第8シュー 左足の中村俊輔

「シンジはいい奴ですよ。バロンドールとしても、ベンチウォーマーとしても、いじられキャラとしてもね」N・S(左足の中村俊輔)


 信司が実力のわりに地味なプロデビューを飾った2003年、Jリーグは中世も真っ青の暗黒時代に突入していた。足元派のジュビロ政権を野党に引きずり下ろしたのは、結果という名のブラックホールに向かって臆面もなくロングボールを蹴り続ける花火派だった。日韓W杯という祭りのあとの花火は、ある意味美しかった。


 岡ちゃん率いる横浜Fマリノスは、2003、2004年とJリーグを連覇した。もちろん、お隣さんの庭に榴弾砲を打ち込むようなサッカーで。僕は「史上最低の連覇」という同タイトルの様々な原稿を書き散らし、マシンガンのごとくありとあらゆる蹴球誌に送り、そのすべてにシカトされた(母校の校内新聞にも)。退屈なゲームを退屈と書くことが業界タブーだなんて、思ってもみなかった。


 横浜は、浦和以上に実利的だった。セリエAでさえ見直し始めていた5バックでドカ蹴りという石器時代のサッカーを復活させ、チャンピオンシップをも集団催眠に変えた。浦和と横浜が戦った2004年のJリーグ・チャンピオンシップは、僕の原稿曰く、「ロケット花火の撃ち合い」。右から左、左から右、休み時間のバドミントンのように、ボールはただひたすら放物線を描いた。

 浦和鉄砲隊の信司はベンチにも入らなかったが、大事な試合に18歳の小僧はナインという古き良きゲルマン魂を思い出したブッフバルト監督のおかげで、あの時ピッチに立っていたという不名誉だけは免れた。

 まあ、信司の場合、ロケット花火の角度が水平に、花火が実弾に変わっていただけだろうが(詳しくは映画『ソナチネ』で)。

 何かを言わねばならないテレビの実況と解説者は、「緊迫したゲーム」や「意地と意地のぶつかりあい」を連発し、90分に亘って放送事故と戦い続けた。ピッチと同じ「絶対に負けられない戦い」だった。ボールはその間、ただ夜空を行ったり来たりした。僕が解説席にいたなら、「たまやー」を連発していただろう。


 よりによってチャンピオンシップで信司を温存し、信司を擁しながら二年連続で横浜にタイトルを譲るという八百長まがいのおっちょこちょいをやらかしたブッフバルト監督は、「来季はあんたを温存する」とクラブに告げられ、ソーセージの国に帰った。翌年からJリーグは一シーズン制となり、自動的にチャンピオンシップは消滅した。

 ここでナレーション。「その時、歴史は動いた(あいつのせいで)」

 一シーズン制初のJリーグチャンピオンには、「暗黒時代唯一の光」と呼ばれたガンバ大阪……ではなく、「結果オーライ、それでオーライ」の浦和レッズが輝いた。パスは0点でゴールは1点。「JAP(ANESEをあわてて消したら意味が逆に)ONLY」な浦和ファンもそれでオーライ。


信司「誰がモンキーやねん」 


 信司はJリーグ暗黒時代を吹き飛ばしたビッグバンだった。世紀を挟んで魅惑のパスサッカーで僕らを楽しませてくれたジュビロ・エスパルス静岡連立政権は既に滅び、ゴール以外に何もない試合にとって、ゴールだけが麻薬となった。

 2004年から2008年までの五シーズン、早野信司はJリーグの得点王であり、麻薬王だった。こぐまFC同様、浦和はどうってことのないラストパスと信司を武器に、2005年からJリーグを三連覇した。「史上最低の三連覇」なるタイトルの原稿は、今も僕のドラえもん型USBの四次元ポケットで眠っている。


「サッカーはドラッグに似ている。サッカーを密売しちまえ!」と、ジャンキー時代のマラドーナは吠えた。信司はそれを実践しただけだ。土のグラウンドからべこのいない芝、六万人の埼玉スタジアムから十万人のカンプノウ・スタジアムへ。信司の成長とともに観客席の高度も天国に近付いていった。信司が一足お先にその天国ゴールに辿り着いたことは、今では阪神ファンも知っている。


 信司が(桑田のお小遣いがなくなるほど)何度も週刊ゴールポストの表紙を飾り、海外移籍の噂が風に乗って尖閣諸島のかもめにまで届きだした頃、突如浦和に新スタジアムの建設計画が持ち上がった。なんと、収容人数は百万人! 百万本のバラならぬ百万人の客! なんたる引き留め工作!

 調べてみたが、百万人とは、ホームゲームのたびに浦和どころかさいたま市民全員をスタジアムに詰め込み、さいたま市内を無人の廃墟にできる数だ。信司のゴールショーは、Jでナンバーワンの浦和の観客動員数を更に倍増させていた。六万人の埼玉スタジアムではもう週末の信司サーカスを捌ききれなくなっていたのは、確かだ。けど、百万人? イエス、ウィ、キャンプ!


 パキスタンの女性建築家に設計を依頼したという幻の新スタジアムの仮称は、バベル・スタジアム。浦和の郷土資料館で幻の完成予想図を見せてもらったが、ローマのコロッセオを縦に十個くらい積み重ねたような、天まで届きそうな円柱型スタジアムだった。建築素人の僕にも「それっきゃねえ」と言わせる、幻の新国立競技場ザハ案より現実的なデザインだった。

 郷土資料館館長さんによると、スカイツリーより高い地上七百メートルの最上階、VIP用の「クラウドルーム」の床には、天文台クラスの天体望遠鏡を下向きに突っ込む予定だったらしい。「雲で見えないからでしょうね」と館長。「でしょうね」と僕。ヤクザなお偉いさん(どこかの代表監督、どこかの総理、どこかの都知事)がヤンキー座りで葉巻をくわえたまま、床から生えた接眼レンズを覗き込む姿が浮かんだ。


 信司がバルセロナに飛び立つと同時に、そんなばちあたりな建設計画もどこかへ飛び立った。女性イレブンによると、浦和の助っ人ブラジル人兼カトリックのロブソン・ポンテは、この顛末を「神の怒り」と言ったとか言わないとか。


 ベッカムは、どちらかといえば顔で売れたが、本当の売りは右足だ。右サイドから発射されるピンポイントクロスは、ちびのドワイト・ヨーク(元マンU)のヘディングゴールをも倍増させた。その精度は英国製ライフル以上だった。顔がいまいちなら、ベッカムは英国軍初の右足スナイパーになっていたかもしれない。

 レアル・マドリーは、そんなベッカムを大枚はたいてユナイテッドから買った。五十億円から六十億円。「から」だけで十億円。中盤の貴重なバランサーだった黒人のマケレレをチェルシーに売り、白人で女受けするマーケットの顔の購入資金に充てたのだ。

 ベッカムは太陽の国スペインでもスナイパーぶりを発揮したが、尊敬するマイケル・ジョーダンから勝手に受け継いだ23番のユニフォームの売上げと反比例するように失点の増えたレアルは、タイトルから遠ざかっていった。ゆえに、それは不当なほどベッカムのせいにされた。スポーツ紙の採点欄のコメントは毎試合「奥さんがスパイス・ガールズ」だった。


 パーマ中のおばちゃん向けのサッカー誌、女性イレブンは、プロデビュー当時の信司を「左足のベッカム」と書き散らしていた。イレブンは顔よりも足のことを書いていたのだが、案の定、日本中の美容室でベッカム派のおばちゃんがパーマ中の暇つぶしに女性イレブンの信司の顔写真を破り捨てた。アンネ・フランクとは違い、信司はまだ生きていた。

 五年後、女性イレブンは、バルサ入りが決まった信司のことを「左足の中村俊輔」と書き散らした。案の定、日本中の美容室で信司派のおばちゃんがパーマ中の暇つぶしに女性イレブンの中村俊輔の顔写真を破り捨てた。「まんまでしょ!」と手の甲でツッコみさえした。おばちゃんは成長した。


 ブラジル人は、ペレと同時代に活躍した世紀のドリブラー、元祖「左足の魔術師」ガリンシャを、今でも崇拝している。生まれつき脚が湾曲していたガリンシャは、生まれつきのドリブル狂だった。公式戦で、一度ドリブルで抜いた相手が追い付くのを待ってからもう一度抜いた話は、今でもブラジル中の語り草だ。

 そんなおちょくりの天才ガリンシャに、監督は必要ない。試合前のロッカールームで黒板を使って熱弁するセレソンの監督に、ガリンシャはこう尋ねた。

「で、あんたはいつ、向こうが何をやってくるかを向こうの監督に聞きに行ったんだ?」

 これぞフチボウ。

 孤高の天才ガリンシャは、現役時代は港港に私生児を残し、晩年は酒に溺れた。ブラジル唯一のW杯連覇(58、62年)の立役者にもかかわらず、誰にも看取られずにひっそり死んだ。


 無駄にガリンシャのことを書きながら、僕は思った。できることなら、ガリンシャを松田優作のように派手に殉職させてあげたかったと。おちょくられたディフェンダーに腹を撃たれ、ピッチで死なせてあげたかったと。

 そして、信司のことを思った。できることなら、あのゴールキーパーのヘッドバットで殉職させてあげたかったと。ピッチで死なせてあげたかったと。


 信司はいつからか、ひとりカリカルテルと化した。ゴールの売人からゴールシンジケートに昇格した。客も客で、誰もが信司のゴールを客の正当な要求だと考えるようになった。サッカーくじに子供の給食費をつぎ込むお父さんだけでなく、スタジアムの数万人、テレビの前の数億万人、官邸と霞が関の人非人、エリア51で退屈している宇宙人も、きっと。香港やマカオの「クラブ」がバルサと同じ「クラブを超えたクラブ」なのも、理由は同じだろう。


 こぐまFCからFCバルセロナまでのFCワームホールの中で、信司は右足一本での練習を続けた。右足でボールを受け、パスし、シュートし、ミスもした。不思議に思った監督、コーチ、チームメイトも、本人には何も言わなかった。いや、言えなかった。練習で左足を解禁すれば落ち込むに決まっているキーパーは、特に。

 週刊ゴールポストの選手名鑑でも、信司の利き足はもはや「左」だった。こぐまFCの信司くんが「右」だったことなど、もはやベテラン編集部員でさえ覚えていなかった。


 こぐまFC時代、監督の桑田は信司に向かって「ミスを恐れるな」と言った。信司が恐れていたのは、ミスとは反対向きの無限遠点だった。「出場=勝利」というパラダイムシフトを背負った信司は、ただ一人、刑事コロンボや古畑任三郎の世界にいた。ゴールを溜め込んだ巨大ダムは、日照り続きで迎えたロスタイムに決まって決壊した。日本の観客は予定調和の勝利にも予定通りに沸いた。バルセロニスタも帝京高校の茶道部よりは退屈な試合を嫌うが、勝利が嫌いなわけじゃない。


 森崎によると、信司はバルサの練習も「軸足(右足)が大事」で通したらしい。

女性イレブンによると、利き足でしか蹴らない選手を「軸足を怪我したフラミンゴ」と呼んだクライフも、信司を「二本足のフラミンゴ」と呼んだとか呼ばないとか。

 気になったのは、クライフ大学マドリー校という分裂症気味の大学でスペイン語を学んだ森崎が、信司の練習方針をきちんと監督のグアルディオラに通訳できたのかという点だ。カタルーニャ語はカタラン。変換すれば「語らん」。PC、嘘つかない。


森崎「信司、監督が、左足がそんなに悪いならエトーと一緒に休憩してこいって」

信司「だから軸足がだ……なんでエトーと?」

森崎「一緒にバナナ買ってこいってことじゃない?」

信司「誰がモンキーやねん」

 ※これはあくまでもエクソシストでも再現ドラマです。


 歴史を学び過ぎるのも問題だ。森崎は、スペイン人がいまだにコロンブス時代のままだと思っている。ピッチの黒人や黄色人にバナナを投げ込む観客がいるのだと。

「いましたよ」と森崎。

「誰がモンキーやねん」と僕。


 ・フットボールの第一法則「左利きは絶対である」


 クライフ大学の教科書の一ページ目が(読んだことはないが)これ。

 左利きの選手は左足一本でプレイしてもOK。「アカ」とは呼ばれない。逆に、右利きの選手が右足一本でプレイするのはNG。「右翼」と呼ばれる。左利きはパンダ並みに貴重なので保護が必要だという、いわばフットボール界の天動説だ。

 実際には、左利きの右足のほうが右利きの左足よりお粗末である。最近は左利きが増え、左使いも弱肉強食の時代だ。メッシ、エジル、中村俊輔、ソ連もうかうかしていられない。逆に、イニエスタ、カソルラ、小野伸二、鄧小平など、両足使いで有名な選手はほぼ右利きである。右利きの右足の恐さは、オウム以降の大日本や911以降のホワイトハウスを参照されたし。

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