第7話

「それで、例の中尉が寄こした情報。どれほど信用できるのかね?」

「正直に申し上げて、驚きの連続です。我々としても得る所の大きい技術資料です」

 連隊長の問いに半袖のワイシャツ姿のいかにも技術屋といった風体の男は、笑みを堪え切れない様子で答える。

「つまり、これは妄想の類では無い、と?」

「もちろんです。疑問点は無いでもありませんが、発想としては大胆な部類に入るでしょう。ただ、その問題点というのが……」

「時空噴出か」

「長時間運用すれば確実に起こるでしょう」

「やはり、止めない訳にはいかないか……対処法はあるのかね?」

「本格稼働する前に完全破壊するしかありません。今、破壊の方の専門家たちに一通りの事をレクチャーしてるはずですが……」

 彼の言葉に連隊長は薄く笑みを浮かべる。

「君たちのレクチャーはわかりにくいと評判だがな」

「こちらは充分噛み砕いているつもりです。これ以上噛み砕いたら、意味が通らなくなるほどに……」

「そうか」

 ミーティングルームの惨状を想像し、連隊長は小さく溜息を吐いた。


「ネゲントロピーって何だ?」

「ぶっ壊すのはわかったけど、それで俺たちは無事で済むのか?」

「均衡が保てるんなら時空噴出も起きないんじゃなかったのか?」

「時空噴出の時みたいに湯船で例えてくれ」

「つまりあれか。餓死するって事か?」

「並行世界の話だぜ? 世界が餓死するってなんだよ?」

「知らねえよ。だって、技術屋がそう言ったんだぞ?」

「お前は技術屋が言えばズボン頭から履くのかよっ」

 連隊長の想像通り。第一第二小隊の集まったミーティングルームは混乱の最中にあった。質問が交錯し、隣や前後の、あるいは前後左右の仲間たちはついさっき聞かされた未知の理屈について頓珍漢な議論を重ねている。

「わーったわーった。あんた等が俺の話をさっぱり理解してない事はよーく解った!」

 ホワイトボードを背に立ち、童顔に不精ひげを乗せた小柄な技術者が大声を張り上げる。

「けどなぁ、聞きたい事があるなら手を上げて聞くくらいの事はしてくれ。小学生じゃないんだから」

 技術者はそう言って、改めて「質問は?」と問う。その瞬間部屋中の隊員の手が上がる。

 彼は疲れきった様子で一つ大きな溜息を吐いた。

「……でもさ、実際あの人の話、わかる?」

 佐伯が隣に座る彰に囁くように問う。

「全然」

「だよねぇ」

「でも、隊員全部集めてこんな話するって事は、やっぱり……」

「うん。彼女の情報は正しかったんだろうね」

 葉月は自らの宣言通り、妹の研究を破壊するために必要な情報を提供した。その受け渡しには何度か彰も同行したが、そんな重要な資料をどうやって彼女が持ち出したのか、ついに聞く機会は無かった。

 簡単な事では無かったはずだ。だが、彼女はそれを成し遂げた。佐伯の言を借りれば戸館彰を信じての事だ。

 だとしたら、それに応えるのが多分一番誠実なのだろう。

「じゃあ、もう一度説明するぞ」

 技術者があきれ果てた様子で言う。

「時空噴出は世界間で起こる対流だってのは既に理解してるよな? 熱力学第一法則やエントロピー増大則に従って互いの世界の持つ熱量が均一化していく訳だ。だが、これはあくまで繋がっている世界が、こちらとあちらの二つしかない時に限っての話。今回あちらの開発した技術は、同時に多数の並行世界へ扉を開いて強引にあるいは擬似的に開いた系を作りだす、ネゲントロピーの発想だ。

つまり対流が起きればエネルギーは方から方へ流れる。すると熱い方はどんどん温度が下がる。だが、急激に下がっちゃ困る訳だ。ならどうするか。さらに別の世界と繋いで新たに熱量を補充しようって訳。

 ただ、イッコ増やしたらそれで良いって訳でも無い。流入する熱量が大きすぎればやはり時空噴出が起こる。だからさらに別の世界へ扉を繋いで余分な熱量を排出する。様々な並行世界へ、扉を断続的に開閉させる事で自分たちの世界の持つ熱量の総量を維持するって訳だ。これをあちらさんは次元均一化装置と呼んでいるようだが、我々はこいつをランダムハブエンコーダー、RHEと名付けた。

 まぁ、それは良いとして、このRHEで守られるのはあくまで自分たちの世界だけ、熱量を奪われる方や排出される方。メインに繋がっている我々の世界はどんどん熱量が変化して最終的には破滅する。だから、本格運用させちゃいけない。おわかりかな?」

「あー……難しい理屈は良くわかんねぇんだけどさ」

 隊員の一人が手を上げながら口を開く。

「ようするに、そのランダム何とかをぶっ壊せば良いんだよな?」

「……そうだよ、ぶっ壊せ」

 技術者は溜息混じりに告げる。溜息には何十何百の恨み言が篭っていた。しかし、ミーティングルームには「なぁんだ、それならそうと早く言えよ」という空気が蔓延していた。

 その空気を察してか、技術者はもう一つ溜息を吐く。

「……他に質問は?」

「はい」

 佐伯が手を上げる。

「そこの二曹。どうぞ」

「そのRHE、でしたっけ? それを破壊して部隊が無事でいる保証は?」

「作戦時はこっちも扉を開くから、RHEが作動停止してもDOORが被害を受ける事は無い」

 それから技術者は一通りあたりを見渡し、他の質問が出ないのを確認してくたびれ果てたように呟く。

「……もう帰っていいか?」


「帰ってたのね」

 葉月が軍帽を脱ぐタイミングを見計らったように執務室にやって来た皐月が言う。

「将校があまりうろうろすると部下に示しがつかないって、前にも言わなかったかしら?」

「……もう示しをつけたい部下も居なくてな」

「姉さん、子供みたいな屁理屈を捏ねないで。実戦経験者はどこだって欲しがっているわ」

「……それは、わかっている」

 そう、百時間の訓練よりも一時間の実戦が兵士を強靭に仕上げる。そして、そうした実戦経験者が一人いるだけで部隊の精神的な強度は何倍にも増す。それが、将校や下士官といった部隊の中核を成す者ならなおさらだ。

 次元遠征実験隊は所詮日陰の部隊だ。経験を積んだ優秀な部下が、少しでも陽の当たる場所へ戻れるのであれば、それは上官として喜ばしい事だと思う。

 以前の葉月ならそのように喜んだだろう。だが、今は皐月の所業と軍の思惑に気づいてしまっている。とても、手放しで喜ぶ気にはなれない。

 この人事は、間違いなく皐月の意向を受けて軍が発したものだ。館山葉月から子飼いの部下を奪い、変な気を起させないがために。

「けど私、少しうれしいのよ?」

「何故だ」

「姉さんが私の研究に興味を持ってくれたみたいだから」

「……そうか」

 妹の屈託のない表情に、葉月はどんな表情で応じれば良いのかわからなくなった。

 今まさに裏切りは進行中なのだ。

 軍と国と人類の繁栄の為に人の道を踏み外す妹と、倫理などというあやふやなものを拠り所にして唯一の肉親すら裏切ろうとする姉。

 果たしてどちらが卑劣なのだろうか。

「……姉さん、大丈夫? 最近疲れてるんじゃない?」

 ぎくりとする。

「そう、かな」

 出来るだけ平静を装う。実際疲れているのだが、その理由を悟られてはならない。

「無理してるでしょう? 多分、恨んでもいるでしょうね」

 動揺が収まらない。彼女の言葉にどの意味が込められているのか、さっぱり見当がつかない。考えようとすればするほど思考が鈍り動悸となって全身に跳ね返ってくる。

「突然姉さんの部隊をバラバラにして、挙句見せた物が次元均一化装置だものね……姉さんみたいな性格なら、たぶん我慢ならない事だと思う」

「いや……」

 たとえ皐月が心からそう思っていたとしても、彼女の所業が消える訳では無い。彼女の行いは間違っている。彼女の言葉に惑ってはいけない。私情の信義に公道を見失ってはいけないのだ。

 公道の為に彼女の企みを討つ事が帝国臣民を救う事になり、軍人として国に報いる事に繋がって行くのだ。

 軍人として、自分は何も間違ってはいない。

 葉月が揺れる心を叱咤した刹那。

「ふふ……姉さん、嘘が下手ね」

 妹がコロコロと笑う。一瞬、血の気が引く。しかし、同時に妙な安堵もあった。これでもう彼女に嘘を吐かないで済む、と。

 葉月はゆっくりと息を吐き、目を伏せる。そして、皐月の口から放たれる弾劾の言葉を待った。

「姉さん……あなたが、本質的に賛成していない事は充分承知しているわ。けれども、姉さんは何も言わず私のそばにいてくれた。何故なんて聞かないわ。ただ、感謝ばかり……ありがとう。こんな妹を見捨てないでくれて……」

「…………」

 呼吸が止まり、思考が止まった。ただひたすら自己嫌悪に腸が煮えくりかえっていた。

 今すぐにでもこの汚らわしい内臓の全てを引きずり出してしまいたい衝動に駆られる。

 彼女は妹なのだ。唯一血の繋がる、たった一人の妹なのだ。その妹の感謝の言葉に応える事が出来ない自分はいったい何なのか。

 彼女の装置が完成すれば、もっと多くの臣民が装置の中に飲み込まれていくだろう。そして、彰の住む世界はおろか、あらゆる世界を危機に陥れる。彼女の発明は人間が持ってはいけない力だ。

 その事はわかっている。だが、それは本当に彼女を裏切り、全てをかなぐり捨ててまで止めなければならないものなのか。

 愛する唯一の妹を止めるために、彼女の愛情を裏切るのは、果たして正義なのか。

「……姉さん、大丈夫?」

 不安そうにした皐月が頬に触れる。反射的に視線をそらしてしまう。

 彼女は寛容かも知れない。だが、研究を止める事は無いだろう。次元跳躍の完成こそが己が身に課せられた天命だと信じている。

 姉だからこそわかる。自分もそうだからわかる。信じたなら、もう止められない。

「御免なさい。姉さんにとっては複雑よね……ちょっと、調子に乗り過ぎたわ」

 彼女は心の罅に沁み込むような優しい声で言い、静かに退室する。

 もう直立を保つことなど出来なかった。葉月は跪くように臥して、強靭が故に壊れず、軋みを上げ続ける心の痛みに耐えた。それでも、食いしばった歯の隙間から洩れる嗚咽を堪える事は出来なかった。

「……私は、本当に正しい事をしているのか? 彰、教えてくれっ……言ってくれ……私の進む道の正しいかを……」


「……君らしくない、奇抜な作戦だな」

 連隊長は広瀬の立案した作戦の概略をモニター上に見ながら呟いた。

「恐らく、これが最もローリスクかと」

「それはそうだろう。で、第二小隊から意見はあるかね」

 広瀬の隣で直立の姿勢でいる石神に目を向ける。

「作戦自体について、異論はありません。しかし」

「しかし、何だね」

「作戦の中核が万全な第二小隊では無く、未だ消耗から完全に立ち直っていない第一小隊である事に、疑問を感じざるを得ません。本作戦については事前に広瀬三尉とも協議を重ねましたが、この点について納得のいく説明は成されていません」

「だ、そうだが?」

 すると、広瀬は表情を崩す。いつもの飄々としたものでは無く、肉食獣を思わせる獰猛さを内に秘めた笑みだ。

「わざわざ説明せにゃわからんのか?」

「まぁ、大方の想像はつくが……」

「ああ、弔い合戦だ」

 石神に言い、広瀬は連隊長へと向きなおる。

「現在第一小隊は一個分隊を欠いたままの状態であります。しかし、今作戦に於いてはその損失を補って余りあるほど士気軒昂にして錬度充分であります。小隊長の贔屓目を抜きにしても、作戦中核を担うには十分な戦力であると判断いたします。また、本作戦にはディメンジョンエンコーダー、戸館彰が必須であり、その所属小隊が作戦の指揮統括を行う事が円滑な任務遂行に不可欠である事も加えて報告いたします」

 連隊長は短く溜息を吐き、広瀬と石神、二人の顔を交互に眺める。

「……広瀬三尉、存分にやりたまえ。ただし、第二小隊は充分に活用しろ。この作戦に失敗すれば、戦争か世界の破滅の二つに一つしかない」

 広瀬は一瞬安堵の表情を浮かべるが、すぐに興奮の紅潮がそれに取って代わる。

「ありがとうございます」

「二人とも準備があるだろう。もう下がり給え。後は、二人揃って良い報告が聞ける事を待っている」

 二人は指先に緊張を乗せた硬い敬礼をして連隊長のもとを去った。


 隊内はいつの間にか緊張した空気に包まれていた。正式には作戦の発動はまだ成されてはいないが、小さな部隊だ。作戦の噂はすぐに広まる。

 努めて冷静なつもりではいるが、傍から見れば自分もそんなぴりぴりとした空気を纏った一人なのだろう。

 食堂で小銃のメンテナンスをしていた佐伯は、手を休めてあたりを伺う。

 同じように銃のメンテナンスをしている者、コーラの缶を握りしめている者、少し遅い昼食を摂っている者。している事は普段と大差ない。だが、話声は低く、目には独特の鋭さが宿っている。

 肉体は常に臨戦態勢だ。だが、人間である以上、精神は常に戦闘態勢という訳では無い。

 こうして少しずつ、人間から戦闘機械へと精神をシフトしていくのだ。

 そういう意味では作戦は既に始まっている。

「すごい空気だな」

 やって来た彰は佐伯の正面に腰を降ろしてそう呟いた。

「……まあね」

「この間も合同で出たけど、こんな感じじゃなかった」

「噂によれば、今回は決戦らしいからね。気合いの入り方、全然違うよ」

「ああ、なんだか怖いぐらいだ」

 一瞬、彰と視線が絡む。嬉しい。だが、その感情はすぐに別のものに上書きされ、表情に出る前にかき消される。

「……そう言えばさ」

「なに?」

 彰は身を乗り出し、一段と声を落して告げる。

「今回の先鋒、うちらしい」

「うちって、第一小隊?」

「うん」

 静かな食堂は一層静まり返り、彰の言葉に身を傾けていた。何人かが立ち上がり、素知らぬ顔で食堂を出ていく。

「しかも、最先頭は俺たちだって」

「アタシとキミ?」

「うん」

 彰が自分でも信じきれない様子で頷く。

 並行世界で作戦を行う場合、ディメンジョンエンコーダーはもっとも守るべき対象だ。死傷すれば部隊全部が並行世界で消滅してしまう。だが、佐伯は彰と違い、妙に納得できた。

 恐らくなどと断るまでもなく、佐伯は彰の知らない任務を一つ、既に帯びていたからだ。

 とはいえ、今一つ作戦の概要が見えてこないのも確かだ。

「ポイントマン、て事なのかな」

「いや、俺もそこまで詳しくは聞いてないけれど……後でブリーフィングとかあるんじゃないか?」

「あるだろうけど。てか、なきゃ困るよ」

 緊張してるとは言っても、やはりどこか呑気さというか、素人臭さを感じる彰の様子に佐伯は小さく笑みを浮かべる。そして、同時に、「やっぱり彰はこうでなくては」と妙な安心感を覚えた。

 その安心感は、張り詰めつつある神経になんだか心地よかった。


 お世辞にも心地よいとは言えない有様だ。

 葉月は自分の心象風景そのままと言っても良い、鉛色の雲が渦巻く空模様を見上げた。

 彼女は噴水を背にするベンチに腰を降ろしていた。昼休みの時間から少し外れたせいで商社街にあるこの公園に人影はまばらだった。

 だから、公園に入って来た二つの人影が、自分を指向している事もすぐにわかった。

「……DOORの人間か」

「よくわかったな」

「歩き方が軍人だ。身分を隠すつもりがないだろう?」

「あいにくどこからでも帰れるものでね」

「それで、そっちの伊達男はなんだ。彰……いや、戸館はどうした?」

「ああ、俺は坊主の代理だ。気にしないでくれ」

 伊達男はソフト帽を軽く脱いで会釈する。苦手な雰囲気の男だ。葉月は取り敢えず視線をもう一人の軍人気質の男へ向ける。

「それで、お前は?」

「名乗るならそっちからだ。中尉殿」

「館山葉月だ」

「広瀬高雄。三等陸尉……少尉といった方がわかりが良いか」

「不遜な男だ。階級章への敬意を忘れたか」

「そんなつまらん事を気にする小娘だとはな。それとも、戸館が来なくて不服か?」

 わずかな沈黙。伊達男はいつの間にか離れて、素知らぬ顔をしている。

 正直に言えば、彰が来なかったのは不服だった。そして、階級を持ち出すなどという、普段なら決してやらないような無様な物言いもした。

 葉月は改めて自分の精神状態を思い知った。このままでは、ぼろを出すまでそう長い時間はかからないだろう。

「……それで、用件は何だ」

「具体的な日取りと内容が決まった」

 広瀬はそう言って手にした鞄から書類を取り出す。

「ずいぶん薄いな」

「中尉殿のパートだけだからな」

 厭味を無視し、葉月はさっそく表紙をめくる。タイプされた文章はいかにも軍人らしく、簡潔で明瞭なものだった。そのおかげで部分とはいえ、作戦の全体像もかなり正確に読み取る事が出来た。

 だからこそ、自分に与えられた役割もまた正確に把握する結果となった。

「……貴官は、残酷な男だな」

「将校は少し残酷なくらいがちょうど良い」

 その言葉が本心でない事はすぐにわかる。残酷なだけでは務まらないのもまた将校だからだ。

「怨むなら怨め。俺は作戦を成功させたい」

 愚直とさえ形容できる率直な言葉に、葉月は思わず笑みをこぼす。個人的な好悪はともかく、軍人として広瀬は充分信頼に足る男だと確信した。

「私から全てを奪って、その言いぐさか……だが、謝らなかっただけよしとしよう」

「謝るつもりなら、こんな作戦を立てたりはしない」

「そうだな……彼我戦力比はおよそ二倍。こうでもしなければ勝ち目はないだろう。だが、恨み言の一つも言いたくなる作戦だ。いつもこんな調子か?」

「……俺は部下想いで通ってるんだ」

「なら、その部下に私も加えてほしかったな」

「誰にでも愛想が良いわけじゃあない」

 もちろん恨み言だが、ほんの軽口のつもりだった。だが、広瀬は真面目腐って応じる。

 彼も将校だ。葉月に与えた役割がどれだけ過酷なものか彼自身よくわかっているのだろう。

 不遜な態度で取り繕った所で、結局広瀬という男はどこまで行っても軍人なのだ。

「……わかっている。そうでなければ将校は勤まらん。ところで」

 作戦計画を突っ返しながら葉月が問う。

「何だ」

「貴官は、侵入に成功した指揮官か失敗した指揮官か?」

 広瀬はポーカーフェイスを維持していた。だが、まとう空気が明らかに重くなった。

「……仕返しのつもりか?」

「いや、あの引き際には感心していたのだ。巧みに攻める指揮官はいくらでもいる。しかし、巧みに退ける指揮官は滅多にいない」

 それは、世辞でも社交辞令でも無く、葉月の心から思うところだった。

「そういう芸当のできる指揮官がつけば、この作戦も何とかなるだろう」

 これは世辞だ。この程度の言葉で慢心するような男では無い事は、既に確信している。

 彼女の心内を察してかそうでないのか、広瀬はようやく薄く笑みを浮かべる。

「そうか……お飾りの将校って訳じゃないんだな。いや、中尉にしとくにゃ勿体ないタマかも知れんな……」

 望外の言葉に、葉月は少し面喰う。だが、ここではにかんで見せるのも少し癪だ。

「その珠を、貴官は砕こうとしているのだぞ?」

「……ああ、俺は残酷な男だからな」

 そう言った広瀬の声音からは微かに自責の色が見て取れた。


 革の長靴が立てるごとりごとりという武骨な音は、新月の静かな夜陰に幾重にも反響して響いている。

 歩道に設えられた瓦斯灯の明かりだけが点々と連なり、車道の中央を走る軌道がその光を鈍く反射していた。ともすると距離感を失いそうな景色だ。

 高く足音を響かせているのは緊張の面持ちの葉月だった。

「こうして、また並んで歩く事が出来るとは、意外だった」

 硬い声のまま、呟くように言った。

「……ああ」

 彰は何と応えて良いかわからず、生返事をする。ベルトに通したホルスターが、やけに重く感じた。

「葉月は、今日はそれだけ?」

「そうだ」

 葉月は軍刀一振りの他にホルスターに収めた拳銃だけを身につけていた。これから襲撃に向かうと言うのに、他に武器らしいものは持っていない。

「色々考えたのだが、結局使い慣れた物に落ち着いてしまった……どうせ室内での遭遇戦だ。しかも勝手知ったるなんとやらだ。彰を不安にさせるような事は起きないだろう」

 葉月は緊張している。当然の話だ。彼女に与えられた役割を考えればこれでも緊張しすぎという事は無い。

 だが、一つだけ意外な事がある。葉月の緊張を冷静に読み取れるほどに自分が落ち着いている事だ。

 確かにホルスターは妙に重いし、心臓も高なっている。だが、汗を掻く訳でも身体が震える訳でも無い。ただただ、肉体が最高のパフォーマンスを発揮しようと暖機を続けている感じだ。今すぐにでも戦い始めたい、そんな気にすらなってくる。

「なぁ、彰……」

 不意に立ち止まった葉月が問う。

「私は、正しい事をしていると思うか?」

 熱かったはずの身体が、急に冷えた気がした。背中に汗が噴き出すのを感じた。とっさに口を開くが、喉が震えて上手く声が出ない。

 彰は彼女になんと答えたら良いのかわからなかった。そして、自分の浅はかさと矮小さを思い知った。

 彼女は全てを賭している。今まで築き上げたすべての物を打ち捨ててこの作戦に臨んでいる。自分はどうだ? この作戦に何を賭けているのか。

「わかっている。わかっているさ……」

 攻めあぐねるように口を開け閉めしている彰に葉月は薄く笑う。その笑みは彰の胸を深く抉る、儚い笑みだった。

「だが、嘘でも良いから君の口から聞きたかったのだ。お前は正しい、と……」

「……葉月が、これからする事は、正しい事だ。俺が保証する……」

 なんて空虚な言葉だろう。自分が世界の命運を担う一人だなんて嘘だ。本当にそんなに大きな物を背負っていたら、この言葉がこれほど空しく感じる事は無いはずだ。

 喉の奥からこみあげる慙愧に奥歯を噛み締めた刹那。

「ありがとう。これで心置きなく戦える」

 葉月の声に張りが戻っていた。中身の伴わない、ただの言葉だというのに。

 彼女の背負うものに釣り合う何かが、自分にあるのだろうか。

 それはたった一つしか思い浮かばない。そして、それを賭けた所で彼女と釣り合うのかも疑わしい。だが、そうだとしても。彰にはそれを賭ける以外の選択肢は無かった。

 自分が葉月の為に賭けられるもの、それは自分の命だ。

「後は佐伯がどこまで巧くやってくれるかだな。ここで失敗したら目も当てられん」

 瓦斯灯の下に歩哨所が浮かび上がる。腕時計を確認する。佐伯は既に配置についているはずだ。

「ああ、行こう」

「私が喋る。君は適当に頷いていろ」

 短いやり取りの後、歩哨所の前で葉月は軽く敬礼する。

「館山中尉っ。どうされましたか、こんな夜更けに」

 歩哨に立っていた兵士が弾かれたように直立の姿勢をとる。中に詰めていた者も釣られて立ち上がる。

「……ああ、ちょっと用事があってな」

「用事、ですか?」

 怪訝な顔をする歩哨に、葉月は少しぎこちなく笑みを浮かべる。

「その、なんだ……職場を、ちょっと見せたいと思ってな」

 歩哨の視線が彰に向き、納得したように小さく声を上げる。

「あ、例の書生風ってアレですか?」

「そうだ。この際だから紹介しよう。足立一等も出て来い」

「はっ」

 詰所の奥に控えていた兵士は呼ばれるままに表に出る。

 武器を手にした二人の兵士が並んだ刹那。

 足立と呼ばれた兵士が突然崩れ落ちる。

「……ひっ」

 もう一人の兵士が声にならない悲鳴をあげ、立ち竦む。

 葉月の表情が苦々しく歪み、立ち竦んだ兵士はそのまま詰所の壁に叩きつけられ赤黒い血の跡を引きながら倒れ込んだ。

 鉄錆の臭いがあたりに濃く漂い始める。

「成功か。もう後戻りできないな」

 葉月の声を聞くまで、彰には何が起こったのか理解出来なかった。

「あと、五分だよ。五分経ったら小隊が陽動を始める」

 どこに潜んでいたのか、佐伯が足音もなく現れる。手にしたMP5にはサプレッサーが付き、その銃口からは薄く煙があがっている。

「ああ」

 葉月は短く答えて鯉口を切る。

「キミも遅れずについてきてね。迷子になってもたぶん探してる余裕はないから」

「わかってる」

 佐伯の言葉に応じながら、彰も拳銃のスライドを引く。小さな拳銃の小さなスライドが、今日はやけに重たく感じる。

 二人はアプローチに向かってずんずん進んでいく。まるで、自分たちこそが今夜の主賓だと言わんばかりに。

「それじゃ、行くよ?」

 佐伯が言い、軍事施設とは思えない重厚なオーク材の扉に手を掛ける。

 正面玄関以外の扉や窓には警報が入っているから開けられない。だが、唯一警報が無いという事は、敵が待ち構えているという事だ。

「入って正面、階段の両脇に歩哨」

 葉月が呟く。

「了解。両方アタシが?」

「……」

「俺がやる」

 逡巡した葉月に代わり、彰が声を上げる。

 佐伯が怪訝な顔で一瞥する。

「俺だって、戦える。二人の後を黙ってついているなんて嫌だ」

「そっか」

「ああ……」

 彰はシューティンググラスの存在を思い出し、緊張した手でそれを着ける。

 瞬間、佐伯が笑みを浮かべたような気がした。

「じゃ、アタシ左側。キミは右側ね」

「了解」

 扉が開く。

 構えて撃つ。薄暗いロビーが一瞬真っ白に照らされる。同時にくぐもったサプレッサーの発射音。

「成功! 左クリア!」

「み、右、クリア!」

「まずは書類室だ! 今の銃声で兵が来るぞ、急げ!」

 銃声で馬鹿になりかけた耳に葉月の鋭い声が届く。見れば彼女は既に階段を昇り始めている。

「何事だ!?」

 階上から兵士の声。

 葉月が跳ぶ様に駈け上がり、軍刀を一閃。

「先導するっ、ついて来い!」

 血刀を進行方向へと振りかざす。

 その声は完全に上ずっていた。

 血溜まりを踏み越え、進む。

 突然、全館の照明が灯り、あたりに耳障りなベルの音が響き渡る。そして、どこからともなく聞こえてくる兵士の声。

「敵襲! 敵襲!」

 そこからの反応は早かった。ドアというドアが開き、武装した兵士と資料を抱えた技術者が飛び出してくる。

 佐伯が引き金を引く。銃声はほとんど聞こえない。ただ、弾丸の立てる唸りと床に落ちる薬莢の音色だけが一種のリズムを生み出す。

「賊は三名っ、先頭は――」

 兵士は報告を終える事は出来なかった。続くはずだった言葉は、葉月の軍刀によって塞がれ、溢れだす血液の生々しいごぼごぼという音となって消えた。

「賊は!?」

 どこかの兵が叫んでいる。佐伯はその間にも撃ち続ける。彰も彼女が撃ち漏らした背中に、胸に引き金を引く。

「賊は!」

 葉月が叫ぶ。

「館山葉月、帝国陸軍中尉である!」

 警報の音すらかき消さんばかりの絶叫。建物の空気が変わる。

 混乱しているのだ。

「報告! 外部より新たな敵襲。兵力二個小隊!」

 声。そして銃声。

 とっさに扉に身を隠す。

「こんなにあちこち飛び出してくるなんて聞いてない」

 佐伯が怨嗟の声を上げる。

「想定内だ。皐月は完璧主義者だからな」

「これじゃあ、クリアリングなんてしてられない」

「速度戦だ。我々の利は進み続ける事のみにある」

「流石現役中尉。言う事が違う」

「皮肉のいとまがあるなら進め」

「了解」

 佐伯が飛び出し、その後を彰も追う。

 背後、階段からくる兵士を撃つ。

「どんどん昇って来る」

「前が空いた。行って」

 彰が振り返った刹那。佐伯の投げた手榴弾と交錯する。

「走るぞっ」

 先頭を切った葉月が出会い頭で別働隊と鉢合わせする。

「中隊長……本当に」

「海野……赦せとは、言わん」

 逡巡。

 手榴弾の爆発が床を揺らす。

「だああああああっ!」

 気合いの一声と共に白刃が十重二十重に飛び回り、壁と床に深紅の花を咲かせる。

「声など、かけおって……馬鹿者が……」

 吐き捨てた葉月の代わりに、軍刀の柄糸が嗚咽するように軋む。

「バカ、突っ立ってんな!」

 彰がとっさに襟首を掴んで引き倒す。頭上を弾丸が唸りを上げて交錯し、佐伯の薬莢が降り注ぐ。

「早く立たせて。背中が怖くて仕方ないっ」

「言われるまでもない」

 葉月は軍刀を支えに立ち上がる。

悲鳴を上げる心を理性の糸で雁字搦めにして立つその姿は、凄絶という他に言いようが無く、狂気を孕んだ美しさすら漂わせていた。

「現時刻より無線封鎖を解除……ピーター11、状況を知らせ」

 ヘッドセット越しに広瀬の声。外周部の襲撃は順調に進んでいるらしい。

「現在位置、書類室近傍。抵抗激しく前進は困難。支援を求む」

「こちらも手一杯だ。そっちで何とかしてくれ」

「了解……ちっ」

 忌々しげな舌打ちが、無線の電波に乗る。

「作戦とはそういうものだ」

 敵も三人の意図を読んでか、続々と書類室の前に集結しつつある。これ以上時間の浪費は出来ない。

「さぁ、ここからが本当の戦争だ。武器を取れ」

 葉月が告げ、佐伯はマガジンを交換する。予備のマガジンを持たない彰は、足もとに落ちている騎兵突撃銃を拾い、死体からマガジンを取りポケットに押し込む。

「ロックンロール。テンションあがってイヤんなる……」

 恨み節の佐伯に葉月は鼻を鳴らす。

「帰りたいなら前に進むことだ。行くぞっ」

 葉月が駆けだす。その後ろから佐伯と彰が援護する。

 先陣を切る葉月の姿に敵は浮足立つ。少しでも脚を竦ませた兵士は容赦なく一刀の下に斬り捨てられ、引き金を躊躇した者は佐伯に、葉月を狙う者は彰に悉く撃取られていく。

 廊下に血と硝煙の臭いが充満し不快だった。しかし、立て続けの銃声にばかになった聴覚が、瀕死の兵士が上げているであろう苦悶の声を遮断してくれる事は幸いだった。

 騎兵突撃銃は彰の知る八九式より重かった。だが、その重さが反動をうまく吸収するのかプレス加工と木製グリップという前時代的な外見に似合わず扱いやすい小銃だった。

「書類室の鍵は?」

「閉まってる」

「発破?」

「時間が惜しい、蝶番を飛ばせ」

「出来るの?」

「ただの扉だ」

「じゃあ、二人とも援護よろしく」

 死体を飛び越えるようにして、佐伯が扉に縋りつき、MP5の銃口を蝶番に向ける。

「彰、援護しろ。私は前に出る」

 刃に乗った血を振り払い、葉月が前に出る。

 第何波になるのだろうか、複数の足音が耳鳴りの止まない鼓膜に届く。

 葉月もそれに気づいているのだろう。柄を握る手に改めて力が入っていく。

 これ以上彼女に負担を賭けるのは見ていられなかった。

「……葉月は下がって。俺が前に出る」

 あれだけ彼女の仲間を殺しておいてこんな声をかけるのは偽善なのかも知れない。だが、それでも、そう言わないではいられなかった。

「……しかし……」

「良いからっ」

 葉月を押しのけて、前に出る。

 触れた彼女の身体は、今にも折れてしまいそうな程に軽かった。

 背後でサプレッサー越しの銃声が聞こえ、ヘッドセットに佐伯と広瀬の声が響く。

「ピーター11、書類室へ入る」

「了解。敵は外周部へ集中し始めた。少しは楽になるだろう」

「了解」

「これは私の戦いだ……本来、すべて私が、やらねばならないのだ」

「それは違う」

 彰は囁くように言いながら、あちこちへ視線を向け、階段の下の気配に神経を研ぎ澄ます。

戦いだ。葉月は自分の正義の為に戦ってる。佐伯やDOORは世界の為に戦ってる。みんな戦ってる。目的は違っても同じ敵を相手に戦っている。何があっても妹を止めたいんだろ? なら俺たちを最大限に利用すれば良い。目的は違っても、やるべき事は同じなんだ」

 階下の気配が近づいてくる。

「……彰。君も世界の為に戦っているのか?」

 気配がさらに近づく。殺した息の中に混じる殺気が、陽炎のように揺らめき立っているようにすら感じる。

「違う……」

 彰はセレクターを確認する。ノッチは安、火、連の連に来ている。

「俺は、葉月の為に戦っている」

 踊り場の向こう側から手榴弾が投げ込まれる。

 とっさに撃ち落とし、爆音とどよめきが同時に起こる。

「吶喊! 吶喊!」

 階下から声。そして、蛮声。

 彰は引き金を引いた。

 手榴弾が残した爆煙と粉塵を弾丸の三連射が渦を巻いて切り取って行く。

 悲鳴。

 銃声。

 きな臭い霞み越しに光るマズルフラッシュ。

 薬莢がダンスしながら階段を落ちていく。

 最後の薬莢が紫の硝煙の弧を引いて床に落ちる。

 一旦身を隠し、リロードする。しかし、慣れない銃と緊張のせいでうまくマガジンが嵌らない。

「くそ、入らないっ」

「落ち着け。こうだ」

 葉月が手を添え、ようやくリロードが完了する。

 彰が再び敵を求め視線を上げた刹那。

 今まさに駆け昇ってくる兵士。

「葉月!」

「応!」

 目もくれず片手の逆袈裟。

 軍服が裂け、褐色の布が一瞬で真紅に染まる。

 傷が浅いのか兵士は倒れる寸でのところで踏みとどまろうとする。

 そこへ彰の三連射。

 今度こそもんどりうって落ちていく。

 不意に背後を熱波が駆け抜けていく。手榴弾のような爆音は感じなかった。

「書類室の発破が終わった」

「焼夷手榴弾か。用意の良い事だ」

 葉月が火を噴く書類室を一瞥し鼻を鳴らす。

「速度戦でしょ。いちいち油撒いて火を点けると思ったの?」

 軽く言って、佐伯はヘッドセットに話しかける。

「ピーター11から10へ。書類室の破壊完了。これより地下施設へ向かう」

「了解ピーター11。第一小隊は引き続き敵を外周に引き付ける」

「ピーター20から10へ」

 石神の冷徹な声は、乱戦の最中でも曇ること無く聞こえた。

「外周は第二小隊が受け持つ、第一小隊は中へ行き、ピーター11を支援しろ」

「しかし」

「らしくないなピーター10。俺はこう言っているんだ。一番槍はくれてやるからそれを部下への手向けにしろ、と」

「……恩にきる」

「今さら殊勝ぶるな。もともとそういう作戦だろう」

「ははっ……忘れてた」

 インカムに広瀬の緊張気味な低い笑い声が届く。

「第一小隊。聞いたな? 突入するぞ。ピーター11、お待ちかねの支援だ。最深部まで一気に行くぞ」

「第二小隊、第一小隊が抜けるぞ。相手に勢いづかせるな」

「ピーター19。扉の準備だ」

「了解」

 答えながら彰は腰の鍵に手を伸ばす。二人が申し合わせたように前後について警戒する。

「ピーター19。第一小隊が移動を開始。扉を開けろ」

 石神の声。

「エンコード」

 彰は開きっぱなしのドアに鍵を突き刺す。

 程なく扉は繋がり、中から硝煙の匂いを纏った第一小隊が姿を現す。

「まさか、次空跳躍で移動したのか」

 葉月の驚く声に、最後に姿を表した広瀬が自信たっぷりに応じる。

「そういうコンビニエンスな運用が出来るのがうちのディメンジョンエンコーダーの強みでね。さぁ、ここまでは計画通り、問題は地下だな……」


 広いと思った昇降機も、小隊全員が乗り込めば多少息苦しさを感じる。しかし、息苦しさの理由はそれだけでは無い。

 彼らの空気はいつも以上に張り詰めていた。

 視線は注意深くあたりを探り、呼吸は自然と浅くなる。引き金に指こそ掛けていないものの、何かあれば彼らは即座に発砲するだろう。

「……他に道は無いのか。下に着いて一網打尽じゃ、笑い話にもならん」

 呟いたのは広瀬だ。しかし、昇降機の立てる轟音のおかげでその声は傍にいた者だけにしか聞こえなかった。

「守り易く攻め難い、だ」

 葉月が同じような声で応じる。

「全く、律儀な構造をしてる……」

 二人のささやきを聞いていた彰はいざとなれば鍵を使って撤退する事も出来るのでは、と考える。だが、それを口に出すつもりはなかった。

 この作戦に恐らく二度目は無い。特に、葉月には。

 失敗したからと言ってさっさと逃げ出しては信じてくれた葉月に申し訳が立たない。第一小隊は撤退させるにしても、自分だけは最後まで残ろう。そして、彼女の為に戦って死のう。

 たとえ作戦が失敗しても、そこまで出来れば彼女への申し訳も立つような気がした。

「くそー……やだなぁ」

 佐伯が堪え切れない呪詛を吐く。

 小隊は待ち伏せを恐れていた。こんな閉鎖空間では連携もへったくれもない。手榴弾が二個も投げ込まれれば全滅は必至だ。

 地下階に到着したとしてもその出口で待ち構えられていたら反撃の暇もなく射的の的のように倒されるだろう。

 幸運にも敵兵力が配置されていなかったとしても。昇降機のレールに爆発物でもしかけられていれば、みっともない格好で天井や壁に張り付く事になる。

 第一小隊と合流してから、彰は戦闘らしい戦闘に出くわしていない。外ではまだ戦闘が続いている。すべての兵士が外に向かっているから、などと考えるほど彰はお人好しでは無い。そして、小隊の全員も同じように考えているだろう。

 つまり、待ち伏せはほぼ確実にあるのだ。敵兵は今この瞬間も虎視眈々と狙っているはずだ。

 全員が確実にキルゾーンに踏み込む、その瞬間を。

 昇降機が地下階に着く。

 エレベーターの正面にだけ申し訳程度の明かりが灯っているだけでその光の輪から一歩でも外へ出ると、そこには自分の存在すら見失ってしまいそうな濃厚な闇が広がっている。

 広瀬がハンドサインを送る。二人のポイントマンが応じ、暗視装置のスイッチを入れ、ゆっくりと光の輪の外へ踏み出す。

 同時に小隊は方々に銃口を向け、全周警戒の姿勢をとる。

「いつ来ても、この部屋は気が滅入る……」

 葉月が呟く。

「しっ、気が散る――」

 佐伯が応じた刹那。

 空間が白で溢れる。

 彰は反射的に目を背ける。

「撃て! 散開しろ!」

 広瀬の絶叫。

 ポイントマンが暗視装置をかなぐり捨て、火蓋を切る。

 八九式の鋭く軽快な銃声。

 騎兵突撃銃の重く余韻を残す銃声。

 それら破壊的な連弾が大気を沸騰させる。

 一体どこから攻撃されているのか、小隊はどちらに向かって攻撃しているのか。彰はとっさに判断する事が出来なかった。

「呆けているな!」

 殴られるように引き倒されて、彰はようやく我に返る。

「散開と言われたろう」

「すまない……」

 返事の間も銃弾が縦横に交錯する。見れば身を隠した佐伯も積極的に参加している。

 敵は二階のキャットウォークに陣取り小隊を撃ち降ろしている。小隊は中身の知れないコンテナや木箱に張り付きながら何とか防戦している。

「……これでは、時間の問題だな」

 葉月が呟く。

「時間の問題って?」

「早晩全滅するという事だ。応戦は早かったが、位置取りが悪い」

「じゃあ、どうすれば……」

「……彰。私と共に、来てくれるか?」

 彼女の放つ決意の声は戦闘騒音で馬鹿になっているはずの耳に驚くほどはっきりと聞こえた。

「ああ、行こう」

 逡巡の暇は無かった。その刹那、手榴弾が炸裂し、あたりに粉塵が舞う。

「走れ!」

 葉月が叫び、彰がその背中を追う。

 射撃姿勢をとる余裕はない。

 片手でキャットウォークを薙ぎ払う。

 騎兵突撃銃が薬莢を四方に吐き散らしながら、手から逃れようとするかのごとく跳ねまわる。

 広瀬の鋭い口笛。視線が集まる。

「佐伯二曹っ、行け!」

「ですが!」

「良いから行け! ここは俺達が受け持つ」

「……了解っ」

 二人の後を追って、佐伯も駆け出す。

「援護しろ!」

 広瀬があらん限りの声を張り上げ、銃火は一層の激しさを増す。

「ピーター20から10へ」

 ヘッドセットに石神の声。

「今パーティーの真っ最中だ。手短に」

「支援が必要か?」

「……頼む。せめて退路だけでも確保したい」

「了解。第二小隊はこれより地下階へ向かう」

「来るなら速くしてくれよ? 悪いが、長くは持ちそうにない」

「こちらも直行とは行かない。それまで持ちこたえてくれ。以上」

「了解。期待してるぞ」

 広瀬は歯を食いしばりながらマガジンを交換する。その姿は獰猛な笑みを浮かべているようでもあった。

「聞いたな第一小隊!? 生きて帰りたけりゃ根性見せろ!」

 銃声すらかき消さんばかりの鬨の声が背中から聞こえて来た。だが、彰の眼前にある現実は、仲間たちの勇猛な声すらどこか遠くに押しやってしまう。

 目の前に聳えるそれを一言で言い表すなら、たわわに実った鋼の葡萄だろう。天井には鋼鉄の茎が蔦のように幾筋もその手を伸ばし、幾重にも覆い尽くしている。

 実った果実は醜悪な棺桶そのもので、その一つ一つから、湧き出る清水の蒼とも煌く波頭の銀ともつかない燐光があふれ出ている。

 彰はその色に見覚えがあった。

 鍵によって開かれた扉はちょうどそんな色をしている。では、あの棺桶全ての中で今まさにディメンジョンエンコードが行われようとしているのか。

 だとしたら、その数は膨大なものになる。

「……あれが、諸悪の根源」

 葉月が軍刀の切っ先を向ける。

「次元均一化装置」

ランダムハブエンコーダーRHE

 二人が同時に呟く。そこへ第三の声。

「ようこそ。世紀の大実験へ」

 RHEの陰から白衣をまとった人影が現れる。眼鏡こそ掛けているが、その姿は葉月とよく似ていた。

「皐月……伝道師にでもなったつもりか」

 葉月の唸るような声。それに応じたのは皐月のどこか可愛らしさすら感じる小さな笑い声。

「ふふっ……姉さん。私は伝道師よ? 帝国と、人類に恩恵をもたらす科学の伝道師」

「莫迦な事を……これは悪魔の力だ。人間が持って良い力では無い」

「……姉さん。ちょっと……それ、ぷっ、はははっ、あはははははっ」

 堪りかねたように皐月が笑い始める。ただの狂気では無い、彼女は確かに意志を持って姉を嘲笑していた。

「何がおかしい!」

「何もかもよ!」

 皐月が二人を睥睨する。

「私の技術が悪だというなら。彼の技術は何だというの?」

「それは……」

「本質的に同じ技術よ。けれども、姉さんはそっちの書生の味方をする……別に無理に答えなくて良いわよ。わかってるから。姉さんも立派に女だっただけの事だから」

「違う。話を聞け」

「裏切り者!」

 皐月の放った言葉はどんな弾丸よりも鋭く葉月の胸に突き刺さる。

「帝国陸軍を裏切り、私を裏切って、部下を手にかけてまで、姉さんは何を得るの? この装置を破壊した所で、姉さんはこちらの世界の住人。そこの書生とは一緒になれないのよ? 好んで悲恋を演じるのは馬鹿よ」

「葉月は、行きすぎた妹を止めたいだけだ」

「あら、しゃべれたのね」

 皐月はあからさまな侮蔑の視線を彰へ向ける。

「葉月は全てを捨ててでもお前を止めようとしてるんだ。それがどうして分からないんだ」

「姉さんの事なら何でも知ってるって口ぶりね。今度姉さんのほくろの数でも教えてもらおうかしら」

「貴様っ!」

 激昂というにふさわしい声。

「人を莫迦にするのも大概にしろ」

 皐月に詰め寄り、一瞬右手が動く。しかし、それ以上動かせなかった。

「だから、どうするの? その刀で私を斬る? それとも平手でもしてみる? 姉さん、あなた、鈍らよ。どんな勇ましい事を言ってあの書生を引きずりこんだか知らないけれど、結局姉さんは自分一人の力では何もしようとしない。ただ、外からの力で状況が好転するのをじっと待っている。そんなの、卑怯だわ」

「……煩いっ、私には、他に方法が無い……」

 語気がしりすぼみになり、代わりに皐月の顔に獰猛な笑みが宿る。

「良い事を教えてあげましょうか、姉さん。この次元均一化装置。稼働すれば姉さんは近似世界に行けるわ。自由にね……そう、あの書生のいる世界で暮らすことだって出来るかも知れないわ。それでも、姉さんは私を止めるの? それでも次元均一化装置を破壊できるの?」

 それはまさしく悪魔の囁きだった。葉月の首筋に今までとは違う種類の汗が浮かぶ。

 食いしばった奥歯が、ぎしりと軋む。

「キミはどうするの?」

 いつの間にか背後に佐伯がいた。しかし、彰は動じなかった。彼女が後を追ってここに来るであろう事は、何となく察しがついていた。

「どう、って?」

「さっきのは聞いたでしょ? キミはどうするの?」

「どう答えたら、俺は凛さんに撃たれるんだ?」

「……自分で考えてよ、バカ」

 後ろは見ていない。だが、気配でわかる。佐伯は今銃を構えている。そして、銃口はこちらを向いている。

「撃つ気、ないだろ?」

「実はね……だから、お願い。世界を守って」

 きっと佐伯は命令を受けているのだろう。戸館彰がDOORを裏切るようなら撃て、と。彼女もまた、揺れているのだ。

「姉さん、こんなことしてて良いの? 愛しの君が撃たれてしまうわよ?」

 この場で唯一皐月だけが状況を楽しんでいるようだった。

「まだ腹を決めかねるのなら、次元均一化装置の性能を見てからでも良いのよ?」

「……う、動くな」

 葉月の言葉を無視して皐月は右手を上げる。その瞬間。次元均一化装置に実った鋼鉄の棺桶がゆっくりと回転を始める。

 熟して色付くように棺桶の燐光は増し、次第に輝く水面に覆われていく。その歪んだ像の反対側には人の姿。

 機械の唸りは、そのまま棺桶に囚われた者たちの怨嗟の声に聞こえた。

 いよいよ回転は増し、囚われた者たちは身体を震わせ苦悶する。

 これがRHEの正体。そして、ディメンジョンエンコードの適性を持つ者の末路。彰の身にも降りかかっていたかもしれない、可能性の姿。

 感じたのは本能的な恐怖。囚われた一人一人に自分の姿が重なる。

 理性が落ち着けと叫んでいる。だが、一度走り出してしまった恐怖を抑えるには、彰は若すぎた。

「あ……あぁ……」

 声が漏れる。本能が恐怖を発散する場所を求める。

 RHEは一層唸りを上げる。天井を這う管に燐光が沁み渡り、中心からゆっくりと穏やかな水面へと姿を変えていく。

 ディメンジョンエンコードが始まった。

「ピーター20からピーター19、11。どちらでも良い、聞け」

 ヘッドセットに努めて冷静でいようとする石神の声が届く。しかし、マイクは弾む吐息をしっかりと拾っていた。

「RHEは絶妙なバランスで成り立っている。機能的均衡を少しでも崩せば本来の性能を維持できなくなる……この意味が、わかるな」

「俺に、あの棺桶の中の人を殺せって言うのかよ……」

「そうだ。一人一人を救っている時間も余裕もない」

「……」

 答えるのに、彰は躊躇した。彼らは銃を持っている訳でも戦おうとしている訳でも無い。ただ囚われているだけなのだ。

「なら良い」

 考え込む、というほどの時間では無かったはずだ。だが、石神には堪え切れないほど長い時間だったのだろう。

「ピーター11、代われ」

「了解」

 佐伯は即答し、銃口をRHEへと向ける。

「アタシは世界を守りたい。例え、君に恨まれてもね。だから、ゴメン。アタシはアタシの仕事をする」

 もう、悩んでいる時間など残されていないのだ。

 佐伯の銃声を号砲にして彰は駆け出す。どうすれば良いのかなんて全く分からなかった。ただ、葉月の元へ向かう。彼女のそばにいれば自分のすべきことが見つかる気がした。

 彼女を守り、助ける事が出来れば、きっと状況は良くなる。状況を一変させる奇跡が起こるかもしれない。そうでなければ、館山葉月という存在は悲しすぎる。

 研ぎ澄まされた美しい刀が無残に折られるのを座視してはいられない。どうせ折れるなら、自分のような混ざり物だらけの鈍らの方がいい。

 接近する彰に気付き、皐月が拳銃を抜く。

 彰もとっさに構える。しかし、射線には葉月がいた。

「葉月!」

 叫ぶ。

 皐月の銃口がこちらを指向する。

 葉月が動く。射線はまだ取れない。

 生存本能と理性がせめぎ合い、引き金にかかった指が痙攣する。

「葉月ぃ!」

「来ては駄目だ!」

 懇願にも似た声に応じたのは、悲痛な叫びとくぐもった銃声。

 模擬弾を喰らった時のような衝撃は無かった。

 一瞬足がもつれるが、倒れ込む様な事も無かった。

 身体は軽く、痛みもない。

 その代りに葉月が、妹の身体に縋るようにして崩れ折れる。

「姉さん……あなた、本当に……」

 皐月が呆然とつぶやく。

 葉月の手が、白衣にべったりと血の跡を引いて行く。

 何が起きているのか、わからなかった。

いや、わかりたくなかった。

だが、目は否応なしにその光景を脳に送り込む。

 守るはずだった葉月はうつぶせに倒れている。

 助けるはずだったのに、それは叶わなかった。

 彼女が彰を庇ったことは明らかだ。

 だとすれば、この結末の責は誰にあるのかも明白だ。

 だが、彰は敵を求めた。怒りと後悔と自責のない交ぜになった発作的な破壊衝動を遠慮無しに叩き込める相手を。

 天井に開きつつあった扉も、今はその輝きを失いつつある。佐伯の規則的な銃声が彰の鼓動と重なる。

 その音はまるで責めているようだった。

 なにも出来なかった事を。誰も救えなかった事を。

「お前がっ……お前のせいで、すべてが台無しになった!」

 自失状態から立ち直った皐月が叫ぶ。

 それがRHEの事なのか、最期まで姉を味方に出来なかった事なのか、彰にはわからなかった。

 だが、同時に、どうでも良い事だった。

 葉月を亡くした今、どちらを意味しているにせよ詮無い事だ。

 二人の銃口が持ち上がる。

 彰の方がわずかに速く照準を固定する。

 引き金にかかった指を引き絞る。

 トリガーシアがファイアリングピンを解き放ち、プライマーに火が入る。

 それですべてが終わった。

「葉月……」

 銃を放りだし、彰は葉月の体を抱き起こす。彼女の身体にはまるで力が入っていなかった。

「葉月、葉月」

 それでも彰は呼びかけ続けた。すると、伏せていた目がわずかに開く。

「ああ……無事か」

「ああ……無事だ」

 声が震えていた。彼女が生きていた事がうれしかった。

「私には……選べ無かったよ……」

「いいんだ、もう」

 涙がこぼれた。触れてわかったのだ。

彼女がもう助からないという事に。

「……女の前で……泣く男が、あるか」

 そう言って、彼女は頬をわずかに痙攣させる。もう表情を変える体力もないのだ。

「葉月……俺は、葉月を……」

「……良いんだ……君のそばに居れるだけで、私は……」

 血に染まった手が彰の手を掴む。冷たい手だった。

 彼女の身体を伝い、真っ赤な血が音もなく広がって行く。彼女から命が抜けていく。

「……」

 葉月の唇が動く。しかし、もう声ならない。

「なんて言ったんだ!? もう一度、もう一度聞かせてくれ!」

 慌てて彼女の体に身を寄せた刹那。

 全身の筋肉が強張り、身体が大きく跳ねた。

 彰は何が起こったのかわからなかった。

 やがて、肩から体の内側にかけて強烈な痛みが一瞬走る。傷を確認しようにも、身体は全く動かない。

 受け身すら取れず、葉月の血だまりに勢い良く倒れこむ。

 見れば、胸に穴を開けた皐月が銃を手に立っていた。血を吐きながら何か言っているようだが、声を聞く事が出来ない。

 佐伯の怒声と銃声が遠くに聞こえ、皐月の身体が風に吹き飛ばされるように倒れる。

 身体に痛みが戻ってくる。上半身が焼けるように痛み、口の中に血がこみ上げて呼吸がままならない。搔き毟って患部を取り出したい衝動に駆られるが、身体が痛みでうまく動かない。

「動かないで……今メディックが来る」

「あ……う……」

 佐伯の声に答えようと口を開くが、血が溢れるばかりで声が出ない。

「全部終わったよ。あとは帰還するだけ。だから……もう少し頑張って」

 違う、そうじゃない。

 彰の思いは言葉にならない。ただ、唇の隙間から意味を成さない音になって漏れ出るだけだ。

 周囲にDOORの仲間がやってくる。せわしなくあたりを検索し、安全を確認している。

「こいつも緊急搬送だ。早く連れてけ」

 聞き覚えのある誰かの声。手足を掴まれ、身体が持ち上がる。

 身体の感覚が泥の中に沈み込んでいくように消えていく。次第に自分の境目が認識できなくなる。やがて視界も色を無くし、灰色のベールに包まれていく。

 視界が完全に閉ざされる瞬間に見た葉月の顔は、別れを惜しむ寂しげな笑みを浮かべているようだった。

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