第7シュー からで十億円

「実は、最初にシンジに目をつけたのは小学生の時だった。バルセロナで不定期に開催されるサルバドール・ダリ・トーナメントっていうジュニア大会でね。まさか日本の小学校チームにバルサのカンテラが手も足も出ないなんてね。子犬みたいなシンジがMVP賞のグニャっと曲がった時計を両手で抱えている写真は、今でもダリ美術館に飾ってあるよ。名前通りシュールな大会だった。シンジのソロコンサートだった。決勝でシンジ一人にボコボコにされたカンテラーノのほとんどが、その日にマシア(育成寮)を出たいって言ってきた。あんな化け物には一生勝てる気がしないってね。まあ、メッシは別だったけど」T・B(浦和とバルサの架け橋)


 22歳の森崎は、22歳の信司の通訳になる前は、お金を払えば誰でも入れるクライフ大学マドリー校で「球体集束学」なる研究をしていた。心理学、力学、生物学、統計学、経済学、天文学などのありとあらゆる角度から球蹴りを分析するという、ダヴィンチも顔負けの研究だ。博士論文のタイトルも、書く前から「利き足とエントロピー減少に関する守護神的考察」に決めてあった。ただ、クライフ大学マドリー校は森崎の論文を受理しなかった。「馬鹿馬鹿しかったからですよ」と言ったのは大学ではなく、森崎本人だ。


 森崎の研究は、ネイチャーを騙しさえすれば、百年前の相対性理論以来のパラダイムシフトになっていたはずだ。空気中の二酸化炭素が気の抜けたコーラをシュワシュワに戻し、床にこぼした牛乳が雌牛の乳首に吸い込まれていたはずだ。膨張が加速しているはずの宇宙にはマラソンのような折り返し地点があり、宇宙はもう一度、黒豆の百億分の一の百億分の一の百億分の一ほどに縮んでしまうのだ。


 クライフ大学マドリー校には見放されたが、森崎は諦めなかった。信司の捨て蹴りなしのシューティング・デモテープを携え、ありとあらゆる専門家を訪ね歩いた。どっこい、どの専門家もその専門性を生かし、皆同じセリフを口にした。


「たいしたラッキーボーイだ!」


 ずっこけた森崎を助け起こしてくれたのは、スペインカトリック界一のMとの呼び声高い神学部の教授だけだった。「とにかくビデオをダビングしてくれって言われました」と森崎。「明らかに信司に蹴られたがっていましたね、あの司教さんだけは」


 スイスにある世界最大の陽子加速器LHC(陽子と陽子を光速に近い速さで衝突させ、新たな素粒子を発見する巨大なドーナツ型地下トンネル)の研究所長は、森崎が当時浦和レッズ所属の信司にねだってわざわざ日本から送ってもらった汗臭いスパイクを、サッカー好きの息子にプレゼントしてしまった。「スパイクとボールを衝突させろってうるさいから、うちはもっと小さいの専門だって言ってやったよ」と、ウクライナ人の元研究所長は電話で僕に言った。大混乱のキエフから。「こっちは今それどころじゃないんだ」


 森崎によると、ISS(パキスタン)やモサド(イスラエル)といった四面楚歌国家の諜報機関は、逆に信司に興味津々。そこで森崎は、脱ぎたてほやほやの信司の試合用ソックスを真空パックで各国の諜報機関に送った。

「信司の左ソックスはもう炭素菌を超えていましたからね」と森崎。「あの臭いで壊滅した諜報機関もあったって聞きましたよ。ほら、007の」


 専門家も壊滅だった。物理学者が匙を投げ、統計学者がグラフを破り、確率論者がギャンブルに逃げた。

 リオネル・ダヴィンチへの道を諦めかけていた森崎は、スパイクやソックスをねだってばかりいた友達の友達のバルセロナ入団を知り、恩返しと研究を兼ねて通訳を買って出た。クライフ大学にいたこともプラスだろう。履歴書にマドリー校と書かなければいいのだ。


 が、好事魔多し。カタルーニャ州のバルセロナはカタルーニャ語が公用語。市と同じく独立心旺盛なFCバルセロナは、チーム内はもちろん、公式記者会見ですら平気でカタルーニャ語を使う。スペイン語(カスティージャ語)とカタルーニャ語は日本語と関西弁よりも開きがあり、まずカタルーニャ出身者しかわからない。


 森崎は通訳として、持てる力をすべて出し切った。

 信司はまあまあ出し切った(一試合27ゴールという公式記録もある)。


 記者会見終了後、監督のグアルディオラが廊下で信司と森崎を待ち構えていた。

監督「シンジ、おめでとう。で、確認なんだが、君は右利きじゃなかったっけ?」

森崎「信司、右利きで良かったな、だって」

信司「ありがとうございます……ん?」

森崎「グラシアス」

監督「こちらこそ……ん?」


 信司は記者会見を冗談で乗り切るフェイントを覚えたが、叩きだした数字は冗談にはならない。デビュー戦でレアル相手に22発の確率波は、バルセロナから世界中に広まった。


 「22世紀のサムライ、22ゴールでお披露目」~スポルト

 「惨劇の夜。SAYONARA、マドリー」~アス

 「カミカゼゴール!」~マルカ

 「おフランスではこんなお行儀の悪い試合はありえなくてよ」~ル主水

 「ユベントス22試合分の得点。それも一夜で、一人で、マンマミーア!」~ガゼッタ・デロ・スポルト

 「将軍様がレアル相手にハットトリック×7! マンセー!」~平壌スポーツ

 「信っ司られない!」~道産子スポーツ

 「左足の破壊王が輪廻転生! 待ってろ、世界中のリング!」~蹴刊プロレス


 確率波は横波となって、大西洋と太平洋を越えた。マイクを向けられた日本の越後さんは、「シュート打つ勇気が大事ちゅことね」と言った。「勇気」は「元気」並みに万能なので、越後さんが「いくぞ!」に続けて居並ぶ越後ファンの尻を蹴飛ばしていく儀式がはやっても不思議はない。


 蹴球現代ヒュンダイは「左足の軌(奇)跡」というタイトルとともに、ピュリッツァー賞も夢じゃない一枚の写真を表紙にした。レアルゴールのネット裏から、網にかかったボール、その向こうに背を向けて立つカシージャス、ハーフライン付近にいる小さな信司の三点がフレームの中で絶妙なポジショニングを見せている。フォーカスは一番奥の米粒大の信司の背番号「13」。信司のヒールシュートがおよそ五十メートルの距離をものともしなかった事実が一目でわかる。「神も仏もいない牢獄」というキャプションからは、米粒大の信司が日本人であることがわかる。わかる人には。


 極東止まりだった一発百中の魔術師の噂は、北はグリーンランドから南は南極観測基地、上は国際宇宙ステーションまで駆け抜けた。過去の記録をひも解いてみても、バルサのトップチームが公式戦で記録した最多得点は18点。相手が国見高校の吹奏楽部だったとしても、22点はちょっとやり過ぎだった。


 バルセロナ市長は、エル・クラシコが行われた12月13日を(しぶしぶながらも)祝日に制定した。信司の背番号13番は(もともとながらも)永久欠番となった。


 この日を境に、バルサは負けなくなった。テレビ的に言うなら、絶対に負けられないバルサとなった。ただ、グアルディオラは信司をベンチで温め続けた。信司の適量を知っていた。劇薬に近いスパイスは、最後の最後、一味足りない時にだけバルサ鍋に放り込めばいいのだ。高級中華料理店の味覇みたいなものだ。


 試合終盤、誰もがバルサの引き分けか負けを覚悟したその時、赤い缶から背番号13が現れ、魔法の杖を振り、ゴールを真っ二つに割り、チームを対岸の勝利に導く。「これぞバイブル!」と桑田は語る。


 バルサのソシオは、メッシに与えた「メッシア(救世主)」の称号をはく奪し、シンジに授与し直すべきかどうかで討論会まで行ったらしい。

「二人でよく話しましたよ。メッシの左足もまあまあだって」と森崎は語る。


 新世紀の無敵艦隊となったバルサは、そのままクラブ史上初のリーガ、国王杯、チャンピオンズリーグの三冠を達成。監督就任初年度での快挙に、グアルディオラは早くも師匠クライフと並ぶ名将の仲間入りを果たした。


 香港やマカオの「クラブ」同様、FCバルセロナは「クラブを超えたクラブ」を自負している(カンプノウのスタンドにもMÉS QUE UN CLUBとある)。超訳すれば、バルサをそこらのたまごクラブやひよこクラブと一緒にするな、というわけだ。カタルーニャ語が禁止されたフランコ独裁政権時代にも、スタジアムでは「ビスカ、バルサ!」とカタルーニャ語で叫ぶことができた。バルサは独立心旺盛なカタルーニャの象徴であり、移民の街バルセロナの拠り所なのだ。


 信司がいてもいなくても、グアルディオラのバルサは三冠王者となっていただろう。バルサでの悠々自適の晩年を蹴り、現役時代をイタリア、カタール、メキシコと放浪して締めくくったペップは、イタリアの退屈なカルチョに耐え、カタールの砂漠で頭部を千春化し、メキシコでサボテンの味を覚え、フットボール行者と化してバルセロナに戻ってきた。


 監督としてバルサに戻ったグアルディオラは、サボり癖がついたロナウジーニョとデコを追い出し、自慢のカンテラからブスケツとペドロを引き上げ、怪我がちだった肉食のメッシに魚と野菜を教え、サイドから解き放ち、ゴールマシンに変えた。美しさに隙のなさを加えたペップバルサは、ポゼッションかカウンターか、美しさか結果か、なる不毛な議論を嘲笑うかのようにボールを回し、ゴールを奪い、勝利を重ねた。信司がぶち壊すまでは。


 バルサが出来心で買った赤い缶の信司は、山椒どころかハバネロ級だった。

「デビューから五年連続Jリーグ得点王印の、早野信司。今なら森崎もついてくるよ!」の看板は伊達じゃなかった。


 2008年、8月初旬。信司はお世話になった(お世話した)浦和レッズを飛び出し、FCバルセロナに飛び込んだ。22歳の誕生日から二か月後のことだった。

 信司とは逆に、現役時代にバルサから浦和レッズに流れ着いたチキ・ベギリスタインは、現役引退後にバルサのテクニカル・ディレクターとなり、信司獲得の立役者となった。

「小学生のシンジを初めて見た時から、この子は将来、バルサのユニフォームを最初に着る日本人になるぞって思ってたよ」とチキは語る。「まあ、脱ぐのもね」


 移籍金は推定で三十億円から四十億円。「から」だけで十億円。バルサからは引退間近のサイドバック、ファン・ブロンク・ホルストと交換で、という提案もあったらしいが、浦和は騙されなかった。もう搾りかすのリネカーをホイホイ買う時代じゃない。


 2003年、17歳の信司は浦和レッズでプロデビュー。からの、五年連続J得点王。初年度は途中出場が多かったが、そのすべてでゴールを決め、すべてで勝利をもたらした。ゴン中山のJ通算得点記録(157)は、四年目の途中で塗り替えた。信司は控え目だった。その気になれば、倍速で記録を更新できただろう。


 信司は、バルサ移籍直前の08年J1リーグ15試合で53ゴールを叩き出し、早くもリーグ記録、及び自身の記録を上回っていた。結局、シーズンの半分も出場せずに日本をあとにした信司が、そのまま08年J1リーグ得点王に輝いた。34試合フル出場の二位、マルキーニョスは「たったの」21ゴールだった。そして、デビュー戦のエル・クラシコ22発で先頭に立ったままスペインの得点王レースをも逃げ切った信司は、同じ年に二つの国でダブル得点王という文字通りの離れ業をやってのけた。信司のおかげで、ギネスブックの最新号の出版が遅れたらしい。


 まだ17歳の信司をセオリー通りに途中出場限定で起用していた浦和のブッフバルト監督も、その左足の魅力に勝てず、二年目からはスタメンで起用した。27歳の頃に若手と呼ばれていた元ドイツ代表には、大英断といえる(90年代のドイツ代表は平均年齢が三十路のロートル軍団だった)。

 ゼロ年代の浦和は、信司が入団する前から、マラドーナ時代のアルゼンチン代表を彷彿させる「七三サッカー」に明け暮れていた。七人で守ってブラジルトリオが決める。はまればそれで優勝できた。エメルソンがオイルマネーで中東に移籍したあとは、のっぽのワシントンへの放り込み依存症となった。放り込むならワシントンよりも網の中が早いことに気付いたのは、早野信司という新たなドラッグのおかげだった。

 信司依存症の治療法はまだ見つかっていないし、もう永久にわからない。

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