない。町工場クラスの予算しかないJ2クラブを救ったのは、札幌市だった。年間予算八千億円の七パーセントを注射し、コンサドーレをゴール中毒にしたのだ。さすが政令指定都市。


 スーパースターの移籍といえども、売り手と買い手の関係は、東南アジアの街角でどうってことのないお土産を売るおじさんと旅行者の関係に近い。

 一、べらぼうな値段をふっかけるおじさん。

 二、「冗談は顔だけにしろよ」と帰ろうとする客。

 三、半減期のように値段を下げてゆくおじさん。


 コンサドーレのスカウトがヨーロッパにいたのは、たまたまだった。寒さに強いノルウェー代表を探しにオスロくんだりまで来たスカウトは、オスロの電柱のビラを見て仰天した。故郷の誇り、名誉北区民、名誉札幌市民、道民栄誉賞、乳牛が選ぶ搾られたい男ランキング五年連続第一位の早野信司が……俺たちの信司が売りに出てんぞーい!

 駄目もとでそのビラを携帯のカメラで撮ってクラブに送ったスカウトは、「札幌市! 移籍金! 全額負担!」というクラブからの返信メールにまた仰天。先述の手順二のセリフをすっかり忘れ、べらぼうな値段でベギリスタインおじさんと握手してしまった。コンサドーレはギネスブックに載った。「世界最高額球蹴り人購入クラブ」として。大きな声では言えないが、消費税5パーセントのうち、1パーセントは地方税。つまり、結局は日本国民総出で信司を買ったことになる。


 市民の血税を五百億円もつぎ込むというのに、信司購入案は札幌市議会を無風で通過した。「我々も一汁一菜の精神で精進しましょう」なる札幌市長の口上が決め手だった。市長が横綱になったわけじゃない。市役所や区役所の予算使い切り方式を改め、なんとしてでも移籍金を捻出しよう、というわりとまともな口上だった。

市役所も区役所も変わった。ボールペンは芯だけを買う。掃除は職員の当番制(パートはクビ)。食堂のAランチ値上げ。労働組合費の横流し。市債の追加発行。などなどで、文化芸術促進追加予算として五百億円以上の捻出に成功。


「今までどんだけ無駄使いを?」と僕。

「いや、市立小学校のサッカー少年団とか……って言うかーい!」と桑田先生。


 足りない分はその他の文化と芸術が犠牲になればよかった。暇をもて余したお年寄りの反対もなんのその、市のカルチャースクールの予定はすべて白紙になった。札幌中の地区会館が幽霊屋敷になった。市が主催の囲碁大会、将棋大会、書道コンクール、絵画コンクール、ありとあらゆるスポーツ大会が、ブラックホールのように一人のゴールマシンに収斂されていった。


「その他」の趣味を根こそぎにされかけたお年寄りは、発想を変えて生きがいを守ろうとした。札幌市民ゲートボール大会の中止が決まった直後、札幌在住のとあるじいちゃんは、道産子テレビのインタビューにこう答えた。

「サッカーならいいっつんだべ? んじゃゲートボールを足でやるべよ!」

 大会の中止は中止となり、じいちゃんは右足の指を骨折した。

 あとはご想像の通り、


 ・リフティング囲碁大会~試合の勝敗が九割九分九厘囲碁以外の能力で決まる。

 ・抜き将棋~ドリブルで抜いた駒(選手)を奪って王将(ゴール)を目指す。

 ・ボールで絵画教室~「ボールタッチ」がすべてを決める。

 ・ボールで書道大会~「キックミス?」「崩し字?」 


 などなど、生き残りのために涙を呑んでサッカーブレンドに走ったじいちゃんばあちゃんは、ミイラとりがミイラ的にサッカー人気を押し上げた。そりゃ本家も見たくなる。


 札幌在住のオランダ人は、道産子テレビのインタビューにこう答えた。

「ナチス支配下のオランダ警察もかくあらん」


 孫と共通の話題ができたじいちゃんにとっては、悪いことばかりでもなかった。

G「エトー? こいつは王将気取りの飛車ってとこだべ。わしはあのロッベンだかなんべんだかっちゅう坊主のほうが好きだわ。あいつは飛車が飛車だってのをよくわかってる」

孫「だからじいちゃん、エトーは本物だって。ほら斜めにドリブルしてるじゃん」

G「んなら角だべ」 

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