第6シュー 22歳にもなって

「人はボールとウサイン・ボルトより速くは走れない、ボールを走らせろ、と、私はいつも言ってきた。ベン・ジョンソンがお縄になった頃からね。今、それを完璧に実践しているのはシンジだけだ。あれほどの右足を持つベッカムも、今の信司を上回るのはスパイス・ガールズと結婚したことだけだ。シンジのキックがスペクタクルなのは認めよう。ただ、シンジの試合はスペクタクルとは言えない。1対0の退屈な勝利よりも4対5の美しい敗北のほうがましなのは言うまでもないが、22対3の勝利を忘れていた。一人の選手がペナルティエリアの外から二桁得点するフットボールは、フットボールだろうか? 私は今日、生まれて初めてゴールの山にうんざりした。今日のバルサは私のドリームチームよりも遥かに強く、遥かに退屈だ」J・C(空飛ぶオランダ人)


 信司は小学生時代を公式戦122試合出場、678得点で終えた。

 わりと遠慮がちに。

 信司小四から小六の3年間、どこにでもある市立小学校のサッカー少年団、こぐまFCにもたらされた優勝カップの一覧が、こちら(括弧内は獲得回数)。


 全日本少年サッカー大会(三)

 北海道ジュニア選抜大会(二)

 網走雪中サッカー大会小学生の部(一)※雪不足のため97年のみ

 アイヌ・チャレンジカップ(一)

 サルバドール・ダリ・トーナメント(一)※バルセロナ

 カダフィ・ジュニアチャレンジ(一)※リビア


 森崎によると、卒業生代表の信司に小学校の卒業証書を渡しながら、校長先生は「天皇杯もいけたんじゃない?」と冗談のつもりで言ったらしい。体育館は笑いに包まれたが、信司は笑わなかった。こぐまFCのメンバーも笑わなかった。天皇杯への出場登録をすっかり忘れていた卒業式司会の桑田先生は、マイクにおでこをぶつけて体育館をアラレちゃんばりにハウリングさせた。「キキキキーン」


「ほんと、笑いごとじゃなかった」と森崎。「逃がした魚はクジラでした」


 天皇杯は、年齢やプロアマに関係なく出場できる。理屈の上では、元旦の国立競技場で特養ホームズ対こぐまFCの決勝戦もありうる。

 ただ、日本中の特別養護老人ホームとサッカー少年団が出場登録を忘れていたので、当時の桑田は誰にも責められなかった。


「行けたのに、国立」と森崎。

「行けたどころじゃないかも」と僕。ICレコーダー、嘘つかない。


 光陰矢の如く2008年12月13日。

 芸術の町バルセロナでもヌメロ・ウノの劇場、カンプノウ・スタジアムは、試合終了の笛が鳴った午後23時、十万人の沈黙で満たされた。エル・クラシコで勝ったのに。

 FCバルセロナは宿敵レアル・マドリーを22対3でやっつけた。確認のためにもう一度書こう。22対3でやっつけた。電光掲示板のバルサ側の得点者は、スペースが足りずに十人目で切れていた。どうせ残り十二人も全部「SHINJI HAYANO」だが。


 22歳の信司は、ストライカーのエトーと交代で、後半の頭からリーガ・エスパニョーラにデビューした。記念すべきデビュー戦がエル・クラシコ。記念の22ゴール。カミカゼシンジはたったの45分で全員をまくり、リーガの得点王レースのトップに躍り出た。


 前半は、アウェイのレアルがバルサを圧倒した。ラウル、ラモス、ラウルのラララゴールで、前半だけで0対3。

 さあ大変。前半終了と同時にロッカールームに逃げるバルサイレブンとグアルディオラ監督に、スタンドからカタルーニャ語の罵声が飛んだ。


「このスットコドッコーイ!」

「お前のかあちゃん、デベーソ!」


『沈黙のロッカールーム』~週刊スティーブン・セガール

 監督のグアルディオラは通訳の森崎を伴って信司の前にしゃがんだ。

監督「(カタルーニャ語)シンジ、エトーと交代でいくぞ」

森崎「(訳)信司、エトーはロシアあたりに売るから、交代で出ろって」

信司「えっ?……あはい」

監督「(カ)練習通りにやればいい。ピッチのサイズは日本と同じだ」

森崎「(訳)練習みたいにチンタラやってたら、ピッチに頭から埋めるぞ。犬神家みたいにな」

信司「えっ?……あはい」

監督「(カ)四点取ろうとか、気にしなくていい。バルサはバルサだ。ボールをつないでゴールに運び、逆転する。やり方はシャビに聞け。ボールでな」

森崎「(訳)後半、四点取んなきゃ俺はバルサをクビだ。シャビも、お前も……通訳も?」

信司「取ります、取ります」

監督「(カ)まずは左サイドに張れ。セルヒオ・ラモスより外にね」

森崎「(訳)少なすぎる! そのくらいセルヒオ・ラモスだって朝飯前だろが!」

信司「カズくん、今そんな怒ってた?……何点取れば?」

監督「(カ)レアルのディフェンスラインを横に広げて、中央にスペースを作れ」

森崎「(訳)お前の……年齢くらいのゴールは決めるべきだ。そうそう、給料だってそうだ」


 信司はそうした。22歳になったばかりだったから。


 ちなみに、通訳の森崎とはなにを隠そう、元こぐまFC守護神、あの森崎くんである。もう「くん」はいらないか。


 練習では右足しか使わない信司のせいで、グアルディオラは極東からの風の噂を笑い飛ばしていた。たしかに、どこからでもゴールできるゴール男は、雪男より笑える。このエル・クラシコを境に、グアルディオラは笑わなくなった。


 超満員のカンプノウ。信司が魔法の杖を振るたびに、十万人が喜び、驚き、呆然とし、沈黙した。ハットトリックに喜び、ダブルハットトリック(6点)に驚き、フォースハットトリック(12点)に呆然とし、セブンスハットトリック(21点)に沈黙した。

 ロスタイムの22点目には、十万人がムンクの叫び。信司はカシージャスに尻を向けたまま、ハーフラインから左足のかかとでバナナシュートを決めたのだ。


「そんなバナナ!」と僕。

「あれはさすがにやり過ぎですよ」と森崎。黒幕のくせに。


 電光掲示板は「22‐3」

 ホームのエル・クラシコ勝利のあとで、初めてカンプノウが沈黙した。


 レアル・マドリーの守護神、聖イケル・カシージャスは、生涯初の22失点にもかかわらず、気丈にもミックスゾーンなるピラニアの池で足を止めた。

「無回転? そんな生易しいもんじゃない。あの13番が蹴った瞬間、ボールが消えたんだ。ほんとのほんとに消えたんだよ。みんな撮ってたんでしょ?……誰も?……あ消えたから?」

 すっかり牙をなくしたピラニアは、全員ファインダーの後ろでうなずいていた。


 VIP席のヨハン・クライフは、女性イレブンによれば、少なくとも信司の五点目まではガッツポーズしていたらしい。ちなみに、クライフ監督のドリームチーム時代、エル・クラシコの最高記録は5対0だった。主役はブラジルの悪童、ロマーリオだった。


「クライフだって人間さ。シンジが決めるたびに、口から大好きなチュッパチャップスを落としてた。前の人の頭に、ペタペタ、ペタペタ」と地元紙の記者は僕に教えてくれた。

 女性イレブンによると、「前の人」は元レアルのスター、現クラブスタッフのミヤトビッチ。幸か不幸か、バルカン半島出身の彼の頭は、常にペタペタだった。


 サッカー界のご意見番、ヨハン・クライフ。辛さでいえば、越後辛。ブラジル生まれ日本斬りのセルジオ越後は、若い頃はブラジルでも名うてのドリブラーで、ロナウジーニョお得意の片足切り返し、エラシコの開祖でもあった。オランダ生まれ滅多斬りのクライフは、ドリブラー、パサー、ストライカー、スモーカーであり、どの頭にもヘヴィがつくほどだった。

 そんなヘヴィご意見番は、記録づくめのエル・クラシコを「退屈だ」と切り捨てた。十九点差の勝利にそう言えるのは、カンプノウ広しといえどクライフだけだ。


「バルサらしくボールが踊っていない。後半、ボールに触れなかったバルサのセンターバック二人とキーパーは、主審からイエローカードとレッドカードを借りてポーカーをおっぱじめそうなほど退屈していた。こんなのフットボールじゃない。キックボールだ」と、クライフはカンプノウ内のT字路で記者に言った。角を曲がったところにかつての教え子、グアルディオラ監督がいたとも知らずに。

「グアルディオラは泣きそうでしたね」と隣にいた元通訳は語る。黒幕のくせに。


 ペップことグアルディオラは、90年代に栄光のドリームチームのキャプテンを務めた、生粋のバルサっ子だった。多くの関係者の反対を押し切り、線が細く足も遅い若造グアルディオラをトップチームに引き上げたのが、当時バルサの監督に就任したばかりのクライフだった。グアルディオラは持ち前のテクニックとリーダーシップで、師の期待に応えた。


 グアルディオラがあまりにも美しくパスを散らしすぎてドリームチームがゴールを忘れた敗戦後、若きクライフ監督は、若きグアルディオラをこう評した。

「彼はよくゲームを創ったが、ちょっと創り過ぎた」

 敗戦後の記者会見場は、ほんの少し笑いに包まれた。

 十数年後に師と同じ肩書きで記者会見に臨んだグアルディオラは、信司をこう評した。

「彼はよくゴールを奪ったが、ちょっと奪い過ぎた」

 大勝後の記者会見場は、ほんの少しの笑いも起きなかった。


 直後の「へっぷしょい!」という信司のくしゃみが、ロケットランチャーのように場内に響き渡った。信司はその時、順番待ちで舞台袖にいた。もう十万人の噂の的だった。監督と入れ違いで信司が登場。拍手は少なめ。すし詰めの記者会見場のど真ん中で、信司はフラッシュを浴びた。まだシャワーも浴びていなかったのに。


記者「こんな質問は記者生活で初めてですが、今日のスコアボードの乱痴気騒ぎは、どこまでがラッキーで、どこまでが狙ったものだったのでしょうか?」

信司「すべてが狙ったもので、すべてがラッキーでもあります。それは日本の漫才にも通じるところがあります」

記者「ちょっとよくわからないんですが……」

信司「なるほど、サンドウィッチマンですね。ほらあの、伊達さんの相方の……」

記者「……サンドウィッチの話は置いといて、でも、でもですよ、さすがに45分で22回のラッキーは多過ぎでは? イタリアならもう得点王確定ですよ」

信司「一点目は、シャビの素晴らしいラストパスのおかげです。あれで波に乗れました。日本には、バファリンの半分は優しさでできている、ということわざもあります。ゴールがバファリンだとすれば、シャビのラストパスこそがその半分、つまり優しさです。僕はもう半分、つまりクスリを決めただけです。いや、僕のバファリンはむしろ優しさ百パーセントです。僕に次から次へとラストパスをくれたチームメイトの優しさ、チャンスを与えてくれたグアルディオラ監督の優しさ、スタンドで親指を上や下に向けてくれたファンの優しさ、そんな優しさが、22回の乱痴気騒ぎを産んだんです」

記者「ちょっとよく……」

信司「わからないなら、伊達さんの相方だって、僕だってそうです」

記者「たとえば、シャビのラストパスがあれば、私のような太っちょでもレアル・マドリー相手に22点決められるって言うんですか?」

信司「もちろんです。次回、アウェイのエル・クラシコでは、そこのショップで売っている僕の名前入りのユニフォームを着て、ランブラス通りの映画館で売っているジャッキー・チェンのお面をかぶって、何食わぬ顔でベンチに座ってみてください。監督が僕と間違えて後半から出してくれるはずです。ばれたら僕が責任を取ります。ユニフォームも僕が買い取ります。どうせ使いますから。サインはいいですよ、自分でしますから」

記者団「だっはっはっはっはっはっ……」 

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