第5話

「……全く、君は本当に無謀な男だな」

 扉に中隊長室というプレートの下がった部屋に通された彰は、葉月からこんな言葉をもらった。

「それは……その」

 まさかさっき襲撃したのは自分たちだ、などとは言えない。

「こんな夜更けに銃声のする軍施設に忍び込もう等と……はっきり言って正気の沙汰ではない。姉上はどうした?」

 こちらの世界では自分は帝都見物に来た佐伯の甥っ子という設定だった事を思い出す。

 ともあれ、ここで下手な事を言えばすべてが崩壊しかねない。いっそ逃げ出してしまいたい気分だ。

「えーと……り、姉さんとはぐれちゃって、帰り道もわからなくて、ふらふらしてたらこんな時間になっちゃって。それで門番に何か聞けばわかるかと思ったら銃声がして、何が起こったのかと思って、フェンスの裂け目から中に……」

 たどたどしい言葉は困惑の演技ではない。実際困惑していた。少し気を許せば困惑のあまりフリーズしてしまいそうな脳味噌を必死に動かして何とか理屈の通る言い訳を考えながら喋っているのだ。

「……君の行動は……理解しかねる……」

 葉月はようやくその言葉をひねり出す。奇遇な事に彰も同意見だった。

「本当に帰る道がわからないのか?」

 念を押すような問いかけに、彰は頷く。

「姉上の電話番号は?」

「知らない」

「なら、御実家は?」

 ぎくりとする。何とかごまかさなければ。

「……あんまり、迷惑をかけたくないんだ」

「実家だろう?」

「……まぁ、色々あるんだ」

「ふーん……どうしてもと言うのなら仕方ないが――」

「それに、ほら。しばらく姉さんのところにいる事になってるから。姉さんに会えれば別に実家に知らせなくても大丈夫じゃないか」

 深く追求される前に言葉をかぶせる。葉月はしばらく怪訝そうに彰を見つめていたが、やがて小さく息を吐く。

「そうすると警察も駄目か……仕方ない。君の希望に応じよう」

 言うと、葉月は机の隅に置いてある受話器を取る。だが、すぐに舌打ちして放り投げるように受話器を戻す。

 彰は先の襲撃で通話ラインを切断していた事を思い出す。

「……宿まで送ろう。費用の事は心配しなくて良い」


「すぐに引き返すべきです!」

 佐伯の声がソーティルームに木霊する。開いていた扉は一つを残して伊達によりすべて閉じられていた。

「却下だ」

「何故ですか!?」

 広瀬の冷たい一言が、ただでさえささくれ立った佐伯の神経を逆なでする。

「第一小隊は損害を受け過ぎた」

「なら第二小隊を――」

「今第二小隊が傷付けばDOORは活動不能になる」

 佐伯は唇を噛む。

「なら、アタシだけでも……」

「佐伯二曹」

「アタシは鍵の護衛を三尉より命じられています。彼の救出に向かうのも任務の内だと理解しています」

「佐伯二等陸曹!」

「あっ、痛――」

 広瀬が佐伯の右手を掴むと、彼女は痛みに顔を歪ませる。

 戦闘服の上からでも手首が熱を持ち、腫れ上がっているのがわかった。

「そんな状態で何が出来る。その様子では銃どころか、拳すら満足には握れんだろう」

 広瀬がゆっくりと手を離す。

 彼の見立ては正しかった。とっさに片手で受けたのがまずかった。

 骨に異常は無いだろうが、捻挫しているのは間違いない。

 だが、痛みのおかげで少し冷静になる事が出来た気がする。

「ですが――」

「くどい」

 広瀬は一蹴し、続ける。

「彼はディメンジョンエンコーダーを使える。帰ろうと思えばいつでも、どこからでも帰れるんだ。それに、みすみす引き返してのこのこ捕まる馬鹿でもあるまい」

「あ……」

 言われてようやく気が付いた。どうやら、まだまだ冷静とは言い難いらしい。しかし、のこのこ捕まってしまうシーンを想像するのは上手く逃げ切るシーンを想像するより簡単だった。

「まぁ、あの状況だ。二曹も思う所があるのはわかるが、今は堪えてくれ」

 広瀬はそういうと「以上だ」と言い残してソーティルームを後にする。

 佐伯は無事な左手でヘルメットを脱ぎ、ナイロンのフェイスマスクを下げる。視線の先には未だ解放されたままになっている最後の扉があった。

 彼は帰ろうと思えば帰れるのだ。そんな事説明されるまでもなくわかっていたはずだ。それなのにどうして自分は彰を奪回する事にこだわったのだろうか。

 自問するまでもない。

 あの時、容赦なく斬りかかって来た葉月の姿を見たからだ。

 彼女の世界に彼を置き去りにする事に何か胸騒ぎのようなものを感じたのだ。

 出かけてから部屋の事が気になるような、そういう些細な、ほとんど取り越し苦労だと解っているはずの不安がどうしても拭えなかった。


 突然スイッチが入ったように目が覚めた。

 カーテン越しに差し込む陽の光が部屋全体をセピア色にしている。

 時刻は午前十時。熟睡したと言っても良いだろう。

 彰はベッドから体を起して、凝った身体をほぐしながら部屋を見渡す。

 床はベージュの絨毯。壁際にはライティングデスクがあり、それを見下すようにシェードの掛かった背の高いライトスタンドが配されている。

 窓のそばにはコーヒーテーブルを挟んで二脚の一人掛けソファ。

 置かれている物や部屋の広さで言えば駅から少し離れた、ちょっと値の張るビジネスホテルと同程度かも知れない。

 だが、何気ない家具の一つ一つに上等な品を丁寧に使い続けて来たのだという、ある種の風格が漂っている。

 要するにこの部屋は、小さい割に高級なもので占められていて落ち着かない。

 宿代の心配はするなと言った葉月の事が少しだけ心配になるが、ライティングデスクの便箋には軍人会館と銘が入っていた事を思い出す。

 軍人用の宿泊施設なのだろうか。だとすると、名目上民間人の自分が泊っても平気なのだろうか。

 そんな事よりDOORはどうなったのだろうか。

 そこに思い至って鍵に視線を落とす。今すぐにでも元の世界へ戻るべきだ。

 彰は鍵を手にして部屋のドアの前に立ち、端末で座標を合わせる。

「……」

 帰るのは簡単だ。だが、このまま帰っても良いのだろうか。

 生まれた逡巡が手を止めさせる。

 何故そんな事を考えたのか、自分でもわからなかった。

 とはいえ、ずっとこの部屋に留まっているのもなんとなく落ち着かない。

 第一、葉月には迷子と言ってある。少しくらい帰り道を探す素振りを見せておかないと怪しまれてしまうかもしれない。

 彰はさっそく身づくろいをして部屋から出る事にした。

 

 妙に落ち着かない気分だった。

 昨夜の戦闘にまつわる報告書が今朝から続々と届いている。各所からの報告が届いているという事は混乱無く平常に戻りつつあると言う事だ。

 それ自体はこの次元遠征実験隊の戦闘部隊を預かる者として喜ばしい限りだ。

 ほとんどが新人の再編間も無い状態であるにも拘らず上手く奇襲をかわしたと思う。

 普段ならささやかな虚栄心を擽る満足感に浸りながら書類仕事に専念できるのだが、今日はどうも落ち着かない。

 葉月は何度目かになる溜息を吐く。視線が自然と昨夜彰の立っていたあたりをさまよう。

 ノックの音と元に当番兵がやって来て新たな書類を机に置く。いつもなら敬礼して部屋を去るのだが、彼は直立の姿勢を保っていた。

「中隊長。よろしいですか」

「なんだ?」

「そのー、大変申し上げ難いのですが。昨夜から中隊の古株連中の間で賭けが行われていまして……」

 賭博行為は軍規に依らずとも刑法で禁じられている。しかし、仲間内でひっそりと行っているものについてとやかく言うほど葉月も野暮ではない。

「イカサマ賭博は困るが、そういうものでも無いのだろう? なら、大目に見てやる。昨夜は完勝でもあった事だしな」

「いえ、そういう事ではなくて……その、賭けと言うのが……」

 何となく嫌な予感がしてきた。だが、ここで下手を打って墓穴を掘りたくない。

「私も一口乗れと?」

「それは困りますっ」

 反射的に出た言葉。ほぼ決まりのような気がする。

「もとい、そのー……」

 ここまで露骨だと気を使われるのが逆に癪だ。

「言いたい事があるならはっきりと言え!」

「はっ」

 悲しい軍人の性か、当番兵は弾かれたように姿勢を正す。

「中隊では現在、昨夜中隊長が連れ込んだ書生が中隊長の恋人か否かで賭けを行っております。賭け率は七対三で恋人が優勢であります」

 こと軍隊は他人の色恋に敏感だ。兵営の近くで年頃の異性と会おうものなら、翌朝には連隊長まで知っているという事もままある。

 まさか自分がその当事者になるとは思わなかったと、葉月は深く溜息を吐く。

「それで、貴様がなぜそれ私に報告する?」

「はっ、正解を聞かせて頂きたいと思いまして」

「それはズルと言うんじゃないのか?」

「いえ、賭けの結果を皆に報告しなければなりませんので」

 昨日のうちに皆賭け終えたのだろう。頭痛がしてきた。

「貴様はどちらに賭けた?」

「もちろん、恋人であります」

「ならその賭けは……」

 貴様の負けだ。と言うのに抵抗があった。実際恋人ではないのだから、言うのは簡単なはずだ。というより、それ以外に答えようは無いはずだ。

 しかし、ここで違うと言ってしまったら何かが終ってしまうような、目の前にあるはずの扉が無くなってしまうような、そんな妄想じみた感覚が葉月の喉を締め付ける。

「……中隊長?」

 当番兵が怪訝そうな顔をしている。

 何か言わなければ。

「……なら、その賭けは……私の、関知するところではない」

 怪訝そうな当番兵が、更に怪訝な顔をしている。

 自分は今どんな表情をしているのだろう。

 戦闘の時とは違った変な動悸と汗で息苦しい。そして、何だか身体が熱い気がする。

「他に、用は?」

 努めて冷静な声を出す。少し掠れたかも知れない。

「いえ……」

 当番兵は改めて踵を鳴らす。質問の回答を得られなかったにも拘らず、彼は満足げな表情をしていた。

 当番兵が退室してももやもやとしたものは晴れなかった。それどころか、恋人という言葉が妙にはっきりとこびり付いて離れない。

 じっとしていると、この言葉に押しつぶされてしまいそうだ。

 思い立った葉月は椅子を蹴っ飛ばす勢いで立ち上がる。

「巡察に出よう。そうだ、それが良い」

 何が良いのか自分にもよくわからなかったが、とにかく葉月は部屋を出る事にした。

 廊下の窓にはまだ昨夜の戦闘の傷跡が残っていた。

 壁にはどこからか飛び込んだ弾丸の痕が残り、窓も所々割れている物がある。

 勝利したとはいえ戦闘自体は易いものではなかった。その中、技術者たちは皐月の号令のもと、脱出の準備を整えていた。

 その心理はわからなくもないが何となく戦闘部隊が信用されていないような気がして、複雑な気分だった。

「あ、中隊長」

 自分の事を中隊長と呼ぶのは戦闘部隊の特に古株の者だ。また賭けの件だろうか。

 葉月は少し用心深く振り返る。

「……ちょっと、お話したい事が」

 深刻な表情を浮かべていたのは少尉の階級章をつけた将校だった。

 彼は昨夜建物の防御と非戦闘員の誘導を任せた小隊の小隊長だ。

「なんだ?」

「昨夜の大尉殿の件なのですが」

 賭けの話題を切り出してきたらどうしてやろうかと考えていたが、どうやら当てが外れたらしい。

「車を出そうとした件か?」

「はい……もちろん、小官の如き一介の少尉が知らなくても構わないのでしょうが……」

「良いから続けろ」

「はっ、大尉殿が脱出の手配をしたのは中隊長もご存じだと思いますが。その手際があまりに良かったもので、この実験隊は必要な資材を持って脱出する事が前提になっているのかと、疑問に思いまして」

 彼の言い分を簡単に表すとすればこうだ。

 脱出するとは聞いていない。いざとなったら俺たちを見捨てる計画があるのか?

 それは葉月も気になっていた事だ。

「……私は聞いていないぞ。脱出が前提なら貴官も外周で戦闘に参加するよう差配しただろう」

「そうでしょうね……では、中隊長もご存じなかったと? まさか、大尉殿は……」

 まるでそこに陰謀があると言わんばかりの口ぶりだ。さすがに眉をひそめる。

「少尉、口を慎め。そうと決まった訳ではない」

 第一皐月がそんな事をするはずがない。いくら彼女が科学に耽溺しているとは言え、そんな非人情が平然と出来る人間だとは思いたくなかった。

「失礼しました」

 少尉も素直に謝罪する。

「非戦闘員の混乱を防ぐために多少命令に行きすぎがあったのかも知れない。館山大尉は実戦経験がないからな。戦闘部隊の定石が通用しない事もあるだろう」

「そう、ですね……」

 それでも少尉の表情は完全には晴れなかった。

 彼の言い分はある意味でまっとうなものだ。軍人の本分が命令への絶対服従だとしても、人間であることには変わりないのだから。

 命令や軍規でがんじがらめにしたとしてもなかなか命までは賭けられない。

 だが、時として命を掛けさせなければならないのも軍隊だ。

 兵に命を捨てさせる絶対の方法を葉月は知らない。だが、やってはいけない事がいくつかあるのはわかっている。

 その一つが兵を見捨てる事だ。

 自分が助かる為に誰かを見捨てるような人間に誰がついてくるだろうか。

 兵が命を賭ける時、将校もまた命をかけられなければ兵はついてこない。

 皐月のやった事は彼女なりにきちんと理屈のある事なのだろうが、見方によっては裏切りとも取れる。

「とにかく、貴官が何を不安に思っているのかはわかった。下がれ」

「はっ」

 少尉の敬礼に返礼し葉月はまた歩き出す。巡察などというそぞろ歩きではなく、目的が出来たのは良かったのかも知れない。

 目的とは皐月に会う事だ。別に少尉の言葉に触発された訳ではないし、二個小隊を失ったことを根に持っている訳でも無い。

 ただ、彼女の口から直接確認を取りたい気分に駆られたのだ。

 その思考が既に彼女への疑惑の表れであるという事実に、葉月は敢えて目をつむることにした。確認さえ取れれば何の問題も無いのだから。

 彼女は皐月の部屋の扉を叩く。

 ただでさえ散らかった部屋には葉月の部屋と同じように報告書が次々と押し寄せている様子だった。

「何かしら? 悪いけれど書類仕事は手伝えないわよ?」

 両手に書類を並べて平行して読んでいる皐月が茶化す。

「少し、話せるか?」

「このままでも良ければ」

「ああ、構わない」

 葉月は応接用の椅子に腰を下ろし、軍刀を膝の上に載せる。

「もしかして、賭けの事?」

「え?」

「別に女性は貞淑を持って良しとする、なんて時代じゃないし。姉さんが誰と恋愛しようと私は構わないと思ってるわ。言うまでもないでしょうけれど、公私の別はしっかりと付ける事が前提だけれど」

「その話をしに来たんじゃない」

「別に恥ずかしがる事ないじゃない。肉親の私が言うのも何だけれど、姉さん美人なんだし」

「……だから……」

 薄々気付きつつある事が一つ。

 彼女は書類に夢中でほとんど話を聞いていないのではないか、と。

「噂は聞いてるわよ。書生風だって?」

「私はその話をしに来たんじゃないっ」

 葉月が声を荒げると、さすがに皐月も視線を上げる。

「もう相当からかわれたみたいね」

 皐月はいたずらっぽくそう言う。

「……まったく」

 葉月はもう溜息しか出ない。

「今まで浮いた話が無かったでしょう? だから、皆面白がってるのよ。別に誰も本気で姉さんをからかってる訳じゃないわ」

「……そんな事は、わかっている」

 葉月はふてくされて唇を尖らせる。

 わかってはいても、それを超然と受け流せるかと言えばまた別の話だ。

「でも、私の言った事は一応本音よ……それで、何の用?」

「あー……用事、か」

 これだけ徹底的にからかわれた後では、正直あまり深刻な話をする気分になれない。

「なんだかそういう気分でなくなってしまった。緊急の用件という訳でもないしな」

「そうなの?」

「ああ。まぁ、大した用事ではない。また日を改める。今回の賭けが落ち着いた頃にな」

「ふふっ、じゃあ大分先になりそうね」

「勘弁してほしいな……」

 芝居気たっぷりに天井を仰いで見せて茶化す。

「……姉さん」

「なんだ?」

 不意に出た真面目な声に、葉月は視線を向ける

「あの黒蟻が来てから、姉さんと話す機会が増えてる気がする」

「そうかも知れないな」

 それは葉月自身も感じていた。他に敵が現れてようやく姉妹が絆を深めるというのは何とも皮肉な話だ。

 本当なら敵などいなくとも親しく出来るはずだ。特別辛い過去がある訳でも、清算出来ない遺恨がある訳でも無い。どこにでもいる普通の姉妹だったはずなのだから。

「……で、モノは相談なのだけれど――」

 皐月のいたずらっぽい声に葉月の思考はそこで途切れた。


 脚を棒のようにして、結局行き着いたのは月曜亭だった。

 注文してからずいぶん経ったアイスコーヒーの表面には溶けた氷の透明な層が出来上がっていた。

 彰はストローを持ち上げてその上澄みとコーヒーの境目を啜る。

 きれいに分離していた部分が陽炎のように渦巻き、淡い褐色となってストローの中に吸い込まれていく。

 知らない街を宛てなく彷徨う事がこれほど疲れる事だとは思わなかった。

 知っている場所と言えば、DOORの集合ポイントに指定されている人気のない薄暗い場所ばかりだ。

 ともすれば足が向いてしまいそうになるその場所を意識的に避けるのもやはり疲れる。小さく溜息を吐いて店内に目をやる。

 客は自分以外になく、ウェイトレスも今は奥に引っ込んでいる。

 カウンターの奥にそびえる食器棚にはペアのコーヒーカップがいくつも並び、磁器の白が夕日を浴びて薄紅色に染まっている。

 止まってしまったかとさえ思えるほどにゆっくりとした時間。

 真鍮のドアベルが立てる甲高い音さえ牧歌的でこの時間に溶け込んでしまう。

「あら、中尉さんじゃありませんか」

 ウェイトレスが声を弾ませる。

「この間のお連れの方がいらっしゃってますよ」

「連れ?」

 目隠しに置かれた観葉植物が意図通りに突っ立っているせいで入口に立つ姿は見えない。

 だが、この声は知っている。

「館山さん」

 ようやく知り合いに会えた安堵感が彰に想像以上に明るい声を出させる。

「あ……」

 葉月も一瞬表情を綻ばせるが、その直後困ったような悩み込むようなはにかんでいるような、複雑な表情を浮かべる。

「ご一緒なさいますか? 他にお席もございますが……」

 急に立ち止まってしまった葉月にウェイトレスが怪訝な顔をする。

「……あ、あー、ああ」

 気が付き、言い淀み、肯定する。

 さっそく席を用意しようと布巾を取り出したウェイトレスの脇をすり抜け、葉月は彰の前に腰を下ろす。

「久しぶり……あ、いや、今朝ぶり……違う、昨夜ぶりか」

 釈然としない顔で首をかしげているウェイトレスを背後にしながらの開口一番は、支離滅裂だった。

「……どうかした?」

「いや、至って平常だ」

「そうは見えないけどな」

「気のせいだろう」

 視線を合わせないまま葉月は言った。自信や厳しさといったものを合わせて焼き固めたような瞳に今はひどく落ち着きが無い。顔が赤いのも夕日のせいなのだろうか。

悪いとは思いながらも、彰はまじまじと葉月の顔を見る。

「なんだ?」

 正気を取り戻したように瞳が一直線に彰を射抜く。

 その視線はあまりに攻撃的で許されるなら今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られる。

「……なんだよ?」

 だが、逃げ腰だと思われるのも癪に障る。

「あ……いや、済まない。喧嘩を売るつもりはないんだそんな事微塵も思ってはいない」

 葉月の表情から一瞬怯えたように力が抜け、慌ただしい口調で謝罪する。

 彰の印象では彼女はもっとはっきりとしたタイプの女性だったはずだ。これではまるで神経過敏だ。

「その、なんだ。帰り道は見つかったか?」

「いや」

「では、姉上にも会えなかったのだな」

「ああ」

 心なしか表情が明るくなったような気がした。

「そうか……それは、大変だな」

 葉月はやはり何か言い淀んで、続ける。

「よし、今夜、夕食でもどうだ? 知らない土地で一人で食事するのは、つまらないからな」

 自分に納得させるように、それでいて妙に断定するような不思議な口調。

 夕食の宛など無かったし、気疲れしてこのまま帰って寝ようかとさえ思っていたのだが、こう妙な迫力をもって誘われては無碍に断るのも悪い気がしてしまう。

「あ、ああ、じゃあどこか連れてってくれる? 店とか詳しくないからさ」

 少しぎこちない気もしたが、葉月には全く気にしている様子が無かった。

 それと言うのも彼女はまるで不発弾の解体でも終えたかのように深い溜息を吐いていたからだ。

「わかった」

 そう言った彼女の声は、疲労とやり遂げた満足感がたっぷりとしみこんでいた。


 市電に揺られながら、葉月は満足げに腕を組んでいた。

 夕食に誘う事も、明日の非番に彼を連れ出すことにも成功した。それもこれも彰が月曜亭にいてくれたおかげだ。

「なんだ、存外簡単な事じゃないか」

 声に出してみる。他に乗客がいないのは確認済みだ。

 とは言え、ここまで緊張するとは思わなかった。時計の針は進んだが、その間何をしていたのか、正直に言えばあまり覚えていない。

だが、かなりうまく振る舞えたという自負はある。

これでも帝国軍人の端くれだ。動揺があったとしてもそれを簡単に表に出すほどやわでは無い。どちらかと言えば彰の方が緊張しているように見えたぐらいだ。

 しかし、この一連の筋書きは葉月自身によるものでは無い。

 筋立てをしたのは皐月だった。

 葉月には彼女がどうしてそんな事を考えたのか、よくわからなかった。

 基本的に皐月は頭が良すぎるのだ。だから、目の前の細々とした事を素通りする事が出来ずに大事なものを見落としてしまうのだ。

 この件だってそうだ。

 別に彰の事を意識などしていない。ただ、不思議な男だと思っているだけだし、襲撃の時だってあのぼんやりした男を殺気立った兵に任せるのが心配だっただけだ。

 そもそも、皆が考えるような関係だったらわざわざ宿を手配して自分一人で戻ってきたりするだろうか。わざわざ宿をとらなくても自分の家に上げたって良いはずだ。中尉の俸給を得て小さいながらも家を借りて自活しているのだから。

 帰りに月曜亭へ顔を出したのだって彰を探そうとしていたのではない。ただ、漫然とここにいてくれれば良いなと思ったからにすぎない。

 自己分析を重ねれば重ねるほど、皆が思っている関係では無い論拠が上がってくる。部下も妹もよほど私をからかって楽しみたいらしい。

 葉月は小さく溜息を吐く。その瞬間、脳裏に彰の姿が浮かぶ。

 疲れて流れ着いたであろう月曜亭の窓際の席に座り、自分の顔を見て安堵した表情を浮かべた学生服姿の彰。

 どこか現実感のない雰囲気をまとった。今まで接した事のないタイプの少年。

 彼に対する好奇心が同時に飢餓感にも似た閉塞感を呼び起こすのが不思議でならなかった。

 きっと、恋い焦がれるというのはこういう気分の事を言うのだろう。

 漠然とそこまで考えた所で、葉月ははっとする。

「……まるで恋だと? 莫迦莫迦しい。これでは私は莫迦みたいじゃないか」

 周りの声に流されるままに、誰かを好きになったつもりになってしまうなんて、それではまるで女児ではないか、と。

 だったら、何故皐月の筋書きを拒まなかったのだろうか。

 そこに考えが至った刹那、車掌が独特の言い回しで停車場を告げる。

 葉月は今度こそ我に帰り、車掌に定期を見せながら市電を降りる。

 街灯の明かりはほとんどなく、遠ざかる市電の赤い電燈を追いかけるように肌寒さすら感じる夜風が通り抜けていく。

 そこは自宅から定期で行ける最も遠い場所。

 次元遠征実験隊の研究所兼駐屯地の正門前だった。

「……まいったな」

 葉月は溜息を吐く。そして、ようやく自分も冷静とは言い難い状態だったのだろうと、しぶしぶながら認識を改める。

 少なくとも自宅と反対方向の市電に乗って、駐屯地に着くまで気がつかない程度には動揺していたのだ。

「この時間では、帰るのは無理か……」

 時刻表を確認した葉月は力なく呟いて、仕方なく正門に向かう。

「中尉殿。こんな時間にどうされましたか」

 まだ襲撃の痕跡が残っている歩哨所で、新顔の一人である兵が挙手の礼をして問う。その顔はかなり怪訝そうだ。

「あー……ちょっと今日は泊まる事にした」

 兵が「そうですか」と答えようとした矢先、荷台に幌を付けた軍用トラックが猛烈な勢いで歩哨所の前を通り過ぎる。

 今夜搬入があるとは聞いていないし、緊急の搬入ならもっと兵を繰り出して警備しているはずだ。

 葉月の軍人の勘が違和感を告げる。

「今のは何だ?」

 前照灯の光線を浴びて眩しそうに目を眇めている兵に問う。

「今夜搬入があるそうです。検査の必要はないと大尉殿の指示もあります」

 だからと言ってこんなに警備が手薄で良い訳がない。

 葉月は眉をひそめる。

「今夜の警備はどの小隊だ?」

 いくら指示があったとはいえ、これでは警備していないのと同じだ。

「それが……」

 彼女の不機嫌さが伝わったのか兵が言い淀む。

「今夜は当番小隊では無く大尉殿が直接兵員を指定してまして、ですから今夜の警備責任者は大尉殿という事になります」

「皐月が? 今までそんな事は無かったぞ」

「私も、そのように聞いています」

「他に将校はいないのか?」

「居りません。私の見た限り、古参兵も一人として今夜の任務に就いておりません」

 困惑しているのが葉月にも見て取れた。

 当然の話だ。いきなり大尉に命令されたかと思えば、今度は直接の上官である中尉が不機嫌そうに詰問しているのだから。

 葉月は少しだけこの兵に同情した。彼は先の補充兵の一人でもあったはずだ。

「まぁ……先日の勝利に浮かれるな、とでも言うつもりなのだろう」

 これ以上兵をいじめても仕方がないし、事を荒立てるつもりもなかった。

 姉の中尉と妹の大尉が険悪だ、などという評判が立っては士気にもかかわる。

「とにかく通してもらうぞ。任務の邪魔をして済まなかった」

「いいえ、中尉殿」

 葉月が軽く敬礼すると、兵はかっちりとした敬礼で返す。

 そうして敷地に足を踏み入れると、目の前に広がる敷地が妙にがらんとして感じられた。そして、今この敷地には、よく知る部下は誰一人としていないのだと思うと、なんだか無性にさみしいような、心細いような気持ちになる。

 軍隊は中尉が一人抜けた所で機能を停止してしまうほど脆い組織では無い。そもそも抜けてしまう事を前提として作られている組織だ。その事はわかっている。

 そうとわかってはいても自分不在で平然と動き続ける組織を目の当たりにすると、正直な話あまり良い気分はしない。

 ましてや館山葉月中尉の戦い方やその精神、その呼吸を知っている自分の分身と呼ぶ事も出来るような古参の部下達も不在なのだ。

 その事実に自分のいたという痕跡がまったく消されてしまったような錯覚を抱きそうになる。

 何を馬鹿な事を考えている。しっかりしろ。館山葉月。

 そこまで考えた所で、葉月は自らを奮起する。

 感傷は本来の自分では無い。軍の将校たる者、常に現実に目を向けなくてはならない。

 葉月は詮無い考えを吐き出すかのように深呼吸を一つする。

 やはり彰と会ってからどうにも調子が狂っている。まったく彰は疫病神だ。

 そんな風に思うと、何故だか急に気分が軽くなるのが、少し不思議だった。


「まるで街灯の下で恋人を待つ少女だな」

「リリーマルレーンとでも言わせたいの?」

 ソーティルームを見下ろすキャットウォークの手すりに寄りかかりながら佐伯は伊達に気のない返事をする。

「お前がマレーネディートリッヒならな」

 伊達は佐伯の隣に立ち、階下を見下ろす。

 居並ぶ扉の内、一つだけが開いたままになっている。そして、その扉に十字砲火を浴びせられるように二カ所、土嚢を積んだ銃座が据えられて第二小隊が油断なく待機している。

 射線と攻撃に対するマージンを目一杯取った所為でソーティルームは事実上機能停止していた。だが、第一小隊が行動不能である以上、使えないからと言ってあまり困る事は無かった。

「……それで、何の用?」

「用事じゃない。ちょっとした忠告さ」

 気障ったらしい台詞。普段なら気にもしないくらいに慣れている。だが、今日は無性に苛立たしく感じる。

「わざわざどうも」

「そう尖るもんじゃないぜ? 張り詰めっぱなしじゃ、ちぎれちまうぞ」

「……そんな事、ない」

 どちらにかかる言葉なのか自分でもわからなかったが、それだけ返事するのがやっとだった。

 確かに彰が作戦中行方不明M.I.Aに陥ってから暇さえあればここで扉を見ていた気がする。

「一日中そうしてるなら、下の連中が交代してるのを見てるだろ。お前は昨日から誰かと交代したのか?」

「……交代するにもうちの小隊は半壊状態だから」

「別に嫌味や皮肉を言ってる訳じゃあない」

「それじゃ、何?」

「だから言ったろ、忠告だ。少し休め」

「……出来ない」

「休むのも任務だと聞いてたんだがな。うちの石神なんかはしょっちゅう言ってるぞ」

「彼のMIAはアタシのせいよ。のんびり休むなんて、出来ない」

「帰ってきたら真っ先に出迎えて、涙ながらなに私をぶって、なんて言うつもりじゃないだろうな?」

 当然そんな事をしようなどとは思っていない。

 いや、嘘だ。ドラマチックな再会を一瞬でも想像しなかったかと言えば、そうでも無い。

「一人で責任を負おうとするな。今回の件じゃ誰もが責任を感じてるんだ。その位、お前だってわかってるだろ」

「……」

 それはわかる。

 なぜ自分が無事で彼が死んだのか。

 何故もっと早く援護が出来なかったのか。

 あの時、ああいう進言をするべきだった。

 殊、失敗した作戦の後は悔むことが多い。

 第一小隊の生き残りはもとより、無傷で撤退した第二小隊の心中も察して余りある。

「だいたい、今回一番責任を感じてるのは広瀬のはずだ。それを差し置いて自分だけヒロインぶるのは、気は紛れるだろうが、少しずるいんじゃないのか?」

 ぐうの音も出ないほどの正論だ。

 広瀬は立場上後悔や自責を口にする事は出来ない。それを部下の前で口にしてしまったら、その瞬間から戦死者達はただの犬死になってしまう。

 だから、どれほど辛くても隊長の肩書を持つ者は許しを請うたり、部下の死を嘆いたりしない。いや、出来ないのだ。

 そんな事に気が付けないほど鈍感でも無ければ、年季が浅い訳でも無い。

「お前はどうしてあの小僧についてだけ、責任を感じるんだ」

 まるで内心を見透かされたような気がして、鼓動のリズムが一瞬狂う。

「……それは」

 何とかそれだけの言葉を紡ぎ出すが、後が続かない。

 MIAに責任を感じているのか。

 先の作戦で帰って来れなかったのは彰だけでは無い。

 初めての部下だから。

 そういう自負が無い訳では無い。だが、拘る理由かと言えば、また違う気がする。

 ではなぜ拘っているのか、彼の何がそうさせるのか。

 考え付くものと言えば、あの少女の事だろう。

 館山葉月と名乗ったあの中尉だ。

 彼女がどうにも気にかかる。正確に言うなら彼女が彰へ向けた視線と、彼の対応が気になる。そして、彼女があの夜の戦闘部隊を指揮していた事がさらに気にかかる。

 良い想像も、悪い想像も出来る。

 いっそどちらかに振りきれてしまっている方がこちらも気が楽になる気がする。

「……恋敵に恋人を寝取られたって顔だな」

「な、何をバカな事言ってるの!?」

 想像が確かにそちらに傾きかけていただけに、動揺は隠せなかった。

 素っ頓狂な声があたりに響き、銃座につく第二小隊の何人かが何事かとキャットウォークを見上げる。

「図星か」

 階下に何でも無いと手を振りながら伊達はいたずらっぽく笑う。

「別にアタシは……」

「俺だってそんなに野暮じゃない。ただ、そう見えたって言っただけだ。お前が勝手に大声出したんだ」

「そういう言い方ずるくない?」

「会話の駆け引きって言って欲しいな。それにしてもあの小僧がな。見た目の割に中々の色男ぶりじゃないか」

「笑い事じゃない」

「笑い事さ。傍観者にしてみればな」

「だって、彼はまだ向こうの世界にいるんだよ? 命綱の扉だっていつ閉じるかわからないのに……」

 向こうの世界にもディメンジョンエンコードの技術はあるし、何より長時間の解放は時空噴出の危険性を孕んでいる。

 ただ扉を保持するだけなら、現状を維持しさえすれば良いはずだ。だが、それによって時空噴出が起きてしまっては本末転倒だ。

 その危険性が高まれば、扉は閉ざさざるを得ない。

 その時までにこちらの世界に帰って来れなければ、彼は消滅する。

 彰はその事をわかっているのだろうか。

「案外、その恋敵の所で楽しくやってるかもな」

「だから恋敵なんかじゃ――」

「言葉のあやだ。深い意味は無い」

 噛み付かんばかりに睨みつける佐伯を、伊達は軽くいなす。

「だが、あの坊主はやっぱり存外大物かも知れんな。普通ならさっさと帰ってくるだろうに」

「……なら並行世界を行ったり来たりは出来ないよ」

「それもそうだな」

 伊達は短く笑う。だが、佐伯は彼の言葉から別の推論を導き出していた。

 もし、彰が葉月に捕まっているとしたら、と。

 ディメンジョンエンコーダーを取り上げられ、拘束され尋問や拷問を受けているとしたら。

 彼はそういった事に対処する訓練を受けていない。きっと簡単に口を割るはずだ。

 一切の情報を手に入れた帝国が彼をどうするか想像するのは難しくない。たとえ万一、葉月が彰を匿ったとしても限界はある。

 葉月が彰を匿い、手を取り合って逃避行を続ける様が脳裏に浮かんだ時、いてもたってもいられなくなるぐらい不愉快になった。そんな想像を続ける必要は無いと目を伏せて追い払う事にする。

 しかし、一度走り出してしまった想像は中々止まらない。キャットウォークの手すりを掴む手に自然と力が入る。まだ腫れの引かない手がずきずきと痛む。

 この想像の何が許せないと言えば、何もかも許せないのだが。戦友を斬り捨て、自分もまた斬り殺そうとした相手に匿われ、あまつさえ共に逃げようとする彰の姿が一番許せなかった。あの夜、彼女の刀で分隊が丸ごと切り刻まれた事を彰が知らなかったとしても、だ。

 並行世界で緊張する彰を諭した言葉を忘れたわけでは無い。今でもそうだと思っている。だが、いくら戦闘だったとは言え仲間を殺し自分も殺そうとした相手に寛容で居られるほど、佐伯は穏やかな人物では無かった。


 とても穏やかな気分ではいられなかった。

 彰は悪いとは思いながらも、そわそわと部屋を見回すのを止める事が出来ないでいた。

 まず目の前にはちゃぶ台と座布団が三つ。

 格子の入ったガラス戸の前にはテレビが置いてある。チャンネルを選ぶのではなく手動でチューニングするのか、画面の下には放送局の名前の入った小窓と赤い針が見える。

 テレビ台の下には古新聞や古雑誌が紐で絡げてある。雑誌はほとんど軍の広報誌のようだ。

 右手の襖の奥はさっき上がってきた框と、キッチンと言うより台所と言った方がしっくりくる水回りがあり、左手の奥は寝室として使っているらしい。

 らしい、と言ったのは彰がその中の様子を知らないからだ。待ち合わせに軍服姿でやってきた葉月に連れてこられるなり、彼女はその部屋にひっこんでしまったのだ。

 時折、閉じた襖の奥からタンスを開け閉めや衣擦れする音が聞こえてくるので寝室だろうと考えたのだ。

 そう、彰は今、葉月の自宅にいる。

 あまり帰って来ないのか、それとも元々のさばけた性格のせいか居間にはあまり物は無く、どこか生活感の薄い印象がある。

 開いた襖の向こう側にはフリルブラウスに落ち着いた色合いのスカートを身に付けた葉月が立っていた。

 

「お待たせしました。保管区画へお越し下さい」

 ちょうど白衣を羽織った所で当番兵が呼びに来る。

 皐月は白衣に袖を通しながら足早に部屋を出て、部屋の外で待ち構えていた技術者に問う。

「状態は?」

「良好です」

 技術者は「詳細はこちらです」と、書類封筒を渡す。

「今回は急な搬入でしたからずいぶん不安があったのですが」

「それは私も承知してるわ。実験の過程で多少死ぬのは織り込み済みよ」

「こんな不安定な装置が我々の限界かと思うと、なんだか気が滅入ってきます」

 技術者は溜息を吐く。それとは対照的に皐月は胸を逸らすようにして歩き続ける。

「限界なんてものは無いわ。私たちが進もうとし続ける限りはね」

「……正直に申し上げれば、私には少し荷が勝ち過ぎています」

「安産だった新技術は無いわ。そして、技術は必要とされるからこそ、この世に生み出される」

「それは……わかっていますが」

「わかっているのならこれ以上議論の必要があって?」

 幾分年上の技術者に皐月は憐れみに似た視線を向け、昇降機に乗り込む。

 資材搬入に使う昇降機はちょっとした自動車も乗せられるほどの広さと耐久性を兼ね備えていた。その代償としてワイヤーやレールが時折酷い唸りを立てる。それは科学の最前線へ降りる通路というより、一度落ちれば二度と這い上がる事の出来ない無間地獄への入口を思わせた。

 だとしたら科学を信奉し科学こそが人類を救い帝国に繁栄をもたらすと信じているこの少女は獄卒の長に他ならないだろう。

「何か?」

「いえ、何でもありません」

「そう、なら良いけれど」

 呟くような彼女の声はやかましい作動音にかき消される。程無く昇降機は地下実験室を通り越し、更に深い場所にある保管区画で停止する。

「届いたものを見せて」

 先に来て待機していた者たちに告げる。あらかじめ準備されていたのか、彼女の声とほぼ同時に台車に乗せられた機材が次々と彼女の前に運ばれてくる。

 不銹鋼ステンレスで作られた台車は人一人が横になれるほどの大きさがあり、上下二段に荷台が設置されている。

 その荷台の面積を目いっぱい占領するように黒く細長い箱が載せられており、そこからは数々のケーブルやチューブが尻尾のように長く引きずられている。

 それぞれの台車が床を這うケーブル類を踏まないように並ぶのは大変なようで四台並ぶだけで昇降機の前はケーブルと台車でごったがえしてしまった。

「今回は八体です」

「状態の良いものを選別して順序をつけて頂戴。最大出力で連続運転をするかも知れないから」

「……それはまた、豪気な話ですな」

「その為の搬入よ。なるべき早く済ませて。早く実験したいから」

「わかりました」

 頷く技術者を見る皐月の眼は悟りへの道を今まさに切り開こうとする修行僧のように静かに澄んでいた。

「……すべて良好なら実験に投入できる機材は十六体。これだけあれば、きっと成功するわ」

 呟いた彼女の声音は居並んだ機材に死出の旅を前に祝福を与えるようかのようにしっとりと降り注いだ。


「ピーター11もう良い、ナイナーと共に鍵を連れて下がれ」

「9了解」

「……11了解」

「止まるな、どんどん行け!」

「手榴弾を使う、下がれ」

「第一分隊突入準備」

 様々な怒声が電波と大気を伝って一斉に飛び交っている。

 手榴弾が炸裂し、打ちっぱなしの殺風景な建物を揺るがす。

「第一分隊突入!」

「第二分隊は第一分隊を援護」

「了解」

 スタッカートのような短い銃声といくつものブーツが床を叩く不協和音。そうした硝煙の香る演奏を転がり落ちる薬莢が涼やかに彩る。

 第一分隊が次々に「クリア」の声を上げる。

「状況終了。記録は五分三十一秒」

 安物のスピーカーがハウリング気味に告げると、あたりの空気が目に見えて緊張を解く。

「佐伯二曹、後で俺のところへ来い」

「……了解」

 広瀬の声に佐伯は沈んだ声で応じる。

 良い呼び出しでない事は自分がよく知っている。

「今日の記録、どう思う」

 隊長室に呼び出された佐伯は、開口一番の質問に若干面喰った。

「……一個分隊を喪失し、手数が減っているんですから、比較的良い数字だと考えます」

「そうだな。俺もそう思う。だが、充分という事は無い」

「それはわかっています」

 広瀬は小さく溜息を吐く。

「本当にわかっているのか?」

「……どういう意味でしょう」

「俺たちはな、限られた手数で最大の効率を上げることが求められているんだ」

 この叱責の趣旨が少し見えて来た。そんな事は百も承知だ。

「佐伯二曹、あの少年に拘るのはやめろ。失われた駒をいつまでも悔やんでいても、一歩だって前に進まん」

「……」

 反射的に「広瀬三尉は女心がわかっていないっ」と叫びそうになるのを堪える。

 もちろん、広瀬の言う事は正論だ。というより広瀬にこんな事を言われてしまう事の方が問題なのだ。

 第一小隊は今満身創痍で人的にも心的にも辛い時期だ。しかし、再編を待っていられるほどDOORは余裕のある組織では無い。いつ第一小隊にお呼びが掛かるかわからない。

 だから皆訓練に打ち込んで忌まわしい記憶を乗り越えようとしている。次の作戦には絶対に勝てるように、と。

 だが、自分だけは違う。

 今回突出したのだって次の鍵のつもりで行動していなかったからだ。彼女はあくまで彰を援護するつもりで行動していた。

 あまり後先を考えず、奇跡のような射撃の腕と無知ゆえの豪胆さで突き進もうとする彰に体が自然と対応していた。

 それは、あらゆる状況に対処しなければならないDOORのタスクフォースとしては失格だ。広瀬もその事を言っているのだ。

 だが、今回だけは彼の言を受け入れる事が出来なかった。

 彼だけは必ず戻ってくると、信じていた。

「何か釈明は?」

 黙りこんでいる佐伯を見かねたように広瀬が問う。佐伯は「釈明ではありませんが」と前置きして続ける。

「先日、彼の為にシューティンググラスを一つ買いました。官品の野暮ったいのではなくて、ESSのミルスペック準拠で散弾も止めるカッコいいヤツです。私はもちろん隊の者はたいてい自分の物を既に持っていますから、彼が戻って来てくれないとこれが無駄になってしまいます。彼がそんなに不義理な男だとは思っていませんし、渡すまで包みを開けるつもりもありません」

 抵抗や抗議というにはあまりに稚拙だ。だが、彰に関してだけは簡単にあきらめる事が出来ない。

 広瀬に向けた言葉は同時に佐伯が自身に言い聞かせる言葉でもあった。

「……まったく。それで厭味のつもりか」

 広瀬がため息混じりに呟く。

 佐伯は視線をそらさず、真正面から応じる。

「違います。これはそうなるはずの事実です」

「ようは願望だろう。鰯の頭も信心からって言うしな、お前が何を信奉しようと勝手だが、現実に則した行動を取れ。今の現実は戸館彰は行方不明。その上で展開される想定にはきちんと従え」

 言葉が胸に突き刺さる。正論に逆上するほど子供では無い。啖呵を切った事を少しだけ後悔した。

「こういう事が続くようなら、俺から強制的に休ませる事だって出来る事を忘れるな。以上だ」

「……了解、しました」

 佐伯は後悔と割り切れない感情のない交ぜになった、歯切れの悪い声で応じた。


 一体自分が今ここで何をしているのか、この場にいる彰自身よくわからなくなっていた。

 昨日葉月から提示された内容は「姉を探す手伝いをする」だった。大分苦しいにせよ姉とはぐれたという言い訳をしている以上、彰はそれに付き合うつもりだった。

 だが、今こうして市電の車窓から街灯の点る街を眺めながら一日を振り返ってみると、これはまるで……

「デートみたいだ」

「……やはり、迷惑だったか」

 思わず声に出してしまった事を驚いていると隣に座る葉月が呻くように言った。間近に見る彼女の顔は軍服を着ている時とまるで違って見えた。

 それは中尉や軍人では無く、ましてや並行世界を意識するようなものですらなく、どこにでもいる少女の顔だった。

 その事に気付いてしまうと、今までどこか遠い存在に思えた葉月が急に近くに感じる。

「いや、今日は楽しかったよ」

 精一杯平静を取り繕う。うまくいっているのかどうかは分からない。

「……そうか、なら、良かった」

 一言ずつ紡ぎ出される唇の動きに視線を奪われる。

「どうかしたか?」

 視線に気付いた葉月が振り向く。彼女の真っ直ぐで深い黒曜の瞳に彰の姿が写り込む。

 それは、どこか彼女の持つ自信の表れのように感じられた。

「いや、なんでもない」

「そうか……」

 きっと、彼女は自分が何をしているのか、何が出来るのか、きちんと知っているのだろう。だから、あんな風に真っ直ぐでいられるのだ。

 返って、自分はどうだろうか。

 出来る事はある。だが、その力をなんの為に使うのか本当の意味で理解しているとは言い難い。

 猛烈な使命感がある訳でも無く、ただ、周りに言われるがままに鍵を使い、なりゆきに任せて並行世界でぼんやりしている。

 さっき、葉月を近いなどと感じたのはもしかするとただの幻想かも知れない。

 同年代の葉月があまりに遠い場所にいるように感じられて、それを心のどこかが拒否したのだろう。

 そんな風に考えると嫌な動悸が少し落ち着く。だが、それでも完全に収まる訳では無い。残りは何が影響しているのかを考えるには、彰は少し動揺しすぎていた。

「坂上か、ここで降りて軍人会館まで歩くぞ」

 間延びした車掌の声に葉月がいち早く反応し、停車するとともに二人は降りる。

 停車場へ降りると市電はすぐに角を曲がって暗い街へ消えていく。目の前には杜と堀に挟まれて点々と街灯の並ぶ、長い坂があった。

「私が子供のころから坂上の停車場と坂下の停車場を繋ごうという計画があるようだが、やるやるという話ばかりでな」

 初夏のわずかに湿気を含んだ夜気が声の余韻を奪う。

「やっぱり坂が急だからじゃないの?」

 並んで歩いているが、気を付けないとつんのめってしないそうな坂だ。

「戦前ならともかく、今の市電はこのくらいの坂なら軽く登れるだけの馬力があるそうだ。鉄道部隊の同僚がそう言っていた」

「じゃあなんで?」

「さあな。おおかた坂上の先にある参謀本部が一枚噛んでいるのだろう」

「電車を繋げないように、参謀たちが?」

「ああ」

 参謀と言えばエリートの代名詞だという事ぐらい彰にもわかる。なにか軍事上の必要性でもあるのだろうか。

「……君は何か勘違いしているようだが、陸軍のサンボウは、乱暴、横暴、無謀の三拍子そろった者を言うんだ。つまり参謀本部はそういう人間を集めておく檻の事だ」

「それでサンボウかよ。どんな陰謀が聞けるのかと思ったら……」

 彰は表情を崩す。ウケた事がうれしいのか、葉月も薄く笑みを浮かべる。

「莫迦を言ってはいけない。これは帝国陸軍の軍機だぞ?」

「軍旗?」

「最高機密という意味だ。よそで喋ると憲兵が飛んでくるぞ」

「じゃあ、館山さんはどうして無事なんだ?」

「喋る相手はよく選んでるからな」

 堂々と言ってのけ葉月は胸を反らす。

 軍人という厳しい仕事に就いてはいるが、彼女のパーソナリティはもともとこうしたものなのかも知れない。

 つい数分前の葛藤も忘れて彰は漠然とそんな事を思う。

「どうかしたか?」

「あ、いや、別にどうって訳じゃないんだ」

 葉月に怪訝な顔を向けられて、彰は思考の糸を巻き取る。

「ただ、俺は館山さんのお眼鏡に適ったのかなって思っただけだ」

「……っ」

 ただ会話を繋げるために深い考えなしに放った言葉のはずだった。それなのに葉月は突然黙り込んでしまう。

「お、お眼鏡……などと」

 葉月は呟くように言い、身を堅くして視線を伏せる。

 彰には彼女が笑っているのか困っているのかよくわからなかった。街灯の頼りない明かりの下ではどんな表情をしているのかはっきりと伺う事は出来い。

「気を悪くしたのなら、謝る」

 とりあえず誤っておくが葉月が弾かれたように首を振る。

「そんな事は無い!」

 指揮官向きの良く通る声が坂を駆け抜けていく。その声に驚いて、堀の水鳥が甲高い鳴き声を上げた。

「……いや、わかった。けど、ちょっと声を抑えよう」

 大声に驚いたのは水鳥ばかりでは無かった。まだ心臓が下手くそなリズムを打っていて上手く声が出なかった。

「すまない……取り乱した。だが、君も君だ。急に変な事を言うから悪いのだ」

 正直納得しかねる。だが、ここでまた余計な事を言って大声を出されてはかなわない。

「悪かったよ」

「そ、そうだ。わかれば良い。わかれば……」

 素直に謝ってみせると、今度は拍子抜けというか、手順が狂ったと言わんばかりに言葉がぎこちなくなる。

 そのぎくしゃくとした様がおかしくて、彰は薄く笑みを浮かべる。

「また君はそうやって、私を笑う。まったく君でなければ張り倒している所だ」

 凄んでいるのだろうが、その顔にはいまいち迫力が無い。

 それから何となく黙り込んでしまった。もう目の前には帝冠様式の軍人会館が見えている。あと二分も歩いたら到着してしまうだろう。

 西洋建築に日本屋根の載った、ちぐはぐな建物を少しだけ恨めしく見上げていると葉月の歩が次第に鈍ってくる事に気が付き、彰もそれに合わせる。

 追い抜くような追い抜かれるような、駆け引きのような二三歩の後、二人はどちらからともなく立ち止まってしまった。

「……止まってしまったな」

「ああ、止まっちゃったね」

 何となく混ぜ返してみるが、それから先の言葉が出てくるわけでは無い。

「あのさ……」

 このまま黙り込んでしまうのが何となく苦痛に思えて、彰は何とか会話の糸口を引き出す。

「宿の事だけれど、本当に良かったのか?」

「ああ、その事なら心配いらない」

「結構良い部屋だったから、ちょっと心配なんだ。少しくらいなら俺だって持ってるし、いつまで泊まるかもわからないんだし……」

 一度帰ってしまったら多分、宿代を返しに来る事は出来ない。とは続けなかった。

「そうか、良い部屋だったか。それは良かった」

 対して葉月はどこかうれしそうだった。そして、上機嫌のまま続ける。

「私の所は、結構な枚数の宿泊切符がもらえるのだ。本来は自宅が遠くて帰るのが大変な時や、出張の時に使ったりするのだが。君も知っている通り、私の部隊は外れとは言え帝都にあるし、目の前に市電も通ってる。出張もなくてな。正直使う機会があまりなくて余っているんだ。払いの時は私に付けておいてくれれば良い」

「いや……でも……」

「持ち主の私が良いと言っているのだ。問題は無い」

 葉月はぶっきらぼうに言い放つ。だが、彰は納得できない。

「どうして俺にそこまでしてくれるんだ?」

「……困っているから助けた。それでは不満か?」

 彼女のように一本気な性格ならその位の理由で十分なのかも知れない。だが、本当にそれだけだとは思えなかった。

 今日一日一緒に過ごして、すっかり忘れかけていた事を彰はようやく思い出し始める。

 彼女は帝国側のディメンジョンエンコーダーを守っている軍人なのだ。

 もしかすると、すべて彼女の罠なのかも知れない。

「……不満、ではない。むしろうれしいよ」

 急速に体が硬くなっていくのがわかる。動悸が激しくなり、少し体温が下がったような気がする。

「なら、それで充分じゃないか」

 彰の変化を感じ取ったのか、葉月の態度も微妙に変化してくる。

 その変化は彰には秘密を悟られまいと平常を装っているように見えた。

「充分? 過ぎてるとは思わない?」

「ど……どういう、意味だ?」

 葉月が明らかに狼狽する。しかし、彰はこれから先、どうやってたたみ掛けるか全く考えていなかった。

 早々に逃げるのが良いのか、それとも気付かない振りをして軍人会館に泊まり続けるのが良いのか、その判断すらつかない。

 だが、更に判断がつかないのは自分の胸のうちだった。

 彼女に対して妙に楽観的な自分がいるのだ。

 彼女がそんな手の込んだ事をするはずがない、と。もし彼女にそのつもりがあったなら、きっともっと正面切ったやり方で来るはずだ、と。

 なら、何故葉月は狼狽したのか。なぜこうも自分を厚遇するのか。その元を考えた時、彰は一つの結論を導き出した。

 だとしたら、今の言葉は彼女を傷つける事になりかねない。

 自分が彼女をどう思っているのか自分でもいまいち掴みかねてはいたが、これだけははっきりとわかる。

 気付いていなかったこととは言え、葉月を傷つけようとしていた自分に無性に腹が立つ。

「いやっ、ゴメン何でも無い。その……つまり、忘れてくれ」

 慌てて繋いだ言葉はとてもフォローとは言えない。これではまるきり馬鹿だ。

彰はその場で頭を抱えたくなるのをずいぶん我慢しなければならなかった。

「君が謝る事は無い」

そう言った彼女の表情は一目見てわかるほど消沈していた。

「私も正直わからないのだ。君の事が……」

 その声は、本当にあの葉月から発せられたものか疑いたくなるようなか細い声だった。

「何でだろうな。君を見ていると、どうしても心配になってくるのだ。シャボン玉のようにふわふわと飛んで、どこかへ消えてしまうのじゃないかとな……」

 その懸念はある意味で当たっていた。

 彰はいつでも自分の世界へ帰れる。そうしないのは、彼自身の気まぐれと言っても良い。

 ここで「そんな訳があるか」と言ってしまうのは簡単だ。多分、誰も損をしない類の嘘だ。だとしても、彼女にそんな些細な嘘を吐く事がどういう訳か躊躇われて、彰は開きかけた口をゆっくりと閉じる。

「……いや、もちろんわかっている」

 はたと我に返った葉月が、強引に切り上げる。

「君がぼんやりしているのは、大方大陸の気風を受けて育っているせいなのだろうし、元来私が少々せっかちすぎるのだ。シャボン玉のように見えるだけで、君が本当に消えるなどとは思っていない」

 帝都に身を置き、葉月と関わっていくうちに覚えた事が一つあった。

 彼女は冷静でない時ほど口数が増える。市電を降りてからの彼女は良く喋る。

 シャボン玉の事もきっと半分くらいは本気でそう思っているのだろう。

 そう思うと、余計に彰の口は重くなってしまう。下手に口を開けば思わず本当の事を喋ってしまうかもしれない。

 何故なら、そうする事で彼女と親密になれるのではなど、と根拠なく考えている自分が脳の片隅に巣食っているからだ。

「……まったく、アレだな。先ほどから私ばかりが喋っているな。どうやら、私には君を愉快にさせるだけの話術が備わっていないらしい……」

 攻めあぐねている彰を見やり、葉月は小さく溜息を吐く。

「退屈してる訳じゃない」

 彰はとっさに応えて、少しだけ後悔した。こんな言い方をすれば次の言葉は半分くらい決まっている。

「じゃあ、さっきから思案顔なのはどうしてだ? ここで立ち止まってから、君の態度は少し変だ」

「それは……」

 言葉に詰まる。

 視線が揺れた刹那、葉月の瞳に囚われる。

 瞳には街灯の明かりが写り込み、ぼんやりと彰の姿が浮かび上がる。その像は彼女の言うとおり、シャボン玉のように頼りない。

 何か、言わなければ。何を言えば良いのか。

 思ったままを言葉にするのが間違っている事はさすがの彰も承知している。だが、それ以外にどんな言葉があるというのか。

 どれほどこうして見つめ合っているのだろうか。数秒のように数十分のようにも感じられる。

 彼女の纏う空気が次第に緊張して行くのに気付く。いや、緊張だけでは無い。その中に何かを期待するような気配さえ感じ取れる。

 葉月は何を待っているのか。果たして自分はそれを持っているのか。

 とりとめのない思考が無意識の現実逃避となり、二人の沈黙を更に深いものにする。このまま黙り続けていては、沈黙という水圧に押しつぶされてしまう。

 そうわかってはいるが適切な言葉が見つからない。しかし、だからと言ってこのまま圧壊を待てるほど呑気な性格では無い。

 彰は決意した。

「あのさ――」

「待て、見ろ」

 彰の言葉を振り払いでもするかのように葉月が腕を振り、指さす。

 人差し指の先には森に囲まれた石畳の参道と森と同じ背丈の鳥居があった。

「鳥居?」

「その横だ。人が追いかけられていた。気になる。ちょっと見てくる」

 言うが早いか葉月は駆け出す。

「君は待っていてくれ。すぐに戻る」

「待って俺も行く」

 彰が慌てて駆け出すと、葉月はどこかうれしそうに小さく頷いた。

「では行こう」


 あとから彰が着いてくる。しくじる訳にはいかない。

 今更こんな幼稚な功名心に駆られて進みだすとは自分でも思わなかった。だが、駆け出してしまった後では遅い。

 人助けすら彰に見せつけ、良い印象を与えようとしている。何と姑息な事だろう。だが、不思議とそんな戦術を採れる自分が誇らしくも思えた。

 この感覚は兵棋演習の砂盤を前にして、想定を聞きながら自軍の駒を並べている時の感覚に近いかもしれない。

 だが、これは砂上に描かれた想定では無い。思考を切り替える。

 参道の森の陰にあたる道に明かりは無く、文字通りの夜陰がどこまでも続いていた。その道をぼんやりと白い影が乱暴な足音と共に渡って行く。

闇に目を凝らして見ると洋装姿の女が一人、黒い背広の二人組に追われている。

 花街が近い。おおかた仕事帰りの女中がしつこい酔客に絡まれているのだろう。

「何をしている!」

 一喝すると影が動きを止める。

「……お助け下さいまし」

 か細い声は明らかに恐怖に震えている。

 背広の影が振り返り、懐に腕を伸ばす。葉月はそれが何を意味するのか即座に悟る。

「葉月!」

「伏せろ!」

 二人の声が交錯し、銃声が木霊する。

「馬鹿撃つなっ」

 背広の一人が叫ぶ。

 幸い弾丸は葉月を掠めもしなかったが、彼女はもっと別の事に驚いていた。

 葉月はその銃声に聞き覚えがあった。

「貴様、官姓名を名乗れ!」

「拙い、軍人だ。引き上げるぞ」

 背広が背を向けて逃げ出す。葉月は振り返りざまに彰へ叫ぶ。

「君はそこでご婦人を守れ! 私は追う」

「銃を持ってる!」

「私は慣れている。君はそこを動くなっ」

 決然と言い放ち、後を追う。色気を出してスカートを穿いてきたことを少し後悔した。だが、背中に彰の視線を感じるとこの動き難い衣装も苦にならない。

 そのおかげが、手を伸ばせば届きそうなところまですぐに追いつけた。

「待てっ」

「くそっ、しつこい!」

 男が振り返る。手には一丁の拳銃。

 それは暗闇でもはっきりとわかるほど葉月にとって見慣れた拳銃。帝国陸軍の正式装備。八粍自動拳銃。

「馬鹿やめろ! これ以上――」

 暗闇に慣れた目が発砲炎で真っ白に飛ぶ。

 首筋を風が通り抜けていく。

 一瞬、血が凍る。

 二発目を撃たせるなと本能が命じる。

「貴様ぁ!」

 腕を伸ばし、拳銃を持った手を強引に捩りあげ、そのまま投げ飛ばす。

 とっさの事でバランスが保てず相手の肩を折る形で崩れる。

 まぁ、良い。

 そのまま取り落とした拳銃を拾い上げる。

 重さといい、握り具合といい、まさしく八粍自動拳銃のそれだ。そして、すぐさま銃口をもう一人へ向ける。

「貴様、どこの者だ?」

 相手は答えない。表情を見る事は出来ないが怯えている気配は無い。チンピラや人攫いではこうはいかないし、酒臭くも無い。

 素面で、しかもある程度戦闘訓練を受けた人間なのは間違いないだろう。

「早く……行け――ぐぁっ」

「黙っていろ」

 葉月の下で男が呻くが、外れた肩を捩りあげて制する。

「どうする黒服。そろそろ銃声を聞きつけて羅卒が来るぞ?」

 このまま拮抗を維持出来れば彼らは警官に逮捕される。銃を持った二人組を一人で圧倒するのは中々心地よい状況だ。

 この状況を知った彰は驚くだろうか、それとも感心するだろうか。

 脳裏に、彰の姿が思い浮かぶ。そして、大事な事を思い出す。

 そうだ、彼は警察の厄介になるのを嫌がっていたはずだ。

 常識に照らし合わせて考えれば羅卒が来るのを待つのが上策だ。だが、それは同時に彰も警察から聴取を受ける事を意味する。

 事情が事情だ。彼もわかってくれるだろう。だが、それでも、一抹の不安は拭い去れない。

 もし、それが原因で彼に嫌われてしまったらどうしよう、と。

 銃を手にし、二人を同時に制していた彼女の心がにわかに乱れる。

 それは判断に迷っての事では無い。そんな気持ちになった自分の心それ自体に驚いていた。

 敵と対峙して心を乱すな。そう言い聞かせるが、なかなか平素を取り戻せない。

「館山さん!」

 彰の声が近づいてくる。決断をしなければならない。だが、まずは言うべき事がある。

「来てはだめだ!」

 叫び、注意が逸れた刹那。もう一人の男が懐から拳銃を抜く。

 息を呑む。

 どう動く? 銃口はどこを向く?

 銃身の下に復座ばねリコイルスプリングを内蔵する大型の遊底スライドは正面から見るとちょうど蹄鉄のように見える。それが、小指ほどの穴と共に、自分の方を向いた。

 発砲は間に合わない。身体が反射的に動く。

 向いた銃口を押しのけ、右手を顎に叩き込む。

「なに!?」

 寸での所で拳は受け止められていた。動きが読まれていたらしい。

 沸騰していた筈の血が急速に冷えていく。

 全身が次の一手を求める。だが、肝心の脳は凍った血液に侵されまともに動かない。

「引き上げるぞ」

 一瞬で形勢を逆転した男は未だ倒れているもう一人に向かって告げる。すると、倒れていた男は肩を押さえて呻きながら、のろのろと立ち上がる。

「やってくれたな、クソアマ……」

 ねめつけるその目は冷たく、それでいてどこか粘着質で、間違いようもなく実戦経験のある事を物語っている。

「啖呵切ってる場合じゃない。行くぞ」

「……ああ」

 言われるままに、男がふらふらと葉月の横を通り過ぎる刹那。

「あ――」

 振り返りざまに飛んできた拳に、葉月は避けるそぶりすら見せる事が出来なかった。

 視界が赤く染り、平衡感覚が崩壊する。頬骨を伝った痛みがしびれるように全身を駆け、力を奪う。

「……やま……ん」

 遠くで彰の声がしたような気がする。無様に倒れる事は何とか避けたが、二人は既に遠くへ走り去っている。

「クソっ」

 銃を向けるとこちらが撃つよりも先に応射してくる。

 追わなければ。あの状況を覆されて、しかも逃げられたとあっては帝国軍人の名折れだ。そして、何より、彰に合わせる顔が無い。

 めげそうな脚を叱咤して一歩踏み出す。

「もう良い!」

 彰の鋭い声で制止される。

「……戸館、君」

 見れば、腕も掴まれている。

「見っともないなぁ……大見得を切ってこれでは……」

 脚の感覚に違和感を覚えた瞬間。太陽を覗き込んだように視界が白く飛び、目の奥が痛む。

「あ、いかん……」

体が浮いたような気がして、何とかそれだけ言う事が出来た。


「……状況と現在の時刻は?」

 ベッドから起き上がるなり、葉月はそう言った。

「えーと。どこから説明したもんかな……」

「では、時刻からだ」

 彰は部屋に備え付けの電気ポットに向かいながらも背中に葉月の視線を痛いほど感じていた。

 それはどこか殺気めいた色合いすら帯びているように感じられた。

「午前二時をちょっと回ったところだな」

「では、この部屋は?」

「軍人会館の俺の部屋。いや、俺が借りてる部屋、かな」

 彰は樹脂製の急須にお湯を入れ、キャビネットから湯のみと茶托を出す。

「二人組はどうした?」

「逃げた」

「ご婦人は?」

「会館の人が送って行った」

 急須から番茶を注ぎ、半身を起したままの葉月へ差し出す。

「飲むか?」

「あ……ああ」

 茶托に乗った湯のみを渡すと、彼女の張り詰めた空気が急速に和らいでいく。

「……だが、すまなかったな」

「何が?」

「私が先走った所為で、君には面倒な事になってしまった」

「面倒って?」

「忘れているな」

 殴られた顔が痛むのか、葉月は強張った笑みを浮かべて言った。

「警察とは関わりたくないと言ったのは君だぞ。だが、こうなってしまった以上、警察の聴取は免れないだろう。そうすれば当然君の家族にも連絡が行くはずだ」

「……ああ、そうだった」

 彰は演技では無く本当に溜息を吐く。

 そうなれば身分を偽っていることがばれる。軍人や警察と言った人種が幅を利かせている国なのはもう充分にわかっている。そんな強権国家の警察に厄介になりたいとは思わない。

 だが、このまま逃げ出してしまったら、たぶん葉月とは二度と会えないだろう。

「まぁ、そろそろ潮時では無いかな。姉上だって心配しているだろう。警察に今までの事を正直に話して迎えに来てもらうが良い」

 すがるように目を向けるが、彼女はさも当然のようにそう言った。

 理性では彼女の言う事がまったくの正論だとわかってはいるが、それでも、引き止めたり、逃げ道を探してくれたりしない葉月が少し恨めしかった。

「そんな目をしないでくれ。私だって責任を感じているんだ」

 葉月は肩を落とす。その姿は拳銃に立ち向かった勇猛果敢さとはどこか隔絶したものを感じる。

「……まぁ、とにかく。今日はどうするんだ? もう一部屋用意してもらうか?」

 我ながら強引だと思いながら話題を変える。

 そうしないと、彼女を透かして自分の醜さに直面してしまいそうだったからだ。

「このままで良い」

「えぇっ!?」

 思わず振り返ると、葉月がきょとんとした顔をしていた。

「なんだ?」

「なんだって……」

「別に君の寝床を奪うつもりはない。そこの椅子と机を貸してもらえれば良い」

 どぎまぎしていると、葉月はいたずらっぽく笑みを浮かべる。端整な顔に浮かび上がるそれは人を惑わす妖精の笑みにも見えた。

「どうやら私にも君に何かを期待させるくらい色気はあると見える」

「いやっ……その、なんだ……からかわないでくれよ」

 顔が熱い。何か気の利いた事を言おうとしても、一番当たり障りのない言葉しか出てこない。

「ふふっ……からかったとも。君の事は信用している。紳士だとな」

 面と向かってこう言われてしまっては男として最早手の打ちようがない事は経験の浅い彰にもわかる。

「……館山さんも人が悪い」

 安堵したような、残念なような、複雑な感情を溜息に込めて吐き出す。

「そう言えば」

「なに?」

「さっき、君は私の事を葉月と呼び捨てにしたな」

「……あれは、ああいう状態だったし……気に障ったんなら謝る」

「いや、そうじゃない」

「え?」

「名前で良い、という事だ。以後葉月と呼んでくれて構わない」

「う、うん」

「しかし、何だな」

「なに?」

「君は不思議な男だ。いやに度胸があるかと思えば、変な所で尻込みする。優柔不断という訳ではないのだろうが……どっちつかずだ」

 ぎくりとする。心の奥を見透かされたようで、とっさに言葉が出ない。

 彼女の言葉は、自分の世界に帰る訳でもなくかといって帝国で暮らそうという訳でも無い。

 世界を救うという漠然とした目標を周りに促されるまま漫然と眺めている。鍵として何が出来るのか、どうすれば世界を救えるのかなどと考えたことすらない。

何のために、今自分が何をするべきなのか、そうした行動の指針を持たない彰にとって、葉月の無意識に向けた言葉は刃と同じ威力を持っていた。

「……そう、かな」

 口ごもるように何とかそれだけ答える。口を開くとおかしなリズムで跳ね回る心臓が飛び出してしまいそうだった。

「そうだとも。だが、まぁ、そこが君らしいというか。そういう君を見ているとどうも世話を焼きたくなるし、妙に自然でも居られる。本当に不思議な男だ。君は……」

 彼女の言葉に嘘は無い。それどころかある種の告白ですらある。だが、彰にそれを額面どおり受け取る余裕は無かった。

 彼はただ、動揺で表情が強張らないように何とか笑みを浮かべて、その場をごまかすのに必死だった。

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