第4シュー ゴムボール

 第4シュー  ゴムボール


「違います。私はマイクのスポンジで信司君をかわいがっていただけです。スポンジで」J・A(女子アナ)


 初の北海道チャンピオンとなったこぐまFCは、創設以来初の津軽海峡越えを果たした。のちに太平洋やインド洋を越えるための、ちょっとしたウォームアップだった。

 桑田によると、大日本航空の見目麗しき新人スチュワーデスは、こぐまたち一人一人に、シャビに似たクリクリおめめの飛行機の絵がプリントされたゴムボールをプレゼントしてくれたそうだ。「私だって欲しかったですよ」

 信司の両親によると、10歳の信司も飛行機は初めてだったらしい。十四年後にW杯に向かう飛行機の中で同じプレゼントを同じキャビン・アテンダントに自分から要求することになろうとは、夢にも思わなかっただろう。


 全国大会の会場は、東京の「聖地」よみうりランド。低所恐怖症の方にとっては、観覧車の「聖地」である。土のグラウンドから緑のピッチへ。よみうりランドの緑の芝に初めて立ったこぐまたちのはしゃぎっぷりが、目に浮かぶようだ。「東京でべこ飼うだあああ」と、吉幾三先生も言っている。


 一応全国大会出場ということで、米粒ほどながら、こぐまFCの名は週刊ゴールポストに刻まれた。

「初戦の前から泣きそうでした」と桑田。

「夜中に先生が宿舎のロビーで読んでいたのは、デラベッカムでした」と森崎。

 近い将来、こぐまの一人が人気グラビアアイドルのように毎週毎週週刊ゴールポストの表紙を飾る日が来るなんて、二人も夢にも思わなかっただろう。


「そういった選手としての名誉に比べれば、優勝賞品なんて、缶コーラ一年分やディズニーランド招待券なんて、子供たちにとってはニンジンのニの字にもならないですよ」と桑田。

「六年生はコーラ派、五年と四年はまだミッキー派でした」と森崎。


 Jリーグのスカウトも泡を吹いて倒れるほどの信司のゴールでトーナメントのあみだくじを上になぞっていくたびに、守護神森崎くんは観覧車派になっていったらしい。「信司がゴールを決めてる間、暇で暇で、観覧車の数を数えてました」

 のちに信司の研究論文を書いてあらゆる学界からシカトされる森崎は、小四から読書家だったのだろう。試合中に観覧車を見上げては、中のカップルが宿舎のロビーのデラベッカムのどのページと同じポーズかを確認していたに違いない。


 馴れない東京、宿舎のカレー地獄(四日連続!)、べこのいない芝、不要な練習とアシストの日々に退屈し始めたこぐまたち。信司に出鱈目なラストパスを送ってから見上げるよみうりランドの観覧車は、いずれ乗ることになるスプラッシュ・マウンテンやビッグ・サンダー・マウンテン、どんなマウンテンよりも偉大だったに違いない。


 決勝戦を控えたロッカールームは、スクール・ウォーズよりもインディ・ジョーンズ風。森崎の証言を元にした再現ドラマが、こちら。


桑田「そろそろあの観覧車に乗りたい、なんて奴はいるか?」

 一同沈黙(もちろん)。

桑田「そんな奴は今すぐ帰りの飛行機に乗って、ルスツリゾートにでも行け!」

 一同沈黙(帰りの飛行機代を自腹で払うにはお年玉の季節を待たないと)。

桑田「ここは聖地だ! 俺たちがやるべきことはなんだ?」

 一同沈黙(ボールを奪って、信司にパス)。

桑田「……そうだ! 聖杯を奪うんだ!」

こぐま「オッ、オオオオ!」


 イレブンの中のテンが「ボールを奪って、信司にパス」を胸に秘め、栄えある全日本少年サッカー大会決勝のピッチに元気よく飛び出した。

 イレブンの中のワンは「ボールをもらって、ゴールにパス」を胸に秘め、センターサークルに向かってとぼとぼ。


 不謹慎を承知で書こう。「老後」が来なかったことは、信司にとっては救いだったのかもしれない。信司は、絶賛公開中(2013年6月封切)の伝記映画のタイトルのように、『ゴールの奴隷』にされずに済んだ。パジャマの上からサムライブルーのユニフォームを着せられ、車椅子のまま左足を振らされずに済んだ。


「初めての全国大会なのに、信司は一度も得意のドリブルをしませんでした。あれだけ練習していた右足のドリブル、股抜き、シザース・フェイント、クライフ・ターンも、すべて黄金の左足の犠牲になったんです」と森崎。

「フィーバー中のパチンコ台から離れる客はいません」と桑田。


 女性イレブンは、のちに信司のこんな(架空の)インタビューを載せている。

「一対一のコツは、敵の膝を見ることです。膝の角度や向きで、敵がどっちに体重が乗っているか、つまりどっちなら抜けるかがわかるんです」

 これは桑田のように週刊ゴールポストから学んだ紙上の空論ではない。信司自身が何度も失敗と成功を重ね、体得し、女性イレブンに(勝手に)すっぱ抜かれたものだ。


(ゴールは嫌いじゃない。けど……そればっかだ。……わかってる。そのほうがいいって。みんなもそれでいいみたいだし。でも……このまま優勝カップで一年分のコーラを一気飲みして、ミッキーの太ももの裏をキックし……ンジ、シンジ、信ジ、信司……)

「……信司!」という仲間のカウントファイブで我に返る信司。

 決勝はとっくにキックオフ。からのラストパス。

 右サイドでぼけっとしていた信司は、慌ててその下手くそなラストパスを右足の裏で止め、両手の指の関節をポキポキ鳴らし、左足を振り抜いた。

 ゴール。以下同文。


 聖杯を掲げたあとで、得点王、ベストゴール賞、MVP、MIP、MBA、M&A、MIT、MIB(ミスターS)などの個人賞も独り占めした早野信司は、人生初のインタビューに臨んだ。


女子アナ「テレビの前のお父さんやお母さんに、一言メッセージをお願いします」

信司「これどうせ深夜の放送だろうから、テレビ見てるなら、もう消して寝ていいよ。テレビは目にも脳にも悪いんだって」


「信司はそのアナウンサーのおねえさんに、カメラが回ってないとこでマイクでほっぺをグリグリされてました」と森崎。「それもスポンジじゃなく、ケツの硬いほうで」

 桑田は表彰式のあと、日本一となったこぐまたちを集め、せっかくだから観覧者に乗ろうと言い出した。

「僕は反対でした」と森崎。「男同士で観覧車なんて……どうせなら僕も信司みたいに、年上のおねえさんに二人きりでグリグリされたかった」

 森崎によると、信司はマイクのケツにこう言ったという。

「今夜はコーラファイトでどんちゃん騒ぎ、明日はミッキーマウス相手に握手会なんです。いやいや、こっちが握手してあげるんです。人気者はつらいですよ」


 僕が女子アナでも、こんなガキはマイクのケツでほっぺをグリグリの刑だ。


「ドーハの悲劇が早野信司という怪物を生んだ」と、信司否定派の蹴球現代ヒュンダイは書いている。「核廃棄物がゴジラを生んだ」と、ゴジラ否定派の冬映は描いている。ゴジラが次に踏み潰すのは、北朝鮮やパキスタンかもしれない。


 ともに早野信司記念館の副館長である信司の両親へのインタビューは、札幌郊外の羊が丘、有名なクラーク像の指の先に(東日本大震災の復興予算で)建てられた早野信司記念館の館長室で実現した。(文科省からの天下り)館長がいつもそこにいなかったからだ。


 1993年のアメリカW杯予選。最後のイラク戦。当然テレビは生中継。が、7歳の信司は早々に布団で寝息をたてていたという。結果的にはそれで良かった。「ドーハの悲劇」は、これから革のスパイクをねだろうというサッカー小僧には刺激が強すぎる。

 オフサイドすら知らない信司の両親でさえ、毎日のようにテレビが煽る日本のW杯初出場決定の瞬間を、テレビの前で待ち構えていた。テレビの独壇場だ。世の中には知らないほうがいいルールもある。ゴン中山の二点目はオフサイドだった。


 だが、イラク人は屈しなかった。1対2とリードされて迎えた後半ロスタイム。これを凌げば日本は朝までどんちゃん騒ぎという最後のコーナーキックで、同点ゴールを頭で叩き込む。「アラー」でジャンプ、「アクバル!」でゴツン、日本のW杯初出場が「パー」


 いやいや、イラクにとっても、アメリカ行きを懸けた日本戦は聖戦ジハードだった。日本に勝ち、別会場の第二次朝鮮戦争で韓国が北朝鮮に引き分けか負け、また日本と引き分けても、韓国が北朝鮮に負ければ、大逆転でイラクの予選突破という可能性があった。

 イラクは予選の二年前、湾岸戦争なる国際大会でアメリカに負けている。本大会に出さえすれば、開催国アメリカとのルールブックに則ったリターンマッチの可能性もあったのだ。

 イラクはなんとか日本に追いついたが、韓国が北朝鮮に勝ったため、イラクのアメリカ行きも「パー」。

 このB面の「悲劇」を、大日本メディアはシカトした。イラクの神がかり的な粘りを聖戦ジハードの線で報じたワイドショーはなかった。イラクに対する審判団の不可解な判定(なぜか日本戦の前夜に出場停止選手が追加された)が続き、開催国のアメリカがイラク絡みの試合で審判団を買収していたという噂があったにもかかわらず、それもテレビはシカトした。リモコンはテレビの電源をオンにするが、人間の想像力をオフにする。


 ロスタイムにボールが日本のゴールネットを揺すった瞬間、信司の両親は絶句した。日本中が絶句した。信司もおそらく、その瞬間は寝息を止めていただろう。


「悲劇」から四年後の1997年秋、日本は「奇跡」のW杯初出場を決めた。11月でも灼熱のマレーシア、ジョホールバルで行われたイランとのプレイオフで、二度も追いつき、延長戦での岡野の劇的なゴールデンゴールでフランス行きのチケットを手にした。


 11歳の信司は、日付が変わったにもかかわらず、テレビの前で両親と正座していた。岡野のゴールが決まった瞬間、両親は絶叫した。日本中が絶叫した。信司以外は。「信司はその時、正座のままグースカ寝ていました」と父親は語る。

 足の痺れは眠気覚ましにもならなかった。こぐまFCを一足お先にジュニア世界一に導いた信司にとって、さんざん決定機を外しまくったあとの岡野の決勝ゴールは、失敗した手作りケーキに無理矢理立てたロウソクのようなものだったのだろう。

 それもそのはず。過密日程のままわずか二日前にジョホールバル入りしたイラン代表は、前半からピッチをフラフラさまよっていた。ベンチの選手まで足がつっていた。そんなゾンビ相手に、延長戦でやっと3対2。「奇跡」が聞いて呆れる。


 イビチャ・オシムは、日本代表の条件を聞かれ、「日本人であること」と答えた。

 本物の奇跡を見たいなら、みんなの岡ちゃんは札幌の小学校に足を運ぶべきだった。もしもフランスに飛ぶ「前に」カズを外し、札幌の名もなき小学生をフランスW杯に連れていったなら、日本中の期待をランドセルで背負ったSHINJIが、悔しがるジダンの頭に似た黄金のカップをパリの夜空に掲げていただろう。

 その時、武史は動かなかった。ゆえに、98年、初出場の日本代表は三連敗でフランスを去った。「フォワードの柱は城」という武史の大会直前の発言は、おフランスかぶれのサッカー専門誌ル主水に、いらぬ誤解を与えただけだった。


「日本には木で建てられた城があり、当然柱も木である。おまけに日本は野球大国ときている。Jリーグのフォワードはバットでのシュートが認められているのかもしれない」


「柱」と持ち上げられた城は、たしかに、帰国直後の成田空港で「人柱」となった。心無い野球ファンに水をかけられた。ルール通りに足でボールを弾き飛ばし、その多くをスタンドに突き刺したのに。

 もしも城が水よりビールが安いチェコで生まれていたなら、チェコの空港でチェコの野球ファンにビールかけをしてもらえただろう。


 2010年南アフリカW杯に向けて、「代打の切り札」岡田武史は、不死鳥のごとく代表監督の座に舞い戻ってきた。


監督「目標はワールドカップ、ベスト4です」

記者「……グループリーグの、という意味ですか?」

監督「ノーコメントです」 

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