第6話

 葉月はあくびを噛み殺しながら執務室に入る。

 前室に当番兵の姿が無かった事を葉月は少しだけ感謝した。こんな姿を見られては、今日の昼には「中隊長朝帰り」の噂でも流れていたことだろう。

 そんな事を考えながら椅子へ腰を下ろし、茶菓子入れを開けて炒り豆を一つ摘む。

 軍人会館から直接来れればだいぶ楽だったのだがそういう訳にもいかず、結局始発で一度自宅に戻ったのだ。

 今朝ほど制服着用義務を恨んだことは無かった。

「……いかんな」

 葉月は小さく呟く。指揮官が寝不足でぼんやりしていては士気に関わるし、ただでさえ隊内に妙な噂が流れている。部下達にからかう口実を与えてやるのも癪だ。

 とは言え、昨日の事を冷静になって思いなおしてみると、その噂に一番踊らされているのは自分なのではないかとすら思えてくる。

 だが、彰のそばにいると大胆になれるのもまた事実だ。そうして、大胆になった自分が少し誇らしくも思うし、その度に彰が動揺したり、後を追って来たりしてくれるのが心地よかった。

「戸館、彰……全く不思議な男だ」

 声に出してみると、意味もなく表情が緩む。こんな所を兵に見られたらまたからかわれるだろう。だが、それも満更では無い気分になってくる。

 彼女はもう一つ炒り豆を口に運ぶ。

 この豆だって、よく考えれば彰と縁がある。正確を期すなら縁の始まりといった所だろうか。そんな風に思ってしまうと食べるのがもったいないような、普段より美味く感じるような不思議な感覚に陥る。

 が、不意に聞こえたノックが葉月の思考を断ち切る。

「館山中尉。居られますか?」

 慌てて茶菓子入れの蓋を閉じ、居住まいを正す。「入れ」と言い掛けて、自分の顔がにやけていないか触って確かめる。

「……ああ、入れ」

 何とか普段の威厳は保てたと思う。証拠に入って来た技術者に変わった様子は無い。

「何か用か?」

「大尉殿がお呼びです」

「わかった。すぐに行く」


 すぐに行くべきなのは恐らく間違いない。行くべき場所もその為の方法もわかっている。

 だが、彰はすぐに発つ事が出来なかった。

 葉月の存在だ。

 向こうにしてみれば、たぶん迷惑な話だ。彼女は自分の事を大陸から観光に来た学生だと信じている。だからこそ、あんなことを言えたのだろう。

 しかし、自分はこの世界の人間では無い。出ていくという事は即ちこの世界との決別を意味する。そして、次に会う時は恐らく葉月の敵としてだ。

 彰は彼女の残した置手紙をポケットから取り出す。

 一緒に出かけた事への礼と、自分の不注意から面倒に巻き込んでしまった事への謝罪が短い文章と几帳面な文字で記されている。

 ここでの暮らしが所詮飯事だというのは充分に理解しているつもりだ。だが、そうと割り切って考えるには彼はあまりにも若く、葉月の存在は大きかった。

 頭脳の冷静な部分と打算的な部分は今朝から延々と討議を続けている。理性的な思考は打算によって打ち消され、打算的な思考は冷静さによって尽く論破される。

 それは一進一退というより堂々巡りと言った方が正確だ。

 目が覚めて改めて事態を把握してから三時間余り。おぼろげながら見えて来たのは自らの無事と葉月との関係を両立させる事は難しい、というわかりきった前程だけだ。

 何でこんな面倒な事になってしまったのだろうかと、彰は深く溜息を吐く。

 元々この世界で葉月と一緒にいること自体ごまかしだったはずだ。穏便に元の世界へ帰れるようにちょっと演技をするだけだったはずだ。

 だというのに、それはずるずると先延ばしされてしまった。否、してしまった。ただ、漠然と葉月と離れたくないという思いだけで。

「……本当に、潮時なのかも知れないな」

 呟いた言葉に応じる声は無い。

どんな結論を出すにせよ、この部屋にはもういられない。警察が事情聴取に来るまでに軍人会館を出なければならない。

 彰は拳銃と鍵をしっかりと持っている事を確認してから、立ち上がった。


「館山中尉、入ります」

 妹の執務室に階級で入るのは何となく気恥しい。だが、今は仕事中だ。

「どうぞ」

 中からやはり仕事の声をした皐月の返事。葉月はそのつもりで静かに扉を開ける。

 相変わらず散らかった部屋ではあるが、先日より資料の数が減っている。必要なくなったものをようやく処分したらしい。

 皐月は無言で応接用の椅子を指し示す。四脚ある椅子の二つはすでに埋まっていた。

 その二人を見て葉月は息を呑んだ。

「貴様らっ」

 反射的に踏み込む。

「皐月、憲兵を呼べ。こいつらは人攫いだ」

 そう言って二人を睨むと、腕を吊った方が距離を取ろうと腰を浮かす。

 その反応から見ても間違いない。

「中尉、その必要は無いわ」

「なぜだ?」

「彼らも次元遠征実験隊の一員よ」

「夜陰に乗じた人攫いだぞ?」

「ええ、そうよ」

「莫迦莫迦しい、何の冗談だ?」

「冗談では無いわ。館山中尉」

 ようやく、妹が自分の事を階級で呼んでいる事に気付く。つまり、話を聞く気は無いという事だ。

「……では、事情を説明していただきたい。大尉」

 葉月は少し困惑した。

 先日の人攫いは確かに陸軍の拳銃を持っていた。だから今更陸軍の人間であると知らされてもあまり驚きは無い。彼女が困惑しているのはそんな人間と妹が通じているという事と、それが次元遠征実験隊に所属しているという事実についてた。

「姉さんには、そろそろ部隊の真実を知ってもらうわ」

「真実?」

「そうよ。いちいち事情を説明するより、多分そっちの方が早いわ」

 そうして彼女に促されるまま部屋を出た葉月は昇降機で地下へと降りる。皐月を先頭にし、葉月の左右には件の二人が直立の姿勢でいる。

 それは葉月に、投獄される囚人の構図を思い起こさせる。あまり良い気分はしない。

「それにしても、良い顔ね」

 不意に皐月が言う。

「……昨日そこの二人にやられた。信じられるか? 女の顔を殴って平然としてるんだぞ」

 今朝鏡を見て、青あざの出来た顔に自分でも驚いた。

 軍人という仕事を選んだ時から怪我をするのは仕方がないと諦めてはいた。だが、それでも顔に青あざを創られてまったくの冷静でいることは難しかった。

 彰の部屋を出る時、彼を起さないままこっそりと抜け出したのはそれが理由だ。

「けれども、きっちりお返しはしたみたいね。彼の肩、脱臼だけじゃなくて別の骨も折ったみたいよ?」

「殴ったのはもう一人の方だ」

 葉月が不愉快そうに言い放つと肩を吊った男が小さく鼻を鳴らす。

 昇降機は地下実験室を通り過ぎ、さらに奥深くへ沈んでいく。最下層には次元跳躍に必要な資材が保管されていると聞いていた。

 だが、葉月自身は一度も入った事は無い。扱いに慎重を要するため、特定の技術者以外の立ち入りを制限しているのだ。警備の兵もここにだけは配置されていない。

 それらはすべて皐月の差配だった。

 昇降機が止まり、皐月が重そうに格子を開く。昇降機の周りだけが荷捌きの為に明るく照らされているだけで奥は全くの暗闇が支配している。

 闇の奥に気配はない。無いからこそ気配を立てる我々の方がこの地下にはそぐわないのではないかという無意味な錯覚に陥りそうになる。

「昨日、実験をしたのよ。おとといの搬入はその為だったのだけれど……」

 皐月が声を出した事でようやく空気が人間の土地らしくなる。正直に言って薄気味の悪い場所だ。

「何の実験だ?」

「前に言ったでしょう? 次元跳躍には限界があって実用的では無い、と」

 声は微かに反響しているようだが、大部分は余韻を残さず消えてしまう。見る事は出来ないが、次元跳躍に必要な機材でも積まれているのだろう。

「言っていたな」

 葉月は頷く。研究熱心な彼女の事だ。いつかは克服するだろうとは思っていた。だが、この場所でそれを告げられるというのは違和感を覚えざるを得ない。

「実験は成功。私の仮説が正しかったことが証明されたわ。これで、黒蟻の世界へ恒常的に跳躍する事だって出来る。大規模侵攻だって夢じゃないわ」

「それは僥倖だな。だが、意図が見えない。そんな話はこんな薄気味悪い場所でなくても出来るだろう?」

「そう急かないで」

 贈物の包みをその場で開けようとする子供をたしなめるように首を振る。その仕草に釈然としないものを感じた矢先、奥から一台の台車がやってくる。

 そこに積まれた荷が次元跳躍の中枢ともいえる機材だというのは葉月も知っていた。

 知っているだけで、今の今まで別段意識を向けた事も無かった。

 しかし、今葉月の前にやって来た機材は、多くの配線を引きずり、線とも管ともつかない物でがんじがらめに締め付けられている。

その様はどこまでも無機的で、先端科学の集大成というより科学という悪魔が棺桶を題材に織り成した前衛芸術のなれの果てといった方がしっくりと来るほどに醜悪な姿だった。

 そして、今までこんな機械に頼って作戦を展開していた事に、この禍々しい機械を前にして一度たりとも疑問を抱かなかった事に対して、葉月はうすら寒いものを感じた。

「今さら言うまでも無いでしょうが、これが次元跳躍に必要なよ」

「もちろん知っている……まじまじと見たのは初めてだがな」

「機械として洗練されていない事は認めるわ。審美眼なんて持ってないけれど、この外見は確かにちょっとどうかと思うもの。けれど、大事なのはその中身……」

「機械工学だの応用物理学だのの話をされても私はわからないぞ」

 記憶の糸を手繰り寄せ、皐月が言っていた事があるような気のする単語を並べる。すると皐月はくすくすと笑って首を振る。

 その姿は姉の贔屓目があったにせよ、歳相応の可憐な表情だった。

「大丈夫。それは別の機械だから。これは次元と次元を繋ぐ回廊を開くための、言わば増幅器……」

 そう言って醜悪な棺の角に触れ、尾錠を外す。金具の爆ぜる音が闇に反響する。

「……次元跳躍の技術をより進歩させる事は出来たけれど、これだけは私にも理屈がわからないの」

 そのままゆっくりとした足取りで反対へ回り、また尾錠を外す。

 それはどこか悪魔的な儀式を思わせた。

 尾錠の音はさしずめ深淵より現世へ舞い戻ろうとしている魔王の鼓動といったところか。

「仮説は立つけれど、これを実証するのは、たぶん相当骨の折れる研究になるわ」

 三つ目の尾錠が外れる。

 葉月はただ、黙って皐月の行方を視線で追って行く。

 なんと反応して良いかわからなかった。内容を理解出来ないという理由以上に、彼女の行動に微かな狂気を感じていたからだ。

 現実を前に脳の一部が拒否反応を示す。

 これは何かの間違いだ。皐月がこんな目をするはずがない、と。

「まぁ、思考実験だと思って欲しいんだけれど。超能力ってあるわよね。透視だとか予知だとか。そういうのって近似世界の同一時間同一地点を覗き見た結果なのじゃないかしら」

 四つ目の尾錠が外れる。

「つまり、次元跳躍にはそういった素質を持つ人間が必要、ということになる。そう考えると一応辻褄は合うのよね……」

 からみついていた管や配線が棺の正中に沿って別れ、音もなく天板が左右に開いて行く。

 その内部構造を目にした時、葉月は言葉を失った。

 科学の正体とはかくも残酷なものかと。そして、この有様が科学の信奉者たる妹の所業なのかと。

「……これは」

 何とか、それだけを絞り出す。軋ませるようにぎこちなく首を上げ、泳ぐ視線で周りを見る。

 衝撃を受けているのはどうやら自分だけらしい。その事実はさらに衝撃となって葉月の体を硬直させる。

「これが次元遠征実験隊の研究成果よ。もちろんこんな不安定な機構はいずれ改善するわ」

 棺には四肢と胴をベルトで固定された少女が横たわっていた。髪のないつるりとした頭部には極細の端子が無数に突き刺さり、端子から伸びる線は毛髪の代わりだと言わんばかりに下肢へむけて燐光にも似た輝きをもって広がっている。

 血色を失った唇の間は大きく開かれ、呼吸器らしい管がこれでもかと押し込められ、瞼の隙間にも細い線が這い、閉じ切らない瞼の裏で小さな眼球が苦悶に喘ぐように小刻みに震えている。

 そう、この少女は生きているのだ。見れば、薄い白磁のような胸が微かに動いている。

「……生きて、いるのか……この姿で」

 軍人として、それなりに修羅場をくぐって来た。愁嘆な死傷者に心を動かされる程うぶでは無い。だが、この少女の姿は正視に耐えない。

「死んでしまっては使いようがないでしょう?」

 皐月が事もなげに告げる。

 そうと自覚するよりも早く、葉月は皐月の胸倉を掴んでいた。

「お前はっ!」

 糊の効いた白衣の襟を両手で搔き毟る。その度に華奢な皐月の身体が揺れる。

「なんて事を――」

 それ以上の言葉が出ない。頭脳は感情的な言葉で溢れて今にも破裂しそうだ。しかし、その感情の奔流を一度に吐き出すためには、喉は細すぎた。

「人体を使うのは非道だとでも?」

 嘲るでもなく、卑下するでもなく。皐月は真摯な声で問う。

「当たり前だ」

「この装置が帝国の繁栄をさらに強固な物にするかも知れないのに?」

「それは私の語るところでは無い。そして、お前が語るべき事でも無い」

「これは私だけの研究では無いわ。帝国陸軍の研究よ。これはつまり帝国の研究と同義よ」

「だとしても、こんな事が許される訳がない」

「どうして?」

「どうして、だと?」

 予想外の問いに葉月は言葉を失った。

 こんな惨たらしい姿の人間を前にして、その是非を問う妹の正気を疑わざるをえない。

 すると、皐月は小さく笑みを浮かべる。

「姉さん。今、私の事を狂人だと思ったでしょう?」

「そんな事は――」

「良いのよ。半分は事実だろうから……けど、姉さんだって人の事、言えるのかしら?」

「……どういう事だ」

「姉さんは軍人。ある地点を攻め落とせと命令を受けたならその為に邁進するでしょう? きっと部下だって死ぬわ。補充兵も死ぬ。弾薬と高価な兵器をどんどん消費して一メートルづつ、一米づつ前進していく。そして、ある時こう言われるわ。兵士と兵器をどれだけ擦り潰せば気が済む。お前は狂っているから無駄に損害を増やしているのだろう、と……」

 棺に収まった少女へ視線を向けた皐月の眼には、はっきりと理性の輝きが宿っている。

 葉月はおぼろげながら理解し始めていた。

 彼女に見た、狂気の正体を。

「姉さんはきっとこう思うはずよ。命令遂行の為には、そうするよりほかに道がない、とね」

 軍隊は上意下達の命令系統を持つ究極の組織だ。上層部がそれだけの価値があると判断したのなら、末端たる中隊長は屍山血河を築いてでも遣り遂げなければならない。

 そうまでして命令を守り、攻略を進めようとする指揮官は確かに狂気に取り憑かれているように見えるだろう。

「皐月は、この有様を攻略の為の犠牲だと言うのか……」

「そうよ」

 彼女はそう言うと、葉月の眼を真っ直ぐに射抜く。

 皐月の眼に宿る物は狂気では無かった。彼女が時折見せた思い詰めた視線の奥にあるもの。それは確固たる意志だ。どんな困難であろうと、どれだけ損害を出そうと目標完遂の為に突き進む覚悟だ。

「姉さん。私たちは立ち止まれないのよ」

 覚悟には、相応の覚悟を以て挑まなければならない。だが、はるか以前から覚悟を決めていた妹に、即席の覚悟がどれほど通用するだろうか。

「何の為に、必要だというんだ。次元跳躍などしなくても帝国は栄えている」

「かつて、蒸気機関や飛行機を創った技術者も同じようなことを言われたでしょうね。そんな物を造らなくても充分だと……」

「だからと言って、この所業の正当化にはならない」

「いずれ克服するわ」

「出来なかったら?」

「それは重要では無いわ。極論を言えば、成功なんてどうでも良いの。重要なのは研究を続ける事。問題を求めて、その解決を求めて日々研究と開発を続ける事。それが帝国の繁栄と、文明の発達を呼ぶ。その事の方が大事よ……考えてもみて、私は既に人体実験をした。近似世界で姉さんの部下を蒸発させてしまった。さらに言えば、この研究を守るために戦って命を落とした兵士もいる。今ここで研究をやめたら、ここに横たわる機材や、死んで行った兵士たちは本当の犬死になってしまわない? これだけの犠牲を出してしまった以上、私はおいそれとやめる訳にはいかないの」

「だから、立ち止まれないと……」

「そうよ、立ち止まる事は科学者の文明に対する裏切りに他ならないわ」

「……どうあっても、研究はやめないのだな」

「続けられる限りはね。姉さん。姉さんも手伝ってくれるわよね? これまで通り、私たち姉妹で……」

 葉月は無意識に妹から視線を逸らした。

 彼女の言葉に何と応えれば良いのか、わからなかった。

 葉月は腕時計に目をやる。地下の出来事からまだ三十分も経っていない。だが、身心は二十四時間ぶっ通しで市街戦をやった時の様にくたびれ果てていた。

 執務室に戻った葉月はいつもと変わらない部屋にどこか、現実味を感じられなかった。それもやはり戦闘直後の虚脱感に似ていた。

 戦時とも平時ともつかない千鳥足のような精神状態の中、頭脳がゆっくりと回転数を上げて地下での出来事を反芻し始める。

 皐月の言う事は人間として酷く傲慢だ。しかし、彼女の言葉に納得できてしまう自分もまたいた。

 そう、物事に真摯であればある程、立ち止まる事は出来ないのだ。進んだ道は違えど、皐月とは血を分けた姉妹なのだと改めて実感する。皐月もそれがわかっていたからこそ次元跳躍の真実を語る気になったのだろう。自分と近しいからこそ、自分を理解してくれるはずだ、と。

 皐月の言わんとするところは理解出来る。だが、それに賛同する事は出来ない。出来ないが、唯一の家族を告発する勇気が葉月には無かった。

「……私は、どうすれば良いのだ……」

 恐らく事は自分自身だけで済むものでは無い。

 彰の事だ。

 拉致の現場を彼も目撃している。皐月の姉であり、次元遠征実験隊に所属する身だったからこそ、これで済んだのだ。まったくの部外者に自分と同じ処遇が下ると思うほど葉月は楽天家では無い。

 彼はもう軍人会館を発っただろうか。既に家族と再会できているだろうか。せめて警察に保護を求めていてほしい。

 帝国陸軍と警視庁は八十年前のクーデター未遂事件以来、犬猿の仲だ。しかも、帝都を騒がせている拉致事件の目撃者だ。陸軍の人間が居丈高に「寄こせ」と凄めば必ず突っぱねるだろう。そうすれば彰の身もいくらか安全になる。

 ただ、それも彰が無事に警察の元に保護されてこそだ。

 葉月は受話器を取り、ダイヤルに手を掛け、止める。

「いや、外線は駄目だ……」

 外線通話は基地内の交換機を通す。通話内容を聞かれる恐れがある。葉月は自らの迂闊さを呪いながら別の内線をダイヤルする。

 前室の当番兵に掛けるが、通話に出ない。

 そう言えば今朝から当番兵の姿を見ていなかった。

「休んでいるのか?」

 口に出してみるがどうにもしっくりとこない。彼は今日非番では無いし当番兵が昨日の間に怪我や病気をするというのも考えにくい。

 葉月は前室の彼の机に様子を見に行く。

 筆記具が出ていた。そして、彼の軍帽が衣紋掛けにぶら下っている。登庁しているのは間違いない。

「……来てはいるんだな。まったく、どこに行ったんだ」

 妙な胸騒ぎを感じながら今一度部屋を見渡した矢先、ドアが開く。

「中隊長、どこにいらしたんですか?」

「それはこちらの台詞だ。海野うんの、貴様どこにいた。課業時間中だぞ」

 当番兵が戻って来た事に内心で胸をなでおろす。だが、彼の表情に安堵ばかりしていられなさそうな気配を読み取った。

「それどころじゃありませんよ、中隊長」

「なんだ」

「昨日付けで降りた中隊の辞令は一体何なんですか?」

「……何の話だ。私は辞令など聞いていないぞ」

 彼の剣幕に気押されしそうになりながら、葉月は首を振る。

「異動ですよ。各小隊長に下士官。片っ端から飛ばされました。ご存じないんですか?」

「昨日、私はいなかったからな……詳しく話せ」

 予想外の反応に、当番兵も振り上げた拳の行き場に困ったような顔をする。しかし、その裏には明らかに動揺と不安がこびりついていた。

「は、言葉通りです。昨日付けでその日のうちにという事で、皆体一つで出ていきました。今、残った人員で荷物の整理を行っています」

「そんな馬鹿な……」

「小官もそう思います」

 葉月の言葉に当番兵が頷く。だが、葉月はもう一段階思考を進めていた。

 次元遠征実験隊は自分の思っている以上に帝国陸軍の意向が反映されているようだ、と。皐月が上層部と結託しているのだとしたら、この無茶な人事異動も納得できる。

 皐月は、自分から手足を取りあげて抱きこもうとでもしているのだろうか。

「……海野一等兵、貴様に頼みたい事がある」

 当番兵は一瞬怪訝な顔をするが、軍刀に手を掛けたような葉月の表情を見て、即座に直立の姿勢を取る。

「ここに行き、確認を取れ」

 当番兵の机からペンを取り、

 軍人会館、戸館彰の宿泊記録

 と手早くメモに書きつけて渡す。

「……これは、もしかして例の中隊長の……」

 顔を上げるが、彼の顔に冗談の気配はない。彼もうっすらと気付いたのだろう、葉月の身の回りで異変が起こりつつある事に。

「言うな、聞くな。行け」

「了解」

 当番兵は敬礼もそこそこに軍帽を手に飛び出して行った。


 それは、まさしく独房という表現がぴたりと当てはまった。

 広さは軍人会館の客室と大して変わらないのだが、照明と窓だけでこうも印象が変わるものなのかと彰は変に感心した。

 そう、この部屋には窓がない。そして、時計も無い。部屋は最低限現代的に整えられているが、照明は見るからに頑丈そうなケースに収まった蛍光灯の無機質な明かりだけだ。

 DOORに戻って、すぐにこの部屋に押し込められた。それから二回食事をして、一回眠った。今はなのだろうか、翌日の朝なのだろうか。

 鍵も拳銃も、時計や携帯電話すら取り上げられてしまった。化粧台の隣には電話が置いてあるが、どこにかけたら良いのかもわからない。

 試しに117にかけてみるが当然繋がらない。

 そうこうしているとノックの音がして、見た目の割に重い扉が開く。

「面会時間は十五分。映像と音声は記録される。あと、守秘義務については――」

「わかってる。大丈夫だから」

 部屋に現われたのは制服姿の二人。一人は彰も良く知っている。

「凛さん……」

「本当に戻って来たんだね」

「うん。けど、身体検査に健康診断。あとは尋問も受けた。まるでスパイだよ」

 彰が茶化すように肩をすくめると、佐伯は小さく頷く。

「キミにはスパイの疑いが掛けられてるんだよ」

「なんで?」

「作戦中行方不明から突然帰還したんだもの。その間の事は誰も知らない。だから、最大限の注意を払わなきゃならない」

 彼女の声は微かに震えていた。そして、右の袖からは手首に分厚く巻いた包帯が覗いている。

「やましい事がないなら、正直に話した方がキミの為だと、アタシは思うな……」

「……そうする」

 とりあえず頷いたが、葉月の事はどこまで話した方が良いのかわからなかった。

 彼女は言ってしまえば敵の指揮官の一人だ。果たしてどこまで話せるのだろう。

「でも、良かった……無事で……」

 涙で濁った彼女の声に彰は動揺した。どうすれば良いのか、なんと言えば良いのかわからない。

 てっきりいつものようにけらけら笑いながら「大変だったねぇ」とでも言ってくれるとばかり思っていた彰は棒立ちのまま佐伯の身体を受け止める。

 彼女は彰の胸の中で、泣き出しそうになるのを必死で堪えている。しかし、ワイシャツにじんわりと温かい物が広がり始めるのに、そう時間はかからなかった。

「本当に、心配したんだからね……何で、すぐに帰って来なかったのよっ……」

 嗚咽混じりの声に、彰はどんな言葉をかけて良いのかわからなかった。


「二日と一夜というべきか、三日目の朝というべきか、悩むところだな」

「家出なら頑張った方なんでしょうが、どうにも不可解で……」

「ほう」

 広瀬の言葉に興味を引かれた連隊長は眉をわずかに持ち上げる。

「先日の作戦でMIAになった経緯は確認が取れました。ですが、すぐに戻らなかった理由がいまいちはっきりせんのです」

「あの後敵施設で拘束されスパイとして帰って来た、という可能性は? だから向こうでの事を話せないとは考えられないかね」

「可能性がゼロとは言いませんが、考慮しなくても構わんでしょう。何しろたった二日です。情報を引き出すにもスパイに仕立てるにも時間が短すぎます」

「では本当に家出だと? 佐伯二曹とトラブルでもあったのではないか?」

「私の見る限り、それは無いでしょう。それに家出だったとしても不可解です」

「……展開したまえ」

「衣服はそれなりに汚れていたようですが、身体検査の結果、身体は清潔でしたし食事もきちんと摂っていたようです。しかも、現金はほとんど減っていません」

「……誰かの家に上がり込んでいたのか。いや、それだったら服も洗濯しているか。第一、彼は帝国に親しい者がいるのか?」

「不可解でしょう?」

 仮説を組み立てていく連隊長に広瀬は茶々を入れる。飄々としてはいるがその声は真面目なものだ。

「考えられるのは佐伯二曹と偵察に出た時会ったという陸軍中尉ですが、意図的に会おうとでもしなければ再会は難しいでしょうな」

「その中尉と少年の間に関係は?」

「帝国に渡ったのはそれが初めてで、初対面です。それにMIA中に件の中尉に会ったのかどうかも彼は話そうとしません」

「……では会っていたのか?」

「それで同棲ごっこですか? 理由は?」

 詰問するような広瀬に、連隊長は「うーん」と小さく唸って、自分の言葉を訝るように呟く。

「好きあって、いた? だから、少年もすぐには戻りたくなかった……」

「連隊長……」

 さすがに広瀬も苦笑を隠しきれなかった。言った連隊長自身照れたような苦笑いを浮かべる。

「敵と味方に分かれてロミオとジュリエットですか? ちょっと出来過ぎてやしませんか。大体、それなら二日と言わずもっといても良い筈です。私ならそうします。少なくとも現金が無くなる位までは……」

「つまり、彼は君の様な不良では無かったという事だ」

「そりゃあ、どういう意味ですか連隊長」

「言葉通りの意味だとも、広瀬三尉」

 さめざめと肩をすくませる広瀬に連隊長はお返しだと言わんばかりにいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

 だが、次の瞬間にはもう二人の顔から笑顔は消えていた。

「しかし、昨日の今日なのだろう? そう慌ただしく聴取して効果は上がるかね」

「ですから、これからしばらく継続的に聴取していきます。繰り返して行くうちに見えてくるものもあるでしょう。もっとも、彼には少し窮屈な思いをしてもらう事になりますが……」

「窮屈だと思えば、尚更すぐに喋るだろう。やましい所がないのであればな」

「そうである事を願います。それでなくても第一小隊は満身創痍ですからな。これに鍵まで欠けちゃ、うちは看板降ろさにゃなりません」

 茶化すように言って暫定の報告書を置いた広瀬が踵を返すと、その背中に連隊長が声を掛ける。

「ああ、そうだ。忘れていた」

「何でしょう」

「看板で思い出したんだ。第一小隊員の補充は暫くない。現有戦力を活用してくれ」

「……まぁ、期待はしとりませんでしたが……」

「指揮官の憂鬱という奴だ。存分に楽しむと良い」

 演技でない溜息を吐く広瀬に、連隊長は笑みに同情の色を含ませた。


「今日で何日になる?」

「六日目です」

 廊下で呼び止められた佐伯は広瀬に問われるままに答える。

「あの……まだ、話しませんか」

「ああ、全く強情だ。一体何を隠してるんだか」

「三尉。もし差支えなかったら、今日の聴取に同席させてもらえませんか?」

 広瀬のうんざりした様子にあまり期待はしていなかったが、意外にも彼は軽く頷いた。

「今返事は出来ないが、まぁ、掛け合ってみよう。この際何だって良い。あいつの口を割ってくれ。お前の選んだっていうイカすグラサンで、ポロっと何か漏らしてくれるかもしれないしな」

 もちろんからかわれているのだろうが、あの時の事をこうして引き合いに出されると、何とも言えない気分になる。

 照れ笑いをするべきなのか、照れ隠しに何か言うべきなのか、いっそ逆ギレしてみせるべきなのか。

 迷った結果、佐伯は中途半端な仏頂面を浮かべる。

「まぁ、お前にだって言いたい事はあるだろうし。多少気心の知れた人間の方が話しやすい事もあるだろう」

「……ありがとうございます」

 仏頂面のまま返事をしようと努力をした。だが、彰にもう一度会えるのだと、彼が帝国で何をしていたのか直接聞けるのだと思うと、表情を保つのは難しかった。

 取調室と呼ぶのがふさわしい殺風景な部屋に担当官と並んで腰を降ろしても、その気分は変わらなかった。だが、とりあえず表情は硬く作っておく。隣から放たれる「これから仕事をするぞ」という気配に遠慮しての事だ。

 程無く彰が現れる。いつもの学生服は洗濯にでも出してしまったのか、PX売店で見かけた事のある、田舎のチンピラみたいな趣味の悪いジャージを着ていた。

 きっと、着替えとして用意されたのだろうが、もっと他になかったのだろうかと内心で溜息を吐く。

「今日は佐伯二曹が同席する。本人たっての希望でもあるから。まぁ、今日だけは楽に世間話でもしてくれ」

 担当官は平坦な声でそう言い、腕組して背もたれに体を預けて興味無い、という姿勢をとる。もちろんポーズだろう。ポケットの中ではレコーダーがばっちり会話を記録しているはずだ。

「……凛さん」

 そんな担当官の言葉を受けて、彰がおずおずと口を開く。彼の表情には少なからず疲労の色があった。

「なに」

 再会した時よりは冷静に対応できたと思う。まずは順調な滑り出しだ。

「今日何日?」

 佐伯は隣の担当官を一瞥するが、彼は視線に気づかないのか反応を見せない。

「……キミが戻って今日で六日目。何日だと思った?」

「まだ六日だったのか。もう二週間ぐらい経ってる気がしてたよ」

「閉じ込められっぱなしだもんね」

「陽の光を浴びたいよ」

「あははっ、まるで囚人だね」

 疲れてはいるが、ふさぎこんだ様子がない事に佐伯は少しだけ安心した。一瞬、こんな会話で良いのだろうかとも思ったが、世間話をしろといったのは彼の方だった事を思い出す。

 何か不都合があれば彼の方から止めに入るだろうと思いなおし、佐伯は会話を続ける事にする。

「そうだ……渡したいものがあったんだ」

「渡したいもの?」

「うん、本当はキミが解放されてから渡そうと思ってたんだけれど、思ったより長引くみたいだからさ、良い機会だから今渡しちゃおうと思って……」

 佐伯は制服のポケットから包装紙でくるまれた細長い箱を取り出す。包装は自分で巻いたものだ。銃砲店の迷彩柄の包装紙ではあまりにも味気ない。

 その時は上手く出来たと思ったが、改めて見ると包装の角が大分歪んでいる。なるべくきれいな面を彰に向けて机の上に置いて差し出す。

「開けて良いの?」

「もちろん」

 彰が包装を紐解いて行く、英語のロゴと説明の入った箱にはノンフレームのサングラスが描かれている。

「……サングラス?」

 彰は怪訝な顔をしながら、更に箱を開ける。

 ぴかぴかに磨き上げられたレンズは顔の曲線に沿いながら視野をぴったりと覆うように滑らかに湾曲し、視界を遮るフレームは無く、アームだけがレンズの端から伸びていた。

 一見すれば、それは炎天下でアスリートが身につけるサングラスだ。だが、嵌め込まれた厚さ二.四ミリの特殊ポリカーボネイトのレンズが防ぐのは紫外線だけでは無い。

「シューティンググラスだよ。キミまだ自分の持ってなかったでしょ?」

「撃つ時に掛けるのか」

「薬莢や火薬のカスなんかが眼に入らないようにね。バードショットくらいなら止められる防弾性もあるよ」

「散弾銃で撃たれたら、眼鏡無事でも顔は無事じゃないよ」

 彰はそう言って笑みを浮かべ、シューティンググラスを掛ける。

 シャープな顔立ちを強調するようなシューティンググラスのシルエットは佐伯の想像通り、彰の顔によく合った。

「どう?」

「似合ってるよ」

「貰って良いの?」

「もちろん」

「作戦中も着ける?」

「それはキミの自由だけれど。キミだけ作戦中もゴーグルとかしないでしょう? つけても良いんじゃないかな。レンズを変えれば顔だって隠せるだろうし」

 佐伯はそう言って箱の中に入っていたほとんど真っ黒のレンズを取り出す。

「これじゃあ、暗がりとかどうするんだよ?」

「大丈夫。偏光レンズだから暗がりくらいなら裸眼とほとんど変わらないよ。それに、本当に真っ暗だったら顔なんか見えないしね」

「それもそうか」

 そう言いながら彰はシューティンググラスを外す。あまり気に入らなかったのかと内心怯えるが、手元ですぐにレンズやアームをいじり始めるのを見て、ある程度気に入ってもらえたのだと胸をなでおろす。

「……なぁ、凛さん」

 説明書を隣に置き、レンズの交換の手順を辿りながら彰が呟く。

「なに」

「別に物を貰ったからって訳じゃないんだけれどさ……」

「うん」

「俺、向こうでこの間の中尉に会ったよ」

「……うん」

 館山葉月、忘れもしない。その名前が出ただけで背中に羽根で撫でられたような不快さが走り、右手の捻挫が疼くような気がした。

「……無事逃げられた?」

 彼女は一個分隊を一瞬で斬り伏せた難き怨敵だ。あの場で鉢合わせして無事でいられるはずもない。

「いや、捕まった。けど、すごく良くしてもらった……」

 彼の言葉に、佐伯は少し混乱した。館山に捕まったという事は帝国軍の手に落ちたという事だ。つまり、彰は寝返ったというのか。

 隣の担当官の気配も俄かに張り詰める。

「……アタシたちとは、もう戦えない?」

 お前はスパイか? とは聞けなかった。

「別に、凛さんやDOORのみんなが心配してるような事は無いんだ。本当に、何もなかったんだ」

「なにも無かった?」

「うん、彼女は宿の手配をしてくれた。それから一緒に出かけたりとか。本当、普通に向こうで暮らしてたんだ……」

「どうして今まで――」

「馬鹿じゃないの!?」

 佐伯は沸騰した感情のままに叫んでいた。隣で担当官が何か言おうとしたようだが、今は構っている場合では無い。

「三日も何してたのかと思えば、女の子と遊んでた? アタシがどれだけ心配したと思ってるの!? これじゃあ、まるで、アタシ、馬鹿じゃない」

 感情の塊の直撃を受けた彰は呆然としていた。だが、その中には少なからず恐慌の色が隠れている。

 感情がぐらぐらと煮えたぎっていることを自覚していた。沸騰すれば必ず底から湧き上がるものがある。それは猛烈な熱を伴い、触れる者に重大な傷を負わせる危険な気体。

 脳のどこかが告げていた。そんな物を正面から浴びせてはならない、と。だが、さらに別のどこかも告げていた。

 獲られて良いのか、と。

「……あの中尉はアタシ達の仲間を斬ったのよ。キミのいた分隊はアタシを残して全員即死。一瞬で戦力の三分の一を失った第一小隊はそのまま撤退した」

 自分でも驚くほど平坦で低い声だ。さっきの荒げた声と本当に同じ喉から出ているのか、自分でも不安になる。

 不安が脳裏を伝播し、これ以上言ってはいけないと告げている。だが、止められない。

 頭脳の最も下品な部分が声高に叫んでいる。

 奴を貶めろ。彼に幻滅させろ、と。

「キミは第一小隊の仲間をなますに刻んで斬殺した、その張本人の下にいたのよ……まさか、キミ……あの中尉にホれた?」

 彰は答えない。それが、半ば答えの様なものだ。

「別に、キミが誰を好きになろうと勝手だけれど、あの中尉は少なくとも第一小隊十人分の血で汚れてる。もう、手くらい握った? その手だよ。キミと一緒に訓練して、死線だって潜った仲間を殺したのは……それでも、キミはあの中尉に特別な感情を抱ける?」

 滑り出した口は止まらない。彰に逡巡の隙すら与えず言葉は加速し、危険な領域へと突き進む。

「DOORの一員としてまたあの中尉と相対して、冷静でいられる? DOORとあの中尉、どちらかを選ばなければならない時、躊躇なくアタシ達を選ぶ事が出来る?」

 そこまで言って、佐伯は後悔し始めていた。

 もし、彰があの中尉を選んでしまったとしたら。それが、自分の言葉が引き金になってしまったとしたら。

 沸騰していた筈の感情が今は冷え切っている。湿度温度ともにこの上なく管理されているはずのこの部屋がうすら寒いものに感じる。

 手が震える。身体が震えている。内臓が強張って呼吸が出来ない。

 息の吸い方を一動作づつ思い出すようにしながら、細心の注意で椅子の背もたれに体を預けなおす。そうしなければ、全身がばらばらに砕けてしまいそうだ。

「……ゴメン。アタシ……どうかしてた……」

 吐息と共にそんな言葉が漏れていた。

 あの中尉に固執するあまり、平気で醜い自分を曝け出す、自分の本性が腹立たしくて、悔しくて、何より情けなかった。

 涙が、溢れてくる。こんな場所で、ましてや制服を着て落涙する訳にはいかない。これ以上彰に醜態を晒す事は出来ない。

「……失礼します。少し、感情的になりすぎました」

 今にも決壊しそうな涙を堪えながら、囁くような声で告げ、逃げるように席を立つ。

「ああ、その方が良いだろう」

 背中に聞いた担当官の声はこう宣言していた。

 仕事の邪魔だ、と。


「入ったらすぐに制圧しろ、後続を待たせるな」

 インカム越しに広瀬の声を聞くのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。

「ピーター11到着。これより扉を展開する」

 DOORの隊員が着る黒衣の戦闘服も見慣れていたはずなのに今は何故か新鮮に見える。

 警戒態勢に入った仲間に目配せし、彰は鍵を引きずり出し、床の鍵穴に差し込む。

「エンコード」

「第二分隊突入!」

 扉が開き、油田が噴き上がるように第二分隊の面々が飛び出してくるのを彰は慌てて後ろに飛び退く。

「突入成功。これより屋内制圧に移る」

「第一分隊は撤収後再突入。屋内から外周の背後を突け」

「……了解」

 銃声と足音が一斉に交錯し、援護を求める声とクリアリングの声がそれにアクセントを加える。

「第一分隊、突入」

 今度は扉から少し離れて待つ。

 第一分隊が雪崩のように扉から吐き出される。

 誰もが黒い戦闘服にゴーグルを着け、MP5を携えていて、一人一人の見分けはほとんどつかないが、その中に一人だけ見分けられた人物がいた。

 だが、当の本人は気づいているのかいないのか、彰に見向きもせず部屋の奥へと散って行った。

 どこかぼんやりと隊員達が嵐のように駆け抜けていったドアの向こう側を眺めていると、広瀬の声がインカムに届く。

「ピーター11、扉を閉めろ」

「……り、了解」

 彰は言われるままに。そして、慌てて扉を閉めて鍵を掛けた。

「……よし、状況終了。今日は上がりだ」

 ジャンボジェットが丸々収まりそうな空間に設えられたキルハウスに満ちていた殺気立った気配が、一瞬にして溶けていく。

「どうだい、復帰一発目の感想は?」

 護衛役としてついていた隊員が彰に話しかける。

「緊張した。ていうか、何か変な訓練だったな。鍵と少数の護衛が先行して屋内に入って二つ目の扉を開けるなんて……」

「何言ってるんだ。最初にやったのはお前だぞ?」

「え?」

「例の敵施設で二分隊をとって返させた、アレが下敷きになってる」

「……ああ、アレか……」

 答えた彰の声は重かった。

 その結果、第二分隊がどうなったか今の彰は知っている。そして、このぎすぎすした現状の遠因でもある。

「いや、別に嫌味を言ってる訳じゃない。結果はああなってしまったが……まぁ、運が悪かったんだ。お前も、二分隊も……」

「……ああ」

 隊員が分厚いグローブで彰の肩を叩く。そこには確かに戦友への同情を感じる事が出来た。それ自体は彰にとってもうれしかった。しかし、だからと言って心の憂鬱を晴らすほどの力があるかと言えば、そういうものでもない。

 あのやりとりから数日経つ。彰が本格的に復帰してから連隊の雰囲気は大まかに二分する事が出来た。

 一つは、無事の帰還を純粋に喜んでくれる者。もう一つは、どこかよそよそしい態度を取る者。

 後者については、元々付き合いの広いタイプでは無いかったし、多少ナイーブになっているせいでそう感じているだけなのかも知れない。だが、明らかにそうとわかる者もいる。

 佐伯だ。

 実を言えば、あの一件以来佐伯とはろくに話をしていない。今日の訓練だって目すら合わさなかった。

 喧嘩、なのだろうか。

 そう思おうとする度に、彰の胸には言いようのない不快感が現れる。

 自己正当化すら許されないほどに深刻な状況なのだという事は、彰にもわかった。

 なら、あのまま黙っていた方が良かったのだろうか。だが、黙っていては今もまだ拘束されていただろう。

 まさかあの佐伯があんな感情的な反応をするとは思わなかった。佐伯が相手だからこそ、彼女にだけは話そうと思っての決断だったはずだ。

 そのはずが思い出すだけで背筋が凍るほど感情的に。そして、話すつもりの無かった。隠し遂せるつもりだった心の中まで暴かれてしまった。

 なぜ彼女をそこまで感情的にさせたのか、それは考えるまでもない。

「好きだったんだ……俺の事が」

 そんな事を露とも思わず。難き仇敵と飯事を楽しんできたと彼女に告げたのだ。

 なんて残酷な仕打ちをしてしまったのだろう。なんて恥知らずなのだろうか。

 しかし、大勢の仲間を殺し、この世界を危機に陥れようとしている組織の幹部で、決して交わる事の出来ない並行世界の住人であっても、芽生えてしまった恋心を彰は否定する事が出来なかった。

 たとえ、その事実が佐伯の心を傷つけてしまうとわかったとしても、その気持ちを否定する事は出来ない。

 否定する事は出来ない、そのはずなのに、なぜか無性に、悲しかった。


「解放。思ったより早かったじゃないか」

 訓練後、シャワーを浴びて広瀬が小隊長室に戻るなり、待ちかまえていた伊達が例の芝居がかった仕草で問うた。

「白衣組からせっつかれたのさ。第一小隊としても、いつまでも開店休業じゃあ困るしな」

 まだ乾き切ってない毛先を気にしながら広瀬はどっかりと腰を下ろす。部屋の反対面に座る石神が視線を上げる。

「性急では無いのか? 鍵があちらに転んだ可能性はどこまで排除できた?」

「お前、俺の報告書読んでないだろ? 読めよ」

 どちらかと言えば線の細い石神の冷静な言葉と声は、その場に独特の緊張感をもたらすのだが、付き合いの長い広瀬には大して効果はない。

「第一小隊がずいぶん早い夏休みに入ったからな。忙しくてそんな暇はない」

「……本気で言ってるのか?」

「厭味なら、もっと巧く言う」

 剣呑な言葉とは裏腹に、二人の気配は穏やかなものだった。彼らはお互いに知っているのだ。

 指揮官の孤独と戦闘の不条理を。

「広瀬が白衣に突っつかれたのは、アレが原因なんじゃないか?」

 外を眺めていた伊達が、口を開く。

「扉と時空噴出の関連性は必ずしも高くなくてどうのこうのって奴か?」

 まがりなりにも秘密組織だ。アレやソレで言い表すようなものは沢山あるが、白衣と付けば今のところはこれぐらいしかない。

「俺も話は聞いたんだが、正直何の事なのか俺にはよくわからなかった。伊達はどうだった?」

「俺に聞くのかい?」

「万一って事もあるだろう? ああ、何も言わなくて良いぞ。俺も俺の馬鹿は嫌ってほど自覚してる」

「それなら結構」

「それこそ、報告書を読めばわかる。かなりわかりやすく書いてあったはずだが?」

 石神の言葉に、二人は怪訝な表情で顔を見合わせる。

「……あの訳の分らん文章が読めるのか?」

「一言でいえば、DOORのディメンジョンエンコード技術では時空噴出を起こすには力不足って事だ。時空噴出の原理はわかるだろう?」

「異なる世界が繋がると、対流が起きて現在のを維持できなくなるってヤツだろ。そのくらいはわかる」

 広瀬が答える。伊達は早々にドロップアウトを決め込んだらしく、窓に寄りかかり外を眺め始める。

「部下に格好付けるつもりならその説明の仕方はやめろよ?」

「わかってる。そういう時はもう少し賢そうな言葉を選んでる」

 石神は「そうか」とだけ答え、先を続ける。

「DOORのディメンジョンエンコードの利点は大規模な施設を使わない事だ。だから、どこにでも扉を開けられる。だが、反面大きな扉を開ける事が出来ない。つまり大規模な移動には向かないシステムだ」

「DOORが少数精鋭で構成されてる理由だな」

 広瀬の声には誇らしげな色合いがあった。それは石神も伊達も同じであった。

「世界は広い。何と言っても宇宙の端まであるからな。そこに毛先みたいな穴を開けた所で何も変わらないという事だ」

「つまり、DOORの技術ならいくら扉を開いても時空噴出は起きない、と?」

「そうだ。もっとも、今までもその辺まではある程度わかっていたようだ。問題は長期間扉を開ける事だった」

「それが今回、戸館の家出で割と大丈夫そうとわかったって事か」

「端的に言えばな。白衣組は流入するエネルギーに扉が耐えきれず決壊してしまう事を恐れていたらしい。そうなったらDOORの技術では閉じる事は出来ないそうだ」

「そりゃ、うちは扉だもんな。水門やダムが相手じゃ手も足も出ない……って、そんな単純な事が書いてあったのか?」

「まぁ、要約すればだが」

「あの電話帳みたいな報告書に?」

「半分以上は資料だ。測定結果とか数値の推移とか……」

「……それを見るのが、俺は一番嫌なんだ」

「全く、子供みたいなやつだな……」

「感性が若いのさ」

「なら、あの二人をどうにかしろよ。うちの小隊にまで話は届いてるんだぞ」

「そりゃあ……若い者同士で解決しなきゃ……」

 呆れた様子の石神に、悪びれた様子もなく広瀬はそう言ってのけた。


 彰は盛大に口を開けて一つ大あくびをした。

 椅子の肘かけについた小さなテーブルの上には電話帳のような紙束が乗っている。

 回りを見渡せば似たような反応をしている。中には紙束を枕に寝ている者もいる。

 今日のミーティングはまるまる技術部門からの報告に費やされた。報告は九十分間に及ぶ独演会の様相を呈し、彰が理解できたのは冒頭の五分と結論の五分だけだった。

 つまり、ディメンジョンエンコーダーで扉を一つだけ開いている分には時空噴出の危険性は低く、二つ以上同時に開いた場合、効率的に対流が発生し時空噴出の危険性が高まる。しかし、DOORの技術ではそもそも時空噴出が起きるほどの扉を開ける事が出来ない、という事、らしい。

 実際にディメンジョンエンコーダーを使って並行世界を渡り歩く身として、よく理解できていないのは正直どうなのかとも思うが、それ以上わからないのだから仕方ない。

 誰かに聞こうにも、自分より深く理解していそうな隊員はいない。

「ねぇ」

 部屋をきょろきょろしていると、不意に声をかけられた。

 ぼんやりとしていた頭が一気に醒める。

「……なに」

 どういう対応をしてよいかわからず。彰は一番無難そうな台詞を、一番無難そうな表情に乗せて声の主である佐伯に向けた。

「これから、少しつきあってもらえる?」

 彼女の声は不機嫌という訳では無い。だが、独特の迫力というか、張り詰めたものはひしひしと感じられる。作戦前の空気に少し似ているかも知れない。

 だから、なかなか軽く断る気分にはなれなかった。だが、本心を言えば気まずくない訳がない。

「わかった。付き合うよ」

 声をかけづらい空気をまとわりつかせた背中を追い着いた先は以前使った並行世界に行くための控え室。

「着替えて。アタシも着替えてくるから」

 有無を言わさない雰囲気だが黙って従うのはさすがに抵抗がある。

 まだ解放されて日が浅い。いくら鈍感な彰でも今はおとなしくしていた方が良い事ぐらいわかる。

「……良いけど、向こうに行くのか?」

「そうだよ」

「許可は?」

「三日も戻って来なかったクセに今更そんなこと聞く? 小隊長の許可はとってあるよ」

 彼女は口元に笑みを浮かべて言うが、同じように笑みを浮かべる気にはなれなかった。

 佐伯の眼があまり笑っていなかったからだ。

「……それじゃあ、ソーティルームで」

「……ああ」

 猛烈な不安感を抱きながらも、彰は佐伯の言葉に抗わなかった。

 どうあれ、また帝国へ行けるのだ。葉月のいる世界にいけるという事実が彰から冷静な判断力を奪っていた。


 帝国に渡って二時間。彰はようやく後悔し始めていた。

 月曜亭の店内は時が止まったかのような静寂に満ちている。時折二人の動かすカップとグラスの音がなければ本当にそう錯覚していただろう。

 彰の隣には襟付きのワンピースを着た佐伯が腰かけている。そして、正面にはいつもの軍服を着た葉月が腰を降ろしている。

 二人の纏う空気はある意味で対称的だ。

 佐伯は小銃を手に出撃を待つ兵士のように鋭い目で葉月を見据えている。

 葉月は圧倒的な敵軍に包囲されながら、徹底抗戦を命じられた指揮官のように疲れきった目をしていた。

 自分が去ってから彼女の身に何が起こったのだろうか、それを聞きたい衝動に駆られるが二人の醸し出す空気に割って入るのには相当の勇気がいる。

「やはり、そうだったか」

 月曜亭で鉢合わせしてから三十分。ようやく葉月が口を開く。

 声には力がなく。それでも指揮官らしい威厳ある声を出そうとしているのが痛々しかった。

「何が?」

 応じたのは佐伯。

 突入を前に最後の報告をするような、短く、苛立ったような声だった。

「あの日、我々の所へ来たのは君達だったか」

 葉月は充血した眼を佐伯へ向ける。

 固有名詞が無くても、何の事だかわからないという事は無い。

「そうね。あなたに真っ二つにされかけた」

 彰はぎょっとして二人の顔を見る。今までそんな話は聞いていなかった。

「……では、君もこのご婦人の仲間か」

 その言葉がハンマーとなって彰の胸を強く打つ。反射的に口を開くが、その奥からは何も出てこない。

「残念だったね」

 動揺している彼の代わりと言わんばかりに佐伯が口を開く。彼女はどこか嬉しそうですらあった。

「何がだ?」

「今さら隠す気? 店先で会うなり涙目になりながら飛び付いたクセに」

「再会は喜ばしい事だ。私にだって感情はある」

 恥ずかしげもなくというより、どこかむきになっているようにすら感じる。

「それが敵であっても?」

 帝国は敵では無いと言った彼女の口から敵という言葉が出た時、彰の心が揺れた。そして、彼女の顔が一瞬正視に耐えないほど醜悪なものに見えた。

「根に持っているな」

「当然」

 戦場で殺し合いを演じた仲だ。そこに確執があるのは言うまでもなくわかる。だが、自分はどちらに加担すべきなのか、彰はわからなかった。

 理屈で言えばどちらにつくかは明白だ。だが、理屈だけで割り切れるほど彰は大人では無い。

「私だって大勢部下を亡くした。顔を隠した黒い戦闘服の連中にな」

「なんだ、根に持ってるじゃない」

「忘れていないだけだ。殊更不機嫌な表情を作って喧伝しないだけだ」

「アタシがフリをしてるって?」

 佐伯が身を乗り出すと、葉月は微かに笑う。疲れた表情に笑みを乗せると端整な造形に妙な凄みが出る。

「そうは言わない。だが、割り切るべきだ。兵士なのだろう? 戦場で果つるは必定だ」

 気取った台詞を佐伯は鼻で笑う。

「ふん……それ、もう一回同じこと言える?」

 葉月の表情が険しくなる。佐伯の出方を伺っているのだ。

「館山中尉の部下、一度こちらの世界に遠征してたと思うんだけど、その時全滅してなかったっけ?」

 相当苦い記憶なのだろう。葉月の奥歯が鳴る。その音が彰には撃鉄の起きる音に聞こえた。

 佐伯の口から事の真相が漏れれば、間違いなく葉月の憎悪は自分へ向く。それは何よりも恐ろしい結果を呼ぶはずだ。

 だが、本当に彼女は言うつもりなのか。この場で、互いの当事者の前で。何より、好いているはずの自分の前で、当人が最も隠したいと思っている事を。

 それは逡巡と呼ぶにも僅かな間だった。だが、同時に致命的な間でもあった。

「全滅させたのは、彼だよ」

 葉月はコーヒーカップを手に取り、ゆっくりと持ち上げる。彰はその動きから目が離せなかった。カップを見つめる事で、葉月を直視することを避けた。

 その動作は洗練され、物音一つ立てない。

 沈黙が恐ろしかった。

 しかし、カップを置く刹那、ソーサーとカップが擦れ、ちきちきと微かに音を立てる。

 彼女の手は震えていた。

 彼女の胸中に渦巻くのが動揺なのか怒りなのか、冷静でない彰には全く分からなかった。

 それでも一つだけ言える事がある。

 この場でもっとも醜いのは、他ならぬ自分自身だと言う事だ。

 既に葉月の仲間を大勢殺しておきながら、それをすっかり忘れて彼女の恋人気分でいる自分が醜くなくて何だと言うのだ。

 それに引き換え怨恨を表明し敵愾心を隠すことなくぶつける佐伯の何と潔い事か。

「……そうか」

 怒りをあらわにするでもなく、取り乱すでもなく。葉月はごく短く応じた。そして、小さな溜息と共にぽつりと呟いた。

「因果なものだな。人生とは……」

 彰の中で、何かの糸がふっつりと途切れた。

「だが、僥倖でもある。これで決心がついた」

 葉月の疲れた顔に、にわかに活力が戻る。しかし、どこかぎらつくその目は、とても健康的とは言いかねた。

「僥倖? 決心?」

「そうだ。大方想像はつくが、君たちの任務は何だ?」

「……アタシ達の世界と並行世界の均衡を守る事」

「まぁ、そんなところだろうな」

「前置きは良い。何を企んでるの?」

 糾弾していた筈の佐伯がいつの間にか冷静さを取り戻している。元来の性格なのだろうか、それとも兵士の直感がそれどころでは無いと告げているのだろうか。

 それほどまでに葉月の雰囲気は一変していた。

「うちを攻撃しろ。そして、完膚なきまでに破壊しろ」

 二人は言葉を失った。佐伯など完全に狂人を見る目で葉月を見ている。

「言っておくが、私は正気だ」

「本当に? はたいていそう言うらしいよ?」

 佐伯は鼻で笑う。というより、言葉通り正気を疑っていた。しかし、葉月は毅然とした態度を崩さない。

「言いたい事はわかる。私だって同じ事を言われたならそいつの正気を疑うだろう」

「わかって言ってるなら処置なしね。第一、御大将自ら攻撃しろなんて……」

「罠だと思うか」

「当然。それで得るものなんて何もない」

「お前たちには確かに無いかも知れない。だが、我々にはあるのだ」

「暗闘の片棒でも担がせる気?」

「そんな大それた話では無い。ただ、妹の行きすぎを正すだけだ」

「姉妹喧嘩ならよそでやってくれない?」

 佐伯がこれ見よがしに顔をそむけて見せる。葉月はその時を狙っていたかのように薄笑いを浮かべた。

「妹は、次元跳躍の技術開発を行っている。近似世界へ行く技術だ」

 佐伯の表情が変わる。たとえ相手が狂っていたとしても、ディメンジョンエンコードにかかわる話をみすみす聞き逃すのは気が引ける。

「彼女は次元跳躍の為に、人間を機械に繋ぎ、それこそ機械のように使っている。そんな事は断じて許されない。私は、どんなものにも最低限超えてはならない道義や矜持があると思っている。皐月の、妹のそれは限度を超えている」

 努めて冷静な声ではある。だが、その言葉の端々に怒りが見え隠れしている。彼女が見た恐ろしい光景を彰たちは知らない。

「なら、手続きを踏んで糾弾すれば良いじゃない。いるんでしょ? 憲兵とか」

 今度は葉月が鼻で笑う。

「ふん、そんな物が使えるなら、わざわざ敵になど頼まない」

 敵、という言葉が彰の胸に突き刺さる。

「帝国陸軍はどうやらこの実験を黙認するつもりだ。誉れある陸軍は次元跳躍技術完成の為なら人攫いも、人体実験も厭わんという訳だ。理由は言わなくてもわかるだろう?」

「……どんな人体実験をしているの?」

「詳しい事は知らん。いくら説明しても良いが、学問や技術の事はさっぱりわからん。ただ、人間が目的の為にどこまで残酷になれるのかという疑問にこれ以上の回答は無い、とだけ言っておく」

「……あなた、わかってるの?」

 不意に上げた佐伯の声に今までのような棘はなかった。それどころか、本当に心配しているような気配すらある。

「わかっている。これは裏切りだ。自分だけ奇麗な身でいようとは思わない」

 葉月には二つの似て非なる顔が同居していた。一つは腹を括った兵士の顔。もう一つは恋に真剣な少女の顔。

 そんな顔をされては、佐伯も言葉の掛けようがない。

「何か、保証が欲しいか?」

 沈黙をどう受け取ったのか、葉月はそんな事を言う。しかし、佐伯は緩く首を振る。

「欲しいと言っても、そんな物ある訳ないでしょ」

「そうだな――いや」

 彼女の言葉に、葉月は頷きかける。だが、途中で言葉を切り、今までの張り詰めた空気とは不釣り合いな、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「気障な言い方は好まないのだが……妹の研究を破壊してくれるなら、その為に必要なあらゆる情報を引き渡す事を、そこの男にかけて誓おう。この意味、わかるだろう?」

「もちろんわかるよ。だからとりあえず信用してあげる。けど、これだけは言わせてもらう……やっぱりアタシ、アンタの事、嫌いだわ」


 佐伯と二人で店を出てようやく、彰は理解し始めた。佐伯が何故並行世界に渡り、わざわざ月曜亭で葉月を待ち続けたのかが。

 そう、彼女は葉月と対決するつもりだったのだ。敵愾心や独占欲、恋心や嫉妬といったデリケートな感情を一緒くたに丸めた雪玉を、葉月の顔面に叩きつけてやるつもりだったのだろう。

 それは、彰の中にある佐伯の人物像を大きく書き換えさせるに足る事実だ。

 彼女も女で感情がある。その当たり前の事を彰はどこかで認識していなかった。

 訓練では必ずフォローしてくれ、それは実戦でも変わらず。右も左もわからない組織で彼女だけが親身にいろいろ教えてくれた。

 彰はどこかで彼女の事を信用し過ぎていた。それこそ姉や母親のように絶対的な味方であると勘違いしていた。

 彼女はあくまで他人なのだ。他人なのだから、必ず味方で居てくれるとは限らない。気に入らなければ、気に入らないと言う。そして、自分の気に入るように周りへ働きかける。

 そんな当たり前の事を、彰は忘れていた。それはとても残酷な事だ。信用というパイプは、必ずしもデリカシーのフィルターを通るとは限らない。

「……アタシの事、嫌な女だと思ってるでしょ?」

 力のこもらない声には少なからぬ諦観の色があった。

「わからない」

「ふふっ……優しいねぇキミは」

 素直な気持ちだった。だが、佐伯にはうまく伝わらなかったようだ。

「あの中尉はそんなところに魅かれてるのかもね」

 だが、それももう過去の話だ。

「……でも、もう、終わった事だよ」

 すると佐伯は、「あははっ」と空笑いする。

「キミ、人の話を聞いてないタイプだね。何となく、わかってはいたけどさっ」

「だって、俺は葉月の部下を殺したんだ。そんな相手を好きでいられるわけがないだろう?」

「理屈ではね。けれど、感情は別……キミだってそうでしょ?」

「え?」

「なに? バレて無いとでも思ってたの?」

 思っていた。少なくとも自分の感情を表明した事は無かったつもりだ。

「今日の反応を見ればわかるよ。キミおろおろしっぱなしだったし。けれどもちょっと安心した」

「……何で?」

「キミが迷ってくれたから。迷わずあの中尉の味方をしたらどうしようかと思ったよ」

 そこまで言うと、佐伯は不意に言葉を切る。そして、呟くような声で続ける。

「なのに、アタシはキミの一番隠したい事をあの中尉にチクった。けれどもあの中尉はそれを受け入れることにした。彼女、軍人よりも女の子でいる事を取ったんだよ……キミに本気でいるんだよ」

 佐伯の言っている意味が分からなかった。なぜ女の子でいる事が陸軍や妹を裏切る事に繋がるのだろうか。

「どうしてわからないかなぁ……キミがいるから、彼女はあの提案をしたんだよ」

「どうして?」

「キミの事を信じたから。敵とか味方とかじゃなくて、戸館彰という男を信じたんだよ」

 自分はそれに足る人間なのか。真っ先に思い浮かんだのはそんな不安だった。

「ま、いきなりこんなこと言われても困っちゃうか……」

 佐伯は緊張をほぐすように小さく息を吐く。その表情にはどこか寂しげな色合いがあった。

「ともあれ、キミがどんな結論を出すつもりか知らないけれど。本気で答えてあげてね」

 聞き分けの良い、優しい姉の見本のような言葉。イメージ通りの佐伯の言葉。だが、今となっては強烈な違和感を呼ぶ。

「……凛さんは」

「え?」

「凛さんは、それで良いのかよ」

「……」

 佐伯は即答しなかった。視線を向けると、そこに聞き分けの良い姉の姿など無かった。

 ただ、嫉妬と見栄と好意のない交ぜになった、複雑で生々しい女の表情をした佐伯がいた。

「ダメなんだ。ああいうの……ああいう感情任せのストレートなもの見せられちゃうと。どうしても、腰が引けちゃうんだ……」

 佐伯の言う意味を、彰はよく理解する事が出来なかった。

「きっと、競り合ってもついていけないって、わかってるんだろうね。ちょっと、悔しいけど……」

 正直に言って、今まで佐伯の年齢を彰は意識した事が無かった。それどころか、どこか年下のようにすら感じる事があった。だからこそ、作戦時は彼女より先んじようとしていた。

 だが、今眼前にいる佐伯からは年上の者が背負う諦観にも似た、重ねた時間の重みをはっきりと感じ取る事が出来た。

 たかだか数年の差が、どうしようもなく遠いものに感じ。そして、佐伯は成熟した一人の女なのだと強く感じた。

 彰は取り残された舞台の上で我に返ってしまった道化のように、怯えたような顔で佐伯を見つめていた。

「別にキミの事を嫌いになったって訳じゃないよ。ただ、アタシが少し大人の対応しちゃっただけ」

 ごく軽い調子で言ってから「まだ若いはずなんだけどなぁ」と笑う佐伯は、彰の良く知る佐伯の姿だった。しかし、もう以前のように対等で接する自信は、彰にはなかった。

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