第11シュー 俺俺ジャパン

「シンジ・ハヤノの伝記映画を撮りたいんだけど、脚本用の底本が必要なんだ。優れた活字の伝記がね。君がそれを書いてくれるなら、私も喜んでこのインタビューシーンに出演させてもらうよ。主演はトムで決まりだ。……(クルーズ?)……いや、ベレンジャー」S・S(FCハリウッドの名監督)


 Fから始まる四文字の世界蹴球教会は、2010年、W杯をアフリカ大陸に「初上陸」させた。色違いの人間が住む「新大陸」に「初上陸」したコロンブス魂は不滅である。

 アフリカはとっくにフットボール大陸で、誰に教わるまでもない。カメルーンの首都ヤウンデでは、誰もがボールを蹴っていた。路上の少年はもちろん、大統領ですら、執務室の床に反政府ゲリラが開けた穴にゴルフボールではなくサッカーボールをパッティングしていた。そこに秘密はない。我蹴る、ゆえに我あり。カメルーンの子は沢山ボールを蹴るゆえに沢山うまくなる。呪術でアルゼンチンに勝ったわけじゃない(※90年イタリア大会の初戦)。


 アフリカ諸国の独立から半世紀、奴隷船はジャンボジェットになった。裸足でボールを蹴っていた子供たちは今、W杯予選やアフリカ選手権のためにビジネスクラスで地中海を往復している。エトーやドログバ以上に稼いでいる白人は、スピルバーグくらいだろう。

 アーセナルのアーセン・ベンゲル監督は、慧眼だった。十代のアフリカ人選手をロンドンに連れてきて鍛え、ようやく英国式英語と英国式球蹴りを覚えた頃に、スペイン語やイタリア語のビッグクラブに数百倍の値段で売った。原価率はラーメン以下。クラブに勝手に売られたのかもしれないが、少なくとも、オーナー的には最高のビジネスモデルだった。ほとんどの選手は慣れないスペイン語やイタリア語に苦しみ、移籍先で潰れたが、チャンピオンズリーグで当たる可能性のあるチーム的にも、結果オーライ。

 今はもうベンゲル・スタンダードがヨーロッパ・スタンダードとなったので、ベンゲル自身は新たな鉱脈を探しているに違いない。それは日本かもしれないし、モンゴルかもしれない。文明社会へようこそ!


 野球ファンが羨ましい。サッカーは国が増えるたびに代表チームが増え、覚えるこっちも一苦労だ。ソ連に続けとばかりのユーゴスラビアの細胞分裂は、僕ら記者を混乱させた。セルビアモンテネグロがセルビアとモンテネグロになったことを知ったのは、ベオグラードの空港に着いてからだった。名前だってコロコロ変わる。その分裂前のユーゴスラビアに(74年西ドイツW杯で)0対9で負けたことのあるザイールは、四十年後の今はコンゴ民主共和国。チベットや東トルキスタンなど、国の数を減らしてくれる中国には、謝謝の言葉しかない。


 オシム監督率いる日本代表は、アジアカップの予選でイエメンと戦った。「イエメンってどこ? どんな国?」と聞かれれば、僕は自信をもって「ああ、イエメンね」と答え、あとは寝たふり。地球儀をくるくる回して適当に指で止めても、海以外のそこでは、たぶん子供がボールを蹴っている。週刊ゴールポストによると、北極には「オーロラカップ」なる夜の少年サッカー大会があるが、開催日があまりにも不規則なために最小催行チーム数(二)に満たず、幻の大会となっているとか。


 南アフリカのアパルトヘイト時代、マンデラら反政府活動家の黒人が島流しにされていたロベン島刑務所では、なんとなんと、囚人が自らの手と足でサッカーリーグを運営していた。現南アフリカ大統領ジェイコブ・ズマも、刑務所でサッカーリーグの運営を学び、シャバでW杯を運営したくちだ。

 日本も、待機死刑囚でチームを組んで天皇杯に参戦させてみては?


 2010年春、四度目のW杯に臨む日本代表は、渡航直前に指揮官岡ちゃんの不支持率が八割を超え、大日本航空がチャーター便を格納庫に引っ込めたため、南アフリカ行きの往復航空券を買わねばならない立場となった。復路便の日にちについて、岡ちゃんは「目標はベスト4」って言っちゃった。早稲田の先輩、ぶっさんこと川渕キャプテンも「オシム」って言っちゃった過去がある。一流大学出身の蹴球紳士は、なにかと言っちゃう。

 僕も紳士に習って、日本代表監督になったつもりで「ベスト4への道」を先に書いちゃった。どの雑誌にもシカトされたが、コバヤカワSFマガジンの編集長だけが読んでくれた。

僕「書いちゃった」

編「はいはい。三分後に読むから、そのカップヌードルの上に置いといて」


~俺俺ジャパン、ベスト4への道~        3年B組 林雪

 手始めにカメルーンに勝ち、オランダに負け、デンマークに引き分けた俺俺ジャパン。俺(林監督)が直前の東アジア選手権でも狙って達成した大好きな「一勝一分け一敗」で、勝ち点四。デンマークと並ぶも得失点差でグループ二位。見事ベスト16へ。

 6月29日。トーナメント初戦の相手はFグループ一位のイタリア。イタリアは得意の堅守速攻で1対0を狙うつもりが、俺俺ジャパンの底力を見くびっていた。俺の「引いて駄目ならもっと引け」殺法が炸裂し、お互い自陣にべったり。延長も含め120分をゼロゼロで終える(観客の欠伸も俺の狙い通り)。ほぼ二時間を観客席の美女探しに費やした日伊守護神同盟、楢先&ブッフォンは、PK戦にフルパワーで臨み、お互い四人ずつシュートを止める。「PKまでゼロゼロかよ!」なるスタンドからの温かい声援の中、勝負の五人目。先攻は俺の遠藤。必殺のコロコロボールは、あろうことかゴールのど真ん中に炸裂。が、好事魔多し。フルパワーのブッフォンがゴールポストの外まで横っ飛びしてしまい、ゴールイン。風以外の要因でこの日初めてゴールネットが揺れる。イタリアの五人目、「PKのために代表入りした」とまで揶揄されていたベテラン、デルピエロがPKのためにすらならず、俺俺ジャパンの勝ち。同盟解消。さらば、ムッソリーニの息子たち。 

 7月3日。ベスト8。俺俺ジャパン対無敵艦隊スペインが開戦。前半、スペインにボール回しで圧倒されるも、ゼロゼロに抑える俺俺ジャパン。想定内。後半開始早々、俺のサプライズ交代が炸裂。岡崎、大久保、玉田のちびっ子トリオをまとめて退却させ、「足で勝てねえなら頭を使え!」と発破をかけ、矢野、闘莉王、岩政のトリプルタワーを矢羽飛び交う前線へ投入。残り45分からの空爆開始に、無敵艦隊は動揺。隙を突いてちびの長友がまんまと体幹ヘディングシュートを叩き込み、1対0。残り35分、トリプルタワーがそのままディフェンスラインに下がり、初のセブンバックで一点を死守した俺俺ジャパンの勝ち。「フットボールの面汚し」というクライフの解説をよそに、見事ベスト4達成。

 スペイン戦後の記者会見。フラッシュの洪水を浴びながら、官軍の将たる俺はチーム全員の航空券を扇形に広げ、顔を扇ぎながら記者会見場に現れる。

俺「この早割の扇子を見てください。早割は日本人の心です。日本には、ご予約はお早めに、ということわざもあります。私が南アフリカW杯日本代表メンバーよりも先に復路便の日にちを発表したのは、南アフリカに飛ぶ直前に経営破綻した大日本航空のせいです。チャーター便なんて贅沢を言っていられなくなったからです。まあ、色々ありましたが、(航空券の扇子をひらひらさせる俺)こうして目標のベスト4を達成できたのは、選手、スタッフ、膝のサポーター、家族、愛人、隠し子、日本国民の皆様のおかげです」

記者「……質問は山ほどあるんですが、まず、なぜその帰りの航空券の搭乗日が7月8日なのですか? 準決勝は7月7日です。その翌日に帰国となると、7日に勝った場合の次の決勝、負けた場合の次の三位決定戦、どちらも出場できませんが……」

俺「目標はあくまでもベスト4です。この搭乗日は、それをなんとしても達成するんだという決意と早割の結晶で……結晶……結勝……決晶……決勝……あ決勝?」

記者「だったら、今日(7月3日)このまま帰国しても同じじゃないですか? もうベスト4っちゃベスト4ですから」

俺「次勝ったら決勝なのに?」

                  完


 1997年10月4日、遥かアルマトイでカザフスタンに試合終了間際に追いつかれたカモジャパンは、カモ監督をただのおじさんに戻し、若き岡田コーチを昇格させた。代打岡田の初陣は、タシケントでのウズベキスタン戦だった。十年後、2007年暮れ、病に倒れたオシム監督の代打も、やっぱり岡田。2009年6月6日、二度目の岡田ジャパンは思い出の地タシケントでウズベキスタンに勝ち、世界最速で南アフリカ行きを決めた。二試合残しての予選突破。ドラマのかけらもなかった。椅子取りゲームは椅子が少ないほど盛り上がるが、アジアの椅子は二から四に倍増していた(最大で五)。


 十二年分年寄りになった信司の両親も、その日はテレビすらつけていなかったという。もちろん、岡ちゃんゆかりの地タシケントに出張ったわけでもない。信司の両親もそうだが、移り気な日本国民は、W杯初出場が夢だった頃の新婚気分をとっくに失っていた。ほぼ無風となったW杯予選の娯楽としての地位は、もはや天気予報以下だった。

 週刊ゴールポストに至っては、「日本代表は南アフリカ行きのチケットをイラク代表かアフガニスタン代表に譲るべきだ」とさえ書いた。反米反岡がすっかり板についてきた週刊ゴールポストは、予選そっちのけで未来(半年後)のバロンドールの特集を組んだ。山のようなゴールから早野信司スーパーゴール・ベストテンを選んだ編集長は、編集後記に「山というより、海水の中からプランクトン・ベストテンを選ぶようなものでした」と書いている。たぶん褒め言葉だろう。


 ちなみに、信司の両親が選ぶベストゴールは、「たまたま日曜で近所だったから」夫婦で見に行った、中体連でのゴールらしい。ペナルティエリア外から√記号のように落ちて浮いて消えた息子の左足の一撃を、信司パパは隣にいた誰かのパパにこう解説した。


信司パパ「今の、大魔神のフォークより落ちて、上原のストレートより浮きましたよね。まあ、うちの息子だったりするんですけど」

誰かパパ「親馬鹿ってやつですか……っておい! 解説してる場合か! もっと馬鹿になれ!」


 2002年日韓W杯の韓国は、太ったオランダ人監督、地の利、ドルに弱いエクアドル人のモレノ主審などを生かし、ポルトガル、イタリア、スペインを三たてし、ベスト4を勝ち取った。イタリア戦のトッティへの二枚目のイエローカードの理由(シミュレーションで退場!)を説明できるのは、世界広しといえど、モレノ主審と大韓蹴球教会大司教、鄭夢準チョンモンジュンだけだ。

 玄界灘のこちらでは、酒焼けした顔のフランス人監督が、ベスト16のトルコ戦で日本中をしょんぼりさせた。百年に一度の自国開催のW杯から自国を追っ払ったのは、ウィングの控えだった三都主を突然フォワードのスタメンにするという、コーチも本人も寝耳に水の奇策だった。

 その年のボジョレー・ヌーヴォーの解禁日が繰り上がったのは、早くトルコ戦を忘れろという広告代理店の優しさだったのかもしれない。


 トルシエに「前科」があったことはあまり知られていない。99年のワールドユース。稲本、遠藤、小笠原、小野、高原ら黄金世代の日本ユース代表は、初の決勝進出。相手はスペイン。決勝当日の早朝、寝ぼけまなこの若武者たちにトルシエが命じたのは、まさかの「走り込み」だった。練習の厳しさで有名な国見高校も、高校選手権の決勝の朝に選手に「走り込み」をさせたことはないだろう。翼くんでも「スペインにはちょうどいいハンデ」とは言わないだろう。朝飯前からバテバテの若武者は、もちろん、若き日のシャビ率いるスペインユース代表に0対4と完敗した。そんな白人根性まる出しのおフランス人をクビにしなかった日本蹴球教会よりも、モレノ主審に大枚はたいて黄色と赤のカードを買い、テーハミングに夢のベスト4をプレゼントした鄭夢準が、いい奴に思えてくる。夢に準じた男、夢準。


 2010年、日本代表は、代打慣れした監督、七時間の時差、ブブゼラ攻撃をものともせず、ベスト4となった。その時、歴史は動き過ぎた。

 大会直前にクルーガー国立公園のライオンエリアでジープを降りる日本代表が、目に浮かぶようだ。


岡ちゃん「代表選手たるもの、一度はライオンの群れに狩られてみろ!」


 ライオンのゴールは獲物なので、獲物のために走る。風向きは? どこに身を隠す? どの布陣で囲い込む? すべては獲物のためだ。走るために走るサッカーを強いられていたサムライブルーには、目からウロコだったに違いない。


 大会後、岡ちゃんはすぐにメガネのフレームを純白に新調すべきだった。そうすれば、天下のモウリーニョを尻で追い出し、あのレアル・マドリーの監督席に座れたものを。レアルは椅子取りゲームが大好きなビッグクラブなので、もう「ベスト4」なんてちまちましたことは言ってられないが。

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