第4話

 標的は射撃場の限界、二十メートルに設置した。ここまで距離が離れると的のどこに当たったかほとんど見えない。だが、彰は撃つ度にそれが命中していると確信する事が出来た。

 何故なのかは解らないが。とにかくそう感じそれが外れた事は無い。

 彰はマガジンを交換し、更に射撃を続ける。足元には小指ほどの薬莢がずいぶん落ちている。

 装填しておいたマガジン三つ分の弾丸を撃ち終え、緊張を解きほぐすように細く長く息を吐きながら肘でスイッチを押して標的を手元へ引き戻す。

 標的の中心に握り拳ほどの穴が開いているばかりで他に弾痕は無い。

知らない人間が見たらそういう形の標的なのだと勘違いしかねないが、これは彰が中心に満遍なく弾丸を当てて大穴を開けたのだ。

「話には聞いていたが、銃の性能超えてるんじゃないのか?」

「俺はただ撃ってるだけなんですけどね……」

 彰が振り返ると、そこには伊達がいつもの白い出で立ちで背後に立っていた。

「その辺の無自覚さが才能かもな……」

 感心しているような、呆れているような伊達の声。

 とりあえず好意的に受け取るが、そうしみじみと言われても困ってしまう。

 彰としては本当に当たると感じるように撃っているだけで理屈などほとんどないのだ。

 答えに窮して視線を下げると、彼もまた手に拳銃を下げている事に気付く。

「……伊達さんも練習ですか?」

「ああ、出来れば使いたくは無いんだが練習しておかないと石神にどやされる」

「使いたくないって、俺の時は使ったじゃないですか」

「あれは死なないってわかってるからな」

 そう言って口の端を持ち上げて気障っぽく笑う。

 芝居臭くはあったが、伊達がすると自然に見えるのが不思議だった。

「まぁ、今にして思えばあそこで撃たれたのは良かったんだと思いますけど……」

 正直複雑な気持ちではあった。伊達のおかげで舞い上がっていた気持ちを切り替える事が出来たし、こうして言葉を交わすようになった今も最初に見た時の憧れは薄れていない。

 近くで見るようになった分、彼のように飄然としながら内に一本の芯を秘めた男になりたいと強く思うようにすらなった。

 だが、いくら死なないとは言え平然と引き金を引いた事に違和感を覚えずにはいられなかった。

「けど、なんだ?」

「……伊達さんは」

「うん?」

「人、撃ったことあるんですか?」

 穏やかに見つめていた伊達の瞳が僅かに逸れる。

「……そりゃ、あるさ」

「どう、でした?」

「どうって?」

 伊達は手に持っていた拳銃をサイドテーブルに置く。

 使い込んだ風合いの木製グリップ。所々銀色の地金を晒す跳ね馬の刻印がなされたスライド。

 それはこの銃が単なる飾りではない事を示している。

 同じ拳銃であるにも拘らずまだ傷一つない彰のP230とは明らかに性質を異にしていた。

 見るからに激しい戦闘を潜り抜けたと思われるそれを見た時、彰は言葉を継ぐ事を躊躇った。

「最初の一回目は……うん、強烈な体験だったな……」

 彰がまごついた事に気付いたのか、伊達は静かに語り出した。

「飲まずにはいられなかった。だから、広瀬や石神と連れ立って死ぬほど飲んだ。まぁ、精神のアルコール消毒って所だな」

 そう言って伊達は笑えと言わんばかりに肩をすくめてみせる。あまりに下らない少し不謹慎な気もするジョークに彰はわずかに表情を崩す。

「だが、二度目の時は存外何も感じなかった。こんなに簡単だったっけ? って、三度目には自分のしていることや自分の出来る事が少し恐ろしくなった」

 伊達の指先が銃のグリップに触れる。彫り込まれたチェッカリングを爪弾く微かな音がした。

「……四度目には?」

「なにも思わない。普通でいられた。そんなもんだって納得できた」

「納得?」

「上手い言葉が見つからないからそう言ったんだが……まぁ、特に感慨なく事に当たれたって事だな。電車に乗ったり、携帯でメールを打ったりするのと同じだ」

 あっけらかんとした言葉が逆に寒々しく感じた。伊達は相変わらず飄然と立っているだけで何一つ変わってはいないというのに、どこか近寄りがたく感じてしまう。そして、その荒涼とした空気を自分もいつか纏う事になるのかと思うと背中に変な汗が出てくる。

「人を人殺しみたいな目で見るもんじゃないぜ。表でやたらめったらぶっ放してる訳じゃないんだから」

 言われてはっと気付く。自分がどんな表情で伊達を見つめていたのか自覚が無い。だが、彼がそう言うのなら、きっとそういう目で見てしまったのだろう。

 そう思うとなんだか質問がしやすくなるような気がした。同時にこれを聞いても彼ならちゃんと答えてくれるような気がした。

「……そうやって当たり前になって、自分は変わったと思いますか?」

「変わってないな」

「そうですか……なんだか、俺は変わったような気がして」

「まぁ、言いたい事はわかる。今まで人に乱暴しちゃいけませんって教わって来たんだからな。何だか大事なものをどっかに落っことしてきたような気分になる」

 彰は慎重に頷く。

「だけどな、何も変わっちゃいないんだよ」

「え?」

「考えても見ろ、人間は常に新陳代謝してる。一年もすれば体中の細胞はそっくり新しい物と入れ替わる。それでもある日突然別人になっちまう事は無い。そいつはそいつであり続ける。心だって同じ事だ。今の坊主みたいに大事なものを落っことした気分になっても、それは心の表面が新しい代謝の為に一枚剥がれただけだ。その中にある本質は何も変わっちゃいない」

「一枚剥がれただけ……」

「そうだ」

 こうも鮮やかに答えられてしまうと、彰にもう語る言葉は無い。

 彰は気恥しそうに控え目な笑みを浮かべる。それは変わっていないというお墨付きに対する安堵と伊達が自分の悩みに答えてくれたことに対する嬉しさの混じったものだった。

「まぁ、本当に変わったんだったら俺がちゃんと言ってやるから安心しろ」

「うん……」

 なんだか今まで悩んでいた事が馬鹿馬鹿しくなってくるような気すらした。それと同時に、そんな馬鹿馬鹿しい事を質問してしまった自分が急に恥ずかしく思えた。

「……それじゃあ、俺。そろそろ行きます。伊達さんの邪魔しちゃ悪いし」

 取り繕うように笑みを浮かべるが、なんだか顔が熱い気がする。足早にその場を立ち去ろうとする背中に伊達が声をかける。

「何か困ったら俺のところに来い。今のぐらいでよければいつでも相談に乗ってやる。の先輩として、少しはそれらしい事も言えるだろうからな」

 彰は立ち止まり、振り返ることなく一度ゆっくりと頷いた。

 彼は入れ違いにやってきた石神に道を譲りながら射撃場を後にする。

「なんだかんだ言って、上手くやれているようだな。腹に一発くれてやったと聞いた時はどうなるかと思ったが……」

「ああ、俺も逆ギレでもされるかと思ったが……意外に素直だったな。それに切り替えも早い。存外大物かも知れないな」

 伊達は言いながら、拳銃のスライドを引く。

「それで、何を話していたんだ?」

「……ちょっとした詭弁を披露しただけさ」

 四十五口径の盛大な銃声が射撃場に響いた。


 回廊から兵士が出てくる。

「回廊を閉じて。探知されるわ」

「了解っ」

 皐月の指示に技術者が応じる。

「どうだった?」

「はっ、大尉殿。やはり実験動物の姿はありませんでした」

「何の痕跡も?」

「何の痕跡も発見できませんでした。記録映像も撮ってあります」

「ごくろうさま。下がって良いわ」

「はっ」

 兵士は靴音高く敬礼する。皐月はおざなりに返礼しつつ、ポケットから手帳を取り出す。

「これじゃあ、使いものにならないわ」

 病的なまでにびっしりと書き込まれた紙面には失敗、不成功の文字が並んでいる。

「さっきから何の実験をしているんだ?」

 隣に控える葉月が問う。

「近似世界への回廊をもっと強固なものにする研究よ。回廊が閉じられただけで兵が死んでしまうのでは、あまりにも不安定すぎるわ」

「……そうだな」

「条件を変えてもう一度やるわ。準備して」

 また別の兵士が一歩進む。手には金属の籠。中にはウサギが一匹入っている。

「これまでの結果から何となく原因はわかるんだけれど、どう解消したら良いのかわからないのよね……」

 彼女は呟きながら、行けと兵士に手を振る。

「あ、条件にもう一つ項目を追加して。回廊の活性化の時間を短く設定して。出来るなら活性と不活性を連続させて」

「……技術的には可能ですが、機材への負荷が大きすぎます。最悪機材が死ぬ可能性も……」

「機材は補充すれば良いわ。出来るのならやってちょうだい」

 依頼の体ではあったがその声は明らかに厳命していた。

 一方で葉月は「死ぬ」という言葉に違和感を覚えた。

 確かに破損する事を死ぬと言ったりもするが、極力誤解を避けるように持って回った言いまわしをする科学者や技術者には似つかわしくない表現のように感じた。

 とはいえ、取り立てて気にする事の程でも無い。今はとにかく兵の無事を祈るだけだ。

「不安?」

 葉月は視線を鏡の回廊へ向けたまま、ゆっくりと頷く。

「今となっては数少ない古参の部下だ。補充兵のそろった暁には彼らに各小隊の基幹を成してもらわねばならない。今傷つかれては困る」

「別に危ない事をしてる訳じゃないわ。近似世界への跳躍はもう何度もやってるし、安全だって確認されてるじゃない」

「安全、か……」

「そうよ、一度往復すればそれだけ安全は確認され、新たな開発の足掛かりとなるわ。もし、事故が起きたとしてもそれは新しい技術開発を促す。結果的に――」

「科学は発展すると?」

「そうよ、私たちが足を止めない限り、科学はあらゆるものを糧にして発展し続けるわ。そして、帝国に……いえ、人類に莫大な恩恵をもたらす」

「それは……すばらしいな」

 まるで癌細胞だ。という言葉を葉月は何とか飲み込んだ。

 自分自身その恩恵を十二分に受けて生活している。なにより、科学とその息子たる工業の粋を集めた兵器の集合である軍隊に身を置いているのだ。

 科学が癌であるはずがない。皐月の信奉するものがそんな悪魔的なものであるはずがない。

 そんな事が、あってはならない。

「そう、素晴らしい事なのよ。だから私たちはその為に邁進しなければならないの。犠牲を払った分だけの結果を残さなければならないの」

 人類が躍進し、帝国の発展の為の犠牲が部下六十名なのだとしたら、もしかするとそれは安い対価なのかもしれない。

 やもするとそんな計算を始めてしまいそうになる。

 指揮官は時として人命の計算をしなければならない。それはわかっている。だが、今ここでその計算をしてはいけない気がした。

「……それで、今回の実験は一体何だ? 科学的な事は良く分からないが少しくらい説明してくれても良いんじゃないか?」

 だから葉月は、強引に話題の矛先を変える事にした。

「姉さんにわかるように説明、ねぇ……」

 皐月は腕を組み、小さく唸る。

「こう考えて見て。近似世界を熱いお湯の入った水槽。私たちの世界を氷水の入った水槽として」

「うん」

「その二つが隣り合って置いてあっても、断熱が完璧ならお互い何の影響も受けないはずよね?」

「そうだな」

「じゃあ、その二つの水槽を一本のパイプでつなぐと、その境目はどうなる?」

「湯と水が混ざって、ぬるい所が出来るな」

「対流ね。対流は水だけじゃなく、この世界にも起きる事なの。年老いた世界は冷たくて、若い世界は熱い。まったく同じ温度の世界は多分存在しないわ。その二つを繋いだ時、世界を構成する物質の対流が起こる。ここまでは大丈夫?」

「……なんとか」

 正直に言えばあまり大丈夫ではない。だが、話の腰を折っても、自分の理解が深まるとは思えないので無言で先を促す。

「話をちょっと戻すけれど、熱いお湯の入った水槽に氷をひとかけら落とすとどうなる?」

「あっという間に溶けるな」

「じゃあ、その対流で生まれたぬるい場所に落としたら?」

「溶けるのに時間がかかる」

「一欠片の氷は私たち人間。パイプはあの回廊」

 皐月は言って活性化している鏡を指さす。

「パイプが突然断ち切られたら、対流の中にいた氷はどうなるかしら?」

「……急にパイプが閉じられたら、ぬるかったところも、また温度が上がって氷はすぐに溶ける……」

 皐月が満足げに頷く。

「それがこの間の出来事と、近似世界への跳躍に対する私の推察。私は回廊が閉じられて対流が止まった時、近似世界で生き延びる方法が無いか探しているの。回廊が閉じた瞬間に氷のように溶けてしまうんじゃ、利用の幅が狭すぎるわ」

「そうだな」

 本当に彼女の望んでいるところまで理解できたのかはわからないが、葉月は小さく頷いた。

 二個小隊の死をもって次元遠征実験隊はさらなる躍進を遂げる。回廊は皐月の手によって、より安全により有効に改良されるのだろう。

 それが高い対価なのか、安い買い物なのか、今の葉月には判断できなかった。


「部隊の名前でもあるし、大変だってのは聞いたけど、時空噴出ってなに?」

 黒い戦闘服の肩に縫い付けられた部隊章を見ながら彰は聞く。

「専門的な事は解らないんだけど……」

 佐伯はヘルメットを脱ぎ、そう前置きして続ける。

「えーと、エントロピーの違う二つの世界が繋がると熱力学平衡が起きて、一方が冷えて、一方が熱くなって、そうすると物理法則が崩れて原子や分子が形を維持できなくなって……えーと……」

 珍しく歯切れが悪い。というより、しどろもどろだ。

「時空噴出の理解としては、我々の世界が海も凍る氷結地獄となるか、鉄すら溶ける灼熱地獄になると思えば良い」

 未だ戦闘態勢を続ける広瀬が横から口を挟む。

「……何でですか?」

「一応、佐伯二曹の説明は正しい。何でなのかは聞かないでくれ。まぁ、灼熱地獄が言い過ぎだとしても、地球の平均気温が急に数度上下してみろ。今の生態系はあっという間に崩壊する。そうなりゃ人類だっておしまいだ」

 熱波で干上がりひび割れた農地。颶風と高波によっていとも簡単に押し倒される船舶。突然の吹雪に見舞われ積もる雪にもがく都市。

 これだけ科学が発達しているというのにちょっと自然がへそを曲げれば人類には為す術がない。

 それが世界規模で永続的に起これば、確かに人類は滅びるかも知れない。滅びを免れたとしても今の文明を維持する事は出来ないだろう。

「だからDOORは世界を守るために戦うの。そして、そのためにはキミが不可欠なんだよ」

 確かに時空噴出阻止連隊は世界を守る最前線なのだ。

 その他に類を見ない部隊で佐伯と共に戦える事が何となくうれしかった。

「……何? ニヤニヤして」

「……いや、なんでもない」

「ふーん」

 覗きこむ佐伯の顔から視線を逸らす。伊達を前にした時とはまた違う気恥しさはどこか心地よく、つい数分前の激しい訓練を忘れそうになる。

 出来ればこのままぬるま湯のような心地よさに浸っていたい。そんな気にすらなるが、そうもいかないのが残念でならない。

「小休止終了! 次も想定は襲撃だ。味方の位置の把握とクリアリングを徹底しろ」

 広瀬が叫び、座り込んでいた隊員達が弾かれたように立ち上がる。

 ここ数日は第一、第二小隊共同での襲撃や襲撃部隊の援護といった攻撃的な訓練が続いている。

 この調子では恐らく今日もそんな訓練に終始するのだろう。


「第一分隊、突入隊形」

「第二分隊、突入隊形」

「第三分隊、突入隊形」

 ヘッドセットの声に広瀬は小さく息を吐く。

「了解。作戦開始。通信ラインと電線を切れ。3、2、1……」

「切断」

 二つの声が完全に重なり、広瀬が高らかに宣戦する。

「第一小隊、突入!」

 黒い影が奔流となって通りを横切り、街灯の明かりが降りる歩哨所に迫る。

 短い銃声。

「正面ゲート、制圧」

 対戦車ロケットが夜陰を切り裂き、地響きとともに紅蓮の炎を吹き上げる。

「車庫、爆破」

「良いぞ、続けろ」

 フェンスを張り巡らせた施設のあちこちから銃声が響く。

「……て、敵襲っ」

 歩哨が叫び、背負った銃を構える刹那、八九式小銃の軽快な銃声がその命を摘み取る。

「ピーター20トゥエンティから10へ。配置に付いた」

「ピーター10、了解。タイミングはこちらで指示する。待機せよ」

「了解」

 第一小隊長石神の声に応じ、広瀬はさらに声を上げる。

「総員聞いたな。派手に暴れろ」


「停電?」

 帝都の電力事情が悪いという話は聞いた事が無い。どうしたのかと部屋を見回した所へ聞き慣れない突撃銃アサルトライフルの銃声が聞こえた。

 敵襲。

 とっさに悟った葉月は軍刀をひっさげて執務室を飛び出す。

 何かが爆発して建物全体が揺れる。聞きなれない銃声は相変わらず響いている。

 廊下には様子を見に出て来た技術者が、星明りを浴びて幽鬼のように浮かび上がっている。

「警報を出せ! 敵襲だ!」

 彼女が叫ぶと、技術者はぎくしゃくと廊下を掛けていく。

 彼女はそのまま兵員詰所へ向かう。

「どうなっている?」

 蹴破るように扉を開け、銃架から今まさに突撃銃を取ろうとしている兵に声をかける。

「わかりません。外部との連絡も取れません」

「よし、貴官らは非戦闘員を地下の実験室に集め、建物の防御に当たれ。私は外で戦線を立て直す」

「しかし、外は……」

「戦っている兵を見殺しには出来ない」

「ならせめて銃を」

「拳銃がある」

「ですが――」

「いざとなれば軍刀を使う。銃と弾薬は貴官らで使え」

 「頼んだぞ」と言い残し、葉月は風のように走り去る。

 ようやく自家発電装置が作動し、明かりが戻る。そして、警報のけたたましい鐘の音が廊下に響き渡る。

 ようやく明かりが戻り、地下に逃げ込んだ技術者たちは安堵の溜息を吐いた。

 葉月の命を受けた行動部隊員は防衛線に参加すべく、すぐにどこかへ行ってしまった。

 任務に対して厳格な葉月のもとで苛烈な訓練を積んだ彼らが逃げ出すとは思えないが、それでもそばにいて守ってくれないのは心細くなる。

 誰も言葉にこそしないものの、不安感が砂浜に打ち寄せるさざ波のように薄く広がって行く。

「こんなところで何をしているの?」

 冷えた空気を打ち消すような声。

 皆一斉に視線を上げる。

 大型資材の搬入に使う昇降機の横、点検用の螺旋階段から現れた一つの影。

 神経質なまでに磨き上げられた眼鏡のレンズが天井の明かりを反射してその奥にある苛立ちに満ちた瞳を隠す。

「館山、大尉……」

 誰かが呟く。

「あなたたちも科学者の端くれなら震えるよりも先にする事があるでしょう。資材搬出の準備をしなさい。万が一にも賊の手に落ちる訳にはいかない代物だという事は、今更説明する必要はないでしょう?」

 寒々とした地下室に彼女の声が熱をもたらす。

「……台車だ。それと、電源を」

 一人、立ち上がる。

「さっきの停電で資材に影響が出ていないか確認する。何人か手伝ってくれ」

 ちらほらと数名が立ち上がり、ふらふらと駆け出す。

「実験記録が上の書類棚にある」

「俺が取ってこよう」

「一人じゃ持ち切れない、僕も行こう」

 また何人かが立ち上がり、階段を駆け上がって行く。

「自動車を用意しないと……」

「だが、さっき爆破されてしまったぞ」

「裏手の車庫は無事かも知れない。行って見てきます」

「鍵も持って行くと良い」

「そう、科学者ならまず研究成果を大事にしなさい。そして、研究を続けられるようにしなさい。それが科学者の義務よ」

 皐月が降り立った時、座り込んでいる者は誰一人としていなかった。


「歩哨はほぼ全滅です。各個撃破されてこのままでは押し切られてしまいますっ」

 そう報告した兵の声は完全に上ずっていた。

「敵の規模は解らんのか!?」

「他方向同時攻撃ですから、かなりの規模かと……」

「糞」

 正面玄関前に積み上げられた土嚢の陰で褐色の軍服を着た少尉が小さく毒づく。

「外部との連絡はつかないのか?」

「駄目です」

「なら、中へ行って増援を――」

「うろたえるな! この帝都でそんな大規模な襲撃を掛けられるはずがなかろう」

 飛び交う銃声の中にあって、葉月の声は良く響いた。

「中隊長!」

「奇襲の折り、皆良く持ちこたえた。これより逆襲を開始する」

「中隊長、包帯所を開設します」

 両手に医療品鞄を抱えた衛生兵が言う。

「玄関広間を使え。水道はまだ無事のはずだ」

「了解」

「手榴弾!」

 二つの声が交錯する。

 傘の閉じた松の実のような手榴弾が、足元に転がっている。

 空気が凍りつく。

 全身の血液が一気に沸騰する。

 葉月はとっさに手榴弾を掴んで投げ返すと浮足立った兵達に獰猛な笑みを向ける。

「うろたえるなと言ったろう? 私が来たからにはもう大丈夫だ」


 どよめきと共に炸裂した手榴弾の熱波が吹き抜け、広瀬は思わず顔を背ける。

「射撃を止めるな撃ち続けろ」

 ボディアーマーに突き刺さった破片をものともせず指示を飛ばす。

 隣では被弾した隊員が橋頭保となっている歩哨所へ引きずられていく。

「第三分隊からピーター10。敵が移動を開始。正面に向かっています」

「持ち直し始めたか……優秀な指揮官がいるようだな」

 広瀬はごち、ヘッドセットに手を添える。

「第三分隊はそのまま敵を足止めしろ。第二分隊は即時移動し、こちらを側面から援護しろ」

「第二分隊。釘付けにされています。動けませんっ」

 ヘッドセット越しに聞こえる激しい銃声に広瀬は思わず舌打ちする。

「ピーター19から10へ」

「なんだ?」

 緊張しきった彰の声。彼にしてみればこれほど大規模な襲撃は初めての事だ。

「俺が第二分隊を動かします。座標をください」

「わかった、少し待て」


「何をするつもり?」

 第二分隊として戦闘に参加していた佐伯が問う。

「もう一つ扉を開く。一度ソーティルームを経由して敵の側面に扉で出る」

「扉が開かなかったら?」

「その時は、ごめん」

「キミねぇっ」

「何でも良いから手立てがあるならやってくれ!」

 分隊員が叫ぶ。

 彰は鍵を取り。そして、地面に突き立てる。

「エンコード――」

 叫んだ瞬間。彰は足元に開いた扉に落っこちた。

「扉が開いた。行け行けっ」

「WPと手榴弾で目隠ししろ、ケツから撃たれちゃかなわん」

 分隊員は計ったように一人づつ離れ、最後の一人が煙幕と破片手榴弾を同時に投げ、地面に開いた扉へ飛び込んだ。

 落下の勢いはそのまま、身体はソーティルームの横向きの扉から吐き出される。

 それはちょうど、ドロップキックの姿勢だ。

「馬鹿っ、跳び込んでくるんじゃねぇ!」

 分隊が折り重なるようにして倒れている。皆このドロップキックを喰らったのだろう。一番下にいるのは彰と佐伯だ。

「早く退けっ、追手が来る」

 わらわらと分隊が散り、扉に銃口を向ける。彰は端末で座標を入力しながら別のドアへ駆け寄り、扉を開く。

「エンコード」

「行け行け行け!」

 分隊が一斉に駆け出し、跳び込んだのを確認すると、元の扉を閉めた。


「右翼、敵襲!」

 兵士が叫ぶ。

 暗い地面から黒衣の戦闘服が突如として現れる。

 彼らはまるで空中を駆け上がるように飛び出し、見事に空中で姿勢を変えて着地すると次々に射撃姿勢を取る。

「撃たせるな!」

 葉月が叫ぶ。真っ先に応じたのは二階のバルコニーに据えられた軽機関銃だ。

 しかし、依然正面からの射撃も続いている。側面の援護を受け余裕が出たのか、照準がにわかに正確さを増す。

「川口分隊が全滅です」

「何だと?」

 こちらの援護に向かうはずだった部隊が一つ減った。

「笹島分隊は?」

「敵が消えたそうですっ」

「こっちに来てると伝えろ」

「了解」

 笹島分隊が到着するまで葉月たちは身動きも取れない。相手が十分な訓練を受けていることは一目瞭然だ。このまま笹島分隊を待てば程無く擦り潰され、笹島分隊もまた待ち構える敵によってたやすく撃ち破られるだろう。

 そうさせてはならない。

 ならば、方法は一つ。

「分隊傾注! 正面に火力を集中。軽機は私の援護だ」

 葉月は猛然と駆け出し音高く鞘を払う。

 鯉口から姿を現す刀身は鋼色と鉛色が複雑な層を成して木目を表し、研ぎ上げられた刃は電灯の明かりを浴びて薄い油膜のように艶めかしく輝く。それは帝国陸軍の採用する複合鍛造刀ダマスカス。世界で最も高価と言われる軍刀だ。

 彼女の後ろから軽機の黄色い曳光弾が追い抜いて行く。前からは赤い曳光弾が迫る。

「だあああああっ」

 葉月は吶喊し、刃を振るう。

 神速の刃が十重二十重と閃き、血刀の飛沫が幾重も飛び、大地に深紅の牡丹を咲かす。

 装備ごと一刀のもとに切り伏せられた黒衣の兵士達がどうと倒れる。

「だ、第二分隊、全滅っ」

 女の声。聞き覚えがあるような気がする。だが、口を覆っているせいで良く分らない。

 ともかく、黒衣を着ているのであれば男女の別無くそれは敵だ。

 女は突撃銃の銃口を向けながら背後の人影を突き飛ばす。

 突き飛ばされた方は穴にでも落ちるようにその姿を消す。

 これで一対一。

 女が発砲する。黄色い発砲炎を突きぬけて弾丸が迫る。

 踏み込みながら一閃。

 一瞬の手ごたえ。

 二つに裂けた弾丸が葉月の両脇をすり抜けていく。

 更に踏み込む。

 必殺の間合い。

 返す刀で袈裟に斬り込む。

 寸でのところを女は銃で受けるが、銃把を持つ手がぐにゃりと曲がり、銃身が両断される。

「ぐぅっ」

 苦悶とも歯ぎしりともつかない呻き声。

 気配はまだ闘争心を失っていない。

 女の左手に光る物。

 とっさに身を引く。

 肉厚のナイフが鼻先をかすめる。

 女はその機を逃がさずの中へと消える。

「待て!」

 葉月は慌てて後を追うが、そこに穴は無く。それどころか何かがあった痕跡すら見出す事は出来なかった。


 第二分隊を追って彰も扉から飛び出す。真っ先に目に入ったのは八九式小銃の眩い閃光。

 その先には刀を振りかざした人影。

「戻って!」

 佐伯の絶叫。それと同時に信じられないほどの力で扉へと押し戻された。

 彰はソーティルームの床に尻もちを突いて何が起こったのか状況をつかみかねていた。

「おい、どうしたんだ?」

 帰還と同時に負傷者を収容できるよう待機していた衛生科員が目を丸くしている。

 だが、彰の耳には届いていない。

「……戻らなきゃ」

 何故、そう思ったのかはわからない。

 皆戦っている。自分だけ押し戻されたからと言っていつまでも座り込んでいる訳にはいかない。

 こんな所でへたり込んでいては佐伯に合わせる顔が無い。

 彰は立ち上がり、端末にまた別の座標を打ち込むと扉を開けて飛び込んだ。

 夜風に混じって硝煙の臭いがここまで届いている。だが、あたりは静かだ。

 第一小隊の攻勢開始点である目標付近の廃屋。無事に帝国へ渡る事が出来たとわかると、彼は駆け出す。

 目指すのは第二分隊が侵入用にあけたフェンスの切れ目。

 あの施設に戻り、戦列に復帰するのだ。もし状況が不利に転じていたならきっと鍵も必要になるはずだ。


「中隊長の白兵を受けるや一目散に逃げ出すとは、大した事の無い相手でしたね。黒蟻と言うより油虫だ」

 兵の一人が冗談めかす。他の兵も撃退の喜びから表情を崩す。しかし、葉月は笑わない。

「いや、実際あれが引き時だったはずだ。乱戦の中冷静な指揮官だったようだ。それよりも、早く被害状況の確認と負傷者の処置だ」

「はっ」

 敬礼と元に兵らが散って行く。

 一人残った葉月は一つ深呼吸して血を払った軍刀を納める。

 肺いっぱいに吸いこんだ空気には多分に血と硝煙の臭いが含まれていた。

 風に乗って発動機の唸りが聞こえる。車を出す指示を出した覚えは無い。

 様子を確かめるためにそちらへ向かおうとした矢先。

「おい、貴様! 何してる」

 兵の誰何する声。

 葉月は走った。兵達は今気が立っている。ようやく落ち着いた所だというのに、些細な事で引き金を引かれてはたまらない。

「どうした!?」

「侵入者です」

 兵士が腕を捩りあげて連れて来たのは黒い服を着ていた。だが、装備を持っている様子は無い。それどころか、戦闘員ですらなかった。

「戸館君!?」

 自分でも驚くほど素っ頓狂な声が出た。

「中隊長……お知り合い、ですか?」

「……あ、ああ。彼は、私が引き受けよう。任務に戻ってくれ」

「はっ」

 はっきりしない葉月の態度に兵は怪訝な表情をしながら持ち場に戻る。その事にすら気づけないほど、葉月は動揺していた。

「や、やぁ」

 ひきつった。それでいてばつの悪そうな愛想笑いを浮かべて、彰はぎこちなく手を振った。

「おい、お前も何してるんだ?」

 別の兵が声を上げている。トラックの車列が今にも外へ出ようとしていた。

「……なんだか、忙しいみたいだな」

 緊張した彰の声。

「ああ、非常に忙しい」

「じゃあ、すぐにでも出ていくよ」

「いや、今兵は気が立っている。下手にうろうろすると撃たれるぞ。落ち着いたらちゃんと送ってやるから、暫く私のそばにいたまえ」

「わかった」

 彰が頷いた時、葉月は既に動き出しトラックの側で揉めている兵の側へ向かう。

「そのトラックは何だ?」

「大尉殿の命令です」

「皐月の?」

「はい、研究資料を持って脱出しろと……」

「危機は去った。その必要は無い。戻れ」

「そう言われましても、大尉殿の許可を求めない事には……」

「なら早く取れ。精鋭二個小隊が守る屋内の方が安全だ」

 堂々と言い切ってから葉月ははっとする。

 施設に配備された兵員数も、些細な事ではあるが立派な機密事項だ。

 一瞬とはいえ彰に聞かせてやろうなどと考えてしまった自分に混乱する。

 恐る恐る背後を振り返るが、当の彰はそわそわと居辛そうにしているばかりで特に話を聞かれたという様子は無い。

 その事に葉月は安堵しながらも少し釈然としない気分にさせられた。

 とにかく、一旦部屋に戻った方が良さそうだ。また余計な事を口走ってしまいそうだし、部外者を引き連れては何かと任務にさし障る。

「以後は、各小隊長の指示に従え。私は部屋に戻る」

「はっ」

 兵の敬礼に返礼し、手で彰に着いて来るように促しながら葉月は歩き出した。

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