第9シュー タマなしリーガ
「インテルがチャンピオンズリーグの準決勝でバルサに勝って、最後にビッグイヤーまで獲得できたのは、運よく前の年にシンジがバルサを去ったから。なんてたわごとを言う輩がまだいるらしいね。たわごとにはたわごとで答えよう。シンジを封じるプランは山ほどある。たとえば、ライン際のすべての給水ボトルにコーラを入れておくとかね。コーナーキックのたびに始まるゲップの大合唱は、ブブゼラを超えるだろう。インテルサポーターのマスゲームで、ゴール裏に白いプラカードでもう一つのゴールを描いてもらう手もある。コールガールの尻にゴールの刺青っていうのもありだ。シンジはどっちにぶちこむかな? 私の戦術ノートにある無尽蔵のプランを駆使すれば、たとえあの準決勝二試合にシンジが出場していたとしても、インテルは勝利していただろう。以上、今日のたわごとだ」J・M(ポルトガルの優勝マニア)
「江夏の21球」でお馴染みの名投手、江夏豊は、とある試合で延長十回表まで一人で投げ、完封し、十回裏に自らサヨナラホームランをかっ飛ばした。試合後、江夏はマイクに向かって「野球は一人でできる」と言ってのけた。外野フライや内野ゴロを捕り続けた他の八人は、特に何も言ってのけなかった。2013年に無敗でシーズンを終えたマー君も、特に何も言ってのけなかった。
「サッカーは一人でできる」の開祖といえば、聖ディエゴ・マラドーナ。ボールを誰もいないスペースに蹴って敵をぶっちぎり、ライン際でその「パス」に追いついてみせた野人こと岡野も、一人でできるのはスルーパスまでだった。
マラドーナのアルゼンチンは、ただのワンマンチームじゃない。W杯で優勝するワンマンチームだった。Jリーグ初代得点王のアルゼンチン人ストライカー、ラモン・ディアスは、「マラドーナと仲が悪いから」という子供じみた理由で代表に呼ばれなかったという。「ピカッ」でお馴染みの86年、伝説のチームも、七人で守ってマラドーナ、バルダーノ、ブルチャガの三人で得点した。2002年の日韓W杯では、ブラジルがロナウド、ロナウジーニョ、リバウドの「3R」で同じことをやってのけた。どちらも得点以外は退屈なチームだったが、それはそれ、優勝は優勝。
岡ちゃん政権時代の横浜F・マリノスは、マラドーナ抜きの七三サッカーでJリーグを二連覇している。
恐れていたことがついに現実となった。衝撃のエル・クラシコから三週間後、年が明けて2009年1月3日、ホーム、カンプノウでのバルセロナ対マジョルカで、事件は起きた。
後半途中まで1対1、ホームで格下相手に引き分けが許されない状況で、バルサの指揮官グアルディオラは信司をピッチに放った。すると、マジョルカの監督は待ってましたとばかりにベンチを飛び出し、ピッチに向かって指を三本立てた。
「出たあああっ! スリーキーパーだあああっ!」~オリバーくんとベンジくん(スペイン語版キャプテン翼)より
マジョルカのセンターバック二人がするすると後退し、ゴールキーパーの両脇に立った。続けて中盤の二人が空いたセンターバックの位置に、前方の四人は揃って一列ポジションを下げた。四列表記だと後ろから4‐2‐3‐1だったマジョルカは、4‐3‐1‐0に変化した。通常1が相場のため杓子定規なオランダ人以外は書かない「キーパーライン」が、まさかの3。実質的なフィールドプレイヤーは8。フットボール史に、また一つ新たな布陣が刻まれた。
マジョルカの監督はうんうんとうなずいてベンチに戻った。カンプノウの八万人は口をあんぐり。コーナーキックでもないのにキーパーの両脇に立ったマジョルカの衛兵二人は、フリーキックの壁のように両手で己の股間を押さえた。いつどこから飛んでくるやもしれぬ信司のテポドンに備えて。
「退却する相手に慣れているはずのバルサのイレブンも、さすがにあれにはおったまげてましたね」と、その日は通訳としてベンチにいた森崎は語る。
僕もBOWOWの録画を見返してみたが、たしかにおったまげた。マジョルカエイトは、バルサイレブンにピッチの三分の二を明け渡した。試合中にもかかわらず、バルサの守備陣はマウンドに集まる内野陣のように守護神バルデスを囲んだ。
プジョル「なにあれ? あの二人、お漏らししそうなのか?」
ピケ「もうコーナーキックに備えてるとかね」
マスケラーノ「ボールは今ここだ。コーナーキックに備えるにゃ早過ぎだぜ」
バルデス「なめてんのか! マジョルカのキーパーにだってタマは二個あるぜ!」
この会話は百パーセント僕の想像だが、当たらずとも遠からずだろう。
森崎によると、セットプレイでもないのにゴールと股間をガードし続ける準キーパー二人に対して、ゴール裏からは「お漏らししそうなのかよ!」「そんなタマならさっさととっちまえ!」なる罵声が飛んでいたらしい。悲しいかな、それは遥々バルセロナまで駆け付けた、味方のはずのマジョルカサポーターの罵声だった。
我らが信司は、22連発のエル・クラシコからマジョルカ戦の間に行われたリーガ二試合でも途中出場し、キャプテン翼のような角度と距離からゴールを決めていた。
「マジョルカがやったのは松井シフトの信司版でしょうね」と森崎。
「でしょうね」と僕。
残り20分。スコアは1対1。
ピッチに飛び出した信司の心の声が、僕には聴こえた。
(まだ20分もある。おまけに中盤はスカスカだ)
信司はいらぬ欲をかいた。無理もない。信司のチームメイトはもうこぐまFCじゃない。FCバルセロナなのだ。
(右足でもできる)
アンリと交代で左ウィングに入った信司は、挨拶代わりにシャビに右足でパスをした。シャビ、アウベス、イニエスタ、信司、イニエスタ、シャビ、メッシと、ピンボールのようなダイレクトパスがつながる。十一人相手でもらくらくパスを回せるバルサには、マジョルカの八人は練習用のコーン以下だった。加えて、マジョルカのキーパーラインが三人になったことで、バルサはオフサイドを気にする必要もなくなったのだ。
メッシが右サイドからカットインして強烈なシュートを放つも、左の壁が腹で受け、うずくまって時間稼ぎ。エトーの至近距離からのシュートを、右の壁が顔面で受け、寝転んで時間稼ぎ。ピケのヘディングシュートを(わざと?)まともに股間にくらったキーパーは、迫真の演技で時間稼ぎ。僕も何度も巻き戻して見たが、三人の演技は洗練されていた。練習していたのだ。バルサのシューターがどちらかのサイドから来た場合はキーパーがニアサイド、残りの二人がファーサイドをカバーする。シューターが正面ならキーパーは真ん中で、両脇を二人でカバーする。人もボールも壁も動くサッカー。オシムもびっくり。
もちろん、信司にはそんなの関係ねえ。監督がスクランブル出動させた意図そっちのけで、パス回しにもう夢中。もちろん右足で。信司の興奮は画面からもビシビシ伝わってきた。鉄のカーテンに跳ね返される仲間のシュートは、かえって「ドンマイ」を言う久々の機会だった。ボールはスカスカの中盤を面白いように駆け巡った。その中心は信司。バルサダンスの中心に信司。僕はもう泣きそうだった。信司とイニエスタのパス交換は圧巻だった。まさにボールで会話していた。まるでカンテラ時代から一緒だったかのように、二人は敵の逆をとりながらダイレクトパスを十往復もさせた。ちょっとやり過ぎだった。信司の右足は既にイニエスタレベルだった。センチどころかミリ単位の正確さだった。練習、おそるべし。
「雲の上でドリフターズとパスを回している気分だったって」とすすきのの母。水晶玉、嘘つかない。
「彼はドリフ世代じゃないですよ。まテレビも見ないし」と僕。ICレコーダー、嘘つかない。
バルサTVの生中継で解説を担当したクライフは、信司登場後のゲームを「ハンドボール対ラグビー」と連呼している。褒め言葉かどうかは、カタルーニャの神のみぞ知る。
どっこい、マジョルカは耐えた。壁に跳ね返ったシュートのこぼれ球をひたすら遠くに蹴飛ばし、選手とベンチが一体となって電光掲示板の時計とにらめっこ。引き分け上等。
同点のまま残り時間はあと5分。カンプノウの拍手も焦りの音色を帯びてきた。そんな時、誰かが不意に「シ、ン、ジ」と叫んだ。その隣の誰か、隣の誰か、隣の誰かが続き、やがて八万人の大合唱となってカンプノウを震わせた。
「シ、ン、ジ! シ、ン、ジ! シ、ン、ジ! シ、ン、ジ!……」
観客は「あの」エル・クラシコを永遠に忘れない。
にっくきフランコの末裔どものオカマを、22回も掘った男を。
「本人は、あのシンジコールがイニエスタとのダイレクトパスに対してだと思ってたみたいです」と森崎。「あいつ、そういうとこ鈍いんです」
敵陣ペナルティエリアの角にいる鈍い信司に、シャビが中央から鋭いパス。信司は敵を引き付け、ボールを右足ダイレクトでシャビに返した。巧い!……はずなのに、シャビはあのクリクリの目で信司を睨みつけ、二人のマークを引き連れた信司にまたもボールを返した。シャビのラストパスは二人の間を抜け、ナノ単位の正確さで信司の左足へ。
信司はようやく夢から覚めた。お仕事お仕事。左足をひと振り。カンプノウの八万人が飛び跳ねた。壁? そんなの関係ねえ! そんなの関係ねえ! はい、おっ
「水とディフェンスラインは、低きに流れる」~蹴刊ダム
信司の魔球によって、リーガ・エスパニョーラは新布陣のコレクションと化した。マジョルカが解禁した(3)4‐3‐1を皮切りに、(3)5‐2‐1、(4)4‐2‐1、(4)3‐3‐1……キーパーよ、君はもう一匹狼じゃない。 お漏らしポーズでゴールラインにべったりというレフトキーパーやライトキーパー。「もういっちょ!」「もってけ泥棒!」とばかりにスリーキーパーはフォーキーパーを生み、三枚か四枚かの論争も白線上で再燃した。シンジシフトのはずだったキーパーラインは、トランスフォームが面倒になって常態化した。巨人ファン向けに言うなら、バント職人川相に松井シフトを敷くようなものだ。
リーガはゼロゼロの引き分けが増え、バルサは信司のゴールが増えた。信司はこぐま時代と変わらず、途中出場でバルサのスコア上のピンチを救い続けた。もちろん、左足で。
あのイニエスタが、ないはずのポケットに手を突っ込んだまま信司にパスを出すようになった。
ウノセロの国のイタリア人ですら、リーガを「タマなしリーガ」と呼びだした。
持たざる者の革命を、持てる者=バルセロニスタはこう評した。
「これがフットボール? 毎試合マグロとやれってのかよ。毎試合こんな腰抜けを相手にするくらいなら、バルサイレブンに米軍のユニフォームを着せてイラクに送ったほうがましだぜ!」
クライフ「だから言っただろう? シンジは究極の両利きで、両刃の剣だ」
攻撃サッカーの代名詞だったスペインが、あのスペインが……プライドとオフサイドを捨てた。リーガのほとんどのクラブが。プライドが邪魔をしてカシージャスをゴール前で一人ぼっちにしたレアルは、ホームのエル・クラシコでも逆転負けし、監督の首が飛んだ。信司はたったの三得点だが、残り5分からだった。
20世紀のサッカー小僧のバイブル、キャプテン翼の印籠は、翼くんの「たとえ勝つ確率が一パーセントしかなくても……」のセリフだ。キャプツバ世代(僕は78年生まれで、日本代表最多出場の遠藤は79年生まれ)は、ここで「きたきた」となる。前半でディアスくんにハットトリックを決められて撃沈しかけた日本が、後半の四連発でアルゼンチンに大逆転。漫画みたいな展開。百パーセントの一パーセント。めでたし、めでたし。
21世紀のサッカー小僧のバイブル、スクランブル信司の印籠は、解説者の「たとえボール一個分の隙間しかなくても……」のセリフだ。スク信世代は、ここで「また?」となる。そのボール一個分の隙間をボールが抜け、レアルに大逆転。めでたし、めでたし。
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